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本編

2 成功するとは夢にも思っていなかったから①

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『――望みを言え』
「ひぎゃあああああっ!」

 飛び上がって、叫んで、逃げ出そうとして、足を止めた。

 ――契約が結ばれるまで魔法陣から出てはいけない。魔法陣は悪魔を呼ぶためだけではなく、悪魔から契約者を守るためにも必要なものである。

 本にそんなことも書いてあったことを思い出したから。冷や汗が出る。
 出たらどうなってしまうの……。どうしてそこまで書いておいてくれなかったの……。

『望みを言え、人間』
「え、あ……」

 低い声が冷気を持って背中を撫でているかのようだった。
 やっぱり、これ、悪魔の召喚に成功しちゃってる。ただの現実逃避のつもりだったのに、後ろに悪魔がいるらしい。悪魔に声をかけられたら振り向いてもいいって書いてあったような……。

 意を決して振り向いてみる。そこには霧のようなもやもやしたものがあるだけで、想像するような何かがいるわけではなかった。けれど私の息は一瞬、止まった。

 その霧がゆらゆらと動きながら、陽炎のように人の形をかたどっていたから。

「っ、あなた、悪魔、なの? 大悪魔フィストス?」
『いかにも』
「願いを、叶えてくれる?」
『対価があるならば、なんでも』
「なんでも……」

 ゴクリと喉が鳴る。願うならば借金の返済をと思っていた。けれど今、この悪魔は「なんでも」と言った。

『お前が願っていることを言え。富か? 名誉か? 全智でもいい。魔法の力を与えることもできるぞ。それに――死者を蘇らせることも』

 人の形をした霧が嗤う。目を細めて、口を歪めて。まるで私の考えることなどお見通しだとでも言うように。

『なんでも言ってみろ。望みのままに』
「望み……」

 言えば、家族が戻ってくるのだろうか。実際に悪魔が目の前にいるのだから、できるのかもしれない。優しかった両親に、少し意地悪だった兄に、また会えるのかもしれない。

 ……会いたい。あの日、すぐに帰ってくる予定だったから、簡単な見送りしかしなかった。
 次に会った時は冷たくなっていて、少しも動かなくて。全身を覆う布を取ってはいけないと言われたから、最期に顔を見ることも許されなかった。

 指にはめられたままだった両親の結婚指輪や、布からはみ出る髪色が、紛れもなく家族のものだった。ただ、それだけだった。

『ほら。望みは? 何を願う?』
「……」
『せっかく悪魔を呼び出しておいて、だんまりか?』

 悪魔の言葉に首を振った。それは違う。
 これが夢だったとしても――私は願わずにはいられない。

「……借金を、返済したい」

 お父様。お母様。お兄様。
 会うのはいつか、私が同じ場所へ行った時に。その時は、なんで急に死んでしまったんだと文句を言わせてください。

 今考えるべきなのは目の前の借金のことだ。お父様たちが戻ってきたとして、明日までに返さなければいけない借金を工面できるはずがないのだから。

 借金さえなくなれば少しは時間が稼げる。経営を安定させて、マルティンとの婚約をどうにかする方法を考えないと。

『借金? 金か』
「そう。全額よ。負債ゼロにしてほしいの」
『いいだろう。では対価として寿命を貰おうか。50年』
「50年は多すぎるでしょう」

 私は今18歳だから、80歳まで生きるはずだとしたら、もう折り返し地点を通過してしまっている。

『なら40年』
「だめ。というか、寿命はあげられない」

 事業がいつ落ち着くかも分からないのだから。誰かに後を継ぐにしても候補すらいない今の状況では、寿命が何年あったって足りないと思う。だから寿命を縮める系のものは却下する。

『なら、美術品は何かないか? 最近の人間界ではどういうものが流行っている?』
「あの、うちに金目のものはないの……ごめんなさい」

 売れるものは売り払い現金に変えてしまった。それでも足りなくなって、今に至る。

『……願いを叶える気がないのか?』
「あるわよ! だから切羽詰まって、悪魔召喚なんてやっちゃったんだから!」

 正直なところ対価なんて考えていなかった。現実逃避のために冗談で試してみた悪魔召喚だから、まさか成功するなんて思ってなかったし。頭にあるのは借金のことだけだったし……。

『では処女を貰おうか。お前のその匂い、まだ処女だろう』
「それだ!」
『なんだ。これも駄目だと言うのなら交渉決裂……ん?』
「あ、いや。名案だと思って」

 マルティンとの結婚は正直なところ、できれば、かなり避けたい。何ならここで処女喪失して、傷物になったからという理由で破談にしてもらっても構わないくらいだ。
 こうなったからには私の処女なんて、大事にしていたって仕方ない。ここで契約の対価として提供し、婚約破棄のため二次利用までできるのならば、これほどありがたいことはないのではなかろうか。

 うん。この話、私に失うものがない。どのみち、ないない尽くしの私が自由にできるのはこの身体だけだ。

「こんな処女でよかったらあげる。契約成立ね」
『……いいだろう』

 悪魔は霧を手のように伸ばした。差し出されたのは一枚の羊皮紙で、長々と文字が連なっている。

『署名を以てこの契約は成立となる。すぐに願いを叶えてやろう』
「待ってて。急ぎで読むから」
『生真面目な……』

 契約書は隅々まで読むのが鉄則だ。細かい文字で長い文章が書かれていたけれど、書いてあることに不備はなさそうだった。

 私の望みとその対価の内容。悪魔が契約者の願いを叶えることについての誓約文の後には、他の悪魔の名前と思われる単語が羅列されている。これらの悪魔が証人になる、ということらしい。
 最後に大悪魔フィストスの署名、その横に契約者――つまり私の署名欄があった。ここに私の名前を書けば、借金はなくなる。

 けれど一箇所だけ、気になるところがあった。

「死後の魂が譲渡されるの?」
『俺を呼び出した時点で、お前の魂は俺のものだ』
「ううん……まぁ」

 そんなこと本に書いてあったっけ。でも本来の寿命で死んだ後なら、いいか……。

 私の手には、いつの間にか羽根ペンがあった。鮮やかな孔雀の尾羽に、輝く金色のペン先。不思議とインクを付けなくても書けるそれで、悪魔の契約書に署名した。
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