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006.
しおりを挟む少し大きめの皿に、瞳と円それぞれが選んだケーキと、スコーンがひとつ。そこにジャムとクロテッドクリームがたっぷりと添えられていた。スコーンも、普通に市販されているものよりは大きい。
ドリンクもそれぞれにテーブルに置かれて伝票も渡された。
「あれ。もしかしてスコーン焼きたてかな? あったかいよ」
「お、ほんとだ。じゃあ先にこっちから食べるしかないな」
決して綺麗な形とは言いにくいスコーンは、割ってみるとホカホカとあたたかくて柔らかい。外側がサクサクしているから、そのギャップもいいのだろう。
瞳はひとくち分を手に取り、クロテッドクリームとジャムをたっぷりと付けて口に運んだ。
ジャムの甘さや酸味、クロテッドクリームのなめらかな舌触りと、スコーンのサクサクふわふわした食感と、全てが混ざりあった幸せのマリアージュに、瞳は言葉を発することもなく、まぶたを閉じてゆっくりと味わった。
これは、みどりがオススメする訳だ。
「円。これめちゃくちゃ美味しい」
これほどまでに美味しいスコーンに出会ったことがない。これは、瞳史上最高のスコーンであるとも言える。などと大層なことを考えて楽しそうな瞳を、円は愛おしそうに微笑みすら浮かべて見つめているものだから、祐也あたりにはまた小言を喰らいそうである。
曰く、イチャイチャするのは人目がない所でお願いします。
ただでさえ見目が良く注目されがちな2人が甘い空気など纏っていたら、いろいろと面倒なのだというのが理由だ。
そんな祐也も今は婚約者であるみどりと共に、出たくもない結婚式で営業用の仮面でも装着している頃だろう。
心配性で苦労性な祐也に心の中でこっそり詫びながら、それでも円は遠慮などしないのだ。
そうして美味しいものを堪能した後は、瞳が絶賛したスコーンをお土産にどっさりと買い込んで、いよいよ本日のお宿へ向かう。
みどりに教えられた通りにメインの通りから脇道に逸れ、そこから更に、見落としてしまいそうな細い路地へと進みつつ車を走らせること30分程。樹々に囲まれ車1台が通るのがやっと、というような道が急に開けたと思うと、そこが目的の旅館の駐車場だった。
さすがは『隠れ宿』といったところか、5台分の砂利が敷かれた駐車スペースはよく手入れされた森の中にひっそりとあった。客室のある建物まで、ここから先は徒歩となるらしい。
「だいぶ山を登ってきたと思ってたけど、まだ登るんだね」
「そのようだな。標高自体はそんなに高くはなさそうだぞ」
駐車場の奥に整えられた道は緩やかな坂になっているようで、まだ上に行くことを示している。
建物から離れているというのに、周りは手入れが行き届いていた。森の中でありながら、駐車スペースには余計な草などは無く、逆に花壇から溢れんばかりの花や草がお出迎えをしているようだ。
そんな中を、瞳と円はゆっくりと登っていく。
そういえば駐車場には他に乗用車は無かった。今日の宿泊はひと組だけだろうか。
そうしてゆっくり登っているうちに、突然、さあぁ───っと霧が出てきたと思ったら、数秒足らずでほんの少し先すらも見えないほどの濃霧となった。
「え、うわ。なにこれ」
山の天気は変わりやすい、とは言うけれど。これは、どうにも不自然感が否めない。
「あー……。ごめん、円」
「え? 突然どしたの?」
「呼ばれた、みたいだ……」
瞳がそう言ったとほぼ同時に、まとわりつくほどだった霧が嘘のように晴れていく。次に見えた景色は、数秒前のものとは全く違っていた。
何もない空間に、青々とした葉を茂らせた見事なまでの大樹だけが浮かんでいる。何もないはずなのに、目に見えない何かで満ちた空間に、瞳と円も浮かぶように立っていた。
見たこともない、途轍もないほど大きなその大樹に感じるのは、神秘というよりも、途方もない安心感や慈しみのような何か。
「これって……」
「世界樹だ」
円もその名前くらいは聞いたことがある。
全ての生きとし生けるものの世界を支える存在。それが世界樹。円はそう聞いていた。
でもまさか、本当にあって、相見えることになるなんて。
「瞳、呼ばれたってもしかして……」
「コイツだな。何か頼みごとがあるようだけど」
世界樹をコイツ呼ばわりできるなんて瞳くらいのものだろう。
瞳は世界樹を見上げて、慣れたようにスイッと近付いていく。円も慌てて後を追おうとすれば、不思議なことに望んだ通りに移動ができた。感覚としては泳いでいるのに近い気がする。
「瞳、もしかして世界樹と面識あるの?」
「まさか。さすがに初めてだよ、こんなの……」
瞳は言葉を途中で止める。頭の中に『声』のような何かが聞こえた。決して『声』ではない、言葉ではない何かは、世界樹からの思念のようだ。
それは人間の言葉を成さないけれど、瞳はなんとなく世界樹の望みを理解する。
ふわり、と世界樹の根の方へと近付きながら気配を探す。
その枝ぶりと同じか、それ以上に広がった世界樹の根に、小さな小さな生命のカケラが居た。この空間で、『それ』は異質のものだった。
「円、こっち」
「うん」
円も『それ』に気付いていた。ゆっくりと近付いて見てみれば、それはもちろん、この場所に居るはずのないモノだった。
「女の子……?」
「の、霊だな。迷い込んできたらしいんだけど……」
「え、こんな所に?」
白いワンピースを着た小さな女の子の霊が、世界樹の根の間で蹲るようにして泣いていた。
本来であれば、この空間には世界樹しか存在しないはずだ。世界樹は、世界を支える存在ではあるが、決して見えることのないものであるはずなのだ。
「オレたちが式神たちの世界と現実を行き来するのとはワケが違う。時空が歪みでもしないと迷い込むなんて事はないはずなんだが……」
「ええぇ……」
「…………。あー……、一瞬だけ時空が揺らいだことがあるらしい。けど……世界樹の感覚で言う『少し前』ってどんだけ前だ? もしかしたら9年前のアレの影響だったりするのか……」
世界樹との意思疎通は瞳に任せ、円は少女の髪を撫でるようにふわりと手を差し出した。それに反応した少女が円の方を見上げてくる。年齢は、3歳か4歳といったところか。
「こんにちは」
円は、瞳が「ムカつく程のイケメン」と評する顔でにこりと微笑む。安定の王子様スマイルはこんな時でも健在である。
少女はびっくりしたような顔で円を見上げて、それから何かを訴えようとするけれど、円ではそれを聴くことができない。
「やっぱり俺じゃダメだぁ。瞳」
「ん」
円がへにゃりと情けない顔で声を上げれば、瞳は、ふ、と吐息で笑って円の髪をポンと撫でた。それからふわりと少女の頭を撫でながら目線の高さを彼女に合わせる。
「ひとりでよく頑張ったな」
世界樹の言う『少し』は、人間にとってはきっととても長い。その長い時を、彼女はひとりで耐えるしかなかったのだ。世界樹しか居ない、何もない隔絶された時空に投げ出され、寂しくても怖くてもどうしようもなかったに違いない。
ふわと微笑んだ瞳に、少女は感極まったように抱きついて、また声を上げて泣き出してしまう。
「あは。これ安心した感じだね」
「そうかもな」
泣きながら抱きついてくる少女の霊の背中を優しく撫でながら、瞳は円の言葉に頷いた。
しばらく泣き続けた少女は、瞳がゆっくりと背中をたたくリズムに合わせるように、少しずつ落ち着いてくる。やがて、すん、と鼻をすするようにして泣き止み、そうっと瞳の顔を見上げてくる。
「帰ろう。君はここに居るべきじゃない」
促すように瞳が言えば、少女はコクリと頷いた。少女の両手をすくい上げるように握った瞳が、ふと彼女の手の異変に気が付いた。
「ケガしてるのか」
霊体が怪我をするなど聞いたことはないけれど、ここは常識が通用しない世界樹の時空だ。もしかしたら、時空を越えた時に衝撃があったのかもしれない。
「ケガ? してるの?」
「右手の甲に、あまり大きなキズではないけど。少し血が出てるな。痛くないのか?」
瞳の言葉に、少女はきょとんと首を傾げる。どうやら痛みはないらしい。けれど、気付いてしまうとどうにも痛々しく見える。
「絆創膏もってるよ。貼ってあげる? って言っても、俺そこまで視えないんだよね……」
ゴソゴソとボディバッグから絆創膏を取り出しながら、円が申し訳なさそうに言う。
「あー……。うん。円、ちょっとこっち」
「うん?」
瞳は握っていた少女の手を呼び寄せた円に託し、すいっと円の背後にまわる。後ろから抱きしめるように円の目を片手で塞ぎ、その肩に顔を乗せるようにしながら頭をこつりと軽くぶつける。
「え、えっ? なに?」
「いいから目を閉じて集中しろ」
突然のことに動揺する円だったが、瞳に言われるまま目を閉じて心を落ち着ける。すると、瞳の手に覆われ何も見えないはずの閉じたまぶたの裏に、先ほどの少女の姿が視えた。
「えっ、コレもしかして……」
「今、オレから視えているものをリアルタイムで送ってる。この子の手のケガも視えるな?」
かつて瞳が律に式神の姿を見せた時のアレだ、と円は密かに感激を覚える。
瞳に言われた通り、円の『目』では視えなかった少女のケガもしっかりと視える。彼女の姿もだいぶクリアだ。
(これが、瞳がいつも視ている光景なんだ……)
円は瞳から送られてくる『視界』を頼りに、少女のキズに手早く絆創膏を貼ってやる。
「よし、これで大丈夫」
吐息すら聞こえそうな距離で瞳の体温を感じてドキドキしていた円だったが、終わった途端に瞳がするりと離れてしまって心底残念に思ってしまう。けれど、そんなことは微塵も態度に出さないのはいつものお約束だ。
「おつかれ」
瞳は円の背中をトンと叩いて、再び少女の手を握る。
「円も。離れないようにオレに掴まって。世界樹が元の場所の近くに戻してくれるって」
「近く?」
「そう。全く同じ座標に戻すのは難しいらしい。この子も連れて行ってからじゃないと送ってやれないから」
「はぁい」
にこにこと笑顔でお利口な返事をした円は、ここぞとばかりに瞳を後ろからぎゅっと抱きしめる。
「ちょ、円……!」
「えへへ」
悪びれもしないどころか満面の笑みを見せる円に、瞳は諦めたように吐息するしかない。
そんなやり取りをしている間にも、ここに来た時と同じように深い霧に包まれ、ゆっくりと晴れた時には見知らぬ森の中に居た。
「え、あれっ?」
「落ち着け、円。そう離れた座標には飛ばされてないはずだ。……たぶん」
「たぶんて。世界樹って意外と大雑把なの?」
「どうかな」
円が思わず笑ってしまうほど、本当に見覚えがない場所に返されてしまった。瞳は核心には触れず当たり障りのないように躱して、手を繋いだ少女の方を見る。
「もう大丈夫だ。ほら、君の行くべき所に行っておいで」
瞳がそう声をかければ、少女の身体がぽうと光に包まれた。淡い優しい光に包まれた少女は、にこりと笑う。
『おにいちゃんたち、ありがとう』
ふわりと光の中に消えていく少女を見て、円は初めて瞳を瞳として認識した日のことをぼんやりと思い出していた。あの時も、瞳は小学校高学年くらいの少女を光の中へ送っていた。
「で、円はいつまでそうしているつもりだ?」
「えー? だめ? 誰も見てないし、いいでしょ」
「そういう問題じゃない」
少女を見送っても瞳を後ろから抱きしめたまま離さない円に、どうしたものかと、瞳が思わず額に手を当ててため息をついた時だった。
『こんな所で何してるの?』
小さな男の子のような声がした。
「え?」
瞳は反射的に声がした方を振り返るけれど、誰も居ない。
「えぇ?」
「瞳? どうしたの?」
何が起きたのかと首を傾げる瞳に、円が不思議そうに問いかける。
「今、声が聞こえなかったか?」
「え? 聞いてないけど」
「うぅーん?」
円には聞こえなかったのか、と更に首を傾げて悩む瞳に、また声の主が話しかける。
『ニンゲンのお宿に来たの? もう少し向こうだよ?』
『ニンゲン』と言う単語に、瞳は咄嗟にこの声は人のものではないと判断する。
視線を少し下げて周りを探せば、草むらの中から狐の子どもがこちらを見ていた。
「今の声は、キミか?」
『そうだよ! おかあさんが、ご案内してあげなさいって』
「そうか。頼めるか?」
『うん!』
ぴょこり、と嬉しそうに草むらから飛び出してくる狐の子。円は相変わらず瞳を抱きしめたままで、狐の子を見て驚いている。
「え? 瞳、声ってもしかして」
「宿まで案内してくれるそうだ」
『こっちだよー!』
「いま行く」
ぴょんぴょんと嬉しそうに飛び跳ねる狐の声は、当然ながら円には聞こえない。これはたぶん、瞳の身体に流れる狐の血があるからこそ為せる業なのだろう。
今まで瞳が本物の狐に出会うことはなかったため、今回初めて判明した『狐の声が聞こえる』という事実と円の目の前の光景は、長年の彼の密かな疑問に対する完璧な答えであったと言える。
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