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115.
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綺麗な朝焼けが見える頃。
ふ、と意識が浮上する。
いつもと違う、だけれど何度目かの既視感。目の前の王子さま顔に、昨夜のことを思い出す。
「……あ」
思わず、もらした声に。
「おはよう、瞳」
腕枕をしてくれている人物からの爽やかすぎる笑顔付きの挨拶。眩しい。
「おはよ……」
小さく返して、もそりと身じろぎする。その時感じた腰の気だるさに、昨日のうちに頼み事をしていて良かったと心底思う。
「ねぇ。さっき確認したら、今日のトレーニング休みだからゆっくり寝てろって美作からメッセージあったんだけど」
「ああ、うん……」
瞳はモゴモゴと歯切れが悪く返事をする。
「オレは動けない気がしたから、昨日のうちにそう手配しておいた」
「どこまで計算してんの……。ねえ、あと。妖精たちの数も気になったんだけど」
「うん?」
「昨夜は全然いなかった気がするんだけど、今めっちゃいる」
「ああ」
ふは、と瞳が笑う。
だって恥ずかしいではないか。いくら妖精とはいえ、初めての情事を見られながらするのは落ち着かない。だから、もし瞳が円とキスをしたら、朝まではそっと離れていてほしいと『お願い』したのだ。
そう、瞳が打ち明ければ。
「根回しバッチリかよ……」
「お前があんなキスしてこなきゃ昨日じゃなかったよ……」
本人たちはこんなことを言っているが、もはやどちらのせいとかでもなく。むしろ周りから見たら『やっとか』という思いでいっぱいなのは本人たちの預かり知らぬところである。
「さて。じゃあ、まあ。お風呂入ろうか!」
「えっ」
「はい、抵抗しない」
「ちょ、待て……」
円がひょいと抱き上げてしまうから、瞳は居心地が悪くなる。
もうこの際、恥ずかしいなんてことはないけれど、いたたまれない。身長も体格も大した違いはないのに、なんだこの扱いは。
そんなことを言ってみても、円は聞き入れてはくれない。
スタスタと浴室に消えて行き、それからしばらくして、すっかりのぼせた瞳をリビングで介抱する円の姿があったことは妖精たちしか知らないことである。
遅くなってしまった朝食は、ブランチと相成った。
昨日の買い物でイングリッシュマフィンを購入したことは知っていたので、瞳は悪びれることなくフレンチトーストを要望した。サラダにフルーツとヨーグルト。それからコーヒー。ついでにパウンドケーキが出てくる。
見覚えがあるそれに、瞳が円を見る。
「これって……」
「そう。文化祭の時の改良版」
いったいいつお菓子など焼く時間があったというのだ。全く気付かなかった。
食べて食べて、と仔犬みたいな目で見てくる円に負けて、ひと口。ふわりと広がる紅茶の香りと味は、確かに前のものよりも瞳の好みだった。
「うん、美味しい」
「良かった!」
「いや、めっちゃオレの好みだけどさ。それでいいのかよ?」
「え。だって瞳のために作ってるんだからね」
そんなの当然でしょ、とばかりに円に言われて、複雑な気持ちになる。
もはや完全にこの家は円なしでは成り立たないくらいに瞳は胃袋を掴まれている。
「お前……。オレを捨てたりなんかしたら式神総動員して呪ってやるからな」
「突然なに? やめて、物騒な話しないで? それに、前提が間違ってるから!」
「は?」
「捨てられるとしたら、瞳じゃなくて俺の方。俺は瞳を離すつもりなんてないから」
そう言いながら、向かいに座る円は瞳の手を捕らえる。つぅ、と腕に指を這わせる。愛され抱かれた余韻が残る身体は、そんなことでも感じてしまう。
「……っ、円……」
「なぁに?」
「今、そういう触り方……やめろ」
気を抜けばあられもない声を上げてしまいそうで、ふるふると震えながら瞳が言う。そんな様子を嬉しそうに見た円は、瞳の手をすくい取って、その甲に口付けた。
「円……っ!」
「分かってる。もうしない」
ぱっと手を離すから、瞳はホッとする。せめて今日はもう勘弁してほしいと思うのはワガママではないはずだ。
その後は、色めいた話は特にはなく。
円が美作とメッセージのやり取りをすれば、今日は1日ゆっくりしてほしいとのことで、やはりなにかバレているような感じではあった。おそらくは京都の件もあるからだろうが、律にも美作にも気を遣わせてしまったな、と瞳は反省する。
実際のところは、働き詰めの瞳にはたまにはのんびりしてほしいからという単純な理由からだったのだが、休みがないという自覚がない瞳に気付けるはずもなかった。
そうして食事を終わらせ、キッチンで並んで食器を片付けたりコーヒーを淹れたりしていた時だった。
「……あ?」
唐突に、瞳が声を上げた。視線はリビングのソファの方を向いている。
「瞳? どうした?」
「えっと、円には視えてない?」
瞳には、リビングのソファに座る女性の姿が視えている。気配は人間のものではない。霊のようにも思えるけれど、もっと綺麗で純粋なもの。
綺麗な女性だ、と思う。長く流れるような髪は空というよりは水に近い青色。透明に透けてしまいそうな姿は、キラキラと光に包まれていた。実体があるようでない、そんな感じだ。
「もしかして……」
《はい。わたくしは水の精霊です》
「ああ……」
納得する。確かに『水』だ。
円を見れば、存在自体はぼんやりと確認できるようだが、詳細な姿までは見えないようだ。
「円? 声は聴こえる?」
「ああ、うん。妖精たちもこんな風にしゃべるの?」
「まあ似たような感じ」
端的に言うなら似たようなものだ。少し、違うけれど。水の精霊はたおやかな仕草で立ち上がって礼をする。
《突然の訪問、どうかお許しください》
「構いません。ウチは慣れているので。水の精霊、人間の食べ物は食べられますか?」
《食べられますけれど……》
「円」
「りょーかい」
「飲み物は……ハーブティーかな」
言いながら、瞳はテキパキと準備を始める。
それから瞳と円はあっという間に円が作ったパウンドケーキをお茶請けに準備してコーヒーとハーブティーを用意し、リビングで水の精霊と向き合って座った。
「まずは、ようこそ。はじめまして。オレが吉田瞳です」
「すみません、俺は瞳ほど霊力がないので存在は確認できるのですが、姿までは……。改めて、西園寺円です」
《まあ。円さま、お気になさらないで。わたくしたちの姿は視えないのが当然なのです。お話ができて嬉しいですわ》
『視えない』ことを正直に打ち明ける円に好感を抱いたらしい水の精霊は、見えないにも関わらず円ににっこりと微笑みかける。
そして、改まって瞳の方を見た。
《わたくしたちにとって名前は特別なもの。明かせないことをお許しください》
「心得ています」
《ありがとうございます。わたくしは水の精霊。いつもは人間が来ないような小さな泉に住んでおります》
「オレに会いたいと妖精たちを通して伝えてきたのは……」
《おそらく、風の精霊だと思います》
「そうですか……」
《わたくしは、瞳さまにお願いがあって参りました》
「お願い……?」
瞳は思わず、円と顔を見合わせる。
神にも近しい精霊が、人間である瞳にお願いとはいったいどういうことだ。
《ある泉に、呪いが投げ込まれました》
「呪い!?」
「どういうことですか?」
呪いだなどと尋常ではない単語に、人のいい二人が反応しないはずがなかった。
水の精霊によれば、呪いが投げ込まれた泉は大きいものではないという。だが、泉は近くの森に住む生命たちの水がめだ。
呪いによって水は汚染され、動物たちも近寄れないらしい。
呪いだなどということをやらかすのは、おそらくは人間以外にいないだろう。
「泉の特定は出来ますか?」
《呪いの気配は感知できるのですが、場所までは……》
「では、『呪い』の場所へ、オレたちを跳ばせますか?」
瞳の言葉に驚いた表情を見せた水の精霊だが、すぐに頷いた。
《やってみます》
「一刻を争います。跳ばせるようでしたらすぐに」
《はい》
「円、悪い。ちょっと巻き込まれてくれ」
「慣れてるよ」
《まいります》
いつもの瞳の反則技のような、眩い光に包まれて数秒後。足元には枯れた草原と、眼前には邪気を纏った泉らしきものがあった。
「さすが精霊……」
「大きくないって言ってたけど、普通に池だよな?」
「このどこかに水源があるんだろうな」
「瞳、足大丈夫? さすがに靴履いてくれば良かったね」
「まあ、仕方ない」
瞳は、さて、と言ってまずは泉の水に触れてみる。
普通の人間が見たらただの綺麗な水だろうが、霊力が強ければ分かる。邪気が混じっている。
「これ……殺されたものの恨み……か?」
「え。投げ込まれたってことは、まさか……」
「でも、人間じゃない」
「動物?」
「たぶん」
痛い、苦しい、助けて、と。そんな思念が流れ込んでくる。
けれど、ここまで泉全体を覆ってしまうと、大元を探すのは難しそうだ。そう、瞳が思った時だった。
「瞳。あそこの邪気がいちばん濃い」
円が、泉の反対側を指差して言う。
「えっ」
「あ、視え方が違うのかな」
瞳と円では霊力の大きさが段違いだ。もしかしたら、瞳の目では『視えすぎ』ているのかもしれない。
「悪い、円。目ぇ貸して」
「へ?」
「円はそのまま視てくれればいい。オレの視界を同調させるから、少しブレるかも」
「分かった」
「ちょっと肩に触るぞ」
「それなら、コッチ」
隣に立つ円の肩に手を乗せようとしたら、円にグイと肩を抱かれる。円にとっては些細なことなのだろうが、瞳はドキリとしてしまうのがちょっと悔しい。
瞳はひとつ吐息して目を閉じた。肩に触れる円の視界に、自分の目を同調させる。
(ああ、本当に違うんだ……)
視界が、瞳の目で視た時よりも少しクリアだ。邪気が濃い場所は対岸に近い、泉の中。
目を開けて、もう一度自分の目で確認する。
「ありがと、円。もういいよ」
「ん。何か分かった?」
「小さな動物霊……かな」
円が瞳の肩からぱっと手を離し、瞳はそのまま前方を透かし見るようにしている。顎に手を当てて、考え事をする時の仕草だ。
「できれば遺体を引き上げたいけど……」
泉はそれほど深くはないようだ。入れないことはないだろうが、問題は今が12月という事実。
水は冷たい。
「仕方ない、行くか」
ざぶりと躊躇なく足を泉に入れる瞳を、慌てて円が止める。
「ちょ、待って!」
「なに」
「行くなら俺が行く!」
「でも」
「でもじゃない! その身体でこの冷たさに耐えられると思ってるの!?」
「…………」
ズクリと身体の奥が痛む。円が言うことはもっともで、少し軋む身体のままこの冷たい水に耐えられる自信はなかった。
瞳は吐息して、泉から岸に上がる。
「悪い、頼む。邪気はできるだけ引き付けるから」
「あんまり無茶しないでよ」
円が泉に入り、ザブザブと歩いて行くのを見ながら泉の水に手を入れる。
水の精霊は呪いだと言ったが、これはきっと殺した人間に対する恨みとかそういうものだ。
だから、正体がまだ見えない邪気を、必死に宥める。
大丈夫、怖くない。何もしないよ。
そう、繰り返し話しかけて。
円が連れ帰ってきた遺体は、小さな黒い仔猫だった。
耳を中途半端に切られ、首にはビニール製のヒモが巻き付いて体にも切り傷がたくさんある、酷い状態だった。冷たい水底で、いったい何を思っただろう。
「ひどい……こんな……」
円から仔猫を引き受け、抱き締める。ほろり、と零れた涙が、仔猫に落ちる。せめてと思って首に巻き付くヒモを外す。
大丈夫。キミに怖いことする人はもう居ないよ。辛かったね、苦しかったね。ごめんね。もっと生きたかったよね。
もう冷たく動かない濡れた体を、瞳は優しく撫でる。
瞳がそうするごとに、邪気が少しずつ弱まっていく。そうして、すっかり邪気が消えたのを見計らって、瞳はシャツを脱いで仔猫を包んでやる。そして泉から少し離れた草むらに穴を掘り、仔猫を埋葬した。目印になる墓石のような、大きな石も乗せて。円と二人、手を合わせる。
そうして立ち上がると、瞳は空中にひたりと手を当てる。まるでパントマイムのように。すると、その空間が開けて眩い光に包まれる。
光が消えた時には、自宅のリビングに帰ってきていた。
「ちょっと瞳! 俺、反則技の一部始終見ちゃったんだけどっ!?」
「……あ」
「やる時は言って!」
《あの……》
「あ、すみません……」
ずっと心配して待っていたであろう水の精霊そっちのけで突然の口論である。それは驚くだろう。
とりあえず反則技を円に見られたことは置いておくとして、一旦上着を着てからリビングのソファに座る。円は問答無用で浴室に直行させた。
「お待たせしました。水の精霊はあれを呪いと言いましたが、厳密には違いました……」
《あれは、何だったのですか?》
「……人間に殺された、動物の遺体でした」
《そうですか……》
「邪気は浄化しました。ただ、申し訳ないです。遺体を泉のそばに埋葬しました。大丈夫だとは思いますが、また何かあったら知らせてください」
《わかりましたわ。瞳さまの言葉ですもの、信じます》
「ありがとうございます」
《それで瞳さま。今回の対価なのですが、いかがいたしましょう?》
「……え?」
《まあ。何を驚いていらっしゃるの? こちらのお願いをきいて頂いたのですもの、対価は必要でしょう?》
「いえ。でも今回のことは元々人間が引き起こしたことですし……」
《でも、それは瞳さまではないでしょう?》
「そうですが……。困ったな、対価なんて考えてなかったですから……」
《では、こうしましょう。いつか、瞳さまがわたくしの能力を必要とした時に名前をお呼びください。わたくしは喜んで駆けつけますわ》
「え?」
《わたくしの名前は、》
「言わないでください!」
《セレスティーヌと申します》
「あぁ……」
水の精霊の名前を教えられた。呼ぶ権利を与えられた。それがどんなに大変なものなのか、知らない瞳ではない。
ぐったりと頭を抱えてしまうのを誰が責められるだろうか。
《ふふ。本当はもっとお話したいのですけど、そうもいきませんの。円さまにもお礼をお伝えくださいませ》
「……わかりました」
《では、また。失礼いたしますわ》
そう言って、現れた時と同じように唐突に、水の精霊は姿を消した。
ふ、と意識が浮上する。
いつもと違う、だけれど何度目かの既視感。目の前の王子さま顔に、昨夜のことを思い出す。
「……あ」
思わず、もらした声に。
「おはよう、瞳」
腕枕をしてくれている人物からの爽やかすぎる笑顔付きの挨拶。眩しい。
「おはよ……」
小さく返して、もそりと身じろぎする。その時感じた腰の気だるさに、昨日のうちに頼み事をしていて良かったと心底思う。
「ねぇ。さっき確認したら、今日のトレーニング休みだからゆっくり寝てろって美作からメッセージあったんだけど」
「ああ、うん……」
瞳はモゴモゴと歯切れが悪く返事をする。
「オレは動けない気がしたから、昨日のうちにそう手配しておいた」
「どこまで計算してんの……。ねえ、あと。妖精たちの数も気になったんだけど」
「うん?」
「昨夜は全然いなかった気がするんだけど、今めっちゃいる」
「ああ」
ふは、と瞳が笑う。
だって恥ずかしいではないか。いくら妖精とはいえ、初めての情事を見られながらするのは落ち着かない。だから、もし瞳が円とキスをしたら、朝まではそっと離れていてほしいと『お願い』したのだ。
そう、瞳が打ち明ければ。
「根回しバッチリかよ……」
「お前があんなキスしてこなきゃ昨日じゃなかったよ……」
本人たちはこんなことを言っているが、もはやどちらのせいとかでもなく。むしろ周りから見たら『やっとか』という思いでいっぱいなのは本人たちの預かり知らぬところである。
「さて。じゃあ、まあ。お風呂入ろうか!」
「えっ」
「はい、抵抗しない」
「ちょ、待て……」
円がひょいと抱き上げてしまうから、瞳は居心地が悪くなる。
もうこの際、恥ずかしいなんてことはないけれど、いたたまれない。身長も体格も大した違いはないのに、なんだこの扱いは。
そんなことを言ってみても、円は聞き入れてはくれない。
スタスタと浴室に消えて行き、それからしばらくして、すっかりのぼせた瞳をリビングで介抱する円の姿があったことは妖精たちしか知らないことである。
遅くなってしまった朝食は、ブランチと相成った。
昨日の買い物でイングリッシュマフィンを購入したことは知っていたので、瞳は悪びれることなくフレンチトーストを要望した。サラダにフルーツとヨーグルト。それからコーヒー。ついでにパウンドケーキが出てくる。
見覚えがあるそれに、瞳が円を見る。
「これって……」
「そう。文化祭の時の改良版」
いったいいつお菓子など焼く時間があったというのだ。全く気付かなかった。
食べて食べて、と仔犬みたいな目で見てくる円に負けて、ひと口。ふわりと広がる紅茶の香りと味は、確かに前のものよりも瞳の好みだった。
「うん、美味しい」
「良かった!」
「いや、めっちゃオレの好みだけどさ。それでいいのかよ?」
「え。だって瞳のために作ってるんだからね」
そんなの当然でしょ、とばかりに円に言われて、複雑な気持ちになる。
もはや完全にこの家は円なしでは成り立たないくらいに瞳は胃袋を掴まれている。
「お前……。オレを捨てたりなんかしたら式神総動員して呪ってやるからな」
「突然なに? やめて、物騒な話しないで? それに、前提が間違ってるから!」
「は?」
「捨てられるとしたら、瞳じゃなくて俺の方。俺は瞳を離すつもりなんてないから」
そう言いながら、向かいに座る円は瞳の手を捕らえる。つぅ、と腕に指を這わせる。愛され抱かれた余韻が残る身体は、そんなことでも感じてしまう。
「……っ、円……」
「なぁに?」
「今、そういう触り方……やめろ」
気を抜けばあられもない声を上げてしまいそうで、ふるふると震えながら瞳が言う。そんな様子を嬉しそうに見た円は、瞳の手をすくい取って、その甲に口付けた。
「円……っ!」
「分かってる。もうしない」
ぱっと手を離すから、瞳はホッとする。せめて今日はもう勘弁してほしいと思うのはワガママではないはずだ。
その後は、色めいた話は特にはなく。
円が美作とメッセージのやり取りをすれば、今日は1日ゆっくりしてほしいとのことで、やはりなにかバレているような感じではあった。おそらくは京都の件もあるからだろうが、律にも美作にも気を遣わせてしまったな、と瞳は反省する。
実際のところは、働き詰めの瞳にはたまにはのんびりしてほしいからという単純な理由からだったのだが、休みがないという自覚がない瞳に気付けるはずもなかった。
そうして食事を終わらせ、キッチンで並んで食器を片付けたりコーヒーを淹れたりしていた時だった。
「……あ?」
唐突に、瞳が声を上げた。視線はリビングのソファの方を向いている。
「瞳? どうした?」
「えっと、円には視えてない?」
瞳には、リビングのソファに座る女性の姿が視えている。気配は人間のものではない。霊のようにも思えるけれど、もっと綺麗で純粋なもの。
綺麗な女性だ、と思う。長く流れるような髪は空というよりは水に近い青色。透明に透けてしまいそうな姿は、キラキラと光に包まれていた。実体があるようでない、そんな感じだ。
「もしかして……」
《はい。わたくしは水の精霊です》
「ああ……」
納得する。確かに『水』だ。
円を見れば、存在自体はぼんやりと確認できるようだが、詳細な姿までは見えないようだ。
「円? 声は聴こえる?」
「ああ、うん。妖精たちもこんな風にしゃべるの?」
「まあ似たような感じ」
端的に言うなら似たようなものだ。少し、違うけれど。水の精霊はたおやかな仕草で立ち上がって礼をする。
《突然の訪問、どうかお許しください》
「構いません。ウチは慣れているので。水の精霊、人間の食べ物は食べられますか?」
《食べられますけれど……》
「円」
「りょーかい」
「飲み物は……ハーブティーかな」
言いながら、瞳はテキパキと準備を始める。
それから瞳と円はあっという間に円が作ったパウンドケーキをお茶請けに準備してコーヒーとハーブティーを用意し、リビングで水の精霊と向き合って座った。
「まずは、ようこそ。はじめまして。オレが吉田瞳です」
「すみません、俺は瞳ほど霊力がないので存在は確認できるのですが、姿までは……。改めて、西園寺円です」
《まあ。円さま、お気になさらないで。わたくしたちの姿は視えないのが当然なのです。お話ができて嬉しいですわ》
『視えない』ことを正直に打ち明ける円に好感を抱いたらしい水の精霊は、見えないにも関わらず円ににっこりと微笑みかける。
そして、改まって瞳の方を見た。
《わたくしたちにとって名前は特別なもの。明かせないことをお許しください》
「心得ています」
《ありがとうございます。わたくしは水の精霊。いつもは人間が来ないような小さな泉に住んでおります》
「オレに会いたいと妖精たちを通して伝えてきたのは……」
《おそらく、風の精霊だと思います》
「そうですか……」
《わたくしは、瞳さまにお願いがあって参りました》
「お願い……?」
瞳は思わず、円と顔を見合わせる。
神にも近しい精霊が、人間である瞳にお願いとはいったいどういうことだ。
《ある泉に、呪いが投げ込まれました》
「呪い!?」
「どういうことですか?」
呪いだなどと尋常ではない単語に、人のいい二人が反応しないはずがなかった。
水の精霊によれば、呪いが投げ込まれた泉は大きいものではないという。だが、泉は近くの森に住む生命たちの水がめだ。
呪いによって水は汚染され、動物たちも近寄れないらしい。
呪いだなどということをやらかすのは、おそらくは人間以外にいないだろう。
「泉の特定は出来ますか?」
《呪いの気配は感知できるのですが、場所までは……》
「では、『呪い』の場所へ、オレたちを跳ばせますか?」
瞳の言葉に驚いた表情を見せた水の精霊だが、すぐに頷いた。
《やってみます》
「一刻を争います。跳ばせるようでしたらすぐに」
《はい》
「円、悪い。ちょっと巻き込まれてくれ」
「慣れてるよ」
《まいります》
いつもの瞳の反則技のような、眩い光に包まれて数秒後。足元には枯れた草原と、眼前には邪気を纏った泉らしきものがあった。
「さすが精霊……」
「大きくないって言ってたけど、普通に池だよな?」
「このどこかに水源があるんだろうな」
「瞳、足大丈夫? さすがに靴履いてくれば良かったね」
「まあ、仕方ない」
瞳は、さて、と言ってまずは泉の水に触れてみる。
普通の人間が見たらただの綺麗な水だろうが、霊力が強ければ分かる。邪気が混じっている。
「これ……殺されたものの恨み……か?」
「え。投げ込まれたってことは、まさか……」
「でも、人間じゃない」
「動物?」
「たぶん」
痛い、苦しい、助けて、と。そんな思念が流れ込んでくる。
けれど、ここまで泉全体を覆ってしまうと、大元を探すのは難しそうだ。そう、瞳が思った時だった。
「瞳。あそこの邪気がいちばん濃い」
円が、泉の反対側を指差して言う。
「えっ」
「あ、視え方が違うのかな」
瞳と円では霊力の大きさが段違いだ。もしかしたら、瞳の目では『視えすぎ』ているのかもしれない。
「悪い、円。目ぇ貸して」
「へ?」
「円はそのまま視てくれればいい。オレの視界を同調させるから、少しブレるかも」
「分かった」
「ちょっと肩に触るぞ」
「それなら、コッチ」
隣に立つ円の肩に手を乗せようとしたら、円にグイと肩を抱かれる。円にとっては些細なことなのだろうが、瞳はドキリとしてしまうのがちょっと悔しい。
瞳はひとつ吐息して目を閉じた。肩に触れる円の視界に、自分の目を同調させる。
(ああ、本当に違うんだ……)
視界が、瞳の目で視た時よりも少しクリアだ。邪気が濃い場所は対岸に近い、泉の中。
目を開けて、もう一度自分の目で確認する。
「ありがと、円。もういいよ」
「ん。何か分かった?」
「小さな動物霊……かな」
円が瞳の肩からぱっと手を離し、瞳はそのまま前方を透かし見るようにしている。顎に手を当てて、考え事をする時の仕草だ。
「できれば遺体を引き上げたいけど……」
泉はそれほど深くはないようだ。入れないことはないだろうが、問題は今が12月という事実。
水は冷たい。
「仕方ない、行くか」
ざぶりと躊躇なく足を泉に入れる瞳を、慌てて円が止める。
「ちょ、待って!」
「なに」
「行くなら俺が行く!」
「でも」
「でもじゃない! その身体でこの冷たさに耐えられると思ってるの!?」
「…………」
ズクリと身体の奥が痛む。円が言うことはもっともで、少し軋む身体のままこの冷たい水に耐えられる自信はなかった。
瞳は吐息して、泉から岸に上がる。
「悪い、頼む。邪気はできるだけ引き付けるから」
「あんまり無茶しないでよ」
円が泉に入り、ザブザブと歩いて行くのを見ながら泉の水に手を入れる。
水の精霊は呪いだと言ったが、これはきっと殺した人間に対する恨みとかそういうものだ。
だから、正体がまだ見えない邪気を、必死に宥める。
大丈夫、怖くない。何もしないよ。
そう、繰り返し話しかけて。
円が連れ帰ってきた遺体は、小さな黒い仔猫だった。
耳を中途半端に切られ、首にはビニール製のヒモが巻き付いて体にも切り傷がたくさんある、酷い状態だった。冷たい水底で、いったい何を思っただろう。
「ひどい……こんな……」
円から仔猫を引き受け、抱き締める。ほろり、と零れた涙が、仔猫に落ちる。せめてと思って首に巻き付くヒモを外す。
大丈夫。キミに怖いことする人はもう居ないよ。辛かったね、苦しかったね。ごめんね。もっと生きたかったよね。
もう冷たく動かない濡れた体を、瞳は優しく撫でる。
瞳がそうするごとに、邪気が少しずつ弱まっていく。そうして、すっかり邪気が消えたのを見計らって、瞳はシャツを脱いで仔猫を包んでやる。そして泉から少し離れた草むらに穴を掘り、仔猫を埋葬した。目印になる墓石のような、大きな石も乗せて。円と二人、手を合わせる。
そうして立ち上がると、瞳は空中にひたりと手を当てる。まるでパントマイムのように。すると、その空間が開けて眩い光に包まれる。
光が消えた時には、自宅のリビングに帰ってきていた。
「ちょっと瞳! 俺、反則技の一部始終見ちゃったんだけどっ!?」
「……あ」
「やる時は言って!」
《あの……》
「あ、すみません……」
ずっと心配して待っていたであろう水の精霊そっちのけで突然の口論である。それは驚くだろう。
とりあえず反則技を円に見られたことは置いておくとして、一旦上着を着てからリビングのソファに座る。円は問答無用で浴室に直行させた。
「お待たせしました。水の精霊はあれを呪いと言いましたが、厳密には違いました……」
《あれは、何だったのですか?》
「……人間に殺された、動物の遺体でした」
《そうですか……》
「邪気は浄化しました。ただ、申し訳ないです。遺体を泉のそばに埋葬しました。大丈夫だとは思いますが、また何かあったら知らせてください」
《わかりましたわ。瞳さまの言葉ですもの、信じます》
「ありがとうございます」
《それで瞳さま。今回の対価なのですが、いかがいたしましょう?》
「……え?」
《まあ。何を驚いていらっしゃるの? こちらのお願いをきいて頂いたのですもの、対価は必要でしょう?》
「いえ。でも今回のことは元々人間が引き起こしたことですし……」
《でも、それは瞳さまではないでしょう?》
「そうですが……。困ったな、対価なんて考えてなかったですから……」
《では、こうしましょう。いつか、瞳さまがわたくしの能力を必要とした時に名前をお呼びください。わたくしは喜んで駆けつけますわ》
「え?」
《わたくしの名前は、》
「言わないでください!」
《セレスティーヌと申します》
「あぁ……」
水の精霊の名前を教えられた。呼ぶ権利を与えられた。それがどんなに大変なものなのか、知らない瞳ではない。
ぐったりと頭を抱えてしまうのを誰が責められるだろうか。
《ふふ。本当はもっとお話したいのですけど、そうもいきませんの。円さまにもお礼をお伝えくださいませ》
「……わかりました」
《では、また。失礼いたしますわ》
そう言って、現れた時と同じように唐突に、水の精霊は姿を消した。
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キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話
桜井正宗
青春
――結婚しています!
それは二人だけの秘密。
高校二年の遙と遥は結婚した。
近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。
キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。
ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。
*結婚要素あり
*ヤンデレ要素あり
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