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六章:決意

決意

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 空を埋め尽くすほどの光がヴェルツに向かって降り注ぐ中、ハルトリーゲルは大きな洞窟の中に立っていた。目を凝らせば洞窟の壁は土ではなく、複雑に絡み合った植物の根で出来ていることが分かる。この洞窟こそがミステル隔壁と呼ばれるミステルとガルテンを繋ぐ唯一の陸路である。目の前に広がる巨大な洞窟を前に、ハルトリーゲルは自分に言い聞かせるように決意のこもった声ではっきりと宣言する。

「止めてみせますわ……。私たちは同じヴァッサーリンデンの地に生きる者。ならば歩み寄ることができるはず」

 ハルトリーゲルはそのまま暗闇の中へと消えていった。



 どれくらい経っただろうか、走り続けるハルトリーゲルの目の前におぼろげな光が見える。いつの間にか夜は終わり、出口から差し込む陽光が暗い洞窟を照らす。その光を前にハルトリーゲルの表情に緊張が宿る。一歩、また一歩と進むに連れて光は強くなり、いつしか光はハルトリーゲルの体を包み込む。懐かしい暖かさに包まれながらハルトリーゲルはゆっくりと瞳を閉じる。

「この空気、この香り、そしてこの光……ミステル……ですわね」

 ミステル皇国――ハルトリーゲルが生を受け、その人生のほぼ全てを過ごした土地。懐かしさがこみ上げてくるのと同時に、ステンペルの呪いを宿した忌まわしき日々の記憶が再現される。

 目の前で死んでいく従者達。まるで怪物を見るかのような両親の顔。恐怖におののく騎士。幽閉されて自由を奪われたミステルでの日々。そして同時にガルテンでの日々が脳裏に浮かぶ。自分を恐れず優しい笑みを浮かべるヴェルツの人々。ガデナー暗殺を企てた自分に暖かく接してくれた王宮の人々。自分に愛を教えてくれた魔王ガデナー。

 懐かしくも暗く冷たい祖国と温かく自分を迎え入れてくれた敵国。あらゆる感情がハルトリーゲルの中でうずまいている。ハルトリーゲルは大きく息を吐くと、ゆっくりと瞳を開いた。その瞳にもはや迷いはなかった。



「そこの者、止まれ!」

 進んだ先でハルトリーゲルを待ち構えていたのは、武器を構えた大勢のミステルの兵士達であった。

「何者かがデスマーターの結界を破ったと聞いて待っていれば、現れたのがこんな娘一人とは一体どういうことだ?」

 兵士の一人がハルトリーゲルを訝しげに見つめ、そしてすぐに驚いた表情で瞳を大きく見開いた。

「まさかそんな……貴女様は……」

 その言葉に他の兵士たちもハルトリーゲルを食い入る様に見つめ、ハルトリーゲルの正体に気がついたのかその表情には困惑が浮かぶ。一方のハルトリーゲルは兵士たちを見渡すと、大きく息を吸い込み――朗々と告げた。

「ハルトリーゲルが戻ってまいりましたわ。どうぞお父様に取次ぎを」

 その言葉に兵士たちの間に大きなどよめきが走る。

「ハルトリーゲル様!? どうして生きて……いや、本当にあのハルトリーゲル様でいらっしゃるのか……」

 ざわめく兵士たちをよそにハルトリーゲルが足を踏み出す。それを見るや、兵士たちは体を震わせ後ずさる。

 汚れと不浄を嫌うミステルの民にありながらその身に死の呪いを宿す禁忌の王女――ハルトリーゲル。ミステルに生きる者でその名を知らぬ者はいない。兵士たちの瞳に宿るのは純然たる恐怖。

「取り次いでいただけぬのであれば私から参ります」

 凛と響くハルトリーゲルの声に、兵士たちは動揺を忘れハルトリーゲルに見入っていた。その瞬間、我に返ったのか兵士の一人が慌てて叫ぶ。

「ひぃ! 触れられたら死ぬぞ!」

 ハルトリーゲルを中心に兵士が左右に割れ、その中をハルトリーゲルが優雅に歩く。目指すのはミステルの王宮、ミッドシュタット。

 兵士たちは困惑気味にハルトリーゲルの背中を見つめ、特に何をするわけでもなくそのままハルトリーゲルの後ろに続く。どれくらい歩いただろうか、ハルトリーゲルはミステルの皇都、ダンドリオンに辿り着いた。



 皇都ダンドリオンは混乱に包まれていた。ガルテンに嫁いだはずのハルトリーゲルが多くの兵を携えて通りを歩いていたからである。道行く人がハルトリーゲルの姿に驚き、観衆からは大きなざわめきが湧き起こる。

「おっ、おい……あれ……ハルトリーゲル様じゃないのか?」

「でもハルトリーゲル様はガルテンに嫁いだはずよ。どうしてこのダンドリオンにいるのかしら? ひょっとして魔王を倒したのかしら?」

「いや、そんな話は聞いてないぞ? でもまさかまだご存命でいらっしゃるとは思わなかったが……」

「ばっ、ばか! 聞こえるぞ!」

 ミステルの人々はハルトリーゲルに宿る呪いを知っている。同時にハルトリーゲルがガルテンに嫁ぐという意味も口に出さずとも理解していた。呪いの姫はガルテン王を殺すために嫁がされたのだと。

 そんな王女がこのミステルに戻ってきている。その事実に人々は動揺を隠せない。

 ハルトリーゲルは自分に向けられる奇異の視線をまるで気にした様子はなく、堂々と通りを歩く。誰もがハルトリーゲルの一挙手一投足に注目する。喧騒に包まれていたダンドリオンの街はいつの間にか静寂に包まれ、ハルトリーゲルの歩く音だけが静かに木霊した。



「よくぞお戻りになられました、ハルトリーゲル様」

 ミステルの王宮ミッドシュタットの巨大な正門に辿り着いたハルトリーゲルを迎えたのは、一人の若い騎士であった。ハルトリーゲルはその騎士を知っている。その騎士はラーゼンと同じくハルトリーゲルの嫁入りに同行し、共にガルテンで果てる運命にあった騎士。ハルトリーゲルが一人ガルテンに残った際に、ミステルへ送り返された従者達の一人。

「ヴィルヘルム……」

「……陛下がお待ちです。どうぞこちらへ」

 宮殿の巨大な門が軋みながらゆっくりと開かれる。ヴィルヘルムと呼ばれた騎士はハルトリーゲルを先導するように前を歩き、その後ろにハルトリーゲルが続く。静寂が城内を包み、周囲に二人の足音だけが木霊した。

「こちらでございます」

 豪華な装飾が施された扉の前に辿り着いた二人を見るや、門番と思しき兵士がゆっくりと扉を開ける。開かれた扉からまばゆいばかりの光が溢れ、二人はそのまま光の中へと進んでいった。

 光を抜けるといつの間にかヴィルヘルムの姿は無く、ハルトリーゲルは一人空の上に立っていた。眼下に雲海が広がり、上を見上げれば陽光が燦々と降り注ぐ。その光景を前にハルトリーゲルは別段驚くことは無く、まるでそこに床があるかのように真っ直ぐに空の上を進んでいく。

「まさか生きて再びお前と会えるとは思わなんだ。よくぞ戻った、我が娘よ」

 突然周囲に声が響き、景色がゆっくりと歪む。その瞬間、ハルトリーゲルの眼前に光の柱が立ち上り、金色に輝く玉座に座った壮年の男性の姿が現れる。それに呼応するかのようにハルトリーゲルの周囲に幾つもの光の柱が生まれ、椅子に座った壮年の女性や槍を携えた騎士たちが次々に現れる。その光景をハルトリーゲルは黙って見つめ、玉座に座る男性に向かってゆっくりと跪く。

「お父様……ハルトリーゲル、ハルトリーゲル・ブルーム・ミステル。ただ今戻りました」

「何が『戻った』ですか。ガルテンの魔王はまだ健在だと聞いています。自らの使命も忘れ、よくもまぁのうのうと戻ってこれたものですね」

 玉座の隣に座る壮年の女性がハルトリーゲルを睨みつける。

「お母様……」

 母と呼ばれた女性は露骨に顔を顰める。そんな女性をよそに、隣に座る男性――ミステル皇帝イングヴェイ・ブルーム・ミステルは真っ直ぐにハルトリーゲルを見つめると、優しく微笑んだ。

「お前にもいろいろ事情があろう。ここでお前の帰郷について何故、と問うのは容易いが、それでは遠路はるばる戻ってきた娘に対してあまりにも無体と言うもの。まずはその身を清め、道中の疲れを癒やすが良かろう。話は夜に食事でもとりながら聞こうではないか」

 イングヴェイの言葉にその場にいた全員が頭を下げ、その光景に納得したのかイングヴェイは満足気に頷いた。

「お気遣い……痛み入ります」

 ハルトリーゲルも周囲に習って頭を下げ、イングヴェイは優しい瞳でハルトリーゲルを見つめている。しかしハルトリーゲルは知っている。父が優しい笑みを浮かべているのは決して自分に対して親愛の情を向けている訳ではないということを。ハルトリーゲルに宿るステンペルの呪いは触れた者の魂を喰らう強力無比な呪い。何かの気まぐれでハルトリーゲルが父親に飛びつけば、それだけでイングヴェイの命は散る。

 故にイングヴェイはハルトリーゲルに対して常に優しい父親を振る舞った。全てはハルトリーゲルに勘気を起こさせないために。自分の命のために。初めは優しい父親だと思っていた。しかし時が経つにつれてその仮初の笑顔の意味を、その裏にあるのは純然たるハルトリーゲルへの恐怖のみであるということを理解した時――ハルトリーゲルは親の愛情を失った。

 事実、イングヴェイを前にした今、槍を持った騎士たちがさりげなくハルトリーゲルを取り囲むように立っている。ハルトリーゲルがおかしな気を起こせば、たちまち騎士たちがハルトリーゲルを討つだろう。どんなにハルトリーゲルが言葉を重ねても、イングヴェイの心に刻まれたハルトリーゲルへの恐怖は払拭されない。

 その事実を看破して尚、ハルトリーゲルの心は微塵も揺らがない。それが現実であり、日常であり、ハルトリーゲルの生きてきた世界である。ハルトリーゲルは自嘲するように小さく口元を釣り上げた。







「何分急なことでハルトリーゲル様のお召し物の準備が間に合いませんでした。どうかご容赦くださいませ」

 客間に通されたハルトリーゲルに向かって侍女と思しき少女が深々と頭を下げる。見れば少女の体は小さく震えていた。ハルトリーゲルはその震えが緊張ではなく、恐怖から来るものだということを知っている。

 おそらく目の前の少女は自分にあてがわれた、いわば人身御供。何かの事故でハルトリーゲルに触れられると命がなくなる立場である。実際、幼少の頃はハルトリーゲルの付き人の多くが命を落とした。王宮にいるものでハルトリーゲルがもたらした死の歴史を知らぬ者はいない。故にハルトリーゲルは少女を遠ざける。

「どうもありがとう。十分ですわ。それともうこれ以上私に構わなくて結構ですわ」

 ハルトリーゲルの言葉に少女は驚いた表情を見せると、次の瞬間深々と頭を下げた。

「それでは失礼致します。何かございましたらそちらの鈴でお呼びください」

 少女は足早に部屋を後にする。そんな少女の背中を見つめながらハルトリーゲルは小さく苦笑する。

「嫁いでそれほど経っていませんのに、もう私の服は残っていないのですね。まぁ、死にゆく人間の服を残す道理もありませんが……仕方ありませんね。少々不躾ではありますが、このまま晩餐に行くしかなさそうですね」

 ハルトリーゲルは鏡の前に立つと小さくため息をつく。着の身着のままでガルテンから駆けてきたハルトリーゲルの美しかった翡翠色のドレスは土で汚れ、靴も輝きを失っている。それでもハルトリーゲルの瞳の奥には強い決意の光が輝いていた。ハルトリーゲルは腰に挿したガデナーの剣を撫でながら小さく頷いてみせる。

「魔族は私達が考えているような存在ではなかった。話せばお父様もきっと分かってくださるはず。私は……ミステルを止めねばなりません」

 ハルトリーゲルがそう呟くと、部屋の扉が叩かれる音がした。

「……どなたでしょうか? お茶の類であれば結構ですわ。お戻りなさい」

 気を利かせた侍女がお茶を持ってやってきたのかとハルトリーゲルは苦笑する。自分に接することすら恐ろしいだろうに、なんとも優しい娘だと。しかし返事はなく再び扉が叩かれる。ハルトリーゲルは訝しめに首を傾げ、再び声をかける。

「どなたでしょうか?」

「ヴィルヘルムにございます」

 予想しなかったその答えにハルトリーゲルは小さく息を呑み、緊張気味にゆっくりと答える。

「どうぞ、お入りください」

「失礼致します」

 扉がゆっくりと開かれると、そこには銀髪の美しい青年――ヴィルヘルムが立っていた。

「どうなさったのですか? 晩餐まではまだ時間がありますし」

 不思議そうにハルトリーゲルが問いかけると、ヴィルヘルムは苦しそうな表情を浮かべ――はっきりと告げた。

「どうか……疾くお逃げくださいませ」







 時を同じくしてガルテンでは降り注ぐヌス・ミステルの襲来はまだ続いていた。降り注ぐ光の雨の中、ガデナーはノイエ・パレの上空に浮かんでいた。

「……あの二人なら問題あるまい。ならば俺は俺の仕事をせねばな」

 ガデナーはそう言うとゆっくりと空に向かって手を掲げる。それに呼応するかのようにノイエ・パレとヴェルツの街が鳶色の光に包まれる。

「……来るがいい、簒奪者よ。八竜王全てを制した魔王の力、とくと見せてやる。これが魔王ガデナーの、否ガルテンの力だ!」

 ガデナーがそう語った刹那、ガデナーの足元が眩い光を放った。光は足元からゆっくりとガデナーの体を侵食するように包み込み、いつしかガデナーの体全体が眩い光に包まれた。大地は震え、大気は悲鳴を上げる。ガデナーの鳶色の瞳が赤く輝いた。そしてガデナーの体から放たれた光が波となって大地の上を疾走する。その瞬間、ガルテンの大地は金色の光に包まれた。



 同時刻、ノイエ・パレより離れた郊外の草原でピルツとザフトリングが降り注ぐヌス・ミステルを相手に戦っていた。

「まだ続くか? これはなかなか骨が折れる……」

「ほんと……いい加減こうも多いと疲れるわね」

 ザフトリングとピルツが小さくため息をついた瞬間、ガデナーの発した光の波が遥か地平より駆け抜け、瞬く間に二人の体を包み込む。光に触れた瞬間、二人はお互いの顔を見合わせ獰猛な笑みを浮かべた。

「なるほど……どうやら若は我々に本気を出せと言っているようですな。しかし人使いの荒い方だ。引退した老体をいたわって欲しいですな」

「あらあら、何言ってるのよ。あなたさっきからやる気満々じゃない。……久しぶりにお許しが出たことだし、私も頑張ろうかしら?」

 ピルツがゆっくりと空に向かって右手を掲げる。それに呼応するかのように突然夜空に烈風が吹き荒れた。風に混じり黒い光が迸ったかと思うと、次の瞬間、虚空に巨大な顎が現れる。影と呼ぶにはあまりにも巨大なそれは、降り注ぐヌス・ミステルをそのまま飲み込んだ。同時に大地から黒い棘が氷筍の如く現れ、降り注ぐ異形の群れを貫いていく。

「あらあら。宵闇の王はまだまだ健在ね。なら私も頑張ろうかしら」

 ピルツを見ながらザフトリングが楽しそうに手を横に振る。たったそれだけの動作で夜空を埋め尽くすほどの雷が顕現し、雷鳴が降り注ぐ。雷は流星のごとく降り注ぐヌス・ミステルを射抜いていく。そして夜空は閃光に包まれた。

 その光景を前に、ピルツがよく響く声で朗々と語り出す。

「其は大地に刻まれる影。其は終わりにして始原の混沌。命の果てにたどり着く景色」

 ピルツの言葉と共に夜空がゆっくりと黒く染まっていく。星影は闇に飲まれ、闇に触れた異形の殻が瞬時に黒い霧となって消滅する。闇はいつしか渦を巻き、渦は風を巻き込んで暴風となる。闇を抱き込んだ暴風はいつしか黒い奔流となりピルツを包みこむ。その中心でピルツがはっきりと告げる。

「我は命の宵を司る者。八大竜王が一人、宵のピルツ。ピルツ・エントローナ・アーヴェンドハイド、推して参る!」

 空を覆っていた闇が晴れ暴風が霧散する。その中心で全身を闇に包んだピルツが浮かんでいる。白銀の鎧は黒く染まり、頬には紋様が浮かび上がっている。ピルツは空を見上げると大きく手を振り上げる。

 その刹那、虚空より黒い棘が現れる。漆黒の棘はピルツの頭上を中心に凄まじい勢いで広がり、飛来する異形の殻を次々と穿ちながら瞬く間に空を埋め尽く。そうして夜空が黒く染めあげられる。

「ザフトリング殿!」

「任せなさいな!」

 ピルツの漆黒の棘の結界から逃れた光がゆっくりとガルテンの大地に迫る。その光景を前にザフトリングが小さく口元を吊り上げる。

「其は魂の煌き。其は大地の息吹。刹那の炎が照らす景色」

 ザフトリングが歌うように語ると、ザフトリングの体を青い炎が包み込む。炎は揺らめきながらザフトリングの動きとともに虚空に青い光を刻んでいく。ザフトリングは大きく口元を歪めて朗々と告げる。

「私は命の輝きを司る者。八大竜王が一人、青のザフトリング。ザフトリング・ルスラ・ファブローサ。冷厳に、烈々と、燃え散らすわ!」

 ザフトリングの瞳が赤く輝いた。その瞬間、ザフトリングの体を青い炎柱が包み込んだ。突然現れた炎柱は天を衝き、夜空を青く染めながら飛来するヌスミステルを焼きつくす。次の瞬間、ザフトリングを中心に同心円を描くように幾つもの火柱が現れる。火柱はそのまま同心円上に回転しながら広がり続け、一瞬にして遥か地平線の先まで広がっていく。いつしか空はピルツの黒い棘と、ザフトリングの青い炎で埋め尽くされた。



 遠く離れたノイエ・パレの展望台で、ガデナーが青く染まった空を見上げて小さく呟いた。

「……終わったか。相変わらず見事なものだな。こちらもほぼ終わったぞ」

「貴方があんな気配をあてるから疼いちゃったわ。悪い人」

「なかなか数が多くて老体には堪えますがな。結界を張りましたし、後は衛士に任せておけば大丈夫かと」

 ガデナーの背後にザフトリングとピルツが音もなく現れる。フトリングは楽しそうに、そしてピルツは少し疲れた表情を浮かべている。ガデナーはそんな二人の登場を予期していたかのように振り返る。

「ご苦労だった、二人共」

「あの程度、貴方と戦った時に比べれば遊びにもならないわ」

「全く同感ですな。しかし以前よりも奴らの『喰らう』力が強いように思われます。これはつまり……」

「ミステルが乾いている、か」

 ピルツの言葉にガデナーが露骨に顔をしかめる。ガデナーは湧き上がる感情を押し殺すように静かな声でザフトリングに語りかける。

「ザフト……他の王たちと連絡がついたか?」

 ガデナーの問いかけにザフトリングは小さく首を横に振る。

「駄目ね。空を見るにヌス・ミステルはガルテン中に降り注いでるっぽいから、他の王たちも対応に追われているのでしょうね」

「しかしハルトリーゲル様を嫁がせてからの無差別な襲撃とは……いや、ハルトリーゲル様を暗殺者に仕立てあげた時点でミステルはその腹づもりだったのでしょうが、それでもこうもあからさまに来るとはいささか……」

 ピルツの言葉が意味することを正確に理解したザフトリングが笑みを浮かべながら小さく首を横にふる。

「ミステルにとってハルトリーゲルちゃんは災禍の種でしかないもの。ハルトリーゲルちゃんがガデナーを暗殺できればよし、出来なくても最悪ガルテンに寝返ったことを考えてまとめて葬れれば御の字、といったところじゃないかしら。あの様子じゃ、連中、ハルトリーゲルちゃんに何も教えていなかったみたいだし」

「……やはりハルトリーゲルを一人で行かせたのは失敗だったか」

 ザフトリングの言葉にガデナーの表情が歪む。対するザフトリングはガデナーを真っ直ぐに見つめながら首を横に振る。

「あの子は、ハルトリーゲルちゃんは自分の手で真実を求めた。そこに貴方が加わるのは無粋というものよ。それにハルトリーゲルちゃんが力を開放すればミステルにあの子を止められる人などいないでしょうし」

 ザフトリングの言葉にガデナーの纏う気配が変わる。殺気にも似た剣呑な気配が周囲に充満し、ガデナーが苦しそうに叫ぶ。

「その力がハルトリーゲルを苦しめているのだ! 優しいハルトリーゲルのことだ、害されそうになったとしても人を傷つけまいと抵抗しないおそれもある! そんなことになったら、俺は! 俺は!」

 ガデナーは机の上に勢い良く手を叩きつけると、深く息を吐く。それでいくらか落ち着きを取り戻したのか、低い声で絞り出すように呟いた。

「ハルトリーゲルに万が一の事があれば、俺は神樹を屠る。たとえそれがガルテンの、いや大地の意志に背くことになったとしてもだ……」

「ガデナー……」

「それにまだハルトリーゲルが害されると決まったわけではないしな」

「そうね」

「仮に害されなかったとしても、ハルトリーゲルの力を恐れた連中がハルトリーゲルをぞんざいに扱う可能性もある。今頃不遇な扱いを受けて泣いているやもしれん! こうなれば一刻もはやくこのふざけた襲撃を終わらせ、ミステルまでハルトリーゲルを迎えに行かねばならんな。うむ、それがよかろう。むしろそれしかあるまい」

「んん?」

「手土産にはガルテンの果実がよかろう。ハルトリーゲルも気に入っていたしな。ついでに茶器も持っていかねばな。俺が行ったらハルトリーゲルはどんな顔をするだろうか。それを考えると胸の高鳴りが止まらん。これはいかなる病か?」

「ガデナー?」

「そうと決まれば話は早い。だが手土産をどうしたものか。こんな時間に商家を叩き起こすのは忍びないが、悠長に朝まで待っていられん。全てはハルトリーゲルのためだ。全ては許されよう」

「許されないわよ!」

 ガデナーが何やら一人で納得した様子で頷き、慌てた様子で部屋を出て行こうとする。その瞬間、ガデナーの後頭部をザフトリングが投げた椅子が襲う。

「うごあは!」

 ガデナーは椅子の直撃を受けてそのまま扉へと吹き飛んでいく。そんなガデナーを見つめながらザフトリングが小さくため息をつく。

「ガデナーが久しぶりにまじめにやってると思ったら……まったく貴方って人は。さっきの私の胸の高鳴りを返してほしいわ」

「こんな状況でまじめになんて振る舞えるはずかなろう! ハルトリーゲルの事を考えるといてもたってもいられないからな、無理やり気を紛らわしていたのだ!」

「そんなこと胸を張って言うことじゃないでしょ! というか……ごめんなさい、ほんとに勘弁して。さっきまでの私の感動を返して。貴方の昂ぶる気に当てられてわざわざ久しぶりに大地と『繋がった』のに! 久しぶりに本気の貴方を見れたって喜んだのに! よくもこの私を辱めてくれたわね!」

 ガデナーは頭から血を流しつつも、全くそれを気にした様子もなく語り、一方のザフトリングは恥ずかしいのか頬を染めて涙目になりながらガデナーの首を締め上げていく。そんな二人を見つめながらピルツは小さく苦笑する。

「しかしハルトリーゲル様が心配というのは私も同感ですな。ハルトリーゲル様はミステルの真実を知らなかった。そしてヌス・ミステルによる襲撃。そんな中、突然ハルトリーゲル様の帰国。ハルトリーゲル様を騙していた者からすれば、真実を知ったハルトリーゲル様がミステルに牙を剥きに戻ってきた、と邪推するかもしれませんな」

 ピルツの言葉にガデナーとザフトリングの動きが止まる。

 口には出さないがガデナーもピルツと同じことを考えていた。ハルトリーゲルの事を考えればいてもたってもいられなくなる。かといって自分がミステルに同行すれば、それこそ侵攻とみなされかねない。そうなればハルトリーゲルの成そうとしていることは水泡に帰す。故にガデナーは耐える。耐えねばならない。

 そんなガデナーの様子をよそに、ザフトリングが何かを思いついたのか怪しい笑みを浮かべると、ガデナーの後ろから抱きつくようにその耳元に顔を寄せる。

「ひょっとしたらハルトリーゲルちゃん……案外歓迎されて居心地良く過ごしているかもよ? やっぱり慣れ親しんだ祖国のほうがいいから戻ってこない、なんてこともあるんじゃないかしらね?」

 ザフトリングがいたずらっぽく呟いた瞬間、ガデナーは突然固まったように動かなくなる。ザフトリングの言葉にガデナーは振り返らずに絞りだすように呟いた。

「……ふん。何を言うかと思えば下らんな。ハルトリーゲルは必ず戻ってくる。この俺の下にな」

 動揺しているのか、ガデナーの手は小さく震えている。そんなガデナーの様子を見たザフトリングは先ほどの意趣返しとばかりに続ける。

「でもガデナー、あなた結局ハルトリーゲルちゃんにあまり王らしい所を見せられなかったわよね? そのくせ偉そうな事ばかり言ってたし。貴方がした事って寝てるハルトリーゲルちゃんの体をここぞとばかりに撫で回したり、泣いてるハルトリーゲルちゃんを好機とばかりに抱きしめただけじゃない。そんな人のところに、しかも敵国に進んで戻りたいと思う?」

「ぐっ……」

 ガデナーは苦しそうに胸を抑えながら大きくよろめいた。瞳には涙が浮かんでおり、必死に唇を噛み締めている。

「俺はハルトリーゲルを愛している! そしてハルトリーゲルもまた俺を……愛してくれている……」

「そうは言ってもガデナー、あなた一度でもハルトリーゲルちゃんに面と向かって愛しているって言った? はたして手料理を振る舞ってもらった代わりにパンの耳を食べさせようとする男から愛を感じるかしらね?」

「あれは……」

「そして一度でもハルトリーゲルちゃんから愛しているって言われた?」

「……」

「言われた?」

「いっ……言われた……。心の中で。大丈夫だ。ハルトリーゲルの気持ちは語らずとも俺に届いている」

「言われた?」

「……」

 ガデナーは椅子の上でうずくまり体を震わせている。一方のザフトリングは楽しそうにガデナーの顔を覗き込む。ザフトリングの言葉にガデナーが小さく体を震わせる。

そんな二人を横目にピルツが小さくため息をついた。

「お気持はわかりますが、ザフトリング殿もそれくらいにして差し上げなされ。どうやら襲撃の第二波が来るようですぞ?」

 ピルツが天井を見上げて顔を顰め、ガデナーとザフトリングも天井を見上げて瞳を細めた。

「俺が出よう……ザフトはもう一度他の竜王の状況を確認しろ。ピルツはミステル隔壁の結界を守れ。ヌス・ミステルの襲撃に合わせてあちらからも来るかもしれん」

「御意」

「了解。ガデナーはどうするの?」

 ピルツの体が部屋の景色に溶けて消えていく。部屋に残ったザフトリングがガデナーに問いかける。

「俺は……ハルトリーゲルの変えるべき場所を守るだけだ」

 そう叫ぶや、ガデナーは窓を開け放ち、そのまま王宮から窓の外へと飛び出した。そんなガデナーの後ろ姿を見つめながらザフトリングが小さく口元を吊り上げる。

「ふふっ……本当に愛されているのね、ハルトリーゲルちゃん。ちょっと妬けちゃうわ」







 時を同じくしてハルトリーゲルは突然のヴィルヘルムの来訪に動揺していた。

「ヴィルヘルム? それは一体どういうことですの?」

 ヴィルヘルムの言葉にハルトリーゲルが驚いた表情で問いかける。一方のヴィルヘルムの表情は固く、苦しそうに顔をしかめる。

「……ハルトリーゲル様には謀反の嫌疑がかけられております。魔王ガデナー暗殺の命を受けた姫がこうして生きてミステルに戻ってこられた……これが意味するところは……」

「なるほど……事情は分かりました。暗殺に失敗すれば殺されるが道理。私が生きているということは魔王暗殺をしていない、もしくは魔王に懐柔された、と。そう言いたいのですね」

 ハルトリーゲルの言葉にヴィルヘルムは小さく頷いてみせる。

「一部ではハルトリーゲル様がミステルに仇なすために戻ってきたとの声もございます」

 ヴィルヘルムの言葉にハルトリーゲルが思わず語気を強める。

「そんな馬鹿な……私が祖国を、ミステルを裏切るはずがありませんわ。まさかお父様も……」

 ハルトリーゲルは心配そうにヴィルヘルムの顔を覗き込む。ハルトリーゲルの脳裏に浮かぶのは、仮初の笑顔を浮かべる父親の姿。

 魔王暗殺とともに果てるはずだった呪われた娘が突然戻ってきたのである。ヴィルヘルムの言うように、命をかけた暗殺の道具にされたハルトリーゲルが復讐の為に戻ってきたと捉えられてもおかしくはない。それほどまでにイングヴェイはハルトリーゲルを恐れている。それを誰よりも理解しているハルトリーゲルは表情を歪ませる。

 そんなハルトリーゲルの胸中を察してかヴィルヘルムが遠慮がちに語る。

「……陛下はハルトリーゲル様の帰省の理由をとても気にしておられます。ハルトリーゲル様の態度次第では晩餐時に誅せよとの命が既に出ておりますれば、最悪食事に毒が入るかも知れません。……私にはガルテンの事情は分かりかねますが、せっかく拾った命にございます。むざむざここで散らす必要はありません。どうか、どうか疾くお逃げ下さい」

 懇願するようなヴィルヘルムの言葉にハルトリーゲルは優しく微笑んでみせる。

「ありがとうございます、ヴィルヘルム。忌み嫌われた呪われた私の身をここまで案じてくれたのは貴方が初めてです。貴方の言葉は、気持ちは私の心に確かに届きました。それでも……それでも私はお父様にお会いしてお伝えしなければならないことがあるのです。私はそのために戻ってきたのですから」

「ハルトリーゲル様……」

 真っ直ぐにヴィルヘルムの瞳を見つめながら語るハルトリーゲルを前に、ヴィルヘルムは顔を歪め、苦しそうに頭を下げる。

「ハルトリーゲル様。このヴィルヘルム、ハルトリーゲル様がガルテンに嫁いだあの日、我が命はハルトリーゲル様と共に果てたと思っております。ならば未練がましく生きながらえたこの命、どうぞハルトリーゲル様の御身の為にお使いくださいませ」

 深々と頭を下げるヴィルヘルムを前に、ハルトリーゲルはゆっくりと首を横に振る。

「いけません、ヴィルヘルム。貴方はお父様の側で、どうかお父様を、そしてミステルを支えてください」

「しかしハルトリーゲル様……それでは御身が!」

 納得行かないといった表情のヴィルヘルムを前に、ハルトリーゲルは真剣な表情で問いかけた。

「ならばヴィルヘルム。一つお願いがあります。聞いてくれますか?」



 日が傾きかけた頃、ハルトリーゲルは人目を避けるように城内を歩いていた。ハルトリーゲルは晩餐の前にどうしても確かめねばならないことがあった。

「ヴィルヘルムの話では彼らは兵舎にいると……。兵舎は……こっちでしたね」

 時折侍女と思しき少女たちと何度か出会ったが、幸運にも彼女たちはハルトリーゲルに気づくことなくそのまま通り過ぎていった。優雅に歩くハルトリーゲルの態度と美貌も合わさって、宮中ですれ違った者は皆ハルトリーゲルを殿上した貴族の娘だと思い、すれ違いざまに深々と頭を下げる。ハルトリーゲルの歩みを止める者はいなかった。

「ヴィルヘルムが言っていたのはここですわね……」

 ハルトリーゲルは王宮の脇にある兵舎の前に立っていた。既に日が傾いていたせいか、周囲に人の気配は無く、ハルトリーゲルは小さく安堵の溜息を付く。脳裏に浮かぶのは槍を構えたおぞましい姿の異形。平和なガルテンを襲い、大地を腐らせる化物。

 自分が知らないミステルの姿がそこにある。ハルトリーゲルの表情が緊張に包まれる。

「扉が……開いている?」

 兵舎は石造りの巨大な建物で、重厚そうな門が構えている。扉に手をかけたハルトリーゲルが訝しげに首を傾げる。

「……ともあれ、これは好都合ですわ」

 ハルトリーゲルは小さく喉を鳴らすとゆっくりと兵舎の扉を開け、緊張気味に中の様子を覗き見る。

「誰も……いない?」

 兵舎の中には誰も居らず、ハルトリーゲルは小さく安堵の溜息をつく。室内には訓練で使うと思しき刃先が潰された武器が壁に並んでいた。ハルトリーゲルはそのまま室内を具に見渡しながら、ゆっくりと奥へと進んでいく。

「この部屋で最後ですか。ヴィルヘルムはここに来れば分かると言っていましたのに……」

 兵舎の部屋を具に回ったハルトリーゲルは一番奥の部屋に立っていた。目の前は行き止まりで部屋には何もない。ただ無機質な壁が広がっているだけである。

 ハルトリーゲルがヴィルヘルムに聞いたことは一つ。ミステルに異形の兵がいるかどうか。そしてヴィルヘルムはハルトリーゲルにこの兵舎にその答えがあると告げた。

 ハルトリーゲルは知っている。あの異形がミステルの兵なのだと。しかし祖国ミステルがあのような異形の兵を使ってガルテンに攻め込んでいるという事実を心の何処かで否定していた。否――否定したかった。故にハルトリーゲルは確かめねばならない。

 何もない壁の前でハルトリーゲルはゆっくりと安堵のため息をつく。

 すると突然ハルトリーゲルの頬を冷たい風が撫でた。

「風? この部屋には窓はないはず……。一体どこから……?」

 それはただの違和感と捨て置けるほどの僅かな風であった。しかしハルトリーゲルはそれに気がついた。違和感は加速する。ハルトリーゲルは緊張気味に部屋の壁の一点を見つめてゆっくりと瞳を細める。

「この壁……ここだけホコリが付いていませんわね……」

 ハルトリーゲルがゆっくりと壁に触れた瞬間――壁が音もなく反転し目の前に階段が現れた。

「隠し扉……」

 目の前には階段が続いており、その先は暗闇でよく見えない。その光景を前にハルトリーゲルの中で何かが全力で警鐘を鳴らす。これ以上進むべきではない――それは確信にも似た予感。ハルトリーゲルの鼓動が早くなる。そして同時にハルトリーゲルは理解する。これこそがハルトリーゲルの求めていた答えなのだと。

 ハルトリーゲルは小さく唾を飲み込むと、意を決した様子でゆっくりと階段を降り始めた。階段の先は完全な暗黒であり、ハルトリーゲルは足の感覚を頼りに慎重に進む。

 音を立てないように、一歩、また一歩とハルトリーゲルが階段を降りていく。降りるに連れて次第に周囲に花のような甘い香りが漂い始める。

「一体何が……」

 どれくらい階段を下っただろうか、ハルトリーゲルの目の前にうっすらと光が見える。

 光に近づくに連れ、周囲の景色が徐々に明らかになる。そしてハルトリーゲルは目の前の光景に思わず瞳を見開いた。

「こんなものが王宮の地下に……」

 そこには地下とは思えぬ巨大な空洞が広がっており、幾つかの小さい池が広がっていた。池は淡い光を放ち、時折湖面より光の粒が湧き出て粉雪のように周囲を漂っている。池の周囲にはいくつかの小さな建物が点在しており、それぞれが色とりどりに光を放っている。よくよく目を凝らせば建物は石ではなく、木の根のようなものでできており、自分のいる空洞が神樹ミステルの虚うろなのだと理解する。 

 周囲に人の気配はなく、ハルトリーゲルは広場に降り立つと緊張気味に周囲の様子を観察する。

「綺麗ですわね……」

 眼前に広がる幻想的な光景にハルトリーゲルが思わず感嘆の声を漏らす。しかし次の瞬間、何かを察知したハルトリーゲルは小さく息を飲み慌てて近くの岩陰に隠れた。

「……あの方たちは? 全く気配を感じませんでしたが……。それにあれはガルテンを襲った異形の持っていた槍!?」

 ハルトリーゲルの視線の先に銀色の甲冑に身を包んだミステルの兵と思しき男たちが無言で立っていた。男たちは虚ろな表情で佇んでおり微動だにしない。男たちが立っている横の壁からは蔓が伸びており、その先端にまるで果実のように実った槍が揺れていた。ハルトリーゲルはその槍に見覚えがあった。忘れもしないガルテンを襲った異形が持つ大地を腐らせた槍である。

 ハルトリーゲルは岩陰から身を乗り出し悟られないようにゆっくりと近づいていく。

「ひっ……!」

 ハルトリーゲルは思わず小さな悲鳴を漏らしてしまった。なぜなら整列した兵士たちの下半身がまるで何かに侵食されたかのように黒光りする異形の足へと変じていたのである。あまりにもおぞましいその光景にハルトリーゲルはゆっくりと後ずさる。そして視界の端に蠢く何かを捕らえた。

「今度はなにが……」

 ハルトリーゲルが緊張気味に瞳を細める。常人のそれを遥かに上回る視力が捉えたのは、淡い光を放つ小さな池の中に槍を持った異形が整列して沈んでいる光景であった。瞳を凝らしてみれば、異形たちの体は半透明の殻に覆われている。そして次の瞬間、ハルトリーゲルの目の前で半透明だった殻はゆっくりと色付き黒へと変わっていく。ハルトリーゲルはその黒い殻に見覚えがあった。その光景にハルトリーゲルは思わず息を呑む。忘れもしない、ガルテンを襲った異形の卵。その名は――

「ヌス・ミステル……」

 池は水路のように隣の池とつながっており、ヌス・ミステルがゆっくりと隣の池に流されていく。隣の池には先の見えない暗い、巨大な穴が開いていた。そして同じような光景がこの空洞のいたるところに広がっていることに気がついた。

 そして理解してしまった。否――信じたくなかった確信にも似た疑念が眼前の事実としてハルトリーゲルの心に打ち込まれた。打ち込まれてしまった。ハルトリーゲルはゆっくりとその場に崩れ落ちる。

「まさか……やはりあの異形たちはミステルのものだったのですね……」

 ハルトリーゲルが絞り出すように呟いた。その瞬間、ハルトリーゲルの耳に何かが軋む音が響く。

 慌ててハルトリーゲルが音のした方向へ視線を送ると、そこには蔓でできた檻のようなものが天井からぶら下がっていた。ハルトリーゲルはそれを見て思わず息を呑む。

「中に……人が……? あれは……ガルテンの民?」

 檻の中には遠目からも分かるはっきりとした褐色の肌の――ガルテンの民と思しき若い男女が横たわっていた。既に絶命しているのか、その顔からは血の気が感じられない。その光景を前にハルトリーゲルはただ恐怖した。

 恐怖は加速する。突然檻をぶら下げている蔓がちぎれ、檻はそのまま真下に広がる小さな池に落下する。

「いけない! 中に人が!」

 ハルトリーゲルは慌てて駆け寄り――眼前の光景を前に思わず言葉を失った。

 池が一瞬まばゆく光ったと思うと、光は檻の中の男女を包み込み、次の瞬間男女の姿が忽然と消えたのである。人の着ていた服だけが残されたまま。

「まさか……これは……」

 ハルトリーゲルが池を見つめながら呆然と立ち尽くしていると、今度は別の場所から何かが池に落下する音が鳴り響いた。慌ててハルトリーゲルが天井を見上げれば、そこにはいくつもの檻がまるで木の実のようにぶら下がっていた。

「そんな……あの全てに……ガルテンの民が?」

 驚愕に立ち尽くすハルトリーゲルの眼前で、一つ、また一つと檻が池に落下する。池の光が一瞬強くなる。それが意味することを理解したハルトリーゲルは恐怖におののいた。

「神樹が……ガルテンの民を……食べている? それにあの異形たちは……。分からない……。神樹ミステルは……私達は一体何だというのですか!」

 ハルトリーゲルは両手で体を抱えるように小さく震え、ゆっくりと後ずさる。

 その瞬間、周囲に朗々と声が鳴り響いた。



「これこそが神樹ミステルの意志であり――我らの使命である」



 ハルトリーゲルが慌てて声のした方向に振り向くと、そこには幾人かの騎士とヴィルヘルムを引き連れた初老の男性――ミステル皇帝、イングヴェイ・ブルーム・ミステルの姿があった。
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