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四章:疑問

疑問

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 それから数日後、ハルトリーゲルは今までとほとんど変わらぬ日々を過ごしていた。ただ一つ、ハルトリーゲルがガデナーの命を狙う事がなくなったことを除けば、であるが。

「くくっ……どうした、ハルトリーゲルよ? もう俺を討つことを諦めたのか? 所詮人間よな、暇つぶしにもならん」

「……そうですわね」

 昼食時、ハルトリーゲルから自分への殺意が消えたことを単純に構ってもらえる回数が減ったと感じたガデナーが不敵な笑みを浮かべながらハルトリーゲルを煽る。一方のハルトリーゲルはそれをどこ吹く風とあしらうばかりで、今までのような憎悪の瞳をガデナーに向けることはしなかった。そんなハルトリーゲルの態度を前に、ガデナーは一瞬戸惑った表情を見せたかと思うと、突然勢い良く立ち上がった。

「……つまらんな。興が覚めた。俺は先に部屋に戻る」

「……そうですわね」

 ハルトリーゲルはまるでガデナーの言葉を聞いていないのか、心ここにあらずといった感じで同じ言葉を繰り返す。そんなハルトリーゲルの態度にガデナーは表情を崩し、唇を噛みしめると震えながら食堂を後にする。その背中を見つめていたザフトリングが小さくため息をつく。

「ガデナーの眼……うさぎさんみたいに赤かったわね……。急に構ってもらえなくなっちゃって寂しいのかしら」

「若……おいたわしゅうございます」

 ガデナーの胸中を察したのか、ピルツが苦笑を浮かべガデナーの背中を見つめていた。



「ちょっと……いい加減、毎回毎回私の部屋でいじけるのやめてくれないかしら? というか貴方はいい加減、自分の部屋で寝なさい。いつまで私の部屋にいるのよ」

 食堂を後にしたガデナーは例の如く、ザフトリングの部屋に転がり込んでいた。ちなみにガデナーはハルトリーゲルが嫁いできた日以来、一度としてハルトリーゲルのいる自室に戻ったことはない。

「心が痛むのだ……。ガルテンの宰相なら気の利いた言葉で俺を慰めろ……」

 まるで子供のように落ち込むガデナーを前に、ザフトリングが小さくため息をつく。

「私はハルトリーゲルちゃんが嫁いでくる前に、最初から同室だと気まずくなるから部屋は分けなさいって言ったわよね? それなのに根拠のない自信で、無理やり二人の部屋を一緒にしたのはガデナーよね?」

「そっ……それは……少しでもハルトリーゲルと一緒に居たかったからであって……夫婦が同じ部屋で寝るのは当然だろう……」

 まるで自分に弁解をするように語るガデナーを前にザフトリングが小さくため息をつく。

「……貴方の読みが甘かったのよ、ガデナー。だってまさか初対面で首を刎ねられるほど憎まれているなんて思わなかったものね。よしよし、ガデナーは可哀想な子ね」

 ザフトリングが膝を抱えてうずくまっているガデナーの頭を撫でる。その瞬間、ガデナーの肩が怯えるように小さく震えるが、ザフトリングは構わず続ける。

「……ところでガデナー。貴方いつまでそうしているつもりなの? 貴方がハルトリーゲルちゃんを娶ったのはこんな茶番を繰り返すためじゃないでしょう?」

 その言葉にガデナーの体の震えが止まる。ザフトリングは続ける。

「貴方ももう気がついているんでしょう? あの子は……ハルトリーゲルちゃんは真実に近づきつつある。そうなった時、貴方がちゃんと守ってあげなさいよ?」

「言われるまでもない。それこそが俺がここにいる理由だからな……」

 ガデナーの呟きは静寂に飲まれて消えた。



 時を同じくしてハルトリーゲルは一人自室で窓の外を見つめていた。眼下に広がるヴェルツの夜景を見つめながらハルトリーゲルはゆっくりと瞳を閉じる。思い出されるのは先日のヴェルツでの出来事、そして同時に脳裏に浮かぶ幾つかの矛盾にも似た違和感。

「このガルテンという国、そして魔族。私達の敵には違いありませんが、私が知っているガルテンとは違う……違い過ぎますわ」

 魔族とは人に仇なす害悪、邪悪の化身にして神樹ミステルを蝕む不浄の存在として教えられてきた。ハルトリーゲルが自身の命と引き換えにガデナーの暗殺を決意したのは、魔族とは人と相いれぬ害悪であり、彼らを打ち倒さねば神樹ミステルに災禍をもたらすと聞かされていたためである。しかし先日見たヴェルツの景色はハルトリーゲルに一つの疑問を抱かせた。

 ガルテンは――魔族は人間の敵となるような邪悪な存在ではないということ。むしろ外の国から来たという人間たちとは友好的な関係を築いているようにも見えた。

「このヴァッサーリンデンの地にミステルとガルテンが生まれて以来、両国の争いは途絶えたことがないと聞いています。ならば当時は粗暴にして野蛮だったガルテンの人々が時と共に変わってきた、ということなのでしょうか?」

 魔族が存外友好的な手合ということはハルトリーゲルにとって好ましい矛盾であった。だがそれ以外にもう一つ、ハルトリーゲルにとってどうしても看過できないことがあった。それはガデナーがハルトリーゲルの呪い――ステンペルの呪いを承知で婚姻の申し入れをしたというピルツの言葉である。

「魔王ガデナーは私がステンペルの呪詛をその身に宿していると知りつつ妻に迎え入れた……。戦争をやめる方便として私を娶る理由はありませんし、そもそも強大な力を持つ魔族が自ら保身のために休戦を申し出るはずもありません。では一体ガルテンは――ガデナーはどうして私を妻として迎え入れようとしたのでしょうか……」

 触れた者の命を喰い尽くすおぞましい神樹ミステルの加護という名の呪詛。それを知りつつ何故ガデナーは自分を求めたのか。いくら考えても答えは出ない。

 ハルトリーゲルはいつも身につけている手袋を外すと自身の手に視線を移す。白い、透き通るような肌が月明かりに照らされて淡い輝きを宿す。

「この手では何も掴めない……。この体には何者も触れられない。この白さはあらゆる命を喰らうために生み出された神樹の意思そのもの。そこに迷いや惑いは存在しない。ただ純然たる呪い……」

 ハルトリーゲルの呟きは夜の闇に飲まれて消えた。







 結局自らの問に答えを出せぬまま一晩を過ごしたハルトリーゲルが眠い瞳をこすりながら朝食の場に現れた。その頭に思い浮かぶのはガデナーへの疑問。

「どうした? ハルトリーゲルよ。口に合わなかったか?」

 思いにふけっていたためか、机の上に置かれたハルトリーゲルの食後の甘味がそのまま手付かずなことにガデナーが心配そうに首を傾げる。

「いえ……ちょっと考え事をしていましたの」

「くくっ……俺を殺す算段でもついたか、勇敢なる姫よ」

 ガデナーが怪しく笑う。今までのハルトリーゲルであれば、ガデナーのその言葉に真っ直ぐに反発するところであったが、ハルトリーゲルはその言葉には乗らなかった。何かが違う。ハルトリーゲルは自分の中に湧き上がった違和感に苛まれていた。それこそガデナーの言葉を聞き流すほどに。

「……そうですわね」

 ガデナーの言葉を聞き流しながらザフトリングが小さくため息をつく。その言葉に食堂は一瞬、静寂に包まる。すると突然ザフトリングが満面の笑みを浮かべながらガデナーに語りかける。

「良かったじゃない、ガデナー。ハルトリーゲルちゃん、貴方のことを考えてくれているみたいよ」

「そっ……そうか……」

 それを聞いたガデナーはぎこちなく笑みを浮かべる。そんなガデナーを見つめながらザフトリングが必死に笑いを噛み殺し、一方のピルツは小さく苦笑する。

 ハルトリーゲルは目の前の青年を見つめる。汚れた大地、魔族の国ガルテンの王。目の前の男は邪悪そのものであり、神樹ミステルを蝕む魔族の王。子供の頃よりそう聞かされてきたハルトリーゲルはどうしても目の前の青年と噂に聞く魔王とが結びつかなかった。

「おかわりをお持ちしました」

 考え事にふけっていたハルトリーゲルに不意に声がかけられる。何事かと慌てて振り向けば、侍女が茶器を片手に優雅に頭を下げていた。

「あっ? えっ……ええ。おねがいしますわ」

 ハルトリーゲルが慌てて振り向いたせいか、机の上のカップを引っ掛けてしまう。カップはそのまま真っ直ぐ机の上を転がっていく。

「あっ!」

 それを見た侍女が慌ててカップに手を伸ばし、ハルトリーゲルも驚いた表情で手をのばす。そして二人の手が交差する。

「あっ……危なかったですわ。 大丈夫ですか?」

 侍女がカップを掴み、ハルトリーゲルの伸ばした手は侍女の手に重なるように置かれていた。

「は……い……」

 その瞬間、侍女の顔から瞬く間に血の気が引いていく。侍女は小さく声を漏らすと突然その場に崩れ落ちた。

 侍女の持っていたティーカップがゆっくりと落下し、食堂に甲高い音が鳴り響く。その様子にガデナーが慌ててハルトリーゲル向かって叫んだ。

「いかん! ハルトリーゲル、その手を離せ!」

「えっ?」

 一瞬にして侍女とハルトリーゲルの間に入ったガデナーが倒れゆく侍女を抱きかかえ、ゆっくりとハルトリーゲルの手を侍女から引きなす。侍女は蒼白な表情でガデナーの腕の中で横たわり、一方のハルトリーゲルは何が起きたのか理解できない様子でただガデナーを見つめていた。

 そして気がついた。寝不足と考え事に気を取られ、いつも着用している手袋を付け忘れていることに。その瞬間、ハルトリーゲルは蒼白な表情になり、頭を抱えて震えだす。

「あああ……」

「ハルトリーゲル?」

 ガデナーが慌ててハルトリーゲルに向かって声をかける。一方のハルトリーゲルは両手で自身の体を抱きしめながら震えている。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 その表情は蒼白で、まるで何かに怯えるかのように小刻みに震えている。そんなハルトリーゲルを見つめて、ザフトリングが瞳を細めながら呟いた。

「それが『吸魂』の呪い――ステンペルの本質ってわけね。実際に見るとなかなかえげつないわね。その子、魂を『吸い尽くされ』かけているわ。魔族だから良かったけれど、それが人だったら……まぁ、考えるまでもないわね」

 ザフトリングの表情にいつもの笑みはなく、真っ直ぐにハルトリーゲルを見つめている。

「駄目……死なないで! 貴女まで……死なないで……! お願い!」

「ハルトリーゲル!」

 ガデナーが幽鬼の様に震えているハルトリーゲルを強く抱きしめる。その瞬間、ハルトリーゲルは何かに気がついたのか大きく叫ぶ。

「駄目! 私に触れないで! あなたも、みんな死んでしまう! 止めて! 近づかないで! これ以上私のせいで死なないで!」

「くっ! 落ち着け、ハルトリーゲル。この者は魔族だ。まだ生きている。お前は誰も殺していない!」

 ガデナーは暴れるハルトリーゲルの体を必死に抑えながら叫ぶが、ハルトリーゲルは頭を抱えながら瞳に涙を浮かべて叫ぶ。

「やめて! もう一人なのはいや! どうして! どうしてみんな私から遠ざかるの? どうしてお父様は私をここに閉じ込めるの? どうして私をそんな目で見るの? どうして私は……」

「くっ!」

 ハルトリーゲルの瞳にはもはやガデナーは映っていない。必死に静止するガデナーの腕の中でハルトリーゲルが狂ったように暴れる。

「すまん! ハルトリーゲル!」

 ガデナーがハルトリーゲル首に向かって手刀を振り降ろす。その瞬間、ハルトリーゲルの体から力が抜け、ゆっくりとガデナーの腕の中で崩れ落ちる。そんなハルトリーゲルを抱きしめながらガデナーが小さく安堵の溜息をこぼす。

「……嫌な事を思い出させてしまったか。許せよ、ハルトリーゲル……」

 ガデナーは腕の中で気絶している涙に濡れたハルトリーゲルの顔を見つめながら苦しそうにつぶやく。

「お疲れ様、ガデナー。ハルトリーゲルちゃんを抱きしめられるのはガルテン広しといえど貴方くらいよ。体は大丈夫?」

「問題ない。とは言ってもかなり『持って行かれた』がな。今もどんどん削られている。さすがステンペルと言ったところか」

 ガデナーの言葉にザフトリングが小さく笑みをこぼす。

「ステンペルの呪いは神樹ミステルの意思そのもの。大地の命を吸い上げる忌まわしきミステル王家にのみ伝わる呪詛。でもステンペルが神樹ミステルの純然たる意思とするなら、ガデナー、貴方はガルテンの象徴ね。大地がその上に育つ樹に負ける道理はないわ」

「ああ……こうしてハルトリーゲルを抱けるのは俺だけだ。そのためだけに俺はここにいる」

 ガデナーは腕の中で眠っているハルトリーゲルを見つめて優しく微笑んだ。



 ハルトリーゲルは夢を見ていた。それはハルトリーゲルが年端もいかない子供だった幼少の頃の記憶。目の前には怯えた表情で自分を見つめる母親の姿。ハルトリーゲルが手を伸ばすと、母親が悲鳴をあげながら後ずさる。

 ハルトリーゲルの足元に見えるのは倒れ伏して動かない侍女の姿。その時、ハルトリーゲルはそれが何を意味するかわかっていなかった。

  呪いが顕在化した瞬間、乳母が目の前で死んだ。駆けつけた侍女が死んだ。自分を心配してくれた騎士が死んだ。ハルトリーゲルの周りは瞬く間に死で埋め尽くされた。その後駆けつけた母親がその光景を見て蒼白な表情で崩れ落ちた。母親は、混乱していたハルトリーゲルが近寄ると、化物と叫びながら近くにあった花瓶をハルトリーゲルに向かって投げつけた。

 花瓶が頭にあたり、額から血が流れ落ちる。そしてハルトリーゲルは初めて血の温かさを知った。

 記憶は巡る。それはハルトリーゲルの不注意か、あるいは従者の不注意か。多くの命がハルトリーゲルに触れ、そして散っていった。今まで優しかった人たちはハルトリーゲルを見つめると恐怖におののき、ハルトリーゲルの目の前から逃げていった。

 そうしてようやくハルトリーゲルは理解した。倒れていった者たちは全て自分が殺したのだと。ステンペルの呪いが――自分がいかに忌まわしい存在であるのかを。

 それでもハルトリーゲルに笑みを投げかけてくれる人は何人かいた。呪いなどただの迷信だと笑い飛ばし、優しくハルトリーゲルに微笑んでくれた人たちである。

 ハルトリーゲルは彼らに向かって泣きながら自身の呪いを説明した。それでも優しかった侍女たちは子供の言うこととして取り合わず、ハルトリーゲルを慰めようとハルトリーゲルの頭を撫でた。その瞬間、侍女たちは音もなく死んだ。否、ハルトリーゲルが殺した。

 そしてハルトリーゲルの世界から温もりが消えた。



 景色が切り替わる。目の前には小さな小窓が一つしか無い無機質な、暗く鬱蒼とした室内が広がっている。

「……これは、私の部屋?」

 ハルトリーゲルは思い出していた。ミステルの僻地にある塔に幽閉されて以来、一切の外出を認められず、ただ鉄格子の隙間から見るだけだった世界。鳥の声と表情を変える雲のみが孤独なハルトリーゲルの心を癒していた。

 父親は人の目を気にするように数回訪れたが、ついぞ母親はハルトリーゲルの下に訪れることはなかった。たまに王宮から遣わされた侍女が書を運びに顔を見せたが、ハルトリーゲルが手を伸ばすと怯えた表情で逃げていく。

 月日が経ち、分別を身につけたハルトリーゲルの幽閉がついに解かれる日が訪れる。そして数年ぶりに再開した母親は化物を見るような瞳で自分を見つめていた。

 それでもハルトリーゲルは母親に会えた喜びから笑みを浮かべ、優雅に礼をする。そんなハルトリーゲルを前に、母親は蒼白な表情でゆっくりと後ずさった。

「ちっ……違うのです、お母様。私はただ……」

 うろたえるハルトリーゲルを前に、母親が蒼白な表情で叫ぶ。

「それ以上近寄らないで、化け物!」

 母親の瞳は恐怖に満ちていた。その光景にハルトリーゲルは思わず立ち尽くす。助けを求めようと周囲に視線を泳がせると、目が合った騎士達は皆咄嗟に俯きハルトリーゲルを見つめようとしない。

 ハルトリーゲルは改めて自分という存在を理解した。この世界に自分はいないのだと。いや、いてはいけないのだと。

 そんなある日、ハルトリーゲルにとって転機が訪れる。

「ガルテンが私を欲していると?」

「うむ……」

 父親から聞かされた話は、幼少の頃より幽閉され続け、外界を知らぬハルトリーゲルを驚かせるには十分な内容であった。新しい魔王がガルテンをまとめ、その強大な力をもってミステルに侵攻していること。そしてそのガルテンが停戦の条件としてハルトリーゲルに婚姻の申し入れをしてきたこと。

「魔王ガデナーは狡猾にして残忍。おそらくその停戦の申し入れもまやかしだろう。ここ最近ガルテンの動きがおとなしかったのは魔王が魔族の統一に腐心していたためと聞く。しかしこうしてガルテンの統一がなされた今、次の矛先は間違いなくこのミステルに向かうだろう」

「それでは……また戦が始まるのですね……」

 ハルトリーゲルの言葉に父親――ミステル皇帝であるイングヴェイが小さく頷いてみせる。その表情は固く、真っ直ぐにハルトリーゲルを見つめながらゆっくりと口を開く。

「ハルトリーゲルよ、無理を承知で頼む。その生命、ミステルのために捨ててくれぬか」

 一瞬ハルトリーゲルは父が何を言っているのか理解できなかった。そしてその意味を理解した時、父の言葉は不思議とすんなりと自分の中に入ってくるのを感じていた。

「お前に宿るステンペルの呪詛は触れた者の命を喰らい尽くす強力無比なミステルの死の呪い。呪いの代償にその身に神樹の力が宿る」

 イングヴェイは続ける。

「故にこの婚姻はあのガルテンを統一した恐るべき魔王を屠る唯一無二の機会なのだ。ハルトリーゲルよ。ミステルのために、その生命、捧げてくれぬか」

 深く頭を下げるイングヴェイの姿を前に、ハルトリーゲルの心は不思議と安らいでいた。ハルトリーゲルはようやく理解した。なぜ自分がここまで生きてきたのか、いや、なぜ今日という日まで生かされてきたのかを。



「こんな私でも……誰かの役に立てるのですね……」



 ハルトリーゲルはイングヴェイの言葉を聞いていつの間にか泣いていた。多くの命を奪うだけの忌まわしい毒であった自分が誰かのために役に立つことができる。それは否定され続けた自分の存在に初めて意味が生まれた喜び。脳裏に自分が殺してしまった人々が思い浮かぶ。

 敵国に嫁ぎ、魔王を暗殺すれば間違いなく自分の命はない。しかし不思議と恐怖はない。ハルトリーゲルにとって、自身の死とは忌まわしい呪いから解き放たれる自由への鍵である。

 自分の毒は祖国を救い、そして自分も解き放たれる。あらゆる感情がハルトリーゲルを包み込む。ハルトリーゲル覚悟は既に定まっていた。

「……お前には親らしいこともできずに申し訳ないと思っている。だがミステルの民の為、ひいては神樹ミステルのためだ。お前の犠牲は決して無駄にはせぬ」

「この私の命で国が、神樹が、ミステルに住む人々が守られるのであれば、私が今まで奪ってしまった命の償いになるのであれば、私は喜んでその役目を果たしましょう」

 ハルトリーゲルはガデナーを暗殺することを受け入れた。



「……泣いているのか、ハルトリーゲル」

「こうしてみると本当に綺麗よね、ハルトリーゲルちゃん。何もない、磨きぬかれた無垢な魂……おおよそ人に見られる業が全て削ぎ落とされた美しい光。まさに生と死を分かつ純粋な光ね。一体どう育ったらこんなに何も無い、何も混じらない魂になるのかしらね」

 ベッドに横たわるハルトリーゲルを見つめながらザフトリングが呟いた。ハルトリーゲルの枕元にはガデナーが腰掛け、優しくその頭を撫でている。

「……知っているのだろう? 見え透いたことを」

「ええ……知っているわ。この哀れな人間の姫が辿ってきた取るに足らないつまらない生涯も、あなたの想いもみんな。私に知らないことなんてないもの」

 ガデナーはハルトリーゲルの頬を優しく撫でながら呟く。

「触れた者の命を喰らう忌まわしい呪い……か。人間の中で生きるにはさぞ辛かっただろうな」

「人間じゃなくて私達魔族でも力の弱い子なら危ないわよ? 多分ピルツでも長時間ハルトリーゲルちゃんに触れるのは無理だと思うわ。でも良かったわね。貴方はそのために『魔王』になったんだから。昔はあんなにやる気が無かったのに」

「ザフト……」

 ガデナーがザフトリングを見つめ、一方のザフトリングも小さく笑みをこぼす。

「でも、まぁ……いくら普段嫌われているからって、ここぞとばかりにハルトリーゲルちゃんを触りまくるのは感心しないわね……。というか、なんでちゃっかりハルトリーゲルちゃんを膝の上に乗ってけているのよ。そういうところが気持ち悪いのよ、貴方」

「くっ……だっ、だが! こんな時でしかハルトリーゲルに触れれないではないか! それに胸を触るのはさすがに自重したのだぞ! むしろ誘惑に耐えた俺を褒めるべきではないか!」

「黙りなさい変態!」

 その瞬間、ザフトリングがガデナーの頬をはたく。

 轟音が空気を揺らし、ガデナーの体は壁に突き刺さった。壁にぶら下がっているガデナーを見つめながらザフトリングが小さくため息をつく。

「ほんと、どうしようかしらね。この二人……」







「ここ……は……?」

 ハルトリーゲルが目を覚ますと、いつの間にか自分がベッドで寝ていることに気がついた。ハルトリーゲルは今の状況がまるで理解できないといった様子で慌てて左右に首を振る。その瞬間、どこからか声がかけられる。

「……起きたか? 具合はどうだ、ハルトリーゲルよ?」

「っ!」

 突然かけられた声にハルトリーゲルが慌てて振り向くと、そこには椅子に腰をかけて心配そうにハルトリーゲルを見つめているガデナーの姿があった。

「どうして貴方がここに……、いえ、その前に私は一体……?」

 ハルトリーゲルが混乱する頭を抑え、何かを思い出したのか突然大きく瞳を見開いて小さく震えだす。

「あ……あああっ……。私は……! 私は……なんてことを……!」

 ハルトリーゲルの脳裏に浮かぶのは目の前で崩れ落ちる侍女の姿。それが意味することは一つ。――また殺してしまった。

 ハルトリーゲルの溢れだした感情は止まらない。瞬く間に呼吸は乱れ、視界がぼやける。忘れていた悪夢が再びハルトリーゲルの前に姿を現した。

「私が……また……殺してしまった! あの子を……みんな! みんなこの私が!」

 ハルトリーゲルは瞳に大粒の涙を浮かべ、その体は小さく震えている。まるで慟哭に近い叫び声が部屋に響く。

「案ずるな。あの者は無事だ。我ら魔族は人よりも遥かに強い命を持っているからな」

 突然ガデナーがハルトリーゲルの体を抱きしめ、その耳元でささやく。その瞬間、ハルトリーゲルが蒼白な表情で叫ぶ。

「駄目です! 私に触れては! 貴方まで死んでしまいます!」

「ハルトリーゲルは俺を殺そうとしているのだろう? お前に抱かれながら死ねるならそれは幸せなことなのだろう」

 ガデナーは暴れるハルトリーゲルを抱きしめて離さない。

「駄目! お願い! これ以上、私のせいで死なないで! 私に殺させないで! お願いですから……」

 ガデナーはハルトリーゲルを強く抱きしめると、真っ直ぐにその瞳を見つめながら語る。

「ステンペルの姫、ハルトリーゲルよ。その身に刻まれた呪いはお前から人の温もりを奪った。お前が何よりも願ったそれはお前に決して微笑みかけることはない。だからこそ俺がここにいる。ガルテンの王、魔王ガデナーがここにいる。俺はそのためだけにここにいるのだからな」

「一体何を言って……」

 ハルトリーゲルが呟いた瞬間、ガデナーが再び強くハルトリーゲルを抱きしめ、ハルトリーゲルは思わず小さく声を漏らす。

「あっ……」

 ハルトリーゲルに触れた人は皆例外なく死んだ。しかし目の前の魔王は――ガデナーはハルトリーゲルを抱きしめ続けている。抱きしめられた体からガデナーの温もりが伝わってくる。

 それはハルトリーゲルの世界から失われた人の暖かさ。人と、誰かと触れ合う心の暖かさ。強すぎる抱擁に不思議と痛みを感じることはなく、ハルトリーゲルは子供の頃に感じた母の暖かさを感じていた。

「温かい……」

 ハルトリーゲルはガデナーを殺すという自らの使命を忘れ、ゆっくりと瞳を閉じる。何故ガデナーが自分に触れて平気なのか、何故自分はガデナーに抱きしめられているのか、何故自分はここにいるのか、あらゆる疑問を越えてハルトリーゲルはその温もりに身を委ねた。ハルトリーゲルの細い手がガデナーの背中に回され、ガデナーもまた強くハルトリーゲルを抱きしめた。



 どれくらい時間が経っただろうか、昼過ぎの陽光が部屋に差し込み二人を照らす。ガデナーがゆっくりとハルトリーゲルの頬を撫で、優しく語りかける。

「少し……話をしようか。立てるか? ハルトリーゲル?」

「はっ……はい」

 我に返ったのか、ハルトリーゲルは動揺した様子で慌ててガデナーから離れる。ガデナーはそんなハルトリーゲルを見つめると朗らかに笑う。ベッドに腰をかけていたハルトリーゲルが立ち上がろうとすると、先に立っていたガデナーがハルトリーゲルに向かって手を伸ばす。

 ハルトリーゲルは咄嗟に自分の手を見て手袋をしていないことに気がつき、一瞬怯えた様子で手を引き戻す。しかしガデナーはそんなハルトリーゲルを見つめると、小さく微笑み真っ直ぐに手をのばす。そんなガデナーの様子に、覚悟を決めたのかハルトリーゲルがおそるおそる手をのばす。

 その手は震えており、ガデナーに触れる直前、虚空で止まる。ハルトリーゲルの伸ばす手は他者にとっては死への誘いに他ならない。その手によって多くの命が散った。ハルトリーゲルの表情は蒼白で、額に小さく汗がにじんでいる。

「きゃっ!」

 ためらっているハルトリーゲルの手を突然ガデナーが握りしめ、ハルトリーゲルを起き上がらせると同時にその体を抱きしめる。突然のことでハルトリーゲルは小さく悲鳴を上げるがガデナーは優しく笑ってみせる。

「俺は死なん。お前に、ハルトリーゲルに温もりを取り戻すと誓った。そのために俺はここにいる」

「あっ……」

 ハルトリーゲルはガデナーの瞳を見つめ、ガデナーもまたハルトリーゲルを真っ直ぐに見つめている。ガデナーの想いはこの瞬間、確かにハルトリーゲルの心に届いた。



 昼が過ぎ、斜陽に空が傾きかけた頃、ガデナーとハルトリーゲルはヴェルツの街を歩いていた。道行く人々がガデナー達を見つめて嬉しそうに手を振り、ガデナーもまた笑顔で応えていく。そんなガデナーの様子にハルトリーゲルが驚いた様子で語りかける。

「貴方は……ガデナー様は民から人気があるのですね」

「さあ、どうだろうな。嫌われてはないと思うが」

「あー! ガデナー様だ!」

 ガデナーは小さく苦笑すると、近寄ってきた子供たちに向かって微笑みかける。物怖じしない子供たちと違って、大人たちは遠巻きにガデナーを見つめているが、いずれの表情に浮かぶのは憧憬にも似た歓喜の眼差しである。その光景にハルトリーゲルは再び違和感を覚える。

「街の人々は笑顔に溢れていますわ。ガルテンは……良い国ですわね……」

 ハルトリーゲルが瞳を細めながら呟く。

「気に入ってもらえて何よりだ。しかし元々ガルテンはこうではなくてな、ここまで安定したのは俺がガルテンを平定して王になってからだ」

「ザフトリング様から伺いました。魔族の平定……八大竜王……でしたか。彼らを全て屈服させたと聞きました。貴方は……ガデナー様はお強いのですね……」

 もはやハルトリーゲルにはガデナーを討とうとは思えなかった。理由こそ分からないが、隣に立つ魔王は本気で自分を大切に想っているということを知った。ハルトリーゲルの胸に小さくも熱い炎が灯る。

「それこそガデナー様がその気になればミステルを落とすことも容易いはず。でも貴方はそれをせず私を求めた。他でもない、ミステルの呪いに蝕まれ、死と不幸を振りまくだけのこの忌まわしい私を……」

 いつの間にかハルトリーゲルの声が震えている。ハルトリーゲルは一言一言を噛みしめるように、ゆっくりと語る。

「……貴方にとってもガルテンにとっても、私の存在は害悪にしかなりません。それなのに! どうして貴方はこの私を求めたのですか! この呪いは例外なく触れた全てを殺すというのに!」

 そう言い切ると、ハルトリーゲルは小さく体を震わせる。そんなハルトリーゲルをよそにガデナーがハルトリーゲルの腰に手を回してその体を抱き寄せる。

「きゃっ!」

 慌ててハルトリーゲルがガデナーにもたれかかる。まだ慣れないのか、自身の手がガデナーに触れていることにハルトリーゲルの顔から血の気が引いていく。一方のガデナーは不安そうな表情を浮かべるハルトリーゲルの手を握り朗らかに笑ってみせる。

「確かにそのステンペルの呪いは強力無比。触れたあらゆる命を喰らうとあるが、だがそれだけだ。そんなつまらん呪いが俺のお前への想いを超えられるものか」

「ガデナー様……」

 ガデナーの胸の中でハルトリーゲルが困惑気味にガデナーを見つめる。ガデナーはそんなハルトリーゲルを前に小さく微笑み、優しくハルトリーゲルの髪を撫でた。



 その後、ヴェルツより戻ってきたハルトリーゲルは終始上の空だった。夕食に何を食べたかも覚えていない。気がついたら一人、部屋の椅子に腰をかけていた。思い出すのはガデナーの優しい笑顔。暖かい言葉。そして包み込むような温もり。

「あの方は……温かいのですね……」

 ハルトリーゲルは胸に手を当てるとゆっくりと瞳を閉じた。瞼の奥に浮かぶのはミステルでの日々。怯えた目で自分を見つめる瞳。自分に触れて絶命した人の表情。あらゆる負の感情がハルトリーゲルに向けられた。

 ガデナーはそんな暗く冷たいハルトリーゲルの世界に一筋の光として差し込んだ。







「良い朝だな、ハルトリーゲル」

「おはようございます、ガデナー様」

 翌朝、食堂でガデナーがハルトリーゲルに笑いかける。一方のハルトリーゲルは少し恥ずかしそうに小さく頷いてみせる。その光景を目の当たりにしたピルツとザフトリングがお互い瞳を大きく見開いてハルトリーゲルを見つめていた。そしてガデナーに向かって剣呑な視線を送る。

「ちょっとガデナー、何をしたのかは知らないけど女の子を脅して言うことをきかせるなんて下衆のすることよ! 恥を知りなさい、恥を!」

「おいたわしゅうございます……若。まさか若が外道の類に身をやつすとは、このピルツが不甲斐ないばかりに……」

「おっ、おい! 一体何の話だ? 俺はハルトリーゲルに何もしておらんぞ?」

「嘘おっしゃい! じゃあなんでハルトリーゲルちゃんがこんなに優しいのよ! 言いなさい。今度は何をしたの!? まさか呪いでハルトリーゲルちゃんの意思を縛ったの? 拗らせすぎてそんな下衆になっちゃったの!?」

「若……」

 ザフトリングに詰め寄られてガデナーは必死に首を横に振る。そんなガデナーとザフトリングのやりとりを見つめながらハルトリーゲルが小さく笑ってみせる。

「ふふっ……大丈夫ですわ。お二人が心配しているような事は何もございませんから」

 ハルトリーゲルの言葉に再びザフトリングとピルツが固まり、我に返ったザフトリングがガデナーの首を締め上げる。

「ガデナー……あんた、女の子を洗脳するってどういうことよ? ちょっと表に出なさい。久しぶりに真面目にお話しましょうか?」

「ちょっ、ちょっと待てザフト! 俺は本当に何もしていない! ハルトリーゲルに誓って本当だ! ピルツ! 見ていないでザフトを止めろ! このままだとノイエ・パレが吹き飛ぶぞ!」

「さすがの私も今回ばかりは同意いたしかねます。どうぞお覚悟を……」

 ザフトリングが眉間に青筋を浮かべながらガデナーを引きずっていく。そんなガデナーに慌ててハルトリーゲルが声をかける。

「あっ、あの! 本日は私が皆様の朝食を……その……ご用意させていただいたので、もしよろしければお召しになっていただけませんか?」

 その言葉にガデナーとザフトリングは驚いた表情でハルトリーゲルに向かって振り返る。一方のハルトリーゲルは恥ずかしいのかうつむきがちに視線をふせている。いきなりのハルトリーゲルの言葉にガデナーとザフトリングが固まっていると、突然扉が開き、侍女が食事を運んでくる。

「これは私達ミステル皇家に伝わる伝統的な朝食ですの。とは言いましてもお恥ずかしながら私も数回しか食べたことはないので、うまく作れているといいのですが……」

 ハルトリーゲルの言葉に込められた意味をその場にいた誰もが理解した。一部の祭典のために供される食事を除けば、皇家に伝わる伝統的な料理を皇族であるハルトリーゲルが数回した食べたことがない、というのはどう考えてもおかしい。つまりそういうことなのだろう。

 その言葉からハルトリーゲルのおかれた環境がどのようなものであったか、少し頭が回る者であれば想像するに難くない。そしてその場にいる三人は暗愚ではない。

 その言葉にガデナーはゆっくりと立ち上がり、真っ直ぐにハルトリーゲルの前に立つ。ハルトリーゲルが一瞬緊張したように体を震わせる。ガデナーはそんなハルトリーゲルに向かって満面の笑みで微笑んでみせる。

「それは楽しみだ。だが勘違いしてくれるなよ? 俺はミステルの伝統料理が楽しみなのではない。他でもない、お前が俺の為に作ってくれた料理が何より楽しみなのだ」

 その言葉にハルトリーゲルは一瞬驚いた表情をみせ、すぐに破顔した。

「はい! こちらでございます!」

 そう言ってハルトリーゲルがガデナーに差し出したのは青い色をしたスープであった。それを見たガデナーが突然険しい表情になり、苦しそうに唇を噛みしめる。そんなガデナーの様子にハルトリーゲルは悲しそうに顔を伏せ、絞りだすように呟いた。

「今まで私がガデナー様にしてきたことを思えば怪しまれるのも当然ですわね……」

 ハルトリーゲルはそのまま俯くと、無言でスープを下げようとする。その瞬間、ガデナーの手がハルトリーゲルの腕を掴んだ。

「えっ?」

 ハルトリーゲルが驚いた様子で顔を上げるが、ガデナーは相変わらず険しい表情でハルトリーゲルを見つめていた。そんなガデナーの様子にザフトリングがわざとらしく大きな声で隣に座るピルツに向かって語りかける。

「あれ、感動して震えているわよね? 泣きたいのを必死に我慢してる顔よね?」

「そのようですな。あのままでは瞳が赤くなってしまうので必死に耐えているのでしょう。微笑ましいですな」

「いいじゃない、赤い瞳の魔王ってそれっぽいし」

「いえいえ、ザフトリング様。ガデナー様には面子というものがございますれば、どうぞご理解の程を……」

「ふーん? というわけだから、ハルトリーゲルちゃん。ガデナーは別に警戒しているとかじゃなくて、単純に感動して泣きそうなのを必死に耐えているだけよ。気にしちゃ駄目」

 ザフトリングが笑いながらハルトリーゲルに語りかけ、その言葉を聞いたハルトリーゲルが慌ててガデナーの顔を覗き込む。ガデナーの表情は相変わらず険しいままであったがその瞳の端に何かが光っていたのをハルトリーゲルは見逃さなかった。

「お口に合えば嬉しいのですが……」

 ハルトリーゲルはそのままスープを真っ直ぐにガデナーに勧め、一方のガデナーも険しい表情のまま無言で頷いてみせる。

 ガデナーは食事が終わるまで険しい表情のままであった。



「……美味かったぞ、ハルトリーゲル」

「ガデナー様にそう言って頂けて、ハルトリーゲルは嬉しゅうございます」

 スープを飲み終えたガデナーが口元を拭いながらハルトリーゲルに向かってぎこちなく微笑んで見せる。口元はだらしなく緩んでいるがその瞳は険しく細められ、あまりにも歪なその表情にハルトリーゲルはためらいながら会釈を返す。

 するとガデナーは突然立ち上がり、そのまま食堂を後にした。その背中を見つめながらザフトリングが首を傾げる。

「……どうしちゃったの、ガデナー? 食事はまだ終わってないのに……?」

「まぁ……耐え切れなかったのでしょうな……」

「あー、なるほどね」

 ピルツの言葉で理解したのかザフトリングが楽しそうに口元を吊り上げる。一方のハルトリーゲルは意味が理解できないといった様子で小さく首をかしげている。そんなハルトリーゲルに対してピルツが笑いながら告げる。

「なに……じきに分かりますとも。ほらこのように……」

 その瞬間、廊下から誰かの絶叫が鳴り響いた。

『おおおおおお! うまいぞおおおおおお!』

 あまりの声量にハルトリーゲルが一瞬体を震わせる。しかし絶叫は止まらない。

『ハルトリーゲルがぁああああ! 俺のためにぃいいいい! 愛をこめてぇえええ! 作ってくれたのだぁああああ! おおおおおおお!』

『きゃっ! ガデナー様! 一体どうなされたのですか!?』

『きゃああああ!! ガデナー様! そちらは厨房にございます!』

 扉の向こうから絶叫が鳴り響き、何かが割れる音が響く。そして静寂が訪れた。

「……」

 食堂に残された三人は沈黙して語らない。するとザフトリングが小さくため息をつく。

「ねっ? ガデナーってハルトリーゲルちゃんの前だと必死にカッコつけているけど、普段はあんなのよ。がっかりした?」

「いえ、ガデナー様が実はああいう方ということには薄々気がついていましたが……まさかこれ程情熱的な方だとは……」

「情熱的とは……お優しいのですな、ハルトリーゲル様は」

 ピルツがため息をつく。その瞬間、食堂の扉が勢い良く開かれた。

「……突然席を外して済まなかったな。少々野暮用を思い出してな。無作法を承知で抜けさせてもらった。許せ」

「……何もなかったことにしようとしてるわ。本気でそう思ってるところがすごいわね、あなた」

 そこには凛とした気配を纏い、優雅に佇むガデナーの姿があった。ガデナーは先ほどの叫びを聞かれているなど微塵も思っていない様子でゆっくりと椅子に座る。

 そんなガデナーの様子にハルトリーゲルは一瞬驚いた表情を浮かべ、次の瞬間思わず小さく笑い出した。

「むっ? どうした? ハルトリーゲル?」

「いえ……貴方と言う方は本当に……真っ直ぐで……」

 ハルトリーゲルは瞳に涙を浮かべながら笑っていた。



***



 それからと言うもの、ハルトリーゲルの日常は大きく変わった。ガデナーは未だに同じ部屋で寝ていないが、朝起きればガデナーが迎えに来る。そして二人で食事を取り、その後はザフトリングとピルツからガルテンのことを学ぶ。午後には積極的に城下町ヴェルツに足を運び、ガルテンという国の理解に努めた。

「あっ! ハルトリーゲル様とガデナー様だ! こんにちは!」

 ハルトリーゲルとガデナーを見かけると、たちまち子どもたちが駆け寄ってくる。行人も二人を見つけると嬉しそうに瞳を細めた。

「ほら見ろよ。ガデナー様とハルトリーゲル様だ」

「あら、今日のハルトリーゲル様のドレスは紫なのね。いつもの青も素敵だけどあの色も素敵ね。今度私も一着あつらえてみようかしら」

「いつ見ても美男美女よねぇ……。見ていて絵になるわね……」

 様々な声が飛び交い、ガデナーは笑顔で観衆に手を振る。ハルトリーゲルも慣れてきたのか、少し恥ずかしそうに手を振りうつむいてしまう。そんなハルトリーゲルのしぐさが慎ましやかな王妃と映ったらしく、観衆たちの熱気はどんどん高まっていく。



「毎回街に出る度にこれでは流石に疲れるな。そうは思わんか、ハルトリーゲル?」

「ふふっ……それだけガデナー様が慕われているということですわ。私は素敵なことだと思います」

 二人は人目を避けるように大通りから少し離れた人気の無い広場の一角に座っていた。ガデナーの手には露店で買った果物が握られており、ガデナーはそれを器用に剥いていく。

「ピルツには行儀が悪いと言われるが、こうして自分で剥いて食べるのもなかなか悪くないだろう?」

 ガデナーはそう言うと、切った果物の切れ端をゆっくりとハルトリーゲルの口に近づける。突然の事にハルトリーゲルが一瞬緊張したように体を震わせるが、意を決したようにゆっくりと口を開く。そして次の瞬間、口の中に果物の豊潤な香りが広がっていく。

「おいしい……ですわね。でもこれはちょっと……その……恥ずかしいです……」

「むっ……うっ、うむ」

 照れくさそうにハルトリーゲルは頬に手を当て、そんなハルトリーゲルの様子にガデナーも頬を赤くして言葉を詰まらせる。そして二人の視線が交差する。

 二人は無言で見つめ合い、次の瞬間二人は腹を抱えて笑い出す。

「ガデナー様って普段は凛々しくいらっしゃるのに、こういうことは苦手なのですね」

「当たり前だ……俺には女はお前だけだ。全てが初めてだからな……」

「わっ、私が初めて……ですか……」

「いっ、いや! そっ、その、変な意味じゃなくてだな! いや、初めてだが!」

「まぁ……ガデナー様ったら……」

 頬を染めてしなを作るハルトリーゲルを前に、ガデナーが慌てたように立ち上がる。そんなガデナーを見つめてハルトリーゲルは朗らかに笑った。



「あー、胸焼けしそう……。何あれ? ハルトリーゲルちゃんは可愛いからいいけど、男が初ってちょっとないわ……。不思議と怒りがこみ上げてくるわ」

「そうおっしゃいますな。微笑ましいではないですか」

 二人の様子を物陰から見つめていたザフトリングが大きくため息をつき、ピルツが小さく苦笑する。

「じゃあピルツ……たまにはあなたがガデナーのお酒に付き合いなさいよ? 私は毎晩ハルトリーゲルちゃんのことを聞かされすぎて、最近じゃ二人が夢にまで出てくるのよ。正直ちょっとキツイのよ……」

「それは……いろいろとご愁傷様ですな……」

 ピルツが小さくため息を付いた瞬間、ザフトリングとピルツが突然空を見上げた。二人の纏う気配が変わる。

「最近おとなしいと思ったら……野暮ねえ」

「時期的に考えても妥当かと。それまではハルトリーゲル様の安否の確認待ち、といったところですかな」

「……余計に腹が立つわね。まあいいわ。さっさと終わらせましょう」

「では今日は私が出ましょう」

 二人の姿が景色に溶けて消えた。



 時を同じくしてガデナーも何かを感じ取ったのか、突然空を見上げた。何事かとハルトリーゲルが空を見上げると、雲の切れ目から巨大な影――神樹ミステルの姿が浮かび上がっていた。

「来るか! 俺から離れるなよ、ハルトリーゲル!」

「えっ?」

 空を見上げたガデナーが突然叫び、ハルトリーゲルの体を抱きかかえる。その瞬間、空に浮かぶミステルの影が一瞬ぶれたかと思うと、空がゆっくりと黒く染まっていく。

「空が……黒く染まっていく?」

 ガデナーはハルトリーゲルを抱えたまま大通りに出ると、大きな声で告げる。

「今日は随分と数が多いな! ザフト! いけるか?」

「はぁい、ガデナー。全く野暮よねぇ。何もハルトリーゲルちゃんとデートの時に来なくてもいいのに」

 何もない空間に向かってガデナーが声をかけた瞬間、ゆっくりとザフトリングの姿が顕現する。ザフトリングは空を見上げると小さくため息をつき、ゆっくりと手を横に振る。するとヴェルツの街が瞬く間に茜色の光に包まれた。

「来るって……いったい何が? それにこの光は!?」

 突然の事にハルトリーゲルが動揺した様子でザフトリングに視線を送り、ザフトリングはいたずらっぽく空を見上げてみせる。ザフトリングの視線の先を追ったハルトリーゲルは思わず言葉を失った。いつの間にか空は黒く染まり、徐々にその密度を増していく。そしてハルトリーゲルは理解した。

「あれは……雲じゃない! 黒い……点? それにしては数が多すぎますわ……」

 空に広がったそれが雲ではなく小さな黒い点の集まりだということを理解したハルトリーゲルは、その圧倒的な光景を前に思わず後ずさる。黒点は次第に大きくなり、それらがヴェルツに向かって近づいている事をハルトリーゲルは直感的に理解した。

「まさか星の石!?」

 思わず叫んだハルトリーゲルを横目に、ザフトリングが楽しそうに口を歪める。

「ふふっ……そんなにロマンチックなものじゃないのが殘念だわ」



 そんなザフトリング達をよそに、街の人々は突然空を覆った金色の光と、その上空から飛来する黒い点を見つめて大きく叫ぶ。

「みんな気をつけろ! ヌス・ミステルが降ってきたぞ!」

「今度は随分と数が多いわね……。いくら結界があるから大丈夫だと言ってもちょっと心配ね。あなた達は念のため家に戻っていなさい」

「はーい!」

 街を歩いていた女性は子ども達の手を取り、どこかへと足早に去っていく。どうやら街の住民は慣れているらしく、取り乱す者はいない。

 事情を理解していないハルトリーゲルは焦った様子でガデナーに問いかける。

「こっ……これは一体どういうことですか? 突然空が黒く染まったかと思ったら街が金色の光に覆われましたわ。それにあの空に浮かぶ黒点は一体何ですの!?」

 焦るハルトリーゲルをよそに、ガデナーは苦しそうに顔を歪めるばかりで、黙して語らない。そんなガデナーの代わりにザフトリングが口を開く。

「心配しなくても大丈夫よ。街に結界を張っただけよ。それにすぐ終わるわ。ピルツが珍しく張り切っているから」

「それはどういう……」

 ハルトリーゲルが不安な表情で呟いた瞬間、街を覆う金色の光――ザフトリングの張った結界に黒い塊が轟音と共に突き刺さった。それぞれ大きさは違えと菱型をしており、一見巨大な石にも見える。

「ひっ!」

 凄まじい轟音と衝撃にハルトリーゲルが小さく悲鳴を上げる。しかしザフトリングは動じた様子はなく、まるで怖がるハルトリーゲルの反応を楽しむかのように怪しく笑みを浮かべている。

「お楽しみはこれからよ? 見ていなさい。絶対に驚くわよ……特にハルトリーゲルちゃんは」

「何を言って……」

 ハルトリーゲルが問いかけた瞬間、結界に突き刺さった黒い塊に亀裂が入り、まるで蕾が開花するようにゆっくりと開いていく。

「あれは……まさか……人? いや、それにしては姿が……まさか魔物がヴェルツを? ここは魔族の国なのに?」

 眼前の光景にハルトリーゲルは驚愕の表情で小さく言葉を漏らす。結界の上には全身を黒色に染めた昆虫とも人ともつかない異形達が立っていたのである。それぞれの手には槍のようなものが握られており、異形たちは突然結界に向かって槍を突き立て始めた。

「ひっ!」

 その光景にハルトリーゲルが思わず後ずさる。気がつけばヴェルツに張られた結界は異形に覆い尽くされており、それぞれが一心不乱に槍を結界に突き立てていた。

「あっ……」

 まるで獲物に群がる虫の大群にも見えるそのおぞましい光景に、ハルトリーゲルは目眩を感じてゆっくりと後ずさる。それは純然たる恐怖。空を覆い尽くすほどの異形がヴェルツを覆っている。今はザフトリングの結界で阻まれているが、あの数の異形がヴェルツの街に降ってきたらと考えるとハルトリーゲルの顔から血の気が引いていく。

 気がつけばハルトリーゲルの呼吸は乱れ、体は小さく震えていた。ハルトリーゲルは目の前の光景に恐怖した。

「大丈夫だ。案ずることはない。お前は俺の横にいればいい。俺がお前を害する全てから守ると誓おう」

 ガデナーはそう言うと優しくハルトリーゲルの体を後ろから抱しめ、安心させるようにその耳元で優しく呟いた。それだけで不思議とハルトリーゲルの震えは止まり、表情は色を取り戻す。抱きかかえられた腕を通して感じる温もりがハルトリーゲルを優しく包み込む。

「ピルツが行ったか……」

 ガデナーがそう呟くと、結界の上を一筋の黒い光が迸った。

 光は結界に群がる異形達の群れの中を真っ直ぐに駆け抜ける。次の瞬間、駆け抜けた光の筋を中心として左右に黒い霧のようなものが広がっていく。霧は瞬く間に異形の群れを包み込み、霧に包まれた異形達の姿が忽然と消滅した。否――消滅したのではなく、異形が霧に触れた瞬間、異形の体がまるで砂のように崩れていったのだ。

「あれが……ピルツ様?」

 空を覆っていた異形の群れは瞬く間に消え去った。

「ふふっ……ピルツったら張り切っちゃって」

 ザフトリングが口元を釣り上げる。ザフトリングが笑った瞬間、ガデナー達の目の前に黒い霧が集まっていく。いつしか霧は黒い影となり、その中から初老の騎士――ピルツが現れる。

 その光景にハルトリーゲルが一瞬驚いたように瞳を見開いた。ピルツの普段まとっていた純白の鎧は黒く染まり、顔の半分に紋様のようなものが浮かび上がっていた。そんなピルツを前にガデナーが朗々と告げる。

「ご苦労だった、ピルツ。お前のその姿を見るのは久しぶりだな」

「無粋な輩がおりましたのでな、年甲斐もなく張り切らせて頂きました」

「あらあら、謙遜しちゃって。さすが『宵』の王。まだ竜王をやっていても良かったんじゃないの?」

 ザフトリングが小さく口元を吊り上げるが、ピルツはゆっくりと首を横に振る。

「……私はガデナー様の夢の篝火を仰せつかったただの爺にございますれば。それにそれを言うならザフトリング殿も同じでしょう」

 ハルトリーゲルはピルツとザフトリングを交互に見つめながら困惑した様子で首を傾げていた。
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