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降り注ぐ聖歌、遠い夏の果て
水の中の月影なる人に
しおりを挟む気がつくと一人で歩いていた。考え事をしていたはずなのに、何を考えていたか憶えていなかった。
ただ、一つの事だけが、頭の中に、溶け残った氷の様に転がっている。
誰にも会わないまま、早朝の淡い陽差しの中、無人の校舎を歩いていく。
廊下の端、階段の方へだ。
不安と、投げかけようと昨日の夜から考え続けていた疑問と、一つの提案と。
頭の中はぎっちぎちだ。
あまりにも詰まりすぎていて、他の事が何も考えられない。
ただ、足だけが機械的に、俺をその扉の前まで運んでいく。
深呼吸を一つ。さて。幸運が続いています様に。
誰にともなく祈る。ドアノブを掴みながら。
金属製のドアノブは掌が張り付くほど冷たく、氷の様だ。
その冷たさに少しだけ、心がひるんだ。
思い切って、必要以上に力を入れ、捻る。
ドアは簡単に開いた。
ホワイトアウト。一瞬の幻惑。
もう一枚のドア。よし。
よし!!
急いで再びドアを開ける。
それも簡単に開いた。
よし!!
消えてなくならないうちに、素早く入り込む。
あっけなく手放したドアが立てたはずの大きな音はもう今の俺には聞こえない。
目は遠くを探っている。
樹はどこにある?
四方八方を見渡す。が、あったはずの樹が見あたらない。
そんなはずはないのだけれど。良く探す。きょろきょろと。それでも見あたらない。
……。
歩こう。
歩いていれば何かが起こる。
そこから考えればいい。
相変わらずいい風が吹く。ここは。
草原を吹き抜ける風が身体を浮き上がらせる様だ。
不意に走り出してみる。
風を胸に受ける様に。両手で抱きかかえる様に。
なだらかな坂を下り、勢いを付けて。
彼女の様に風に乗れるのかどうなのか、試してみたい。
十分にスピードに乗った、と判断した時、ぶわっ、と強い風が正面からぶつかってきた。
爪先で地面を蹴る!
両手を広げ、風を抱く様に、ジャンプした!
っ………っぅ……いてて。
これじゃ…ただの前回り受け身だってぇの…いってぇ。
草原でごろり、と一回転した俺は、そのまま青い匂いのする草にまみれ、寝転がっていた。
ふぅぅ、と長く腹の底から息を吐くと、それは青い青い空の中に漂う雲をほんの少しだけ動かした。
「芸術的センスはゼロ、と言う事ですね」
おかしげに、人をからかう様な声がする。
俺は空から目を離さず、言い返した。
「お芸術なんか出来なくたって死にゃしないからいいんだぃ! くっそう…」
見えない所から投げかけられた聞き覚えのある声。
俺は心底、ほっとした。と同時に、何度も彼女にみっともねぇ所を見せてしまっている事を恥じていた。
その言葉の意味は未だに明確ではなかったけど、好きほーだい言わしとくわけにゃぁいかねェな。
笑いを噛み殺した様な声がなおも投げかけられる。
「芸術的素養がなければ、いつか退屈しますよ…っくく」
笑いたきゃ大声で笑え。
俺は起きあがらなかったし、声の方を探ろうとも思わなかった。
ただ、ただ、雲の流れゆく様を見つめている。
視界に入ってきたのは彼女の方からだった。
「……怒っちゃっいました?」
「そうでもない。めんどくさいのと、考え事」
「何でしょう?」
「君はどこから来ているか?とかさ」
サマードレスの裾を押さえ、覗き込んでくる彼女にかすかな違和感を感じた。
彼女は陽の光を遮っている。それなのに…
しかし、影は俺の顔には落ちてこない。
彼女の顔が逆光に曇ると言う事もない。
輝く空。それと同じように、彼女自身も…輝いていた。
「来る必要はないの。ここに」
「ここにいるのが当たり前ですから…私は…」
…………………。
意味はわからない。相変わらず何もかも。
「何故、俺はここに来れるのだろう?」
それは彼女に問うたわけでもなく、自らに問うたわけでもなかった。
答えがあるとは思っていなかった。
「たぶん……私が呼んだから。心のどこか奥の方で」
「誰かに聞いて欲しいと……思ってしまったのかも…」
「後悔してる様ないい方に聞こえる」
「巻き込んでしまって申し訳ないかと……」
「自分からここに来てるんだぜ。俺は」
そう見えないのか?
「心配だから来てるんだ。来たいから来る、それでいいじゃん」
「ありがとう……」
何故、礼を言われなきゃならんのか、よくわからない。
わからない事だらけだ。
でも、寝ころぶと鼻をくすぐる草の匂いは忘れていたものを思い出させる様な気がした。目に映る一面の青、そして、風にはためく彼女のサマードレス。
それは心地よい風景だった。
いつまでもここにいたい、と思わせる様な……。
「よくわかんない」
俺はそう呟いて、草原の上でう~ん、と一発伸びをした。
彼女が手を伸ばしてくる。
掴まって起きろ、という意味だと感じた。
同情なのか、友情なのか。とにかく、好意には違いない。
俺はその手を掴み、起きあがろうとした。
が。
彼女は軽すぎた。
「きゃっっ!」
起きあがろうとする為に引いた力は強すぎ、彼女が体勢を崩す。
「わっ!!」
斜めになりかけた俺の身体が後ろに倒れ込む。
胸に彼女がぶつかってくる。
思わず抱き留めて、地面に当たる事を覚悟する。
当たらない。
何も当たらない。背中には空(くう)があるのみ。
当たらない。落ち続ける。
かかとを支点に回転し続ける様に…落ち続ける。
胸の中に彼女を抱きかかえたまま。
そのまま何度も回転する様に。
俺達は落ち続けた。
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何の衝撃もなかった。
ふと気がつくともうすでに立ち上がっている。
倒れた事自体がなかった事の様だ。
いつもあの世界から帰ってくる時は、そんなカンジだった。
ただ、いつもと違うのは…。
腕の中に彼女がいた。
「どこ…? ここ? 現実…?」
「そう…みたい。ウチの学校だな」
腕の中の彼女は、はっきりとそれと判るほど、ぶるぶると震えていた。
「うそ…こっちには…来れないはずなのに…赦されない……」
「…きえちゃう………」
二の腕にしがみついてくる指が食い込むほど…彼女は怯えていた。
「大丈夫。しっかり……ここにいるから」
「なんで…? きえちゃう……はずなのに」
「どうしてだかは俺もわかんないけど…とにかく今は平気みたいだから」
彼女が徐々に平静を取り戻していく。身を離し、廻りを確認する。
でも、その間、俺の手はしっかりと握られたままだった。
「どうして…ここに来れるの?……今どうなってるの?」
「判るわきゃない。もとよりわかんない話だし。わかんない事だらけでもう…何がなにやら」
「手を離さないでね…この手を離したら……消えそう」
「消えれば、元のあそこ、草原に戻れるのか?」
「…戻りたくない所に戻されそう…それが…いや……」
とにかく、今すぐ消える気配はない事は確かだ。
手を離せばどうなるか…試してみるほど残酷じゃない。
「とにかく、少し歩こう。何がどうなってるのか知りたいし。手は離さないから。な?」
彼女が思い詰めた様な顔で微かにうなずいた。
ここは俺にとってなじみのある世界の様に見える。
俺の学校。見知った風景。
本当にそうであるかどうか、確認したかった。
俺は彼女の手を引いて歩き出した。
「この風景、見憶えない?」
「…学校ですよね?…どこの学校だかは判らないけど…」
「そうかぁ。俺の行ってる学校。俺があの世界からいつも戻るとこ。何でだぁ?」
「連れて来ちまったのは俺のせい?」
「そうかも…戻る所はないの? いつも来る所ってあるんですか……?」
「いつもは…屋上のドア。でもそこに行く前に、あちこち行ってみたいんだけど…いいかな?」
彼女は異を唱えない。ただ、目をつむりうなずいた。
その時呟いた彼女の言葉が耳の奥に残る。
「ここは…“赦されない世界”…のはず…何で…?…」
教室に行ってみた。
武者の野郎、いやがらねェ。別に会いたいわけでもないけど。
アイツがいれば…ここが俺のなじみの現実だって確信出来るのに…。
自分で言っててつくづく武者小路のバカは現実の悪夢の象徴だという事に気付く。
全くありがてぇ様なそうでない様な。
まぁ、ばったり鉢合わせしたら説明に困る。
俺達は足早に教室を離れた。
彼女が震えている事に気付く。
それは怯えての事だとばかり思っていた。
そう言えば…彼女は夏から、ここにやってきたのだ。
見れば薄手のサマードレス一枚。
そうだ。そうだよ。何で気付かないか。俺。
寒いじゃん。
「寒くねェ?」
「…ちょっと」
「足寒いよな。そのサンダルじゃ。うわ。強烈な盲点」
「ここは…冬なの?」
「そう。そうだ。すっかり忘れてました。あはあはあは」
「笑ってないで何とかしてくださいっっ!」
じたじたと足踏みして、彼女が叫ぶ。こりゃ、やっぱ寒いか。
「向こうに来た時、暑くなかったんですか?」
「……あまりにも色々あれこれが不思議すぎて。あんまり感じなかったッス。鈍感? 俺? 野獣の様な生命力?」
「いいですから、なんか羽織るもの探してくださいっ!!」
「はいぃ」
慌ててきょろきょろ見回すも…どこにある? そんなもん?
「ま、まぁ、これでも…」
俺は制服の上を脱ごうとした。
「だめぇっ!! 手を離さないで!!」
そ、そか。手離さなきゃ脱げないか。う~~んと…。
そこいらの教室に入ってなんか借りる……可能性としては低い。鍵かかっているかも。
置きっぱなしの汗くさいものは…当然嫌がるだろう。女の子だし。
俺は同級生の二年間洗っていない柔道着の事を思い出した。ロッカーに放り込みっぱなしで二年間放置している、と言う。赤や緑のカビが生え、とてもカラフルだ。
あれはまともな神経の人間が着れる代物ではない。俺らの目から見てですら。ヤツは並じゃねぇ。
アレに袖を通す、通せる、と言うだけでそいつはクラス中の男から尊敬を集めていた。
寝技最強の男、の称号はヤツのものだ。押さえ込まれた瞬間、タップタップ……
そんな事思い出してる場合じゃないか。
女性用の衣服は高い。きっと。冬物って特に高いんじゃなかったっけ?
それが男の一人っ子の乏しい知識の総てだった。
金はそんなにはないはず。うん。
と言う事は…。
行く所は一つしか思い当たらない。
俺の家だ。
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真冬の灰色の街並みをサマードレスで歩く彼女は目立つ目立つ。
通り過ぎる人がみんな覗き込んで行きやがる。
「足速いね~」
先に立って、俺の手を引く様にすたすたと歩いている彼女にそう言ってみる。
「寒いんですっ! 当たり前でしょう!!」
やはりそうか。うん。ごめん。
「このまま真っ直ぐでいいんですか?!」
「走ろうか。その方が暖まる!」
俺は彼女の手を引いて、少し手加減して走り出した。
彼女も、そのかかとの細い靴にしては奇妙なぐらい…速く、並んで走る。
家まではあっという間についた。
彼女をお袋のクローゼット前に連れて行くと、彼女に告げた。
「で…どうする? 着替える…?」
じとっ、とした目で彼女がにらみ返してきた。
そうだよな。うん。最大の問題は…。
「手…離さなきゃ…着替えられないッスよね」
な、生着替え…。
彼女は今にも泣き出しそうな目で俺に向かって叫んだ。
「離さないで!…目を閉じててくれればいいから……」
い、意外なお答え……。それだけ、不安なのか…。
「なるべく遠ざかって…目隠しでもしてようか?」
「…いいです。そこまでしなくても…」
彼女は、クローゼット前でそう呟いた。たまらなく居心地悪そうに、お袋の服を所在なさげに見つめている。俺の手を握ったまま、じっと立ちつくしていた。
指で触るだけで、いつまでも一つも外そうとしなかった。
結局、彼女が着たがったのは俺の服だった。
サマードレスの上にMA1。厚手のアーミージャンバーだ。目の詰んだロングマフラーをぐるぐると首に巻き、足下は厚手の靴下。履く時は、俺も協力した。
常に片手をつないだままの状態だからしょうがない。しょうがないのだ。
極めて遺憾ながら!! 俺は彼女の足に触れていた。
どこまでも薄いそのなで肩を寄せて、彼女はまた、小さな声ですいません、と呟いた。
すんなりと細い足首がひやり、と冷たかった。
靴は俺のとっておきのごついブーツ。
「これなら、きっと寒くないはず。これでいいよ」
「いいんですか……高いんじゃ……」
「高いけど、後はボロ靴しかないし。俺の足には少し小さくてあまり履いてないヤツだから……ちょうどいいんじゃないかなと思う」
「すいません……」
「だから…謝らなくてもいいよ。別に」
何かというと彼女はすぐに謝りたがる。
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どこか人を苛立たせる。
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よくわかりません! 俺には! とにかく…寒くなきゃいいでしょう!
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「またすぐ謝る。よわよわ」
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「二連発ですか」
俺はついくすくすと笑い出した。
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「ふふっ」
「何?」
「え……あの…こんな事言っちゃいけないんですけど……楽しいなって…」
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「こんないるべきじゃない所で…そんな事考えちゃ……罪です」
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暗くて良かった。はぁ。
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「……」
黙り込んじゃったよ。
「…そういうの良くわからなくって…」
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そう呟いた時の彼女の顔は、本当に不思議そうだった。
「父に良く……お前は人の心がわからない、と言われてました」
「……」
「自分の心も、実は、よくわかりませんし……」
俯き、呟いていた彼女がふっ、と顔を上げた。その瞳が真っ直ぐ俺の目の奥を覗き込んでいるのがわかった。
「心って何でしょう?」
「そんな難しい事……俺みたいなバカに聞かれても」
「す、すいません…何か変な事聞いちゃって…」
彼女が慌てて、口走るのはまた、謝りの言葉だった。
「謝んなくてもいいよ。自分で自分の事言ったんだし」
「それに、人の心がわからないのはみんな一緒じゃないの? 俺もよくわからないし」
「え……そうなんですか…?」
「みんなそう。だから、お話しするのが楽しいし、その中でわかっていくもん何じゃないの? かな? よくわからないけど」
彼女が、見つめてくる真剣な眼差しは、どこまでも澄んでいた。
何で、この瞳を持つ人が、人の心がわからないとか言うのか……その時の俺にはそっちの方がわからなかった。
「芙実花ちゃんは……人の心がわからない、と言うよりかは…」
「他人の言葉を読むのが下手なだけさ」
「……」
「慣れの問題だよ。きっと」
「いっぱい話をしようよ。そうすれば、何かわかるんじゃないの?」
「ありがとうございます……」
その時見た…彼女の笑みはつぼみが花開いていく様に、華やかに…見えた。
「優しいですね……有馬さん」
「真っ向そう言われると…そんな事はないと言いたくなる」
「いいひとだなぁ…」
「そんな事はない。そう言っちゃおう」
「なんていいひとなんだろう……」
「やめろぅ! そう言うの一番……その…苦手なんだよ」
「いいんですよ…」
彼女はにっこりと微笑んでいった。
「私、ヒトを見る目がありませんから!」
「褒めてんのか、落としてんのか、どっちだよ?!」
くすくすと笑いながら、彼女が…芙実花が、俺の右手を抱き締めてくる。
柔らかく盛り上がる胸の感触に、どきっ、とした。
俺の右腕が柔らかく温かい感触に包まれる。それだけで、なんか、どういうか……。
心がほどける。
xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
冬の透ける様な空気の遙か上に、空の天井がある。
青い、どこまでも青い空に、掃いた様な雲筋が走る。
吸い込まれそうな瞳を、強引に地上に戻す。
そこに芙実花の顔があった。にこにこと微笑み、指を絡めてくる芙実花の横顔が。
まだ、空を見ている様だった。
「何で、ここに居られるか…何となく理由がわかった様な気がする…」
唐突に芙実花が呟く。
俺の手を握りしめている細い指先に、ぎゅ、と力が入ったのが判った。
思わずどきっとした。
と、突然、芙実花が向きを変え、小走りに走り出す。
「な、何? どうしたの?」
「いいから! あれ!」
向かう先には、アクセサリーを売る露天があった。かなり怪しげな。
「………」
露天の親父はこっちを見もしねぇ。しかも…外人だ。えらい太った外人。
この寒いのに…Tシャツ一枚。そのTシャツが…異様だ。アニメのキャラクターの描かれたファンシーなヤツ。ただモンじゃねぇ。
「これがいいかな…」
芙実花の指先がつまみ上げたのは…真ん中に紅い宝石の着いたペンダント。結構大きなヤツだ。宝石はどうせイミテーションだろうが。
「スカートのポケットにお金あるから…」
「はい?」
「……出してもらえますか?」
その吊り下がった赤い石から目を離さず…芙実花が言った。
「スカートって…あのですね……俺が手ェ突っ込んじゃ…まずいだろ」
「いいですよ…今手が塞がってるので……」
芙実花は相変わらず、ゆらゆらと揺れる宝石から目を離さずに言う。
あのですね…あの。あのなぁ……。
俺は自分の財布を取り出した。
「いくら?」
「そんな……いいです!…私が出します! そんな……」
「プレゼント。それでいい?」
そんなこっぱずかしい事するぐらいなら、自腹切った方がマシだった。
「……はい」
芙実花は顔を赤らめ、俯き、小さくそう呟くと…それ以上は何も言わなかった。
冬の夕暮れは短い。急がないと学校に着いた時、真っ暗闇だろう。
「少し急ぐけど…いい?」
「もう…急がなくてもいいかもしれない…」
不意に、芙実花が立ち止まる。
「?」
「これ…」
芙実花の空いている方の手が上がる。
その手に握られていたのは…さっき買ったペンダントだった。
「かけてくれますか…?…首に…」
片手じゃかけられない、そう言う意味だろう。
俺はうなずき、ペンダントに手を伸ばす。
「鎖だけ押さえててもらえますか……?」
俺も片手だ。そのままじゃかけにくい。
細い指先が押さえた鎖の輪を広げ、芙実花の首にかけてやる。
するりと髪を通り、首に巻いたマフラーの上にそれは落ち着いた。
鎖で押さえつけられた芙実花の長い髪が、首の裏に回した片手で抜き取られる。
それがいい香りを立ち上げた。
「すみません。これでいいはずです…」
囁き声が聞こえ、向き直ると同時に…顔が近づいてきた。
暖かいものが唇に触れた。
……………………。
今日この時まで、俺は自分に口があるなんて思いもしなかった。
芙実花は言った。
「今日この日まで、私、自分に唇があるなんて気がつきませんでした……」
あっけなく、少し後ろに下がった芙実花が手を離した。
指が寒さを感じた。
「…ばいばい」
小さな呟きが聞こえる。
冬の夕暮れが消えた。
xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
ブラックアウト。
目の前が闇に包まれる。総ての風景が消えた。
芙実花の姿だけがある。そして、それは少しずつ遠ざかっていった…。
船に乗って、岸の芙実花から遠ざかっていく様な…そんなカンジがする。
船に乗っているのは俺だ。揺られながら遠ざかっていく。
もう手を伸ばしても届かない所へ。
遠ざかるものは総て、美しい。
海を称える音楽が聞こえてきそうだった。
どうして、そんなに手を振っているのだろう。
芙実花は。
気がついた時、日の暮れた公園に一人だった。
指先だけが冷たさを感じていた。
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