【18禁版】この世の果て

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第九章 神の玉座に座る者

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『善悪において一個の創造者になろうとするものは、まず破壊者でなければならない。

そして、一切の価値を粉砕せねばならない。


                      フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ』



F埠頭。

あの憐れな少女・雪花菊珂が図らずも男を葬ってしまった場所……。

ここで、一人の男が待ち合わせをしていた。

古びた革ジャンをまとい、髪に赤のメッシュを入れている以外は、

取り立てて記載すべきことの見当たらない中肉中背の平凡な顔立ちの男である。

男は待ち合わせ相手の顔を知らない。

だが、男はそれはいつものことだから、特に気に留めていなかった。

組織単位でない限り、どうせ男と相手の対面は一度きりのものだから。

やがて、耳障りな音を立てて、倉庫の扉が開いた。

革靴の小気味いい音が反響する。

男はタバコを放ると、足でもみ消した。

やがて男の前に現れた相手は雪花海杜だった。

とは言え、男は相手の素性や名前など、何一つ知らない。

それらを聞かない。

これもこの世界の暗黙のルールだった。

だが、男は目の前の商談相手を見て、妙に興味が湧くのを禁じえなかった。

相手がいかにも育ちの良さそうな二枚目だったせいもあるが、

その纏っている雰囲気が、「こちら側」には似つかわしくないものだったせいだろう。

男は口火を切った。

「金は?」

海杜はゆっくりとした仕草で、コートの間から紙袋を取り出した。

「先に金だな」

海杜は無言で男に紙袋を放ってよこした。

男はそれを慣れた手つきで、受け止める。

「おっと……。改めさせてもらうぜ?……確かに50万……」

そう言うと、男はやはり紙袋を海杜に手渡した。

「しかし、あんた、見るからにカタギみたいだが……こんなもん、何に使うんだ?」

紙袋を手にした海杜は射るような視線を男に向けた。

その視線で、男は相手がごく普通の「カタギ」ではないことを知った。

「わ……わかったよ。何も聞かねぇよ……。こっちも、商売さえ成り立てばいいんだ」

男は相手に手渡した紙袋の中身を知っている分、少し肝を冷やしていた。

取り越し苦労だとは思うのだが。

男は確かに「こちら側」の世界に身を置いてはいたが、実際に自分で人を殺したことはなかった。

その点で、海杜よりは善人だということが言えるのかもしれない。

海杜は紙袋の中からゆっくりとそれを取り出した。

それは真新しく黒光りした拳銃だった。

「あんた、安全装置の外し方、知っているのか?」

「……いや」

「あんた、ハジキは初めてか?ちょっと貸してみな。このレバーを引くんだ。

これで、安全装置が外れる。気をつけろよ。もう玉はMAXに入っているからな」

「君。きちんと注文通りにしてくれたろうね」

「兄さん。舐めてもらったら困るぜ?こちとら、プロなんだ。手抜きなんかしやしないさ。

あんたの送ってきた写真と全くおんなじ型を用意したし、ご希望通り、殺傷能力はざっと5倍。安い買い物だぜ?」

男の言葉に満足げに海杜は頷いた。

そして、微かに笑った。

その笑みは、同性であるはずの男の目から見ても、魅惑的なものだった。

「なるほどね。じゃあ、早速試してみるかな。この銃の自慢の殺傷能力って奴を……」

「……え?」

まさか……?

男がそう恐怖に歪んだ顔を見せた瞬間。

拳銃はぴたりと男のこめかみに突きつけられていた。

「お……おい、冗談だろう?」

海杜の優雅な笑みを網膜に焼き付けたまま、男は引きつった笑みを浮かべた。

次の瞬間、海杜の手の中の銃が火を噴き、男の脳髄が吹っ飛んでいた。

「ほう……。なかなかいいじゃないか……。悪く思わないでくれ。

君は僕の顔を知っているからね。生かしておく訳にはいかないんだよ」

そう言うと、海杜は微笑んだまま銃をコートの中に入れた。


遠くで汽笛が鳴った。








それは、雪花夕貴の初七日のことだった。


屋敷に叫び声が響いた。


「誰か……!!誰か来てくれ!!父さんが!!父さんが……!!あ……ああっ……!!」


幸造の書斎から転げるように飛び出して来たのは、雪花海杜だった。

「どうされたのです?海杜様!?」

海杜の身体を飛んできたメイドの不知火李が受け止める。

「父さんが……父さんが……!!うっ……うあああああっ!!」

ただ幼子のように震え、泣き叫ぶ海杜を抱き締めながら、李は雪花家の崩壊の音を聴いた気がした。


雪花幸造の死因は、心筋梗塞。

持病となっていた狭心症の悪化が原因であり、事件性はないと判断された。





それは、雪花幸造の初七日のことだった。


「李ちゃん……。何をしているんだ?」

「あ……海杜様」

李は慌ててそれを後ろ手に隠した。

それは、旅行バックだった。

李が雪花家にやってきた時に身の回りのものを入れてきたバックだった。

彼女が小さなそれを下げてこの家にやって来てから、一年と少し。

それだけの間にこの家には、様々なことがありすぎた。

そして、多くの者が去って行った。

自らの意志で去った者、警察に送られた者、抗うことのできない死への道へと旅立った者。

雪花幸造の葬儀が終わると、英葵はこの家を出て行った。

こうしてこの家には、李と海杜の二人だけが残されたのだ。

全てを察したらしい海杜の声が降ってきた。この上なく寂しげな。

「この家を出て行くんだね」

李はその声に、泣き出しそうな顔をあげた。

「今月で、一年のご契約が切れてしまうんです……だから……。

それに、ワタクシは……もう用済みでございましょうから……」

「用済み……?何を言っているんだ?李ちゃん」

「だって、ワタクシ……海杜様に何もしてあげられませんでした。

あんなに海杜様が苦しまれていたのに……。何も……」

李は再び顔を伏せた。

これ以上海杜の顔を見ていたら、泣き出してしまいそうだったから。

本当に泣きたいのは、自分ではなく、今対峙しているこの青年の方だろうというのに。

李はまた言い様のない無力感と、深い哀しみを感じた。

「あっ……」

李の小さな手は、海杜の大きな手によって包み込まれていた。

その暖かなぬくもりに、李の胸は小さく高鳴った。

「君がいてくれたことによって、この家がどれだけ救われていたことか……。

君はいつだって明るくこの家を和ませてくれていた。……そうだ。君がいなければ……」

「海杜様……?」

「菊珂、里香さんに、夕貴、そして、父まで逝ってしまった……。

莢華は警察だし、英葵もどこへ行ったのかわからない。

僕にはもう誰もいないんだ。そう、李ちゃん……君しか……」

そう言うと、海杜はゆっくりと李を抱き寄せた。

李の手からバックが離れ、床に落ちた。

「海杜様……」

李がそっと遠慮がちに海杜の胸に頬を寄せた瞬間、再び海杜の寂しげな声が響いた。

「そうだな。こんなところ、本来だったら、長居なんてしたくないだろう。

ここはまるで冥界だ。……こんな家に来てもらったばかりに、君にはつらい思いをかけてしまったね」

李は思わず顔を上げていた。

「と、とんでもございません!!わ、ワタクシは……海杜様とお会いできただけで……」

「だけで?」

海杜の真剣な眼差しにぶつかる。

海杜の漆黒の瞳が、李を映して揺れている。

李は、海杜への全ての想いをぶつけるように、だが、静かに呟いた。

「だけで……幸せでした」

彼女はそれだけ言い終わると、また俯いた。

それとほぼ同時に李の身体は一層強く抱きすくめられていた。

その瞬間、李は海杜がこの家にいるうちは、自分もここで生きてこうと決意した。

自分は確かにちっぽけで彼にとって何の役にも立つことができないだろう。

だけど、李は思った。

自分は自分なりに彼を守って行こうと。

「海杜様……まだこのワタクシをお雇いになる気は……ございますか?」

その瞬間、弾かれるように海杜が顔を上げた。

「李ちゃん……。君は……」

「海杜様。どうか、どうかワタクシを……ワタクシを海杜様のお側に置いて下さいませ」

その瞬間、涙が溢れた。

この人に、自分の一生を捧げよう。今度こそ。今度こそ……。

「ありがとう。李ちゃん」

「わ……ワタクシにどこまで……何ができるかわかりませんけど……。

不知火李……海杜様のためなら……」

「これからも、よろしく頼むよ」

今、他の誰でもない、ただ自分ひとりに向けられたこの上なく穏やかな海杜の微笑みに、李は魅入られたように頷いていた。







「うまく行ったわね。うふふ……」

吉成水智はそう微笑むと、一気にワインを空けた。

行為の後の汗ばんだ身体に、それは染み透るように心地よく流れる。

「ね?愛してるのよ。あなただけ。ずっと昔から。そう。あなたがまだ会長の秘書だった頃から。

そうよ。あなたの為に私はあいつにだって……恭平にだって抱かれたんだから。ね?」

そう言うと、水智は愛する男の胸にそっと顔を伏せた。

「ね。でも、どうしてこんなことを?……ああ。それは聞かない約束だったわね。

でも……。気になるのよ。どうしてあなたが自分を追い込むようなことばかりしているのか」

彼は答えない。

「ね。カーテン開けてもいい?なんだか光が浴びたいのよ。

それに……あなたの顔をちゃんと光の中で見たいのよ」

水智は相手の答えも聞かないうちにさっとカーテンを引いた。

瞬く間に部屋を支配していた闇は消え去り、そこには痛いくらいに眩しい朝日が照り付けていた。

水智はいきなり男に飛び掛った。

そして、男の唇に首筋に何度もキスを繰り返した。

「愛しているわ……。あなたの為なら……私どんなことでもできる。

今までだって……これからだって……そうでしょう?海杜」

男――雪花海杜は、水智になされるままになりがら、彼女を黙って見下ろしていた。

何の感情も宿らない冷たい瞳で。

「海杜。ね。抱いて……昨日みたいに激しく……ね?」

そう言うと、水智は海杜の首筋に腕を絡める腕に力を込めた。

海杜はそれを受けて、水智の首筋に唇を這わせた。そして、

「どんなことでも?」

とうわ言のように言った。

「ええ。どんなことでも……あっ……」

突然止まった行為に水智は怪訝な顔を浮かべながら彼を見た。

光を背に海杜は柔らかな微笑みを浮かべながら、あっさりと言った。

「じゃあ、死んでくれないか」







翌朝、吉成水智の遺体が彼女のマンションの駐車場で発見された。

屋上には彼女の靴と遺書が残されており、覚悟の自殺ではないかと見て、警察は捜査を開始した。







警備員・紺野は海杜の部屋を訪ねていた。

一介の警備員が就業中に社長の部屋を訪ねるなど、はっきり言って前代未聞のことだったが、

この社で会長の右腕として活躍していた敏腕専務の訃報を耳にしていてもたってもいられなくなったのであった。

次々と親族や周りの人間を失った海杜が心配でならなかったのだ。

「なんとお声をかけてよいやら……。私は社長が不憫で不憫で……」

「ありがとうございます。私は……大丈夫です」

海杜はいつものように寂しげな笑みを浮かべ、紺野を出迎えた。

紺野はその笑顔が痛々しく思われて、力強く言った。

「私……これからも精一杯……社長にお尽くししたいと思っております。

まあ……こんな警備員風情で何を言うかって言われるでしょうが……」

「そんなことありませんよ……。僕は……あなたのおかげでどれだけ救われたか……」

海杜はそう言うと、そっとだが力強く紺野の手を握った。

「社長……」

「あなたは……いつも私を支えて下さった。

ある意味ではあなたは私にとって父以上の存在なのです。本当に……ありがとうございました」

「いやだなあ……社長。そんなことおっしゃっちゃ……草葉の影の会長に叱られますよ。

それに、これからも……じゃないですか。それをあなた、まるで今生の別れみたいに」

海杜は紺野の明るい笑い声を聞き、そっと微笑んだ。

「そうですね。これからも……お世話になります」

「あら……来客中だった?ごめんなさいね」

ふいに開いたドアに紺野が振り返ると、いつかの女刑事(羽鳥未央だったか?)が立っていた。

紺野は彼女から何度か事情聴取を受けたことがあったので、未央の顔を見知っていた。

「いえ……構いませんよ。では、社長。私はこれで……」

紺野は海杜に頭を下げると、社長室を後にした。







「吉成水智は……自殺だと断定されたわ」

あたしは務めて義務的に言い放った。

こういう場面はこの職業をやっていれば日常茶飯事。

冷たいと思われるだろうが、慣れないと……そして機械的に済まさないとこっちの身が持たなくなる。

だが、今は苦痛に歪む彼の顔を見るのがつらい。

まるで自分自身の心が抉られるように。

「そうですか……。惨い……ことだ」

彼は悔しそうに唇を噛み締めた。

「彼女は……父の代から我が社を支えてくれた……大切な人でした。

それなのに……なんてことだろう」

「雪花社長……。なんて言っていいか……」

「いえ……」

彼はそう言うと、そっと窓辺に進み、あたしに背を向けた。

その時、彼の身体がバランスを崩してよろめいた。

あたしは咄嗟に彼を受け止めていた。

「ああ……。すみません」

彼は額を押さえながら、苦しげに答えた。

「大丈夫?気をしっかり持って……。あなた……社長さんなんだから」

言いたいことは……こんなことじゃないのに……。

「すみません……。一人に……一人にして下さい」

彼はそう言うと、あたしに背を向け、窓辺に駆け寄り肩を震わせた。

泣いているのだろう。

「わかったわ……ごめんなさいね。どうか……」

どうか……。

いつだってあたしはあなたの味方だってことを……どうか忘れないで……。

あたしは本当に言いたかったことを飲み込んで、部屋を後にした。







背後でドアが閉まる音がした。

私は堪えきれず、声を漏らしていた。

未央は何か勘違いしていたようだが、私は泣いていたのではない。


笑っていたのだ。


吉成水智の死もあっさりと自殺と片付けられた。

これも事前に書かせてあった遺書の効果だろう。

本人は、まさかあれが自分の死体に手向けられるなどとは、露も思わなかっただろうが。

あれも所詮、哀れな女だ。

私の与えた幻の愛に踊らされ、破滅し、命を落とした。

私は水智に偽りの愛と束の間の快楽を与えた。

最初は水智の方が私をリードしていた(と勝手に思っていただろう)。

いつしか立場は逆転していた。

水智は自ら持ちかけた関係に自ら溺れて行ったのだ。

だが、彼女は有能だった。

実際、彼女がああまでうまく立ち回ってくれなければ、この計画はうまく行ってはいなかっただろう。

その点では彼女に感謝している。

その御礼については、身体できっちり返してやったとも思っているが。


これで終わりだ。

そう、全ては終った。

最良のカタチで。


私の復讐は完結したのだ。


私はそっとデスクの引き出しを開けた。


「あの一族を構成する人間は、みんなみんな君の元に送ってやった」


一枚のレコードを取り出す。



「喜んでくれるかい?……美咲」







その夜、雪花幸造は夢現の中で、懐かしい旋律を聴いていた。

だが、それが夢ではないということが、次第に覚醒した意識が告げていた。

彼は堪らずに、車椅子を引き寄せ、苦労してそこに乗り移った。

数週間にも及んだ寝たきりの生活は、彼から筋力を奪っていたが、

彼は懸命に車輪を押し、自らを奏でられている旋律へと近づけた。

テラスの前に着いた時、幸造は微かに身体の震えを感じた。

この扉の向こうにいるのは、もはやこの世のものではないはずの女。

ゆっくりと扉に手をかける。

扉に新たな景色をが開かれると同時に、その懐かしい旋律もそっと音量を増した。

月影に浮かぶシルエット。

だが、その影は彼が求めたものでは、なかった。

ふいに旋律が止んだ。

微かな反響だけがそこに残された。


「どうです?少しは上手くなりましたか?僕のピアノは……。ねえ、父さん」


そう月明かりを背に立ち上がったのは、雪花海杜だった。







その時の父の顔を、私は一生忘れないだろうと思う。

随分経ってから、ようやく父は口を開いた。

「海杜……。今の……ピアノは……」

「驚きましたか?僕はあの人のようなピアニストにはなれなかった。

だけど、あの人のような弾き方はできるんです。そう。他にも例えば……」

そういうと、私はさっと鍵盤に指を滑らせて、ある人物の旋律を奏でた。

父はそれを聞いて、戦慄したようだった。

そう。それは、里香の旋律だったのだ。

「お前……なのか。海杜」

「ええ。その通りです。あのピアノは僕が弾いていたものです。

……さすが父さんですね。すぐにこの意味がおわかりになったようだ」

「海杜……」



「そう。あの時、既に里香さんはこの世にはいなかった」



「海杜……まさか……まさかお前が……」

「おやおや……。どうされました。父さん。あなたらしくないセリフではありませんか?

だって、あなたはもう随分前から、僕がやったと気がついていたんでしょう?」

父が息を呑んだのがわかった。

私はそれを「肯定」と受け取り、続ける。

「だが、あなたは警察に告発しようとはしなかった。

息子がこんな重罪を犯しているというにも関わらずね。

……そんなにこの家が大切ですか?そんなにあの会社が大切だというのですか?」

「違う……違うんだ。海杜」


「まあ、いいでしょう。そんなことはもうどうでもいいんだ。

あなたには聞いてもらわないとならない。この僕の復讐の全てをね」







あれは十五年前。

樹夫妻の心中直後のことだった。

当時、私は高校生ながら父の秘書だった。

後々には、私は父に代わって雪花コーポレーションを、雪花家を継ぐ。

そんなレールを引かれていた身だった。

だが、あの全日本ピアノコンクールで優勝すれば、好きな道に進んでも構わない。

母・雪花薫はあの日、そう約束してくれた。

一度だけのチャンスだ。これっきりだ。

このチャンスを逃しては、私は永遠に自由を失う。

私はそのチャンスに賭けた。

そして、優勝したのだ。

神は私に微笑んだ。そう思った。

音楽に無関心だった母は、まさか私が優勝するなどとは露ほども思っていなかったに違いない。

私は、優勝の盾を持って母と対峙していた。

場所はそう。ちょうど、あのぶち抜きの座敷だった。

母はいつものように凛とした和服姿で、氷のように冷たい面を私に向けていた。

私は母の笑った顔を見たことがない。

いつも能面のように無表情だった。

その点ではあの人も不幸な人だったと思う。

「母さん。僕はこうして優勝しました。僕はこの道に進んでもいいのですよね?」

私はいつになく、強い口調で母に訴えた。

あの夫妻の心中という衝撃的な出来事から、

私はすっかり父の秘書という役割に嫌気が差していたのかもしれない。

そして、このコンクール優勝を機に、

私の中での昔からの夢・ピアニストという夢がむくむくとその翼を広げ始めていたのだ。

だが、母は冷酷に私を見下ろすと、吐き捨てるように言った。

「馬鹿馬鹿しい。海杜。あなたはこの家の唯一の跡取りなのですよ。何を血迷ったことを言っているんです」

「母さん!!約束が違う!!僕はピアニストになるのが夢だったんです。どうか、許して下さい!!うあっ!!」

私は頬を打たれていた。

その拍子に盾は吹っ飛び、くるくると畳みを滑った。

私は慌てて手を伸ばした。

それは、私の自由への切符なのだ。

「お前がピアニスト?馬鹿な。お前はこの雪花家の跡取りなのですよ?

何を血迷ったことを言い出すのです。……海杜、私はわかっていますよ」

「えっ……?」

「海杜。本当はそうではないんでしょう?お前は私から逃げたいんだ……。そうに違いないんだ」

母はそう言うと、盾を取ろうと伸ばした私の腕を取った。私の身体に嫌な予感が走った。

「ああ、憎い。お前が。あの女の子供のお前が。そして、こんなにも私を狂わせるお前が」

そう言うと、母は私のうなじに唇を当てた。

「やっ……!!」

「私はとうとう跡取りを生むことができなかった。なのにあの女は……!!」

母の狂おしいまでの愛情は、歪んだ形で私に注がれた。


私と母が不義の関係を結んだ経緯については、

はっきり言って今回の出来事には直接関係がないし、私も語りたくはない。

ただ、私と母が世間的に言えば、鬼畜じみた畜生道に堕ちたこと。

それだけが重要なのだ。

表向きは私をあくまで雪花家の跡取りとして、裏では爛れた関係を要求した。

彼女の名誉の為に付け加えておくと、

決して彼女は始終私に爛れた関係を求めた訳ではなかった。

彼女が私を求めるのは、決まって父絡みのトラブルが発生した時だった。

父が明らかに他の女性と関係を結んでいるであろう夜、彼女は私を自分の寝室へと呼んだ。

結局、私は父の代用品に過ぎなかったのだろうと思う。

父の空けた心の風穴を一時的に塞ぐ。

それが私のもう一つの役割となっていた。

行為の後、いつも私は金を握らされた。

慰めのつもりか、謝罪のつもりなのか、はたまた報酬のつもりだったのか。

今となってはわからないが、その金の存在が、かえって屈辱だった。

実のところ、母は私の本当の母ではない。

私はそのことだけは知っていた。

だが、本当の母が誰なのか。

この時点ではまだ私に知る由はなかった。

ただ、偽りの母から受ける恥辱に耐えるより他に、私にできることはなかったのだ。

いつしか、母との関係も自分の役割の一つなのだと次第に割り切るようになっていた。

彼女を抱いても、決して快楽とかそういった類のものは一切感じられなかった。

母の寝室を後にする時。

ただ私の中に残されるのは、途方もない空虚さと疲労感だけだった。

このことのによって私が得たものと言えば、己の心を亡くすこと。己の心を偽ること。

己に流れる血はどうすることもできない。

私は己の心を亡くすことしか、この現状から逃れる術を知らなかったのだ。


そういう生活から逃れたい。

確かに私は願ったに違いない。

だが、同時にそれは決して叶うことのない夢に過ぎないこともよくわかっていた。

私はあの家・雪花家を離れることができなかったから。

簡単に言うと、私は怖かったのだと思う。

私はこの家の肩書きを失ってしまえば、ただのちっぽけな青二才に過ぎない。

何の後ろ盾もない状態でこの広大な社会に漕ぎ出すのは、私の意に沿わなかった。

私は弱い人間である。

環境の変化には、耐えられそうもなかった。


そういう自分に疑問を持ち始めたのは、やはりこのコンクールからだったと思う。

私はコンクールに優勝したことで、ささやかな自信を持ったのかもしれない。

一度疑問がもたげると、それはまるで真っ白い紙に垂れた黒インクのように、じんわりと私の胸に広がっていった。

このことをきっかけに、心を無くしたはずの私の中に、人間らしい何かが取り戻されたのかもしれない。


そんな中でも、私は自らが救えなかった子供たちに、せめて何かしたいと思った。

真っ先に思いついたのは、皮肉なことに金だった。

汚いと思われるかもしれないが、これ以外、私に何ができたというだろう。

だが、現実問題、私の自由になる金などなかった。

当時、私は父の秘書ではあったけれど、給金は見習いということで、

微々たるもので、とてもまとまった金額とは言い難かった。

父はあえてそうしているようだった。

だから、自分があの両親を失った子供たちにしてやれることは決まっていた。


母と不義の関係を結び続けること。

その金を二人に送り続けること。


それが自分の罪滅ぼしなのだと思った。


母は私が金を必要としていることを知ると、渡す額を減らした。

私との逢瀬の回数を増やすために違いなかった。

その狡猾さに、我が母ながら吐き気がした。

こうして、幾度この屈辱的な夜を越えたのだろう。


いくら心をなくしたと嘯いてみても、折れそうになる日はあった。

帰りたくない。

母との睦言を思い出すだけで、己を消し去ってしまいたい衝動に駆られる。



どうしても……帰りたくない……。


そんな日があった。


私の足は、いつしか養護施設「ひまわり園」へと向っていた。

そこは、同級生・美作弥生の案内で、一度訪れたことがあったのだ。

私はなぜか、自らが二人の幼い兄妹を追いやったその施設へと向っていた。


以前訪れた時のように、無邪気な笑顔たちが私を迎えた。

その子供たちの微笑みは、この上ない安らぎを私に与えてくれた。

無意識に私は、この穢れを知らない笑顔たちに会いに来たのかもしれない。


「お兄ちゃん。ピアノ弾いてよ!!」

「えっ……?」

振り返ると、見覚えのある腕白そうな少年が、鼻を擦りながら立っていた。

どうやら、以前ここに来た時に私がピアノを弾いたことを、この少年は覚えていてくれたらしい。

私は小さな観客のため、椅子にかけると、鍵盤に指を滑らせた。

私が演奏を終えると、ふいに鼻先に何かが差し出された。

見ると、それは小さなすみれの押し花だった。

私が顔を上げると、一人の少女にぶつかった。

まだあどけないが、黒真珠のような瞳と雪のように白い肌が特徴的な少女だった。

だが、同時に私はその少女の可憐さの中に、ある面影を見出していた。

「これ、お礼」

「お礼……?」

「素敵なピアノ聞かせてくれたから、そのお礼です」

「ありがとう……」

それが私がピアノで得た最初で最後の報酬だった。

どんなに高名なピアニストになっても、こんなに暖かい報酬を得ることはできないだろう。

少女はもじもじとしながら、俯いた。

「もしかして、君もピアノが弾きたいのかい?」

少女は、はっとして顔を上げ、小さく頷いた。

「あのね……。私もお兄ちゃんみたいにピアノ……弾きたいの」

「じゃあ、教えてあげようか。おいで」

私は少女を自分の膝に乗せた。

そうしないと、彼女の背ではピアノの鍵盤に手が届かなかったのだ。

少女は嬉しそうにピアノを撫でた。

だが、どうしていいのか、わからないようだった。無理もない。

私は「これがド。次がレ」と根気よく噛んで含めるように教えた。

彼女は小さく頷きながら、私に習って鍵盤を弾き始めた。

私は少女の横顔に釘付けになっていた。

似ていたのだ。

その無邪気な笑顔の面差しが。

そう。「あの人」に。

私はだから、戯れで「あの人」の弾き方を少女に教えた。

テンポ。

間。

指の運び。

その全てをコピーさせるように。

その少女は飲み込みの早い子だった。


当然だろう。


その子こそ、咲沼美麻だったのだから。


だが、私はまだその時、この少女が自分が心中に追い込んだ樹夫妻の娘であることさえも知らなかった。

自分が身体を売るような形で作り続けている汚い金を送り続けている相手であり、

そして、「あの人」……ピアニスト・城崎美咲の娘であることも。

ただ、ピアノに興味を持った少女にその楽しさを伝授できれば……そんな軽い気持ちではじまったレッスンだったのだ。

三度目の邂逅の時には、彼女は完璧に「あの人」のメロディを再生させることができていた。

いつしか美麻は私を「音楽の天使」と呼び、慕ってくれるようになっていた。

私自身も、彼女と触れ合うことで、

人間らしい感情を一時だけでも取り戻すことができるような気がしていた。

そして、今、ピアノは私に自由の翼を与えてくれるのだ。

ウィーン留学という名の翼を……。

だが……。

「あっ……やだ……やめて下さい!!」

「私はお前がいなければきっと狂ってしまうに違いない……。

お前のこの身体がなければ……。海杜……私はお前を離すものか……」

「いやっ……ああっ!!」

抵抗も空しく、私の身体は鬼女に支配される。

「嫌だ……こんなの……嫌だよ……もう僕は……」


ことが終わったあと、私の目には、真っ二つに割れた盾が逆さまに映っていた。


ああ、限界だ。


もうこれ以上、私はあの狂おしい情景に身を置くことはできない。









私はその夜、行動を起こした。

そして、翌日の早朝、機上の人となっていた。

留学の出発は一週間後だった。だが、我慢できなかった。

このままあの家にいたら、私は本当に壊されてしまう。

これは私が自分の手で手に入れた自由の翼なのだ。

そして、私がこの留学にこだわったのには、もう一つの理由があった。

それは……。


「すみません。城崎美咲というピアニストをご存知ありませんか?」


十年に一度の天才。

美貌の新鋭ピアニスト。

様々な賛美を浴びた彼女の消息は、ウィーンへ来てから、なぜかぷっつりと途切れていた。

こちらで彼女が活躍したという痕跡がまったく見つからないのだ。

これはどうしたことなのだろう。

まさか……。

最悪の事態が私の脳裏を横切った。

それは、私が彼女の生存を諦めかけた滞在二週間目の早朝だった。

ピアノの音だった。

その時の衝撃を、どのような言葉で言い表したらよいのだろうか。

とにかく私は、確かに美咲を見つけたと確信した。

そして、彼女の生存が確認できてなんともいえない安堵感で、

その場にしゃがみこんでしまったほどだった。

私はその音色(なぜか、時々途中で途切れ途切れになるのだが……)に誘われるように、一軒の小さな家に辿り付いた。

私は震える指でその呼び鈴を押した。

耳障りなブザー音が響き、それに呼応するようにゆっくりとドアが開いた。

相手は日本人青年だった。

年齢は三十代前半くらいだろうか。

柔らかな印象の美貌の青年で、彼は私に怪訝な眼差しを向けると、

緩やかにカーブを描いた長めの前髪を掻き揚げた。

恐らく、彼が美咲と駆け落ちしたという杉羅夜斗という俳優なのだろう。

「……何か?」

「あのう……こちらに城崎美咲さんがいらっしゃると聞いたものですから」

その瞬間、相手の表情から一気に警戒心が溢れ出した。

「……君は……?」

「僕は……雪花海杜と……」

私が自己紹介を言い終わる前に、杉羅の表情が変わった。

その端正な顔に上ったのは、激しい憎悪以外の何ものでもなかった。

私は思わず、その変化にぞっと身体が震えた。

「……帰ってくれ……」

そう声が聞こえたかと思うと、目の前のドアは閉じられていた。

「あのう!!開けて下さい!!美咲さん……いるんでしょう?

一目会わせて下さい!!僕は……彼女に会う為に!!」

「帰ってくれ!!いったい……いったいどういうつもりで美咲に会おうなんて……

君は……君は……そんな残酷なことを……!!

これ以上……これ以上美咲を苦しめるような真似はやめてくれ!!」

どういうことなのだ?

確かに美咲と父は許されぬ関係であったことは事実だ。

だが、それはもう過去のことではないか。

だいたい、美咲の方から父の元を去ったのではないのか。

その時、二人の関係は終った。

杉羅にとってはつらい過去かもしれない。

だが、この反応はあまりにもおかしい。

「杉羅さん!!杉羅さん!!いったいどうしたというんです!?美咲さんは……美咲さんは……」

私がいくらドアを叩いても、声を上げても何の反応も帰ってくることはなかった。

その日は、私はただ言い知れぬ空虚感を抱え、ホテルへと戻った。







それから私は毎日ピアノのレッスンが引けると、美咲のバラックへと足を運んだ。

雨の日も炎天下の日も私は毎日美咲の元へ通った。

だが、いつもドアは固く閉ざされたままだった。

声さえ聞こえなかった。

私はただ無言のドアに向かって、空しく自分の思いを訴えていた。

だが、とうとう私は声さえも失った。

ただ、そのドアの横に腰を下ろし、暮れなずむ夕日を見上げる。

そんな日々が続いた。

それは美咲を見つけて10日後の黄昏時のことだった。

今まで無言で私を威圧し続けたドアが、ゆっくりと開いた。

「……海杜君……と言ったね」

私が頷くと、杉羅はドアの中へ私を誘った。

杉羅は私にコーヒーを勧めると、沈み込むようにソファに座った。

どれくらいそうしていたのだろう。彼は呟くように言った。

「美咲と会っても……君はきっと後悔しない……そう誓ってくれるだろうか」

「えっ……?」

意味がわからずに問いかけると、彼は真っ直ぐに私を見つめた。

「約束してくれ……いいね?」

私は憑かれたようにただ頷いていた。

その為に……私はこの国に来たのだ。

杉羅は私の答えを受けると、小さくため息をついた。

「美咲に会わせてあげよう」

私は彼の言葉が一瞬信じられなくて、だいぶ経ってからようやく声を上げた。

「本当ですか……!?」

「ああ……。来てくれ……」







杉羅に続き、暗く長い細い廊下を進む。

「美咲と君のお父さんの関係は……知っているかい?」

「え……。ええ」

「では、どうして美咲がウィーンへ来たか……それは?」

私は首を振った。

「美咲がウィーンに来たのは、彼女自身の意思ではないんだ。僕が……連れてきた」

どうして?

そう口から出掛かった。だが、私に問いかけることを許さない杉羅の雰囲気がそれを阻んだ。

「もう、美咲は……それを決定できる意思能力が無くしていたから……」

「えっ……?」

「美咲はね。君のお父さんに捨てられたんだ」

私は言葉を失っていた。

別れは……美咲の方から告げたものだとばかり思ってた。

父と別れるため美咲がウィーンに来たのだとばかり思っていたから。

「美咲は……君のお父さんを本当に愛していた。

だが、君のお父さんは、美咲を捨てたんだよ。非情にもね。

美咲の生きる糧はピアノと君のお父さんだったというのに。

彼にとって美咲はただの遊びにすぎなかったのだろうね。

美咲は命がけで君のお父さんを愛していたというのに……。

しかも……それだけじゃない。君の一族は美咲に取り返しの付かないことをしたんだ!!」

どんどん杉羅の声は力を帯びていく。

まるで熱病にでも浮かされているかのように、彼の身体が小刻みに震えていた。

杉羅はあるドアの前に立つと、私の方へ振り返った。

「さあ、君の目でしっかり見たまえ!!君たち一族が……彼女に一体何をしたのかを!!」

杉羅の叫びと同時に、そのドアは開かれた。

そこには、一人の女性が座っていた。

大きな窓から差し込む光に包まれ、あの頃と寸分違わぬ姿で彼女はそこに佇んでいた。


城崎美咲。


間違いなく、彼女だった。


私はなんともいえない感動で、ただ立ち尽くしていた。

だが、すぐに妙なことに気が付いた。

自分がこうして現れたというのに、美咲に何の反応も現れていないのだ。

はじめは私のことを思い出せないのかと思った。

私はあの頃から見てずいぶん変わった。

たった六年とは言え、あの頃小学生だった私は、もう高校生になっていた。

背丈もだいぶ変わったし、顔つきもそうだろう。

しかし、私はそれもすぐに違うと否定した。

なぜなら、美咲は私を見ていなかったから。


「美咲……さん?」


そう問いかけた私は、更におかしなことに気が付いた。

美咲の手が。

行儀よく膝の上におかれた手。その左手に、手袋がはめられていたのだ。


「気が付いたかい?海杜君」

突然、悲しげな杉羅の声が響いた。

「杉羅さん……これは……」

「その手はね、複雑骨折の後遺症のせいなんだ」

「複雑……骨折?」

「そう。美咲の左手は、六年前、事故で複雑骨折したんだ」

「なん……ですって?」

「いや……あれは事故なんかじゃない……あれは……君のお母さんの仕業なんだ!!」

「……・・!?」

「とうとう美咲の左手は完治することがなかった。

そして、医師はあまりに非情な現実を美咲に告げた。

……もう一生、ピアノを弾くことは叶わないだろうと」

杉羅は悔しそうに唇を噛んだ。

「そん……な」

「ピアノが弾けない。そのことが発覚した時、美咲は死んだ」

「死んだ……?」

「そうだ。美咲の精神は死んでしまったんだ」

「君のお父さんに捨てられ、君のお母さんからピアノを奪われ……

美咲は全てを失って……壊れてしまった……。

君にわかるか?愛した女がこんなにボロボロにされて……無残に捨てられた……。

その悔しさ……悲しさ……君にわかるか?

僕がどんなに彼女を愛しても、もう彼女は僕を認識さえしてくれないんだ。もう……彼女は……」


死んでしまったんだ。


杉羅はそう叫ぶように言うと、その場に崩れた。

彼は子供のようにしゃくりあげて泣いていた。

私は、ただ美咲を見つめていた。


嘘だ。

これは何か悪い冗談だ。

悪い夢だ。

そうだ、悪夢だ。

こんなことが……。

こんなことがあっていいはずがない……。


「美咲さん……わかりませんか?海杜です。

よく父とあなたの家に遊びに行った……雪花海杜です。美咲さん……」

彼女はただにっこりと天使のような笑みを浮かべたまま、小さく小首をかしげた。

その目は私を捉えてはいなかった。

「美咲さん……」

私もまた美咲の無邪気な笑顔を見つめたまま、声を押し殺して啼いた。







「海杜……お前……美咲に会ったのか!?」

父が最後の力を振り絞るように声を張り上げた。

飛び出さんばかりに見開かれた瞳を見返しつつ、私は答える。

「ええ。会いました。あの異国の地でね。僕はあなたを許さない。

……美咲をめちゃくちゃにしてしまったあなたを……。

だから、どうしてもあなたはこの僕の手で始末したかった」

「海杜……違うんだ・・。私は美咲を守ろうとしてあの子と別れたのだ。

あのまま私と関係を続けていたら、あの子は……薫に……あの女に何をされたかわからなかったからだ……」

「何をされるかわからない……ですか。その心配は現実となってしまったようですがね」

父は私の呟きに、顔を上げた。

今にも泣き出しそうな顔を。

「そうだ……。父さん。美咲はあなたを最期まで愛していましたよ。そう。僕の腕の中でも」







私はそれからも毎日美咲の家に通い続けた。

だが、以前のような門前払いや待ちぼうけという待遇を受けることはなかった。

美咲というひとりの女性巡る二人の男の間には、いつしか不思議な連帯感が生まれていた。

友情とは違うだろう。それはなんと言い表して良いのか、今でもよくわからない。

とにかく、私は杉羅と打ち解け、いつしか家族同様のように彼らと過ごすようになっていたのだ。

美咲も私がピアノを弾くと、嬉しそうにそっと私のひざに頬を寄せ、その音色に耳を傾けた。

私はその時間が一番好きだった。


ある日、杉羅夜斗はこんなことを言い出した。

「今日から……三日間、泊り込みで公演があるんだ。その間……美咲をお願いできないだろうか」

「えっ……?」

彼は私の戸惑いにおかまいなしに、淡々とこの家の事情を説明した。

「そうだ……。美咲は……たまに発作を起こすことがある。

その時は、この薬を飲ませてやって欲しい。

10分程度で収まると思うから……。じゃあ……頼んだよ」

「杉羅さん……。どうして」

「君が来てから……美咲の顔が明るくなったんだ……。

僕にはできないことが……君にはできるらしい」

そう寂しげに笑うと、杉羅は旅行カバンを手にドアを後にした。



美咲は起床すると真っ先にピアノに向う。

その熱心さは、微笑ましいほどだった。

負傷している左手の影響でたどたどしいが、その調べは確かに美貌の天才ピアニストの面影を偲ばせるものだった。

私はその心地よいメロディに揺られ、意識を無くした。

どれくらい時が経ったのだろう。

突然響いた、バンという凄まじい不協和音で私の眠りは妨げられた。

私は思わず、弾かれたように顔を上げていた。

見ると、美咲が鍵盤に両手を突っ張っていた。

「美咲さん……?」

「弾けないの……」

「えっ……?」

「もう……弾けないのよ……私……」

私は言葉を失った。

それが、私が6年ぶりに聞いた美咲の声だった。

「弾けないの!!もう弾けないのよ!!」

そう叫ぶと、美咲はもうめちゃくちゃに鍵盤を叩き出した。

「美咲さん!!」

「いやっ!!いやっ!!怖い……私怖い!!私……何もかも……」

発作……。

これが杉羅が言っていた発作か。

それにしても、なんて力だろう。

この細くて折れそうな身体のどこにこんな力が……。

「いやっ!!私……私……もう……」

私は慌てて美咲を後ろから羽交い絞めにした。

このままでは、彼女は怪我をしてしまう。

そういう間に、彼女はピアノの角にぶつけたのか、指を少し切っていた。

透けるように白い肌に、赤い血が滲んだ。

いや、よく考えるとそれは私の血だった。

美咲が私の首筋を引っかいていたのだ。

私はその痛みも忘れて、必死に美咲を取り押さえた。

「離して!!いやっ!!私、弾くの!!ピアノ弾くの!!」

「美咲さん!!」

杉羅は美咲は死んだと言った。

だが。

美咲は生きている。

こうして、生きているではないか。

「いやあっ!!いやああっ!!」

美咲は駄々っ子のように、腕を振り回しながら、泣き出した。

私は片手で美咲を制しながら、杉羅から渡された薬を自分で含んだ。

そして、暴れる美咲の唇を塞いだ。

タブレットがゆっくりと美咲の舌へと移る。

タブレットを美咲が飲み下した後も、私は美咲の唇を離さなかった。







これは強姦と変わらないのではないか。

ふいに掠めたその考えを、私は振り払う。

ずっとこうしたかった。

父から彼女を奪いたかった。

私はただ、自分の醜い欲望の為に、彼女を犠牲にしているのではないか。

いや。私は確かに彼女を愛している。

それだけは、偽りない想いなのだ。

うっすらと開いた瞳が悔恨に揺れる私を映す。

美咲は子供のようにいやいやと首を振りながらも、私の身体を求めた。

私は幼子をあやすように彼女を抱いた。

決して私へ向けられたものではない、囁き、吐息。

名前、家柄、地位、血。

そんなものになんの意味があるというのだろう。

今、この瞬間があれば、私は明日命を絶たれようとも構わない。

背中がきりきりと痛んだ。

美咲の爪がきつく食い込む。

今、この瞬間。

今だけがあればいい。

これから以後、恐らく、私は誰からも本当に愛されることはないだろう。

なぜか、私はそう悟った。

この罪深い行為が、今後私に与えられるであろう全ての愛と引き換えになると思ったのかもしれない。

だが、それでも構わない。

今、この腕の中に美咲がいる。

その事実だけで十分だ。

「あなたが……好きよ。……幸造さん」

私は美咲の声を封印するように、口付けた。







けだるい倦怠感と罪悪感。

これが、長年愛し続けた女性を抱いた翌朝の光景だろうか。

ぼんやりと身体を起こした私の耳に、ふいに水音が入ってきた。


シャワーか。



『時々、美咲は発作的に自殺を……。

自殺を……。』



私は次の瞬間、弾かれたようにバスルームに駆け込んでいた。

「美咲……!?」

見ると、美咲が座り込んで水遊びをしていた。

私はそんな無邪気な彼女が愛しくて、自分が水びだしになるのも構わずに、彼女を抱き締めた。

そして、泣いていた。

私は幸せだった。

彼女と過ごす、この上なく、穏やかな時間。

それだけがあればいい。

たとえ、美咲の心が別のところにあるとしても。

他に何も望むものなどはない。

私は美咲との永遠を望んだ。

それが奪われるということを知らないままに。








その日も私はレッスンを終え、真っ直ぐに美咲の待つ家へと急いだ。

渡されていた合鍵で、鍵を開ける。

ドアノブを回すのさえもどかしいほどだった。

早く美咲に会いたい。

あの穢れを知らない微笑に触れたい。

私は逸る胸を抱え、ノブを回し、声を上げた。


「ただいま。……戻りましたよ。美咲さん」


その時、私は信じられない光景を目にした。


そこには、美咲が倒れていた。

彼女は、窓から差し込む午後の日差しを受け、静かに倒れていた。

私は一瞬、その一枚の静物画のように美しい眺めに動きを封じられたが、すぐに美咲を抱き上げた。


「美咲さん!?美咲さん?どうしたんです?しっかりして下さい!!」

そう彼女の頭部を掻き抱いた私は、妙な感触に気が付いた。

ゆっくりとその手を目の前にかざすと、

そこにはどろりとした赤黒いものがべっとりと付着していた。

それは、紛れもなく血だった。

「み……さ……き……」

私は慌てて彼女の手首を取り、パルスを探った。

しかし、そこに生の鼓動は感じられなかった。


私は、声にならない叫びをあげていた。


いったい、いったい何が起こったというのだ!?


私の中に、悲しみよりも先に巻き起こったのは、混乱と怒りだった。

朝にはあんなにも元気に手を振って送り出してくれたはずの彼女が、今はこうして冷たくなっている。

「どうして……どうして……美咲……美咲……」


やっと会えた。

やっとこの異郷の地で巡り合えたというのに、どうしてこんなことになったのだろう。

私は何も望まなかった。

ただ、ただ彼女と二人で生きられれば、他に何もいらなかったのに。

神よ。あなたは私に何をしたいのだ?

一体、何を……。

私は声にならない嗚咽を漏らしながら彼女の手を取り、頬に当てた。

その時、再び妙なことに気がついた。

美咲の手が、何かを握り締めているのである。

私は硬直がはじまって固くなったその指を一本一本丹念に広げた。

そして、再び声にならない叫びを上げた。

美咲の手にしっかりと握られたそれは、見覚えのある帯止めだった。

その瞬間、私は全てを悟った。


どれくらいそうしていたのか。

背後から耳障りなドアの開閉音が響いた。

「ただいま」という杉羅夜斗のよく通る声が響いた。

彼の立てる足音が、ゆっくりとこちらに近づく気配。

だが、私は美咲を抱き締めたまま、身動きを取る気がなかった。

顔を上げ窓を見上げると、そこからはもう夕日が差し込んでいた。


「やあ、海杜君。今日は美咲の好きなケーキを買ってきたんだ。シャンパンもある。三人で食べよう」


ドアが開き、いつになく陽気な杉羅の声が響いた。

だが、次の瞬間には、ガラスが砕けるような音と、しゅわしゅわという不快な音が響いた。


「美咲っ!?」


そう悲鳴のような声がしたと思うと、杉羅の狼狽した顔が私の正面にあった。


「どういうことなんだ……。海杜君……。これはいったい……」

私は答えなかった。

ただ、ゆっくりと杉羅から目を離し、美咲を見下ろした。

虚ろな視線を向ける彼女のまぶたをそっと閉じる。

すると、美咲はまるで眠っているようになった。

今にも、彼女のかすかな寝息が聞こえてきそうだった。


その瞬間、杉羅の号泣が響いた。


どれくらい経ったのだろうか。

私は美咲を見下ろしたまま、言った。

「ねえ、杉羅さん」

「えっ……?」

杉羅は、放心していたのか、ずいぶん経ってから間の抜けた返事をした。

私は顔を上げ、真っ直ぐに杉羅を見上げた。

「今回の件は、事故として警察に連絡してもらえませんか」

杉羅の端正な顔が当惑で歪む。

「海杜君……?何を言い出すんだい?これは……」

「僕は美咲さんの身体が司法解剖などで汚されるのが我慢ならないんです。

ですから、どうかお願いします」

「しかし……」

「お願いします。もちろん、そのままにするつもりはありません。ただ、僕に委ねて欲しいんです」

「委ねる……?君は一体……何を考えているんだ?」

私は割れんばかりにその帯止めを握り締めた。

そして、ゆっくりとポケットに仕舞い、言った。


「いいえ。何も」







美咲を荼毘に付して二日後。

私は日本への帰路についていた。

二度と戻ることがないだろう、そう決意したあの国へ。

そして、あの家へ。

だが、今の私は一人ではない。

そうだ。美咲。

君は今、私と共にある。

そう。あの一族に復讐する為に。


空港であの女――雪花薫の顔を見た瞬間、私はなぜか笑っていた。


今でもその理由はわからない。







19ーー年10月25日、私は死んだ。


私の中の優しさや未来や思い出も全て死んだ。


自分の手で殺した。

殺す決意をした。


あなたのために。


あの男をあの女を、あの一族全てを、君の玉座に跪かせてみせる。


全ての準備は整った。

あとは時期を待つだけだ。

あの一族は今、あらゆる意味で飽和状態を迎えつつある。

ほんのちょっと背中を押してやるだけで、それは儚く弾けてしまいそうなほどに。

まるで、水面に一片の小石を投げ込んだかのように、ゆっくりと。

だが、確実に波紋が広がっていく。


必ず、雪花一族を一人残らず君の前に跪かせてみせる。


誰よりも君を愛している。

そう。

あの男よりずっと。

だが、君はあの男を忘れることはないのだろう。

君はあの男を愛している。

この先、どんなことがあろうとも。

それでも構わない。

哀れな道化師でも構わない。

君にあの一族の命を捧げる。そう誓ったのだ。

雪花家の抹殺。

これはその証なのだ。

この手は既に血にまみれてしまった。

あれも、全て君の為だったんだ。

君ならわかってくれるね。


さあ、そろそろ行動を起こさなければ。

この波紋が消える前に……。


全ては君のために……。

ねえ……美咲。







帰国して三日後。

私はあの女――母と対峙していた。

場所は納屋だった。

ここならば、誰も来ないから。

ここは、一種の物置小屋のようなもので、

いたるところにロープや工具などが乱雑に置かれていた。

私はどうして自分がこんな場所に呼び出されたのか、

皆目見当がつかないらしい母を真っ直ぐに見据えながら、口を開いた。

「母さん。あなたにお聞きしたいことがあります」

「何をです?海杜」

「これを見て下さい」

私はポケットからあるものを取り出した。

それは、美咲が握り締めていたあの帯止めだった。

「これに、見覚えは?」

「あなたが持っていたの。ずっと探していたのですよ。どこで見つけたのです?」

「どこだと思いますか?」

母はとんと思い当たらないようだった。

「城崎美咲の手の中ですよ。死体となった……ね」

その瞬間、能面のようだった母の顔に、朱が差した気がした。

だが、それは本当に一瞬のことで、母はまた何事もなかったかのように言った。

「そうですか。それを返しなさい。海杜」

「このことに関して、あなたは何も言うことはないのですか」

「お返しなさい。海杜」

「嫌です」

能面が色を変えた。

私の反発に驚いているらしかった。

私はそんな彼女の狼狽に、私は叩きつけるように言い放った。


「美咲を殺害したのは、あなたですね?母さん」


少しの沈黙のあと、母が口を開いた。

いつものように熱を失った凛とした声。


「だったら……どうだというのです?海杜」


今度は私が狼狽する番だった。

「母さん……あなたは……」

「話はそれだけですか?では、早くそれをお返しなさい。

明日の園遊会で着けていくのですから」

「母さん……!?」

私は母が自白したとしても、彼女を警察に突き出すような真似をする気はなかった。

できるとは思っていなかった。

ただ全てを告白し、彼女の墓前で謝って欲しい。

それだけだった。

彼女はどんな女であれ、私の母には違いなかったのだから。

そう、たとえ本当の母ではなかったとしても。

私にとって母という存在は、目の前の人物しかありえなかったのだ。


「母さん、あなたは本当に……本当に美咲を殺したのですか」

「おやめなさい。海杜。人聞きが悪い」

そう言うと、母はさっと背を向けた。

私はその背中に追いすがるように叫んだ。

「聞かせて下さい。あの日のことを……!!」

母はゆっくりと振り返ると、能面のまま言った。

「今更聞いてどうなるというのです?海杜。もう済んだことではありませんか」

だが、見つめる私に根負けしたのか、彼女は重い口を開いた。


そして、淡々とまるで他人事のように語り始めたのである。

あの狂おしい光景の一部始終を。







美咲がドアを開けると、そこには一人の女が立っていた。

この国では珍しい和装の異国からの来訪者。

それは、まさに招かれざる客であった。

女は開口一番、言った。

「ここに、海杜が来ていますね」

「えっ……?」

「惚けても無駄ですよ。ここに海杜が毎日通っているのは、調べがついています。

さあ、あの子をお出しなさい」

「海杜……くん?」

自分の言葉を鸚鵡返しのように繰り返すだけの美咲の反応に、

ようやく薫も彼女が正常ではないことに気がついた。

「……あなた、わからないの?この私のことが……。この雪花薫のことが」

「ゆきはな……かおる?」

幼子のように小首を傾げる美咲に、薫は鼻で笑うように言った。

「困ったものね。これでは、埒が明かないわ。

いいわ。私が自分で探します。そこをお退きなさい」

「かおる……お……く……さま……?」


その瞬間、美咲の脳裏に蘇ったのは、あの恐ろしい光景だった。

ピアニストとしての彼女が死んだ瞬間の。


美咲は、記憶を取り戻していた。


「あなたは……奥様……」

美咲の眼差しが正気になったことを確認し、薫が言った。

「ようやくわかってもらえたようですね。美咲さん。

ずいぶんお久しぶりでしたこと。こんなところにいらしたの」

「奥様……どうしてここに……?」

「海杜を連れ戻しに来たんですよ。あの子は雪花家の大切な跡継ぎですからね」

「海杜君……海杜君がここに?」

「そうですよ。あの子はピアニストになるなんて血迷ったことを言い出してこんな異国の地まで来たのです。

どうせ、あなたが唆したのでしょう。幸造だけでは足りなくて、今度は海杜にまで手を出そうというの?」

「そんな……」

「とにかく、そこをお退きなさい。中にいるんでしょう。海杜が」

「いいえっ!!ここに海杜君はいませんわ!!」

実際、海杜はこの時不在だった。まだレッスンから戻っていなかったのである。

「おだまりなさい!!いるんでしょう。私にはわかります。

海杜!!海杜!!出ていらっしゃい!!帰りますよ!!」

「やめて下さい!!本当に、海杜君はここにはいないんです……!!」

「お退きなさい!!さあ!!」

「きゃあっ!?」

薫が追いすがる美咲の身体を振り払った瞬間、

彼女の身体は木の葉のように舞い上がり、そして、床に落ちた。

鈍い音がしたと思ったら、美咲はもう動かなくなっていた。

薫が慌てて美咲に駆け寄った時には、既に彼女のパルスは停止していた。

虚ろな目を天井に向けた美咲の後頭部から一筋鮮血が滴った。







「あれは事故なんですよ。海杜、いいえ。事故ではないわ。

当然の報いね。あの雌猫には相応しい最期だったと言えるでしょうねぇ」


私は現でも終わらない悪夢の続きを見ているかのように、その場に放心していた。

こんなにも呆気なく自分の全てを賭して愛した存在がこの世から消された。

その計り知れぬ衝撃に、私は立っていることすらままならない状態だった。

だが、当の元凶は、涼しい顔をして言い放った。


「さあ、気が済んだでしょう。海杜。その帯止めを寄越しなさい。さあ」


次の瞬間、私は弾かれたように手にしていた荒縄を母の首にかけていた。

「何をするのです!?海杜!?早く……この縄を解きなさい!!海杜!!」

「謝って下さい!!母さん!!美咲に!!美咲の墓の前で!!」

私は思わず叫んでいた。

どうか、一言。一言でいいから美咲に謝罪して欲しい。

申し訳なかったと。

でないと僕は……。


「馬鹿な。なぜ私が謝罪する必要があるのです。あんな雌猫の為に。あれは、当然の報いです!!」

「そんなっ!!あなたは……美咲のことを……」


なんとも思っていないというのか!?


ああ、この女は少しも罪悪感を感じてなどいないのだ。

ただ、自分の嫌いな虫けらをちょっと捻り潰した。そんな感覚しかないのだ。


この女が、美咲を殺したのだ。


私の身体の中に何か感じたことのない感情がどっと流れ込んできた。

母だから。

母だからこそ。

許せなかった。

ただ、墓の前で謝って欲しかった?

いや、違う。

そうではない。

なぜだ?なぜ私はこの帯止めを持って帰国した?

なぜ私は大切な証拠品を現場から持ち出したのだ?

ウィーンの警察がこの事故が本当は殺人だと気がついても、

これがなければ母を逮捕すること、

そもそも母が犯人だということに辿り着くことさえできないではないか。

そうだ。

私は母を司法の手に渡す気がなかったのだ。

だから、私はこの証拠品を現場から持ち出したのだ。


はじめから、この手で決着させるために。


そうだ。

私はこの手で、母を殺すため帰国したのだ。


身体が瘧にでもかかったかのように震える。

私はその時。

初めて明確に殺意の手触りを感じた。

やれる。

私は確信した。

次の瞬間、私は両手に力を込めていた。

渾身の力を込めて縄を引いていた。

自分のものとは思えないような叫びが。

喉が破れんばかりの叫びが迸った。

憎い。

この女が憎い。

私は気が触れたように、もうめちゃくちゃに全身の力を込めて縄を引いていた。

殺意が私の中から止め処なく暴れ出す。

「うっあああああああっ!!」

鉛のように重かったそれが、急にふっと軽くなった。

その瞬間、私は手を離していた。

物凄い勢いで縄は消え、背後で何かが崩れるような音がした。

同時に私の身体もその場に崩れていた。

肩が腕が胸が、ものすごい勢いで痛んだ。

私は呻きながらその場に這いつくばった。

ずっと呼吸を忘れていたように、私の肺は夢中で酸素を求めていた。

喉がつぶれたかのように、声が出ない。

両手には縄の痕がくっきりと残り、じんわりと血が滲んでいた。

その傷は、時間を経るごとに、じんじんと痛む。

私はそれらのあまりの苦しさに喘いだ。

涙が後から後から零れた。

それからどれくらいの時間が経ったのだろう。

ゆるゆると首だけを動かして背後を見ると、

そこでは母が、今まで見たことのような滑稽な顔をして落ちていた。

母は笑っているようだった。

その顔を見ていると、なぜ母が笑わなかったのか、その理由がわかった気がした。


笑っている母は、この上なく醜かった。







私にとっては幸いなことに、私と母の異常な情交は、使用人にさえも漏れることはなかった。

その点は異常なまでに用心深かったあの女に、感謝しなければならないだろう。

だから、母の死後、私はたださめざめと泣いていればよかった。

誰も私のことを疑う者などいなかった。

表向き、私には母を殺害する動機などなかったから。

同時に、母は遺書めいたものを残していた。

それというのも、これまでにも母は、何度か自殺を企てたことがあったのだ。

母はその気性の激しさから、時折ヒステリーを起こすことがあった。

普段大人しく構えている分、一旦火が着くと、

誰も止められないほどの勢いで、母の狂気は爆発した。


私は何度かそれを鎮める為、彼女を抱くことがあったほどだった。


そして、騒ぎを嫌った父がかけた圧力もあったのだろう。


こうして母の死は、あっさりと自殺として処理された。


だが、これは私の復讐の第一歩に過ぎなかった。







恭平の前に副社長だったのは、少なくとも人間らしい心を持った初老の男だった。

彼はよく家で父と碁を打っていることがあり、幼い頃から私も顔見知りであった。

そんな副社長が、突然社の副社長室に私を呼び出した。

くれぐれも誰にも知られないようにと強く念を押して。

私は指定された時間きっかりに彼の元を尋ねた。

だが、相手は私の顔を見つめたまま、ただ押し黙っているだけだった。

見ると、額に脂汗まで浮いている。

「どうされたんですか?顔色が良くないですよ?どこか、具合でもお悪いのですか?」

実際、その時の専務は持病を悪化させており、それから数ヵ月後に依願退職をしていた。

すると、ようやく決心したかのように長く息を吐くと、副社長は口を開いた。

「海杜様……本当は私だけの胸にしまっておくべきなのかもしれません……。

ですが、私には……私には……隠しておくことができません。

だって。あまりにも……これではひどすぎる……」

何をですか?と尋ねた私に、彼はあまりに残酷な事実を突きつけたのだ。


心中に追い込んでしまった樹菖蒲こそ、私の実の母親であるという事実を。


それは、まさに爆弾を投げつけられたかのような衝撃だった。


私の中に急速にあの女性の記憶が形成された。

あの女性の、あの時の縋りつくような、それでいて懐かしそうな目は。

私を息子と知っていて……。


それなのに、私は彼女に背を向け、そして、見殺しにしたのだ。


私は実の母親に死刑宣告をしたのだ。


私はその事実を知った瞬間。


その場に崩れていた。


そして、ただ泣いた。


啼いた。


己の無力さに、己の愚かさに。


本当に心を失くした気がした。

そして、誓ったのだ。


雪花家の血など、一滴残らずこの世から消してみせると……。







目の前の父は、既に死人のようになっていた。


「あなたは最近、急に自分が狭心症になったことを呪いではないかと吉成水智に漏らしていたそうですね。

ふふ……あなたらしくもないセリフだ。滑稽ですよ。

でも、ご安心下さい。それは呪いでもなんでもありませんよ」

私の微笑みに、父が顔を上げた。

いまや父は、本当に呪いの存在を信じているのかもしれない。

いろいろな意味で。

「これがなんだかわかりますか?」

私はそう言って、小さな小瓶を取り出した。

「ーーーーーーーです。狭心症などの治療薬として用いられていますが、

健常者が服用すると、その逆の効果を生むのです。

これをあなたのブランデーにたっぷりと仕込んでおきました。ブランデーはあなた専用ですからね」

「……おおっ……」

「あなたのことは簡単に楽にする訳にはいかない。

あなたはじわりじわりと少しずつ苦しむべきなんだ。

いつ訪れるかわからない死の恐怖と戦いながらね……。

僕はあなたを許さない。いや、あなただけではない。

この雪花一族を……僕は決して許しはしない。

たとえ、あなたが地獄に堕ちようとも……」


私は父のデスクからタバコを取り出すと、火を付けた。

あえて葉巻には手を伸ばさなかった。

安たばこで十分だろう。

口に含むと、ニコチンとタールの不快なハーモニーが肺に吸い込まれ、やがて脳に巡る。

こんなもの、吸う人間の気が知れない。

もうこの男の心臓は限界に達しているだろう。

私は駄目押しの言葉を放った。

「知っていますか?父さん。死刑囚は死刑執行の前に、

一本だけタバコを吸うのが許されているんだそうですよ」

そう言うと、私は自分がくわえていたタバコを震える父の口に押し込んだ。

「さあ、どうぞ。いかがです?お味は」


父の口から、タバコがぽとりと、落ちた。


「さようなら。父さん」


私は、父の死に様を確認すると、大きく息を吸い込んだ。


「誰か!!誰か来てくれ!!父さんが!!父さんが!!」
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