【全年齢版】この世の果て

409号室

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幕間 最果ての地にて

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『人間は、克服されねばならない何かだ。

 君たちは人間を克服するために、何をしたか。

             ーーフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ』




「社長、本日午後からのスケジュールですが……」

そうスケジュール帳に目を落とした僕の視線が、ふいに机上のあるものに留まる。

僕の眼差しに気がついたのか、社長はちょっと微笑んだ。

「簡単に言うと、一人チェス……。昼休みにはじめたんだ。まあ、頭の体操さ。君もどうだい。咲沼君」

僕が答えようとした時、ノックの音がした。

「はい。開いているよ」

そう社長が声をかけると、

「失礼しますわ、海杜お兄様」

と凛とした声が響いた。

ドアが開くと、そこには、制服姿の妹たちが立っていた。

「こんにちは。海杜さん」

美麻が少し遠慮がちに声を上げた。

「ああ、いらっしゃい。美麻ちゃん」

それに社長が男の僕でさえ魅力的に感じる笑顔で答える。

「海杜お兄様、この私には何の挨拶もありませんの?」

そう菊珂が頬を膨らませると、社長は慌てて、

「ああ、悪かったよ。菊珂。君もよく来たね」

と妹に微笑んだ。

「ふふっ……。お兄様は相変わらずなんだから。こんなので本当に社長様なのかしら?」

「まったくだね」

「ご自分でお分かりなら、世話はないですわ。あら。これはなんですの?」

「あ、チェス……。海杜さんとお兄ちゃん、チェスしていたんですか?」

「いや、これは僕一人でやっていたんだ。ほんの暇つぶしにね」

「呆れた。そんな一人でチェスなんてして、何が楽しいんですの?」

「菊珂。君はそうやって馬鹿にしているようだけど、これだって、なかなか頭を使うんだよ」

「どうせ、お兄様のことですから、こうやって盤上を一人で思いのように操ってまるで自分が神様みたいとでも思って悦に入っているんでしょう。

もう。お兄様ったら、まだ子供なんだから」

「いや、違うさ。一人チェスだからと言って、これがなかなか思うように行かないんだ。

チェスなりの定石があるし、一手狂うだけで、全てが乱れる……。だが、そこが面白くもある」

そういうと、彼は白いナイトを前に進めた。

「これで、黒のクイーンも陥落……」

そう言うと、社長はこつんと白のナイトで黒のクイーンの駒をこずいた。

ゆっくりとバランスを崩して盤上から堕ちて行く駒。

なぜかその光景が、まるでストップモーションのように目に焼きついて離れなかった。

「次はキングの番ですね」

そう無邪気に微笑んだのは、美麻。

「ははは……美麻ちゃんは急先鋒が好きなのかな?意外だね」

社長の指摘に、美麻は顔を真っ赤にした。

「あ……いえ……ただ、このポジションだったら、あと二、三手で白の勝ちかなって……」

「美麻ちゃん、君の考えはもっともだよ。君はなかなかな戦略家なようだ。

だけど、まだまだわからないさ。勝負の世界なんて、紙一重。

それに何より、面白くないだろう?勝負はもっとスリリングな方が面白い」

そういうと、彼は白のナイトを後退させた。

「あっ……」

美麻がその意外な手に声を上げると、社長は微笑んで言った。

「チェックメイト……つまり、フィナーレはまだまだお預けだよ」





留置所の冷たい床で彼は目覚めた。

鉄格子の嵌った窓からは、柔らかな日差しが降り注いでいる。

その眠りは、ほんの数分の白昼夢であったようだった。

随分懐かしい夢を見ていた気がした。

あの頃の……。


殺人の現行犯として身柄を拘留されて、早十日が過ぎていた。

外の世界では、この一連の事件の幕引きがどのように報道をされているのか。

だが、今の彼にはそんな世俗のことは何一つ気にならなかった。

両親を亡くし、妹を亡くした今は、この出来事のせいで被害を被ったり、

彼の身を案ずるような身内は誰一人存在しないのだから。

復讐を遂げた後、自分がどうなるのかなど、一度も考えたことがなかった。

こうして冷たい獄に繋がれているのか、はたまた平凡に暮らしているのか。

ただ、妹にだけは迷惑をかけたくはない。

そんな一念だけだった。

だが、その想いも今はただただ虚しい。


思えば、十日前のあの瞬間、彼の復讐は、本当の意味で完成したのだ。


ならば、なぜ自分は今、こんなにも悲しいのか。

苦しいのか。


そして、愚かな自分だけを残し、彼らは誰もいなくなった……。


いや、復讐を完成させたのは、自分ではない。

あの白と黒の駒が並んだ盤上で、あの時、彼が微笑みながら見据えていたのは……。


「僕も……あなたにとっては……あの駒の中のひとつだったのですか?」


一人そう呟いた瞬間。


「咲沼英葵」


そう自分の名を呼ぶ鋭い看守の声が響いた。

ゆるゆると顔を上げた彼に、看守は冷酷なほど冷たい声で告げた。



「面会だ。出なさい」
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