【全年齢版】この世の果て

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第七章 死が二人を別つまで

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『多くの者達は死ぬのが遅すぎる。またある者達は、死ぬのが早すぎる。

時に適って死ね、この教えは現在はまだ異様に聞こえよう。


                         ーーフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ』





ええ。そうです。私はひどい男です。

妻がありながら、義弟の妹である少女と不義の関係を結んだ挙句、義理の母を抱いた罪深い男です。

それは全て事実ですよ。否定しません。

ひどい野郎だ?

ええ。その通りですね。本当に僕は罪深い男だと思います。

えっ?私がナイフを握っていた?血のついたナイフを?

そうですか。それならば、きっと私が里香さんを殺したんでしょう。


そんな……ふざけてなんていませんよ。記憶にないんです。


だから、自信を持って自分の無実を主張なんてできないし、する気もありません。


自白……?


自白も同じことでしょう。それも無理だ。私には記憶がないんですから。

どんな風に里香さんを殺したのか、僕には証言することができない。

それとも、自白したら僕を救って下さるんですか?

なら、自白しますよ。ええ。僕が里香さんを殺したんだ。どうです?


だから……僕はちっともふざけてなんていません。


もういい。何もかも嫌になりました。


僕を逮捕したいのなら、好きにすればいいじゃないですか。

弁護士をつける権利?

いいえ。今の僕を弁護して下さる方なんていないでしょうし、いりません。

ああ、わかってますよ。それが里香さんの胸に刺さっていたナイフですね。

もう何度見させられたことか。

良心が痛まないのか?

痛みますよ。覚えていればね。もちろん。でも、記憶にないんですよ。

ねえ、教えて下さい。刑事さん。


私は、人殺しなのですか?







「美麻ちゃん……」

一体、何日ぶりの再会なんだろう。

ほんの二週間程度だっていうのに、なんだかアタシにはもう何年も経ってしまったかのように思えた。

少しやつれたような美麻ちゃんの顔。

控えめだけどあんなに輝いて、あんなにキラキラしてステージにあがっていた美麻ちゃんが、今はこうして静かな病室で佇んでいる。

右手には痛々しいくらいに包帯がきつく巻きつけられて。

そうだ。美麻ちゃんはもうピアニストとしてあの輝かしいステージに上がることができないんだ。

アタシはその瞬間、思わず泣き崩れていた。

「伊山さん……?」

「ごめんね。美麻ちゃん。美麻ちゃんがこんな目にあったの、全部……全部アタシのせいなんだよ。うっ……ごめん……ごめんね」

泣きながら、ただもう無我夢中にアタシがミスしたせいで美麻ちゃんのスキャンダルが露見してしまったことを話していた。

美麻ちゃんは、ただ静かにアタシの話に耳を傾けていた。

この上なく穏やかな顔で。

アタシはその時、聖母ってこういう感じなんだろうかって感じた。

「そんな……伊山さんのせいなんかじゃないですよ。全部、私自身が悪いんです。

私が……愛してはいけない人を愛してしまったせいなんです。私のせいで、たくさんの人が傷ついてしまいました。

その中に……伊山さんもいたんですね。ごめんなさい……」

「美麻ちゃん……」

「私は平気です。ピアノが弾けなくても……私はやっていけます。だから、お願い。

私のために苦しまないで下さい。私……平気だから……」

「ねえ、美麻ちゃん。教えて。どうしてこんなことになったの?一体誰がこんなことを?」

すると、美麻ちゃんはゆっくり首を左右に振った。

「これは事故なんですよ。鍵盤の蓋が勝手に落ちてきてしまったんです」

「嘘。そう簡単に鍵盤の蓋が落ちるはずないよ。

本当は……誰かにやられたんじゃないの?美麻ちゃんのスキャンダルをよく思わない誰かに……」

「いいえ。これは事故なんです」

「美麻ちゃん……!!」

「事故なんですよ。伊山さん。ううん。これは天罰なのかもしれません。私自身の罪深い行為を裁くための……」







「呪われているな。この家は……。世間でこの雪花家がどう呼ばれているか、知っているか?英葵」

そう言うと、義父はまだ長い葉巻を灰皿に押し付けた。

「亡霊屋敷だそうだ。悔しいが、言えているな」

その顔には、少しの感傷も感情も感じられない。僕は問わずにはいられなかった。

「あなたは……悲しくはないのですか?ご自分の妻が殺されたというのに。

そして、その容疑があなたの……息子にかかっているというのに」

「お前らしくない言い草だな。そんな感情は、とうの昔に捨ててきた。いいか?英葵。

人間の持つぬるい感情の全ては不要なものだ。お前には、それがわかっていると思っていたがな」

そうだ。僕は確かにわかっていたはずだった。

復讐のためならば、僕はこの手が血で穢れても、自分自身の血が流されても構わない。

そう誓ったはずだった。

だが、今の僕はどうだ。

僕は何かを恐れている。

それは一体なんだ?

知りたい。

知りたくない。

知ったら、僕は牙を失う。

それを得たいと欲した瞬間、僕は全てを失う。

「お前にだってわかっているだろう?その感情が、人だけでなく、時に己自身おも深く抉るということを。

そんな感情ならば、はじめから持たぬ方がよい。違うか?」

はっとした。

その寂しげな瞳に僕は覚えがあったから。

いや、それはおかしな表現だろう。

僕は義父を初めて普通の人間だと認識したのだ。

どこにでもいる、ありふれた人としての感傷。

僕はその瞬間、初めて義父の感情を感じた気がした。

あなたも誰かを愛したことがあるのですか?お義父さん。

そして、深く傷ついたことがあるのですか?


父を殺し、母を殺したあなたにも、そんな……。


なんだ、みんな同じじゃないか。

変わらないじゃないか。

お前は何をこんなにも思い悩んでいるんだ?

早く認めてしまえばいいじゃないか。

特別なものなど何も誰もいないのだと。

やめてくれ。

お願いだ。

神よ。

どうか、僕に人間の感情を蘇らせないでくれ。

僕に愛を気づかせないでくれ。







昼間だというのに薄暗い部屋。

吉成水智はその日も男の腕の中で喘いでいた。

繰り返される激しい愛撫と押し寄せる蕩けるような快楽。

これらは報酬なのだ。

「もう少しね?もう少しなのよね?……ああっ……いいっ……」

高まる水智の爪が彼の背中に食い込む。

「もっと……ああっ……」







「あっ……いい……恭平……」

今日の水智は思いのほか上機嫌だった。

いつも以上に激しく俺の愛撫に答え、酔っ払ったかのように突然ゲラゲラと笑い出したり、近所に突き抜けそうなほどの声を上げた。

まったく、いい気なもんだぜ。

俺はてめぇに付けられた背中の痕(こいつは高まると背中に爪を立てる癖があるらしい。)が痛んで仕方がねぇってのに。

「どうしたんだよ。今日は、ずいぶん感じてるみたいじゃねぇか。専務さん」

「うふふ……どうしてかしらね?嬉しくてしょうがないのよ。ふふ……あなたには想像もつかない理由でしょうけど」

「お前を振った海杜が落ちぶれていく様が楽しいのか?」


その日の午前中。俺と水智は雪花家の屋敷に海杜を訪ねていた。

それは奴の社長解任から三日後。

奴の解任が正式に発表された翌朝だった。

「どうお呼びすればよろしいのかしら。落ちたものですわね。海杜様」

水智の皮肉にも、海杜は憂いに満ちた瞳を上げただけだった。

「ふふふ……。まさか、こんな日が来るとは思いもしませんでしたわ。こちら、持って参りましたの。そう。あなたの社長解任の正式な辞令」

「そう……ですか……」

「それにしても、いけないなあ。海杜。お前は俺の秘書にしてやったと言っただろう?なぜ出勤してこない?」

「断る」

「何?」

「僕はもう、あの会社に行くつもりはない。君が社長になった。結構なことだ。父と協力してあの社を盛り立てていってくれ」

俺は海杜の頬を打っていた。

海杜がゆっくりと俺を見上げた。

その目には確かに俺への敵意が見えた。

「言っただろう?お前は俺には逆らえない。俺がお前を秘書にすると決めたんだ」

海杜はただ無言で俺を見上げ続けた。

「そうか、俺の秘書が嫌か。じゃあ、別の命をくれてやろう」

俺はそう言うと、海杜の身体を背中から羽交い絞めにした。

「えっ……?うわっ!?」

「さあ、吉成専務殿。お前にこいつの身体をくれてやる」

「恭平君……!!」

「言うことを聞かない部下なんだ。手を焼いている。俺の手には負えないんでね。教育係としてきっちり教えてやってくれ」

「吉成さん……」

海杜は哀願するような目を水智に向けた。恐らく海杜は「常識人」の水智ならば、俺の戯言になど乗らないと踏んだのだろう。


だが、残念だったな。海杜。

この女は確かに「常識人」には違いない。

会社の中ではな。

水智は海杜を何の感情も宿らないような冷めた目で海杜を見下ろしていたが、やがてにやりと微笑んだ。

「うふふ……。悪くないわね」

「えっ……?」

信じられないというような目で海杜は水智を見上げた。

「どうしたの?うふふ……そうよね、あなたにとって私は女としては

認識して頂けてはいなかったようですから……無理もないかしら?」

「吉成……さん……」

水智の細い指が海杜の唇を撫でる。海杜の身体が微かに震えた。

「うふふ……。海杜様。どれだけ私があなたのこの唇が欲しかったか、あなたはご存知ないでしょうね?」

そう言うと、水智は海杜の唇を奪った。その瞬間、大きく海杜の目が見開かれる。

嫉妬したくなるくらい、長い口付けだった。

俺がどっちに嫉妬したのかは想像に任せるが。

もがく海杜の腕をきつく締め上げる。

水智がゆっくりと髪留めを取る。零れる長い黒髪。

水智は妖艶に微笑みながら、自分の眼鏡を外すと床に落とした。

有能な専務が女に変わる瞬間。

「やめて下さい……あなたは、こんなことをする人じゃない……」

「あら。私だって女よ。そう、私はあの日、あなたに告白した日。確かに女だったの。

でも、あなたは私を受け入れては下さらなかったわ。そう。あなたにとって、私は女じゃなかった……」

「違う……そんなつもりじゃなかった……ただ……私は……あっ……」

「そして、あの拒絶された日。私は言ったわよね?

私はあの日の宣言通りに行動しているわ。その点は安心して頂戴。うふふ……」

水智の細長い指が海杜のワイシャツの隙間に入り込む。

「醜い女の遠吠えね。おかしいでしょう?私。そう。私、狂っているのよ。

でも、それもあなたのせいよ。あなたは私を狂わせる……。全部……あなたのせいよ……」

水智は一気に海杜のワイシャツを脱がせると、露になった肌に口付けた。

「いや……あ……!!やめて……!!吉成さん……!!」

「そんな目をしないで」

水智はそう言うと、海杜の頬に優しく触れた。

「ね?ダメよ。そんな顔されたら……。私」

水智は嗤った。

「もっと、いじめたくなるから」

海杜が凍り付いた。冷たくなった奴の身体をきつく締め上げる。

逃げ場なんてないんだぜ?海杜。

「ほら、海杜。今度こそ、ちゃんと水智を受け止めてやれよ」

「あっ……ぅあっ……」

「あなたが憎いわ。そして、あなたが愛しい。この気持ち、わかるかしら?あなたに」

水智の妖艶な笑みと反する海杜の鋭い悲鳴。

深く突き刺さる水智の爪が彼の背中を抉っていた。

ブツっという嫌な音を立てて、海杜の肌から鮮血が流れ出す。

「キレイ……。うふふ……」

水智の爪が海杜の血で赤く彩られる。水智はその朱に染まった指先をぺろりと舐めた。

海杜は恐怖で口も利けないようだった。

「やれやれ。女は怖いねぇ。なあ。海杜」

俺はそうして女に弄ばれる海杜の姿を楽しんだ。

まったく、たいした女だよ。お前は。


「うふふ……。そういうことにしておきましょうか?……ああ。喉が渇いたわ」

俺は女王様の命を受けて何か飲み物を探すことにした。

「そうだ。乾杯しようぜ。水智」

「乾杯?」

「ああ。明日の成功を祈ってな」

俺は冷蔵庫から冷えたシャンパンとグラスを二つ取り上げると、ベッドに戻った。

シャンパンの栓に指をかけた俺をなぜか水智は押し留めた。

「なんだよ」

「ねぇ、恭平。乾杯は全てが終わってからの方が相応しいんじゃないかしら?」

「あん?」

そう言うと、水智は意味ありげな目で俺を見上げると、シャンパンボトルを奪った。

猫のような目だ。猫のような女。

こうしてすべてを晒しながらも、得体の知れないところのある女。

「明日……決行するんでしょう?じゃあ、その後に、盛大にやりましょうよ。私とあなたのものになったあの会社で」

「それも悪くないがな……」

「ふふふ……。そんな顔しないの。もう少しの辛抱でしょう?」

そう言うと、水智は駄々っ子をあやすかのように俺に口付けた。







いつも通りの重役会議。

今日、この場で世界が変わる。歴史が変わる。

この俺の手で。

運命は変えられないもの?

運命とは決められたもの?

馬鹿な。そんな戯言を言う奴は負け犬にすぎない。

運命とは、そう。この手で奪い取るものだ。

俺は挙手をして立ち上がった。

「失礼。会議の前にひとつ、緊急で協議したい議題があるのですが」

微かにざわめく議場。会長は軽く眉を動かした。

「どういうことだ?恭平」

「会長。あんたがその席に座っていられるのも、今日が最後だという意味ですよ」

「ほう……。面白いな、恭平。話を聞こうか」

いつも通りの余裕のポーカーフェイスか。

親子揃ってのその涼しい顔が、俺は虫唾が走るほど嫌いだった。

今、その氷の面を俺がぶち壊してやる。

俺は早速、水智から入手したある書類の写しを役員に配った。

これが、ずっと暖めていたジョーカーの正体だ。

「これは、ある建設会社と我が雪花コーポレーション会長・雪花幸造の黒いつながりを記した証拠書類です」

場がざわめいた。俺は頬の筋肉が緩むのを感じた。

今こそ、歴史が変わる。

この俺の手で。

「皆さんご覧の通り、この書類にはきっちりとわが社の会長の名が刻まれている。これはどういうことでしょうねぇ?」

会長は相変わらず、顔色ひとつ変えない。

俺はそれが面白くなかった。

いいさ。

今に引導を渡してやる。

あんたは終わりなんだと。

「さあ、この事態に、どうあんたは責任をとるおつもりですか?会長」

「ちょっと、待って下さい」

そう声を上げたのは、常務取締役の席に収まった英葵だった。

「なんだよ。英葵。邪魔する気か?」

「いいえ。僕は別に社長の行動に水を差すつもりはありません。ただ、ひとつだけ確認したいんです」

「なんだ」

「この書類の名義は会長ではなく、他ならぬ、あなたではないですか?」

「なんだって……!?」

「この書類も、この書類も全部、あなた名義ですよ。更科社長。これを、あなたは一体、どのように説明して下さるんです?」

英葵の問いに、俺は凍り付いた。

そんな……馬鹿な……。

俺は慌てて自分の手元の資料に目を落とし、血の気が引いた。

どういうことだ……?

そこにあるのは、確かにあの書類だった。

だが、肝心の名義の部分が会長ではなく、俺になっていた。

俺は慌てて背後の水智に視線を送った。

彼女は吸っていたメンソールから唇を離すと、俺を見据えた。

煙が俺達の間を揺らめいた。

まるで、俺をあざ笑うように。

「あなたも、これまでね。更科社長」

「水智……お前……まさか……」

「私を甘く見ないでと言ったでしょう?」

そう言うと、水智はタバコを弾いた。

それは俺の足元に転がった。

「水智……お前……」

「あら、勘違いしないでね。私はこの会社に忠誠を誓っているわ。私は会社の利益優先で、ことを運んだにすぎないのよ?」

その瞬間、水智は素早く会長と目配せをした。

まさか……!!

水智は……会長の側のスパイ!!つまり、二重スパイか!!

全ては、俺を監視するため……会長は水智を俺のもとに送り込んだのか。

偽りの賄賂疑惑の書類で俺を踊らせ、「反逆者」の俺に賄賂の全ての罪を着せて……葬る……。

それが……筋書きか。

「やってくれたな。恐れ入ったぜ?女狐さんよぉ。女優にでもなった方がいいんじゃねぇのか?」

「お褒めに預かり、光栄だわ。あなたとの悪巧みのフリも結構楽しかったわよ。ふふ……」

水智は妖艶に微笑むと、役員に振り返った。

「そろそろ茶番劇の幕を引きましょう。……では、裁決を取りましょうか。更科恭平の代表取締役社長解任の……ね?」







全会一致の拍手に迎えられ、僕は雪花コーポレーションの社長に就任した。


見慣れた社長室。

その主の椅子へ掛ける初めての感触。

どれだけこの日を待ち望んでいたのだろう。

ついに僕はやったのだ。

僕の復讐は今、完成したのだ。


僕は有頂天になって病院の美麻に報告した。

最も報告したかった。誰よりも早く、誰よりもあの子に。

「聞いてくれ。美麻。この僕が今日、雪花コーポレーションの社長に就任したんだよ」

だが、僕の興奮とは裏腹に美麻はきょとんとした顔をしただけだった。

「わからないのかい?美麻。僕があの一族の頂点に上ったんだよ。僕たちはあの一族に勝ったんだ」

「勝った……?」

「そうだ。美麻。お聞き。雪花家こそ、僕と美麻から父さんと母さんを奪った仇だったんだよ。

雪花家が父さんと母さんを追い詰めたんだ。その雪花コーポレーションを僕たちが乗っ取ったんだよ。

僕たちがあの一族をめちゃくちゃにしてやったんだ。嬉しいだろう?美麻。誇らしいだろう?父さんと母さんの復讐は完成したんだ!!」

だが、どうしたというのだろう。美麻は困惑した瞳を揺らすだけだった。

「美麻……?どうしたんだ?君は……嬉しくないのか?」

美麻はようやく静かに口を開いた。

「聞かせてお兄ちゃん。お兄ちゃんは……海杜さんたちを陥れるためにあの会社に就職したの?」

「そうだよ。美麻。僕はあの一族に復讐するために雪花コーポレーションに入り、あの家に入り込んだんだ」

美麻は震えながら、言った。

「菊珂ちゃんとの結婚も?」

僕はちょっと言いよどんだ。菊珂の笑顔が脳裏を過ぎる。

だが、僕はそれを断ち切るように言った。

「……そうだ」

「ひどい……」

「美麻、ひどいのはどっちだ?あの一族は僕たちの両親を殺したんだぞ?君は憎くないのか?

あいつらが……あいつが僕たちの父さんと母さんを殺したんだ!!」

「違う!!違うわ!!」

「何が違うんだ。あいつらが……あいつらが父さんの会社に資金を出してくれれば……あんなことにはならなかったんじゃないか!!」

「違う……!!」

「何が違うんだ?美麻。あいつらのせいで……父さんと母さんは死んだんじゃないか!!」

美麻。どうして君はわかってくれない?

どうしてそんな目で僕を見る。

僕は正義を行ったんだ。

罪人たちに鉄槌を加えたんだ。

そうだ。僕と君の大切な父さんと母さんを殺したあいつらに。

なのに、どうして君はそんな目で僕を見るんだ?


そう。まるでこの僕こそが、罪人であるように。


いや、僕自身だって心のどこかで気がつきはじめている。

その答えに。

だが、認める訳にはいかない。

認めてしまったら、僕は……。


「違う……違うわ……」

「美麻?」

「あなたは……お兄ちゃんなんかじゃない……」

「……!?」

「お兄ちゃんはこんなことしないわ。お兄ちゃんは……お兄ちゃんは……」

「美麻……」

「あなたはお兄ちゃんなんかじゃないわ!!優しかった……優しかったお兄ちゃんを……返して!!」

そう言うと、美麻は両手で僕の胸を打った。

「ねえ、返して!!返して!!」

やがて包帯の巻かれた右手には、じんわりと赤い血が滲んだ。

「美麻。やめるんだ。手の怪我に触る!!」

「返して!!返してよ!!ねえ!!いやあっ!!あああっ!!」

「美麻……」

美麻はそれからしばらくの間、僕の身体にもたれて泣いていた。声を上げて泣きじゃくっていた。

どれくらいそうしていたのだろう。

美麻は静かに涙をぬぐうと、顔をあげた。

僕ははっとした。

いつもの美麻の顔ではなかった。

そこにいるのは、まるで……。


「知っていたよ。私……」

「えっ……?」

「海杜さんから聞いたもの」

「美麻……。君は……」


あの男が憎くないのか?

あの男をそれでも愛しているというのか?

あの男は僕達の両親を殺したんだぞ?

あの男のせいで僕達が一体どんな目に遭ってきたか、君は忘れたのか?

あの男のせいで……。

あらゆる言葉が僕の口をつきそうになった。


だが、僕は凍りついたように言葉を発することができなかった。

美麻が微笑んでいたからだった。


「私、海杜さんのこと憎くなんかないわ。お兄ちゃん」


「美麻……」

「聞いた時は……ショックだった……でも。海杜さん、何度も私に謝ってくれた。それに……あのことは」


あの人のせいじゃないのよ。


美麻は確かにそう言った。


「海杜さんのせいなんかじゃないわ」


美麻は柔らかな微笑みが窓辺から注ぐ夕日に映える。


「ねえ……。お兄ちゃん……誰も悪くなんてないのよ」

「…………!!」

「みんな……みんなそれぞれの立場で精一杯生きているの。

自分のカテゴリーに縛られて……その中でもがきながら生きているのよ。わたし……そのことが、ようやくわかったの」

「美麻……」

美麻は繰り返した。

「お兄ちゃん。誰も悪くないのよ」

そして、小さく呟いた。


「あの出来事は……仕方がなかったのよ」


「仕方が……なかった?」

美麻は力強く頷いた。

「だから、もう誰も憎まないで。赦してあげて……。海杜さんも一族の人たちみんなのことも……。お願い……そして……」


――――優しいお兄ちゃんに戻って?


「美麻……」

そうだ。

もう随分前から僕自身が気がついていたことじゃないか。

復讐なんてしても、誰も何も得られない。

むしろ、また誰かが傷ついて、誰かの憎悪を煽って……。

第二の僕たちが生まれていくだけなのだ。


僕は……なんという馬鹿なのだろう。


本当はわかっていた。もうずいぶん前からそのことはわかっていた。

結局、誰にもどうすることもできなかったのだと。

でも、僕は認める訳にはいかなかった。

信じたくなかった。

父と母が僕達を置いて心中したことを。

誰かが、二人を殺したんだ。

そう思って、何かを武器にして戦うしか僕は生き抜くことができなかったのだ。

そう、憎しみを盾にして。

僕は憎しみを武器に戦ってきた。

全ての責任を彼らに押し付けて。

でないと僕は立ち行かなかったから。

僕は生き抜くことができなかったから。
僕は卑怯だ。

最低だ。

罰を受けなければならないのは、彼じゃない。

この僕なのだ。


僕は美麻を抱き締め、泣いた。

全ての罪を誰かに懺悔するかのように。

ただ、啼いていた。

その間、美麻は聖母のように優しく僕を抱き締めていた。


そして、そのぬくもりがこの世での僕と美麻の最後のコンタクトとなった。







あたしは唇を噛んでいた。

非番の時に限ってこんな事態が起こる。

とんでもない非常事態。

まさか、あの雪花里香が殺害されるなんて……。

そして、その容疑が彼に……。

被害者の隣で倒れていたという雪花海杜は警察病院に担ぎ込まれたが、

意識を失っていただけということで、覚醒と同時に取調室送りにされたらしい。

医師から、精神的なダメージが強いためしばらく安静にするようにと言われていたにも関わらず。

この時ばかりは、あたしは同僚の非情さに深い憤りを感じずにはいられなかった。

「ひどいことするわね。医師の許可も取らないで、勝手に雪花海杜を取調室に放り込んだらしいじゃないの」

「当たり前だろう?雪花海杜は現場にいたんだ。最重要容疑者に決まってる。

あの男、記憶にないなんて、政治家の常套文句みたいなこと吐いてるが、

だいぶ精神的に参ってるみたいだから、落ちるのも時間の問題だな」

「これは人権問題よ。まさか、拷問まがいなことでもするんじゃないでしょうね?」

「よしてくれよ。羽鳥。ここは民主国家だぜ?それに、いやに奴の肩を持つじゃないか。

お前、見合い相手だったって話だからな。未練でもあるんじゃないのか?」

「馬鹿も休み休み言いなさい。とにかく、あたしが取り調べるわ。彼に会わせて」

「断る。君には君にお似合いの可愛い証人が待っている。そっちをお願いするよ」

結局、あたしは雪花海杜との面会は許されず、

代わりに事件の第一発見者のメイド(不知火李とか言ったかしら?)の事情聴取を命じられた。

不知火李は、かわいそうなほどにしょげかえっていて、目を真っ赤にして泣きはらしていた。

苗子が相手の気持ちをほぐすように、明るい声で言った。

「お茶ですよ~。あったまりますから。どうぞ~」

「うっ……ううっ……。ありがとうございますぅ」

「落ち着いた?話せるかしら?」

「うっ……ううっ……すみません。

でも、私だって、本当にびっくりしているんです……。もう、何がなんだか……」

「わかったわ。悪いんだけど、こっちも状況がつかめないのよ。お願い。最初から、順を追って話してもらえるかしら?」







「は、はあ。わかりました……」

目の前の綺麗な女刑事さんに促されて、ワタクシは口を開こうとしました。

ただ、ワタクシは迷いました。

これからお話する内容には、奥様と海杜様の名誉を深く傷つける内容が含まれていたのですから。

すると、刑事さんもそれを察したのか、

「あなたの立場からして、話しにくいことだということはよくわかるわ。だけどね。

これは殺人事件なの。しかも、殺害されたのはあなたの雇い主なのよ。

あなたが話すことは確かに彼女の名誉に関わる問題かもしれないけど、

同時に彼女の無念を晴らす材料になるかもしれないの。

わかるわね?それに警察は知り得た情報を他に漏らすようなことは絶対にないわ。信用して頂戴」

「は、はあ……。わかりました……。刑事さんを信頼して……お話致します」

「OK.ありがとう。じゃあ、まず、あの二人の関係は……ああいう関係だって見て……間違いない?」

「はい……。間違いございません。

お二人は……旦那様のご帰宅が遅くなる日……ああしてお会いになっていらっしゃいました」

その瞬間、ちょっと女刑事さんが動揺したようだったのは、気のせいでしょうか。

「そう……。で、昨夜のことをお願い」

「はい……。あの夜は……夕食前に……

旦那様からご帰宅が遅くなるというお電話がありまして……

その後、里香様が自室でピアノを弾いていらっしゃいました。

その後、海杜様がお風呂を使われたのは、私が頂く一時間ほど前だったと思います」

ワタクシはその瞬間、思わず赤面してしまいました。

それは、あの廊下ですれ違った時……。

海杜様がワタクシの指を握り締めて下さったあの時。

あれが海杜様がバスルームに行かれた時間だったに違いありません。

恐らく、奥様との逢瀬の前にと入られたに違いありませんから。

その証拠に、その後またピアノの音がしましたから……。

一度目の合図が逢瀬の確認で、二度目のピアノがお部屋へ海杜様をお呼びになる合図……。

いつもそういう段取りでしたから。







「そのピアノ、里香さんが弾いていたっていうことに間違いはないのかしら?」

「ええ。奥様のピアノに違いありません。奥様、弾き方になんだか変わったクセがあるんですよ。

だから、間違えようがないんです。だいたい、奥様のピアノは奥様しかお弾きになりませんから」

「なるほどね。で、それから?」

「はあ、それから私がお風呂を頂きまして、そのまま自室へ引き返そうとした時、物音がしたんです」


「はあ、それから私がお風呂を頂きまして、そのまま自室へ引き返そうとした時、悲鳴がしたんです」

「悲鳴……? それは、男? 女?」

「女性でした」

恐らく、それは里香のものだろう。まさに、断末魔の悲鳴ということか。

「続けてちょうだい」

「はい。ワタクシがお部屋に駆けつけると、悲鳴は止んでおりました。呼びかけてもお返事もございませんでした。ただ、なにやら中から物音はしていました。その時、いきなりガラスが割れるような音がしたんです」

それは、あの割れていたガラス窓が立てた音だろう。

だが、なぜわざわざ犯人はガラスを割ったのだろう。

外から侵入するならともかく、内側から鍵を開ければ良いだけの話ではないだろうか。

だが、その疑問もすぐに解消した。

「あのお部屋の窓ガラスは、嵌め殺しになっているんです。

一階なので、防犯のためらしいのですが……昔、なんでも泥棒に入られたことがあったらしくて……奥様のお部屋に限らず、一階の窓は全て開かないようになっているんです」

なるほど。それなら仕方がないだろう。

窓は嵌め殺し、部屋のドアの外には、メイドの少女。

犯人は、まさに絶対絶命の状況に追い込まれたのだろう。

よしんば、メイドの少女がおらずにドアから逃走できたにしても、やはりそれも無理なのだ。

一足先に非番から抜け、事件発生直後に、雪花英葵の尋問を行った苗子の報告によれば……。

事件発生時、雪花英葵は雪花家に戻った直後で、客人とリビングにいたと証言している。

リビングはエントランスホールが丸見えで、もし、犯人が通過したなら、必ず彼に目撃されることになる。

まして、英葵だけでなく、客人もいたのだから、目撃される危険性は、かなり高い。

それはうまくない。

そうだ。きっと犯人も玄関から逃走しようとしたが、彼の存在を知り、窓から逃げるしかなかったのかもしれない。

「先輩。雪花さんが犯人じゃないとしたら、犯人はそこから逃走したんでしょうかねぇ?

でも、今のところ、雪花さんが最有力なことに……変わりはないんでしょうが……」

メイド少女は、はっとして顔を上げた。その真摯な瞳にあたしはたじろいだ。

「刑事さん……海杜様が……海杜様が犯人なんでしょうか……」

「それはまだ……わからないわ」

あたしは思わず、苦しげに呻いていた。







「ああ。客人は、M工業の方だよ。この訪問は前々から決まっていたことだったから、家人も皆知っている」

「じゃあ、英葵は、その人とずっと一緒にいたんだね?」

苗子は、渦中の雪花家リビングで、英葵の事情聴取を行った。

「ああ。もちろん、手洗いなどで席を外すことはあったがね。せいぜい、四、五分だったよ」

「そんな短い時間じゃ、犯行は無理だね」

苗子はほっとしたように手帳を閉じた。

「それに、ガラスの割れる音がした時、僕は間違いなく、客人と一緒だった。それは、相手も証言してくれるはずだ」

「じゃあ、やっぱり犯行は無理だね。良かったよ」

「そうか。では、僕の潔白は、一応証明された……と言っても良いのだね」

「うん。それは、そうだよ。英葵がそんなことするなんて、あたしも思えないし」

「おやおや。随分手ぬるい刑事さんだね。……君が調べた調査結果は、もう上にはご注進済みなんだろう? 

だったら、最も強い動機を持つこの僕に対する調書があまりに簡素だと、君の立場が危うくなるんじゃないのかい?」

「知らないよ。誰も英葵の過去」

「えっ……?」

「言ってないよ。私」


苗子はそう言って微笑むと、呆気にとられる英葵をそのままに、静かにその場から立ち去った。


ドアを閉めた瞬間、苗子の瞳からは、きらきらと涙が溢れ出した。


「わたし、信じてるからね。英葵」







柔らかな光の差す、雪花家のテラス。

わたしはコンクールの課題曲に海杜さんが選んでくれた楽譜とにらめっこしながら、キーを叩いていた。

「美麻ちゃん、今日は調子がよさそうだね。少し、休憩しよう」

日差しのように優しい笑みを浮かべた海杜さんが、ティーセットを持って入ってきた。

「あ、海杜さん……。はい。実は……今……ちょっと海杜さんの真似していたんです」

すると、海杜さんはちょっと笑った。

「えっ?僕の?どうして」

「あの……海杜さんのピアノ……わたしの憧れですから……」

「……ありがとう。僕もよくいろいろな人のピアノの弾き方を真似たものだった。

何より、勉強になるしね。まるでコピーマシーンってよく柚生にもからかわれたものだったんだよ。

でも、それだけじゃ、ダメだ。自分の旋律というのをきちんと持たないとね」

「自分の旋律?」

「そう。個性とでもいうべきなのかな?絵画やいろいろな芸術でもそうだろう?

個性……そうオリジナリティを前面に出すようにしなければ、聴く人に感動は与えられない……。

メンタル面が大切なんだよ。僕の意見を言わせてもらえば……技術なんて二の次なんじゃないかとさえ思うんだ。

その点で、僕はずいぶん、苦労したんだよ?」

そう言うと、海杜さんはちょっと苦笑した。


「えっ……?」


「僕のピアノはよくこう評されていた。

『まるで機械のように正確な調べだが……君のピアノには感情が感じられない』と……」

わたしは、思わず声をあげていた。

「そんな……そんなことないですよ!!私……海杜さんのピアノ、好きです。

私も海杜さんみたいに弾けたら……どんなにいいんだろうって……いつも思っています」

すると、海杜さんは、「ありがとう」微笑みながら言った。

なんだか、消えてしまいそうなくらい、儚げな印象の笑みだった。

「それに……なんだか、すごく懐かしい感じがするんです。海杜さんのピアノを聴いていると……」

「えっ……?」
「どうしてだかはわからないんです……。

でも、すごく懐かしくて……暖かくて……落ち着くっていうか……

安らぐっていうか……。なんか……うまく説明できないんですけど……」

「そう……。それは僕だって同じだよ。君のピアノを聴くと、本当に心が落ち着く……」

「海杜さん……?」

なんて寂しそうな顔をするんだろう。

わたし……何か……おかしいことでも言ってしまったのかな?

すごく、不安になった。

でも、すぐに海杜さんはカップを掲げると、

「さあ、次はもう少し先まで行ってみようか?」

とにっこりと微笑んでくれた。

「……はい!!」


気がつくと、病室のベットだった。


夢……?


なんだか、すごく懐かしい夢だった。

あれはもう一年以上前……コンクールの直前……。

あの頃はまだ、恋にも気がついていなくて、ただ彼の側で彼からピアノを習える日々が、何より嬉しかった。


でも、もう二度と戻れないあの日々。


わたしは、もうあの頃のようにピアノも弾けないし、あの頃のように純粋に彼に向き合うことができない。


全部、わたし自身のせい。

全てを壊してしまったのは、わたし。


わたし……これからひとりで生きていけるのかな?

あなたのいない道を歩いていけるのかな?


行かないといけないんだ……。

そうだよね?お父さん、お母さん。








リビングに向かうと、メイドの李が僕を手招きしていた。

「お電話ですよ。英葵様」

「ああ。ありがとう」

受話器を受け取ると、懐かしい声が響いた。

「英葵君?よかった……ようやく捕まったわね」

その声は、「ひまわり園」の現園長・美作弥生のものだった。

彼女は僕より先に「ひまわり園」に入り、園を出た後も学生ボランティアとして通い詰め、とうとう園長になった人だ。

園にいた頃は、何かとお世話になった。

「弥生さん。お久しぶりですね。美麻のコンクールの時以来ですか」

「そうね、君も元気そうでよかったわ。すっかり偉い人になっちゃって……がんばったわね」

「……ありがとうございます」

「ああ、いけない。用件を忘れるところだったわ。英葵君、大神のおばさん、覚えてる?」

「え?もちろん、知っていますが……」

その女性は、僕と美麻が「ひまわり園」にいた頃、お世話になっていた園の従業員の一人だった。

恰幅のよい感じのおばさんで、面倒見のよい人だった。

「あのね。英葵君。その大神さん……実は末期のガンでね。余命がいくばくもないらしいの」

「えっ……?」

「それでね。どうしても死ぬ前に、英葵君に話したいことがあるそうなの」

「えっ……?」

確かに大神さんには世話になったが、僕と美麻が園を出てからもう十年以上も会っていない。

特別親しかったという訳でもなかったはずだった。どうしてそんな彼女が今更、僕に用があるというのだろう。

「どういうことです?その……大神さんが僕に用件があるって……」

「私も聞いたんだけど、どうしても英葵君本人の前じゃないと話せないっていう一点張りなの。来てもらえるかしら?」

僕は釈然としないまま、承諾すると受話器を置いた。







「いらっしゃい。英葵君。こんなところに呼び出して、ごめんなさいねぇ……。

ああ……。立派になったのねぇ。こんなに大きくなって……」

あんなにふくよかだった大神のおばさんは、すっかり痩せてしまい、顔色もよくなかった。

僕はいくばくの寂寥感が込み上げるのを禁じえなかった。

「おばさん……お久しぶりですね」

僕は持参した花束をサイドの棚に置いた。

おばさんは、感慨深げに僕を見上げると、何度もうんうんと満足するように頷いた。

だが、いきなりベットの上に座り直すと、突然、額をベットに擦り付けた。

「!?……おばさん?いったい、どうしたというのです?顔を……顔を上げてください!!」

「いいえ!!いいえ!!あたしはね。あんたにこうでもしないと、あの世にはいけないんだよ。

いいや。それでも、あたしはきっと地獄に落ちるんだ。そうだ。そうに決まってるんだ」

「おばさん!!どうしたというんです?いったい……いったい何が……」

「よぉく聞いておくれ。英葵。これからあたしが話す話を……。

罪深いあたしの最後の懺悔を聞いておくれ……ぇ……ううっ……」







伊山さんがお見舞いに来てくれていた。

いつものようにたこ焼きと、可愛いガーベラの小さな花かごを持参して。

でも、どういう訳か今日の伊山さんは元気がない。

どうしたんだろう。

わたしの疑問を感じたのか、伊山さんが口を開いた。

「美麻ちゃん。あのね、前に美麻ちゃんが言ってた『音楽の天使』が誰なのか……わかったんだ」

「えっ……?本当ですか?」

すごい……ちゃんと調べてくれたんだ。

なのに、どういう訳か、伊山さんの顔色が悪い。

「あのう……どうしたんです?伊山さん」

「えっ……?」

「なんだか……顔色……よくないですよ」

わたしの問いに、伊山さんは意を決したように顔をあげた。

「うん……。美麻ちゃん……。あのね……」







「あれは今から14、5年くらい前になるかね?お前さんたち兄妹が、

『ひまわり園』に入ってきてすぐの頃のことさ。突然、一人の学生が園に現れたんだよ」

「学生……が?」

「そう。まだそう、高校生くらいの男の子やったなあ……。

えらい精悍な顔立ちの子やったねぇ。その子はね。ボランティアでピアノを弾きに来ていたんだよ」

「ぴ……あ・・の……?」

「そう。それはそれは上手な子でね。ああ、あんたは休日だったけれど、

その時間帯は学校の部活動で練習に出かけていて知らなかっただろうねぇ。

そうだ。あんたの妹の美麻ちゃんなんか、その子にすっかり懐いてしまって。仲がよかったものだよ」


「お兄ちゃん、美麻ね。今日、音楽の天使に会ったのよ……!!」


「ああ……そうだったんですか……」

僕は天を仰いだ。

「でもね。その子の本当の目的は別にあったんよ」

「えっ……?」

「その子はね。お金を持ってきていたんだよ。英葵君と美麻ちゃんに渡して欲しいってね」

僕は目の前が一瞬、真っ白になった。

「なん……ですって……?」

「そんでな……。うちは……そのお金を……うち自身で……使うてしもたんや……」

「な……!!」

「ごめんなさい……英葵君……うちも大変やったんよ。借金取りに追われてな。

もう生きるか死ぬかの瀬戸際だったんや。せやけど、うちはなんちゅうことをしてしもうたんやろな。

……ごめんなさい……。あのお金があれば……あんたらはもっと……

生活が楽になったでしょうにねぇ……。ごめんなさい……堪忍して堪忍して……な?」

彼女はそういうと、僕の手を取り、拝み倒すように額を擦り付けた。

僕はあまりのショックで、彼女のなすがままになっていた。

金銭の問題ではない。

そんなことをする人間を……僕は一人しか知らなかった。

間違いない。

その人物は……雪花海杜に違いない……。

「彼は……名乗りましたか?」

「いいや。名前はいわんかった。ただ、毎月……制服姿で茶封筒に入ったお金を持ってきておったんよ。

それが、その年の学生さんにしてはなんや……たいそうな金額やったわ。額は毎月バラバラでな。

多い月は……20万を越えておったわ」

「そう……ですか……」

「堪忍して……堪忍してな?なあ?……必ず……必ず届けて欲しい……

そういわれておったのに……うちは……うちはなんてことをしてしもうたんやろな……。堪忍な。堪忍な?英葵」

彼は……贖罪の意味を込めて僕たち兄妹に金を届け続けたのだろう。

それは、雪花家の総意ではなく、彼個人の判断だったのではないだろうか。

しかし、いくら雪花家の長男とはいえ、そんな大金を毎月いったい、どうやって……?


海杜……さん……。

僕は……あなたに……なんてことを……。

あなたは、もう随分前から僕たちに償おうとしていたのに。

僕は……なんてことを……!!

だが、動き出した歯車はもう止まらない。

今や僕は、どんなに後悔しても、どんなに涙を流しても、もはやあなたを追い詰めることしかできないのだ。







「海杜さん……?」

わたしは伊山さんの口から発せられた人物の名前を思わず、反芻していた。

「そう。驚いた……?」

伊山さんは、おそるおそるという感じでわたしの顔を見た。

「ええ……。でも……どこかで……そうじゃないかなって……思ってました」

「えっ……?」

「あの人に会う度、なんだか懐かしくて……私の中の閉ざされた記憶の中のドアが、

少しだけ開くような気がしていたんです」

「そうなんだ……。美麻ちゃんのいた『ひまわり園』の古株の人に聞いたら、名前はわからないんだけど、

そういう学生さんがいたってこと、覚えていてくれて……それであちこち聞き込みしたら……

判明したって訳……この衝撃の事実……?あ……。

ごめんね。彼のこと……思い出させるようなことになっちゃって……」

「いいえ……。いいんです。ありがとうございます。言ったでしょう?

私、もう平気ですから。もう……へ……い……き……」

「美麻ちゃん!!」

「うっ……ううっ……ごめんなさい……。伊山さん……」

「美麻ちゃん……」

ずっと昔から憧れていた人。

思い出せないけど、すごく暖かい感触を感じていたあの人。

わたしにピアノを弾く楽しさを教えてくれた人。

それが、海杜さんだったなんて……。

本当はすごく嬉しい。でも、今は……。

どうして言ってくれなかったんだろう。

どうして……。

いつもわたしを寂しそうに見ていたのは……わたしが彼を思い出さなかったから?

海杜さん……。今、すごく、あなたに会いたい……。

会って、あなたをぎゅって抱き締めたい。

抱き締めて欲しい。

伝えなきゃならないこと、たくさんあるのに……。

ありがとうってまだ言ってないわ。

でも、もう叶わない願い。

お願い、神様。

もう一度だけ……もう一度だけ許して下さい。


あの人に……会いたい……。







僕は大神さんの病室を後にすると、街を当てもなく歩き出した。


雪花海杜はもうずっと昔から、僕たち兄妹に贖罪を行っていた。


確かに、金銭で済む問題ではない。

だが、他に賠償の方法などなかったのも事実だ。

彼は当時の彼自身でできる精一杯の誠意を僕たちに向けていたのだ。

それは僕たちに手に届かなかったとは言え、彼の真心に代わりはない。


僕は……なんてことをしたのだろう。


午後の日差しの差し込む部屋を覗き込みながら、僕は佇んでいた。

何か難しそうな話をしていた来訪者と父と母。

二階で昼寝をしていた、まだ幼い美麻。

僕は不安になって窓辺からその様子をこっそり伺っていた。

聞こえてくるのは、子どもの僕からしても友好的な話ではなかった。


「君が聞くような話じゃないよ」


その優しい声に振り返ると、優しい笑みを浮かべた制服姿の青年が立っていた。

「あなたは……?」

「向こうに行こう」

彼は戸惑う僕の肩を抱くと、父と母とその来客の壮年の男性が見える窓辺から僕を連れ去った。

「あっ……」

僕は思わず声を上げていた。

砂利の敷き詰められた駐車場には、いつのまに付けられたのか、バスケットのゴールがあったから。

「あれは……」

「君、バスケットが好きらしいね。だから、ほら」

彼がそう笑顔で僕に放ってよこしたのは、真新しいボールだった。

そう。僕は幼少の頃からバスケットが大好きだった。

父が教えてくれたバスケットが……。

「どうして?」

「ああ、こないだ来た時、玄関に置いてあるボロボロのバスケットボールが見えたものだから」

「あ……」

「ほら。ぼやぼやしているとダメじゃないか」

彼は悪戯っぽく笑うと、素早く僕からボールを奪い、あっさりとボールをゴールに沈めた。

「あ……」

「ほら。どうした?君の番だよ」

僕は彼からボールを奪うと、ドリブルをしながらダッシュをかけた。

積まれたタイヤを台に大きく跳ね上がり、ダンクを決める。

「上手い、上手い」

彼は自分のことのように、嬉しそうに手を叩いた。

それが、僕と彼。

雪花海杜との、本当の出会いだった。

それから、僕と彼はゲームを開始した。

こんな子どもと真剣にゲームをしてくれるなんて。

僕は素直に嬉しかった。

それから何度か彼はその壮年の来訪者と一緒にやってきた。

その壮年の来訪者こそ、雪花幸造だった。

彼はいつも僕と美麻を外に連れ出した。

あれは、僕と美麻に悲しい話を聞かせまいとした、彼なりの配慮だったのだろう。

僕はいつしか、彼を待つようになっていた。

少し寂しげに笑うあの人の顔を。


そうだ……。

本当はあの人のことが大好きだった。

あなたをずっと慕っていた。


だから、あの瞬間。


「あなたには、人間の心がないのですか!?」


あの瞬間。

彼は僕たちを救ってくれると思った。

でも、結果は……。


それでも、僕は……。

僕はずっとあなたが助けにきてくれることを待っていたのだ。


だが、彼が行った精一杯の救いの手は……僕には届かなかった。

僕は彼を許せなかった。

そして、優しかったあの人を。

あの人の家族を……全てを。


僕は……。







伊山さんが帰った後、ふいに勢いよくドアが開くと、そこに可愛らしい来訪者の姿があった。

「美麻お姉ちゃん!!」

「夕貴君」

夕貴君の顔を見ると、なんだかほっとする。

どこか、海杜さんに似ている雰囲気のせいかもしれない。

「美麻お姉ちゃん、大丈夫?手……痛くない?」

「ありがとう。大丈夫よ。ぜんぜん痛くないわ」

「よかった~。僕、とっても心配していたんだよ」

「ごめんね。わたし、平気だから」

わたしが笑いかけると、夕貴君はほっとしたように笑顔になった。

でも、すぐに困ったような顔になった。

「あのね。莢華お姉ちゃんがぜんぜんお部屋から出てこないんだよ」

「えっ……?」

「唯慧さんがとっても心配しているんだ。どうしたのかなあ……?どこか悪いのかなあ?」

わたしは答えられなかった。

莢華さん……ごめんなさい……。

「あ、そうだ。あのね、こないだ、こっそりお父様のお部屋に入っちゃったんだ」

「あら。夕貴君。そんなことしちゃ、ダメでしょう?うふふ……」

「うん。ごめんなさい……。でもね、どうしても美麻お姉ちゃんに見て欲しいものがあったからなんだ」

「えっ……?」

「僕ね。ずっと思ってたことがあるんだ。

美麻お姉ちゃんのピアノって、前にお父様が聞いていらしたレコードにそっくりなんだよ。

僕、そのレコード、大好きなんだ。でもね、お父様が触ると怒るんだよ。だから、こっそり持ってきたんだ」

わたしはなぜか、胸が高鳴った。

「夕貴君……そのレコード……持って来たの?」

「うん。びっくりしないでね?じゃ~ん!!」

そう言って、夕貴君は、わたしの手に一枚のレコードを乗せた。

「えっ……?」

次の瞬間、わたしは思わず、そのレコードを落としていた。

「美麻お姉ちゃん……!!大丈夫?」

大丈夫と笑いかけたつもりだったけど、わたしの鼓動ははちきれそうなほどに、高鳴っていた。

身体が、指先が芯まで冷えて、小刻みに震える。

なぜなら。

そこには、わたしがにこやかに微笑んでいた。

ううん。わたしじゃない。

わたしはこんなジャケット写真を撮ったことなどないから。

そう。そこには、わたしとそっくりな女性が微笑んでいた。

その横には、「城崎美咲ピアノアルバム」とあった。

「美咲……みさき……」


『み……さ……き……。』


「お姉ちゃん……?お姉ちゃん、どうしたの?ねえ!?美麻お姉ちゃん!!」







「いらっしゃい。最近はよく遊びに来てくれるのね?

お姉さん、嬉しいな。こないだの遊園地、楽しかったでしょう?」

少年は、恥ずかしそうに小さく頷いた。

「そうよ。男の子は素直じゃないとね。うふふ……。

また一緒に行きましょうね。その代わり、今日はみっちりピアノのレッスンよ。覚悟はいいわね?」

「あ……はい……」

「よ~し、いい子ね。じゃあ、今日は……うっ……!!」

突然、口を押さえると、バタバタと彼女は流しへと駆け込んだ。

「お姉さん!!」

少年は彼女を追いかけると、必死に彼女の背中をさすった。

「ねえ、お姉さん。……大丈夫?」

「平気……わたし、平気よ……。ううん、これはね。嬉しいことなのよ?」

「嬉しいこと……?」

少年は思った。どうしてそんな苦しそうなことが嬉しいことなのだろうと。

「うふふ……。もう少ししたら、君にもわかるわ。……そうね。真っ先に君に会わせたいな。

この子はきっと、君にとって大切な子になる。そんな予感がするの」

「えっ……?お姉さん。どういうこと?僕……わからないよ」

「うふふ……。どうしてかしらね?なんだか、すごく怖いの。幸せなのに、怖い……」

「お姉さん、どうしたの?」

「ううん。当たり前だよね。本当はいけないことなんだもの。

私の幸せの影で、泣いている人がいるのに……。私……ひどい女なのよ。

……そう、たとえば、君のお母さんが……。ごめんなさい……ごめんね……」

「ねえ、どうしたの?お姉さんのことは、僕が守るよ。

だから、もう泣かないで。お姉さんが泣いていると……僕……なんだかすごく悲しいから」

「ありがとう……。ありがとう……。いい子ね。君はいい子ね。守ってくれるの?こんな私を?」

少年は力強く頷いた。

「そう。ありがとう……。守って……きっと……お姉さんのこと、守ってね?」

少年は強く感じた。

自分がこんな子どもじゃなかったら、きっと彼女につらい思いなんてさせやしないのに……と。


それから一週間後。

少年はいつものように、女性の小さな家を訪ねた。

だが、呼び鈴を押すと、いつも花のような笑顔で迎えてくれる彼女の姿はいつまで待っても現れなかった。

少年は思わず、父から預かっていた合鍵でドアを開けた。

「いないの……?いないの?お姉さん」

いつものように柔らかな木漏れ日が差し込み、レースの影を作っていた。

部屋の家具はいつものままだった。

だが、彼女が大切にしていたガラスの置物が消えていた。

それで、少年は彼女との別れを悟った。

少年は主を失ったグランドピアノに頬を寄せた。

「お姉さん……」







僕は退院する美麻を迎えに行くため、定時に退社した。

「社長。お帰りですか?今日はお早いですね」

見慣れた警備員が声をかけてきた。

「ええ。妹が退院するので、迎えに行くところなんです」

「妹さん……お気の毒でしたね。本当になんとお言葉をおかけしてよいやら……」

僕はただ顔を伏せることしかできなかった。

「海杜様も大変なことになられて……本当に一体どうしちまったもんなんでしょうね。

私のような警備員風情が言うべきことではないと思うのですが……長い付き合いなものでね。

私は海杜様が心配でならないんですよ。こんなこと言ったら、おこがましいかもしれませんがね。

私は海杜様を本当の弟か息子みたいに感じているんだ。なんて、親子だったら、ずいぶん年の近い親子ですがねぇ」

「…………どうして僕にそんな話を?」

「だって、あなたも私と同じように海杜様のことを心配しているじゃありませんか」

「えっ…………?」

「あなたの顔を見れば、ちゃんと書いてありますよ。海杜様の安否が気になって仕方がないって」

僕は顔を伏せたまま、何も答えられなかった。

「それにしても、海杜様が殺人なんて絶対にありえない。まして、奥様を手にかけるなんて…………そんなこと、絶対に…………。あなただってそう思われるでしょう?早く釈放されるといいですね。でないと、海杜様…………きっと壊れてしまう」

「壊れる…………?」

「壊されちまうって言った方がいいですかね。あの方は昔から繊細な方なんですよ。

まるでガラス細工みないに脆い人なんだ。あなたみたいに秘書として当時社長だった会長について歩いている時なんて、本当にみていられないくらいでしたよ。

無理もない。まだほんの高校生時分だったんですからね。それも、ただの秘書じゃない。

この社を継ぐことが決定している身だったんだ。ピアニストになる夢も諦めさせられて、あんな時期からあの人はとてつもない重圧の中で生きてきたんです。

それで今回のことでしょう。もう…………限界ですよ」


「限界…………」

僕は思わず、そう反復していた。

「これ以上…………何も起こらなければいいんですがねぇ」

僕はそう心配げな警備員に会釈し、地下駐車場へ向かった。

薄暗い駐車場では、自分の足音だけが木霊した。


「社長」


「えっ……?」

振り返ると、そこには更科恭平が立っていた。

「よお。社長。そう呼ばれる気分はどうだい?」

「恭平……さん」

「やってくれたじゃねぇか。英葵。驚いたぜ?

まさか、あの可愛い秘書の坊やがこの俺を押しのけてあの椅子に座るなんてなあ?」

「…………!?」

この人……目がまともじゃない!?

「なんの……御用でしょうか。僕はあいにく……先客がありまして……」

「連れないこと言うなよ。社長さん」

「やっ!!離して!!」

僕の身体は地下駐車場の奥に引っ張り込まれた。

デッドスペースに押し込まれる。

「何をなさるんですか……。恭平さん……」

彼は僕の質問に答えず、ただ不敵な笑みを浮かべた。

「ああっ……!!い……いたっ!!」

僕の腕はねじられ、きつく縛り上げられる。

抜き取られたネクタイで、僕の視界は素早く隠される。

何も見えない。

闇だ。

全てが闇に閉ざされる。

「怖いか?英葵」

「うっ……。何を……。する気ですか?」

「野暮な質問だな。だが、答えてやろう。俺はやられっぱなしというのが一番嫌いなんだ。

前にも言ったよな?だから、きっちりと報復してやろうと思うんだよ。身体でな?」

「ああっ!?」

足に何かが絡んだ。僕はそれをよけることも出来ずに、無様に転がった。

「くっ……」

殺気を感じる。

いつものように、余裕のある雰囲気ではない。

危険だ……。

だが、視界を奪われた僕には、防御のすべもない。

何も見えない……。

闇がこんなに恐ろしいなんて……。

自分の身に何が起こるかわからない。

何をされてもわからない。


たとえ、殺されるとしても。


僕は恐怖で小刻みに身体が震えた。

命がけの復讐を誓ったというのに。

僕は幼子のように怯えていた。


拒む度、何度も張られる頬。

口の中に錆付いたものが溢れ出す。

血の味がする。

いや、死の味だ。


「可愛いな。お前なんかにしてやられるとは……俺も不覚だった」

「うっ…ううっ……」

「ずっと、あの瞬間を狙っていたんだろう?よかったなあ?ええっ!?」

「ひっ……いあああっ!!」

「とうとう、復讐を完成させやがったか……。こんな綺麗な顔でなあ?」

「あっ……ああぅっ……」

「そんなに怯えるなよ。社長さんよぉ?」

「うっ……ううっ……」

「俺はな。昔から降ったばかりの新雪をめちゃくちゃにするのが好きだったんだ。

あの薄っすらと降り積もった真っ白で穢れのない雪を土足でめちゃくちゃにするのが……な?」

「あうっ!!やっ!!いやあああっ!!」

少しの容赦もない攻撃。

彼の拳が、足先が、凶器のように僕を抉る。

僕の中で何かが弾ける。

襲う強烈な痛み。

闇の中で、何度も閃光が走った。

この人の中の全ての狂気が一気に爆発したみたいだった。

狂ってる。

今のこの人は、正常じゃない。

僕は、殺される……!!

「痛いっ!!ああっ!!ああっ!!やめてぇ……おねが……いぃ……」

「たいした大出世じゃねぇか。英葵?ええっ?」

冷たくざらついたコンクリートに何度も打ち付けられる。

生暖かいものが額を伝う。

激しい眩暈と吐き気がした。

「お前は本当に、たいした坊やだよ」

「や……だ……やめて……」

僕は何度も彼から逃げようと、冷たいコンクリートに這いつくばった。

僕の爪はコンクリートでボロボロになっていた。

指先から血が滲む。

だが、無情にも髪を掴まれて引き戻される。その繰り返しだった。

恭平のせせら笑うような声が響く。

「なんだ。英葵。まだ足りないのか?」

「いや……いや……やめてぇ……もう、やめてください……!!」

僕は涙を流していた。

恭平は僕の身体を起こすと、壁に打ち付けた。

「あっ……ううっ……」

「さあ、社長さん。ご気分はいかがです?」

僕はもう何も答えられなかった。

何度も擦り付けられた背中は、もう痛みさえ感じられなかった。

後頭部がじんじんと痺れた。

襲う猛烈な吐き気。

嫌な音を立てて、彼は容赦なく僕を殴り続ける。

「いたあ……いたいぃ……」


壊れる。

壊される。

殺される。


助けて。

タスケテ。


僕は誰に救いを求めている?


ねえ、僕を助けてよ。


誰に……?


僕の叫びが地下に反響する。


「い……やあああああああっ!!」


そして、僕はコンクリートに捨てられた。

ざらついたコンクリートの洗礼が痛い。

まるで僕自身がボロ雑巾になったみたいだった。


「これで……終わりだと思うなよ?……必ず、俺は這い上がってみせる。そして、お前に思い知らせてやる」


その声をひどく遠いところから聞きながら、僕は視界を闇の世界に預けたまま、本当に闇に落ちた。







退院の日。

お兄ちゃんが迎えに来てくれるはずだったのに、約束の時間になってもお兄ちゃんは現れなかった。

社長になって忙しいのだろうか。

お兄ちゃん……身体……壊したりしなければいいのだけれど。

ふと、あの日のお兄ちゃんを思い出す。

まるで幼子みたいに声を上げて泣いていた。

わたしはそんなお兄ちゃんを見たことがなかった。

何より、お兄ちゃんの告白すべてが衝撃だった。

「お兄ちゃん……」

わたしが顔を伏せた瞬間、ドアが開く気配がした。

「あ、お兄ちゃん……?えっ……?」

そこに立っていたのは、雪花会長だった。







「あ……あのう……」

わたしの問いかけにも答えずに、会長はただひたすら車を走らせている。

車はいつしか郊外の田園風景を駆け抜け、わたしを知らない街へと連れ出した。

やがて、突然車が停車した。

そこは一軒の小さな家だった。

「今日からこの家を使いなさい」

「ここは……?」

会長はやっぱり何も答えずに、小さな銀色の鍵を取り出して、ドアに差し込んだ。

中に入ると、一番最初に目に入ったものがあった。

それは、古いピアノだった。

わたしがそのグランドピアノを見つめていると、会長が言った。

「ピアノがあるとつらいか?それなら、すぐに処分させるが……」

「いいえ……」

柔らかな日差しが入り込む窓には、綺麗なレースのカーテン。

木製のアンティークな家具で統一された部屋。

不思議なくらいにわたしの好きな部屋の雰囲気だった。

「自由に使ってくれてかまわない」

「あのう……会長……ここは……」

「ここは、ミサキが使っていた家だ」

「ミサキ……?ミサキって……。えっ……?」

わたしは思わず声を上げていた。

なぜなら、会長が、わたしの前にひざまずいていたから。

「会長……?」

会長はわたしの包帯の巻かれた手を取ると、

「可哀想なことをした。皮肉なものだな。君までがピアノを失うことになるとは……。

あの家は……本当に呪われているのかもしれん……。他ならぬ……私のせいで……」

とわたしの指先に頬を寄せた。

「だが、安心しなさい。今度こそ、私がお前を守ってみせる」

「今度こそ……?」

「そうだ。今度こそ、もう二度とお前につらい思いなどはさせない。

信じてくれ。私は君のピアノの才能だけを愛したのではない。君自身を愛していたのだ。

お前と別れたのは、お前を守るためだった。それが……あんなことになってしまって……。

どれだけ懺悔したかしれない。お前の夢を壊し、お前の将来を失わせて……私は……」


えっ……?

会長は……誰かとわたしを混同している……?


「薫は恐ろしい女だった。まさに鬼女だったのだ。いや、あれをあんな風にしてしまったのも、私なのだろう。

海杜にもつらい目をかけた。私は知っていた。

あれが海杜に何をしていたのかも。だが、私は逃げたのだ。海杜に全てを押し付けて、逃げたのだ」

「会長……?」


会長は、わたしの中に他の誰かを見ている。

それが……ミサキ……?

あの、レコードの女性……。

城崎美咲?


「私が悪かったのだ。薫を鬼に変えたのも、菖蒲を不幸にしたのも、

美咲が日本から消えたのも……みんな、みんな、私のせいだ。だが、

美咲。お前がいなくなって、本当に気が狂いそうだった。毎日毎日、

お前のことだけを考えていた。これは偽りのない私の本当の気持ちだ。わかってくれ」

そう言うと、会長は小さく呻いた。

「お前はこうして私の前に現れた。あの頃と変わらない姿のままで再び私の元に戻ってきた。

それは、私を非難するためなのか?私を攻めるためなのか?それとも……私を許してくれるということなのか?」


彼は拝み倒すような格好で、わたしの手を力強く握った。


「頼む、ただ一言、許すと言ってくれ。美咲。お願いだ。私を許してくれ……!!」


わたしは、まるで魅入られたように小さく、でもはっきりと答えていた。


「許します……」


まるで、わたしじゃない誰かが……わたしの代わりに答えたみたいだった。


「あなたは……なんにも……悪くな……い……」


その瞬間。

会長がわたしを抱き締めていた。


そして、そのまま。


わたしは。


会長に抱かれた。


『かわいそうにな。お前は所詮、身代わり人形なんだぜ?』


『君のお母さんや……親戚のお姉さんか誰か……ピアノをやっていたりはしていないかい?』


『み……さ……き……。』


会長、あなたにとって美咲さんとはそういう存在だったんですね。


じゃあ、海杜さん。

あなたにとって美咲さんとは、いったいどんな存在だったんですか?

あなたにとっても大切な人だったのですか?

私は、その人の身代わりだったのですか?

あなたが本当に愛しているのは……わたしだったのですか?


それとも、美咲さんだったのですか?


ねえ、どっち?








何が起こったのか、彼には理解できなかった。


ただ、ほんの数時間前の悪夢のような光景と感触だけがふと蘇る。


ただ、彼の虚ろな目に映るのは、その数枚の紙切れだけ。

ただ、彼のひび割れた意識が感じるのは、その数枚の紙切れだけ。


右手に握らされた、その数枚の万札だけ。


これは……なんだろう。


これが、あの行為の報酬なのか。


「こんなもののために……こんなもののために……僕は……生まれてきたんじゃない……」







「あ、もう英葵、退社しちゃったんですか……」

真幸苗子の問いに、見慣れた警備員が残念そうに首をすくめた。

「そうなんですよ。妹さんをお迎えに病院に行かれるそうで、社長はもう退社されましたよ。せっかく訪ねてきてくれたのにねぇ」

ふいに届いたその一言が信じられずに、苗子は思わず、聞き返していた。

「い、今、なんて言いました!?しゃ、社長!?英葵、社長になっちゃったんですか!?」

「ええ。我々としても驚きましたがね、会長がお決めになったことですからねぇ……」

「そうなんですか~」

苗子は、一気に英葵が遠い存在に思えて、寂しくなった。

英葵はすっかり偉くなってしまって、ぜんぜん自分の手の届かないところに行ってしまったんだと。

「わかりました……。ありがとうございました……」

とぼとぼと愛車に戻るため、地下駐車場を歩く。

なぜか、熱いものが込み上げて、うっかり零れそうになる。

「う~。いかんいかん。英葵は頑張ったんだもんね、わたしも……頑張らないと……」


その時、苗子の鼓膜に異様な音が届いた。


「えっ……?何……?」


聞き間違い?いや、確かに……。


「誰……?誰か……いるんですか?」


返事はなかった。

だが、苗子は足早に音のした方向へと歩き出した。

自分の靴音が、早まる鼓動と平行して加速する。

一気に身体が硬直する。

苗子は無意識に胸の拳銃に触れていた。


「……誰!?」


苗子は人の気配を感じて振り返った。

彼女はその瞬間、自分の目を疑った。


そこには、見慣れた旧友の無残な姿があった。


「英葵……?……えっ……!?嘘……」

苗子は悲鳴のように声を上げると、慌てて彼に駆け寄った。

「……英葵……!?どうしたの?ねえ、どうしたの?」

英葵のあちこちからは痛々しい傷が覗き、額からは真っ赤な鮮血が滴っていた。

「誰……だ……。苗子……か……?」

苗子は慌てて英葵の目を覆う布を取った。

やがて現れたのは、涙の跡の乾かない英葵の虚ろな眼。

「ねえ……。英葵……どうしたの?どうして……こんな……」

英葵は苗子の顔を見ると、安堵したように目を細めた。

「苗子……」

だが、彼はそのまま崩れるように苗子に身を預けて意識を失くした。

「ヤダ!!英葵!!しっかりして!?ねえ?英葵!!」





アタシが久々にありついた小さな事件記事の脱稿に取り掛かっていると、遥か彼方のデスクから、編集長の声が響いた。

「おい~。伊山~。お前に電話だぜ?」

「はい~?」

編集部宛にアタシに電話なんて、誰だろう?

アタシが不思議に思って受話器に耳を当てると、聞き慣れた澄んだ声が響いた。

「……伊山さんですか?」

「美麻ちゃん?どうしたの?」

声の様子がおかしい……?

一体……どうしたんだろう。

「伊山さん。調べて欲しいことがあるんです……。いいですか?こんなこと頼めるの……伊山さんしかいないから……」

「えっ……?ええ。美麻ちゃんの頼みだったら、アタシ、なんだって引き受けるよ。で、何を調べればいいのかな?」

アタシが問うと、美麻ちゃんは少し、ためらい勝ちに内容を言った。

その声は、まるで深い闇の中からでも響いているみたいに、言い知れぬ不安を感じさせた。





「あのう……英葵……彼は……大丈夫なんでしょうか」

傍らで静かに眠る英葵を横目に、苗子は目の前の医師に恐る恐る尋ねた。

「後頭部の傷や、他の部分の怪我もたいしたことはないようです。軽いうち身や打撲程度でしょう」

それにしても、どうして英葵がこんな目に?

きっと英葵はひとりでずっと戦ってきたんだ。

こっそりと調べた雪花家と彼の因縁。

そこからいったいどういう意図で英葵があの会社に入ったのかは、痛いほどよくわかった。

彼は敵地に乗り込んで、たった一人で戦ってきたのだろう。

復讐という行為が、新たな悲しみや憎しみしか生まないということを、賢い英葵がわからないはずはない。

それでも抑えられなかった感情。

英葵の苦しみ。

英葵の痛み。

それを思うと、思わず、涙がこぼれた。

「英葵……よく頑張ったね。でも、もう頑張らなくていいんだよ。もう……頑張らないで……ね……?」





「うっ……ううん……」

真幸苗子は、あくびをしながら目をこすった。

「あれ……?あ~」

そうだ、ここは病室。

英葵が担ぎ込まれた病院の。気がついたら眠ってしまっていたのか……。

「英葵……具合はどう……?って……えっ……?」

英葵が眠っていたはずのベッドはもぬけの殻だった。

「え……英葵……?どこ?」

慌てて彼の姿を探す苗子の目に、ダッシュボードの上に置かれた一枚の紙切れが入った。



『心配かけて、すまない。苗子。

 だが、僕にはやらなきゃならなことがあるんだ。

 お願いだ。もう僕には構わないでいてくれ。

 そう、君自身のためにも。

                    英葵』



苗子は幼馴染みの残した手紙を握り締めた。

「何……?ねえ。なんなの?英葵。やらなきゃならないことって……ねぇ……。

英葵……うっ……ううっ……」






「僕の意見を言わせてもらうとね。まず、今回の現場はおかしな点が多すぎるよ」

そう言うと、熊倉はメタルフレームの眼鏡を押し上げた。

今は捜査会議の真っ最中。

雪花里香殺害事件の……。

「おかしな点って、なんですか~?」

苗子がその場に似つかわしくない、ぶったるんだ声を上げる。

「まず、その現場に倒れていたっていう雪花青年が被害者を殺害したとしたら、

かなりおかしい状況だと言わざるをえないね」

「どういうこと?説明して」

「返り血の量だよ。被害者はそれは身の毛がよだつくらいにメッタ刺しされて殺されている。

僕ら専門家が見ても、とても正気の沙汰じゃない。死因がその外因性ショックなくらいだからね。

つまり、犯人は相当な返り血を浴びた可能性が高い。

だがね。聞くところによると、犯人と目されている雪花青年の身体はずいぶん綺麗なものだったらしいじゃないか」

「あっ……」

確かに、被害者と折り重なるようにして倒れていた彼は、少しも血を浴びたような気配がなかった。

「それにね、これが最大のポイントなんだが……これを見てもらえるかな?」

そう言うと、彼は自分のパソコン画面をプロジェクターを通して白い壁に映した。

そこにはできれば直視したくない被害者の傷のスナップが数枚。

「これがどうかしたの?」

「ちっちっち……。やっぱり、これは素人さんに判断は難しかったかなあ?うん」

「何よ。一人で納得しないで。監察医は我々捜査員に正確な情報だけを提供していればいいのよ。職務には忠実になさい」

「いけないなあ。未央君。こういう時だけ、そういう建前を持ち出されちゃあ……」

「いいから。早く教えて」

「はいはい。で、ここで気になるのは、この傷と包丁を握っていたという雪花青年のその握り方の関係なんだよ。

君たち素人が傷を見てもどっち側から付けられたものかなんて判断は無理だろうからねぇ。

次の写真に移ろう。これはね、被害者の側に倒れていた雪花青年の写真だよ」

そう言って熊倉君がパソコンのキーを叩くと、意識を失って血の海に倒れている雪花海杜のスナップが現れた。

もう一度彼がキーを叩くと、凶器を握る海杜の手のアップになった。

「いいかい?彼の握るナイフの刃の向きをよくみてご覧」

「えっ……?」

峰を下にして、刃が……上になっている……。

「わからないかな?さっき見てもらった被害者の傷はね。ちょうど上から下に向かって付けられたものが多いんだ」

「どういうこと?彼はナイフを逆手に……あっ!!」

「そう。傷に対して、握り方が逆なんだ。はっきり言って、

こんな持ち方、自分で自分の喉笛を掻き切って自殺する人間しかしないよ。

つまりね、彼のナイフの持ち方だとこういう傷は付けられないんだ。

付けられたにしても、すごく不自然で、やりにくいから、

被害者に致命傷を負わせることなんてできないし……何より、なんのメリットもない」

「あっ……」

「そう。今回のケースは、彼が意識を失っているうちに、

現場にいた第三者によって凶器を握らされたということになるね」

「ほえ~。さすが、熊倉さん、細かいところ見てますねぇ」

「まあね。普通だったら、なかなか気がつかないだろうなあ。

でも、ほら、僕は優秀な監察医だから。昨日の夜に気がついてね。

徹夜で証明にあけくれてしまったよ。普通だったら、証明に二日はいるんじゃないかな?うん」

「はいはい。わかったわ。で、結論は?」

「以上のニ点から考えて、彼・雪花海杜は犯人ではありえないんだよ。

ついでに駄目押しとして、あの割られていた窓のことも付け加えるかい?

あのメイドの女の子が物音を聞いた時には雪花青年はあの通りの状態だったんだ。

窓なんて割れるはずがない。……安心したかい?未央君」

少し寂しげに微笑むと、監察医は立ち上がった。

「じゃあ、僕は失礼させてもらおうかな?僕にできるのはこれくらいだからね。

あとは君の力で彼を救ってやりたまえ。今度こそ……ね」

「熊倉君……」

「ああ、未央君。ひとつ忠告しておこう」

「なあに?あなたの忠告だったら、耳にタコができるくらい聞き飽きているんだけど?」

「まあ、いいじゃないか。年上の人間の忠告っていうのは聞いておくもんだよ。

ほら、よく言うだろう。亀の甲より年の功って」

「はいはい。で、なあに?」

熊倉はいきなり真顔になった。

「深入りは……しない方がいい……」

「えっ……?」

「前にも言ったけれど……あくまで、捜査員として彼に接するんだよ。いいね?未央君」

あたしは今までに、こんなに真面目な顔をした彼を見たことがなかった。

「それとね……。実は……ひとつ……僕の中で仮説があるんだ」

「えっ……?」

「だが、それはいわないでおこう」

「何よ……もったいぶって……」

「とにかく、雪花君がはめられているとしたら、君が相手にしているのは、

とんでもない強敵のようだね。気を抜かずに、精一杯、頑張りたまえ」

熊倉がドアに消えるのを見計らって、あたしは振り返り様、叫んだ。

「さあ、聞いていたわね、今すぐ雪花海杜の釈放準備をしなさい」

「それはできねぇよ。羽鳥」

あたしはいい加減、頭に来て叫んでいた。

「あんたたちには耳がないの?さっきの熊倉監察医の話聞かなかった?

彼の見立てによると、雪花海杜に犯行は不可能。雪花海杜はハメられたのよ?

ここは彼を泳がせて、真犯人の出方を見るのがこちらの取る戦略でしょう?」

「しかし……」

「とにかく、雪花海杜はシロよ。あんたたち、ちょっとは頭使いなさい!!

耳もなければ、頭もないの?考えてもみなさいよ!!

犯人はまず第一に現場から離れたがるものよ。一体どこの世界に死体の側でぶっ倒れている犯人がいるっていうのよ!!」







あたしは取調室から雪花海杜を解放すると、玄関へ歩き出した。

「大丈夫?病室からいきなり連行されたそうね。ごめんなさいね。

うちの連中……容赦がないから……。だいぶ……疲れているんじゃないの?」

「いいえ……と言えば……嘘になりますね」

彼は静かに微笑んだ。

ただ、目に生気がない。いつもの彼らしさは微塵も感じられなかった。

何かが胸に突き刺さる。

あたしはあえて、明るい口調で言った。

「お詫びに送るわ。乗って」

あたしが助手席を指すと、彼は乗り込み、小さく言った。

「家には……戻りたくない……」

「えっ……?」

「行きたいところがあるんです。連れて行ってもらえませんか」

「でも……」

あたしは思わず、口に出そうになった。

一応、彼は事件の重要な関係者には違いない。

関係者の居場所はきちんと把握しておかなければならないのが、捜査員としての鉄則だった。

彼はあたしの内心を悟ったのか、

「僕は逃げも隠れもしません。突然雲隠れして、あなたに迷惑をかけるつもりもない」

と言った。いつになく強い要求。

「わかったわ。あなたを信じることにする。それは、どこ?」







「城崎美咲って……あの伝説になっているピアニストのこと?」

わたしは病室を訪ねてくれた柚生さんに、あのピアニストのことを聞いてみた。

柚生さんは持参した百合の花束を花瓶に生けると、冒頭の言葉を言ったのだ。

「伝説……ですか?」

「そう。あの全日本ピアノコンクールの最年少覇者よ。当時、18歳。

天才少女現るって噂になったらしいわよ。私はまだ小さかったから、本当に噂でしかしらないんだけど。

ああ、その記録は海杜君が15歳10ヶ月で受賞して破ったんだけどね。

そう言えば、美麻ちゃんも城崎美咲と同じ歳で受賞したのねぇ。たいしたもんだわ」

「あ。でも……海杜さん。留学には行かなかったんですよね。どんなに残念だったんだろう」

すると、柚生さんが苦笑した。

「やだ。海杜君だったらウィーン留学に行ったわよ?」

「えっ……?莢華さんが……海杜さんは海外留学には行かなかったって……」

「ああ、それはね。行くには行ったんだけど……一ヶ月くらいで帰ってきたからなのよ。急に辞退してね」

「辞退……?」

「そう。やっぱり……家に連れ戻されたんじゃない?あいつの家、普通の家じゃないでしょう。

あの歳で会長の秘書していたらしいし……。雪花家の跡取りとして海杜君の人生のレールは、決められていたんですものね。

そう考えると……可哀想よね。彼も」

そう言うと、柚生さんは花瓶の中の百合をいじった。

「あのう……城崎美咲さんって……今……どちらに?」

「ああ、なんでも二十年くらい前に俳優だった恋人と海外に駆け落ちしたって話だけど?

確か……ウィーンだったかしら。それからは表舞台からはすっかり姿を消しちゃったみたい。だからこそ、伝説になっているのよ」

「駆け落ち……?」

「そう。なんか、情熱的よねぇ。やっぱ、芸術家はそうじゃないと」

そう言うと、柚生さんはうっとりと視線を泳がせた。でも、すぐに真顔になって、わたしの手を取った。

「ねえ、美麻ちゃん。海杜君とのこともね、時間が経てば、いい思い出になるわ。

そして、きっとあなたの人生の宝物になる。苦しいのは今だけよ。必ず時間が解決してくれるから。いいわね?」

「……はい……」







昼下がりの喫茶店。

待ち合わせ場所のその馴染みの店に着くと、美麻ちゃんと槌谷君が仲良く並んでジュースを飲んでいた。

アタシを見つけると、槌谷君は手を振ってくれたが、美麻ちゃんはなんだか思いつめているみたいで、元気がなかった。

「お待たせ。えっとね、その城崎美咲と駆け落ちした俳優が誰かわかったよ」

「誰です?」

「それがびっくりしたんだけどね。あの、杉羅夜斗すぎら やとなんだよね」

すると、槌谷君が思いっきり声を上げた。

「ええっ!?あの劇団『暗色童話』の主宰で芸術大賞とか総舐めにした俳優さんですか?」

思わず、アタシは辺りを見回した。ウェイトレスや近隣の席の客の視線が刺さる。

「ちょっと!!槌谷君……声大きいよ!!」

「あ……すみません……」

「話戻すね。杉羅夜斗だけど、知ってると思うけど、今は劇団の主宰やってて、

演出家としても活躍している鬼才よ。普段はウィーンを中心に活躍しているらしいんだけど、

今、ちょうど日本にいるのよ。でも、日本にいる間はすごい過密なスケジュールらしいから、

どうだろうって思ったんだけど、無事にアポイントは取れたよ。むしろ、あっちの方が乗り気でさ。

美麻ちゃんの名前を出したら……すぐに会いたいって……」

「そうですか……」

「でもさあ。美麻ちゃん。その俳優と城崎美咲ってピアニスト……一体……」

「これを……見てもらえますか?」

そう言って美麻ちゃんがバックから取り出した一枚のレコード。

今度はアタシが声を上げる番だった。

「伊山さん……!!声大きいです!!」

「ごめん……!!でも、アタシ……あんまりびっくりして……」

だって、そこには紛れもなく美麻ちゃんが微笑んでいたから……!!

「み……美麻ちゃん……これは一体……」

槌谷君も驚きを隠せないらしい。

それにしても、似ている。

まさに、瓜二つだ。髪型くらいしか違わない。

他人の空似でここまで似ているなんてこと……ありえないだろう。

「美麻ちゃん……」

「確かめたいんです。その人に会って……確かめたいんです」







高速に乗って辿りついたのは、有名な別荘地。

その中でも一際大きな屋敷が目に入る。

私にとって、懐かしい場所。

そして、もの悲しさを呼び覚ます場所。

「ここは?」

「ここは雪花家の別荘なんです。今の時期はこの通り、静かなものですが……」

美麻とも何度かここで落ち合った。

ここでは誰にも悟られることなく、二人の時間を持つことができたから。

彼女には、ここの鍵も渡してあった。

愚かなことだが、私はここに来たら、彼女に会えるような期待でも抱いていたのかもしれない。

実際は期待はずれというか、当たり前なことだが、人の気配は微塵も感じられなかった。

「僕はしばらくここで過ごそうと思います。マークするのなら、ご自由に」

私はそう言うと、鍵を差し込んだ。







杉羅夜斗氏のマンションは意外にも簡素な感じだった。

一年のほとんどを海外で過ごすという彼にとって、ここはあくまで仮住まいに過ぎないのだろう。

美麻ちゃんが心配だからと同行してきた槌谷君が、微かに震える指先を呼び鈴にかけた。

「美麻ちゃん……。押すよ?」

美麻ちゃんは、小さく頷いた。

やがて響くチャイム。

鍵の音。

開いたドアから顔を出したのは、テレビや雑誌でもお馴染みの顔だった。

どちらかと言えば、中性的な魅力を湛えた端正なその顔は、とても四十代には見えない。

でも、さらに驚いたのは、彼の発した第一声だった。


「美咲……!?」


「えっ……?」

「あ……いや、すまない。あまり君が美咲に似ていたものだから。美麻ちゃんだね?」

「どうして私の名前をご存知なんですか?」

すると、彼は目を細めて微笑んだ。この上なく優しい笑み。

「当たり前じゃないか。君に美麻と名づけたのは、この僕なんだからね」







「ようこそ。男の一人暮らしなものだから、なんのお構いもできないけど……」

杉羅さんはそう言うと、アタシたちにソファを勧めた。

「杉羅さん。ご結婚は……?」

「残念ながら……美咲以上の女性に巡り合えなくてね」

「そう……ですか……」

杉羅さんは少し俯くと、呟くように言った。

「そう……僕にとっては……美咲が……全てだった……」

「杉羅さん……」

さすが、世界的に有名な役者さんだ。

まるで、舞台のワンシーンみたいに映える。

でも、これはお芝居でもなんでもなくて、紛れもない人生という名の一発勝負の真剣な舞台なんだ。

「ああ、申し訳ない。つまらないことを聞かせてしまったね」

そう苦笑すると、彼は立ち上がった。

本当に簡素というのがしっくりくる佇まい。

家具も何もかも、無駄なものが一切ない。

アタシは自分の部屋を思い出して、そのあまりの違いにため息が出た。

アタシがそんな感じで無遠慮にも部屋をきょろきょろと眺めていると、杉羅さんはコーヒーを運んできた。

本当にうっとりするくらい、綺麗な顔立ちの人だ。

なんていうか、変な表現かもしれないけど『王子様』っていうのがぴったりだな。

あと二十歳彼が若かったら……もろにタイプだったんだけど……。

「日本公演でお忙しい中……ありがとうございます」

「いや。そんなことはいいんだよ。まずは、君に謝らなければならない。

樹さん方が亡くなられてから……苦労したんだろうね。

僕はずっと海外にいたものだから、何も知らなかったんだ。

もし知っていたら、何かできたんじゃないかと思うと……申し訳ないんだ」

美麻ちゃんは、首を振った。そして、呟くように言った。

「そんなに私は美咲さんという方に……似ていますか?」

すると、杉羅さんは美麻ちゃんを真っ直ぐに見据えて言った。

「……ああ。怖いくらいにね」

「そうですか……」

なぜか美麻ちゃんはその時、ひどく肩を落とした。

「教えて下さい。城崎美咲という人は……私にとって……」

「……お母さんからは何も聞いていないのかい?」

「はい」

「そうか……。まず何から話したらよいだろうか……。君のお母さんである樹菖蒲さんと美咲は実の姉妹なんだ」

「えっ……?」

ずっと黙っていた槌谷君が声を上げた。

「つまり、美麻ちゃんと美咲という女性は叔母と姪という関係なんですか?」

だけど、そんな槌谷君の声を制するように、美麻ちゃんが言った。

「違いますね」

「ああ。君が察している通り、城崎美咲は君の実の母親だよ」

「えっ……」

槌谷君とアタシは思わず声を上げていたけど、美麻ちゃんはすでにそのことを知っているようだった。

「では……。あなたが……私のお父さん……なんですか?」

すると、杉羅さんは、苦痛な表情を浮かべた。

そして、噛み締めるように言った。

「そうだったら……どんなによかったんだろうね」







「どうぞ。缶詰類ばかりなので、なんのおかまいもできませんが」

「ここで過ごすって……買い出しの必要はないの?」

言ってから、あたしはまるで世話女房みたいな口調だなと思った。

彼は小さく笑った。

「先週来た時の食材の残りもありますから……」

そう言うと、彼は奥のキッチンらしいところに引っ込んだ。

そして、湯気の上る紅茶を運んできた。

「ごめんなさいね。ありがとう。頂くわ」

静かなところだ。

本当にあの喧騒の世界で暮らしていると、ふとこんな静かな場所に憧れる瞬間があるが、ここには本当に音がない。

だから、些細なあらゆる音が大きく感じられる。

今、紅茶に入れた砂糖さえもがサラサラと音を立てていた。

なんだか、いろいろ聞きたいことがあったはずなのに、今は不思議なことにひとつも口をつこうとはしない。

あの現場の状況を考えても、明らかに彼は殺害された義母の里香とも関係を持っていた。

あたしは確かにショックは感じたかもしれない。だが、それよりもショックだったのは、この沈黙だった。

平生の彼は相手に不快な思いをさせまいと思うのか、ふいに沈黙が訪れると、自分から話題を振って饒舌に話す癖があった。

そんな彼が今は静かに窓の外に目をやりながら、佇んでいる。

あたしのことを見もしない。

そういうことにとても気を回す人だという印象だったから、あたしは知らずに胸が痛んだ。

そして、同時に当たり前のことだとも思う。

あたしだったら、気が狂わないのがおかしいというくらい、彼にはあらゆる災いが降りかかりすぎている。


「彼がハメられたとしたら、君が相手にしているのは強敵かもしれないよ」


熊倉君の言葉がふいに思い出される。

彼を救わなければ。

この無間地獄から。


「ねえ、羽鳥さん」


「えっ……?」


「僕は……人殺しなのでしょうか」







「僕は……人殺しなのでしょうか」


虚ろに響いた雪花海杜の問いに、あたしは慌てて言った。

「そんなことないわ。あなたの無実は法医学的に明らかよ。だから、こうして釈放されたんじゃない」

あたしの言葉に彼は首を振った。

「取調べでも言いましたが、私には記憶がない。私には……自分自身を信じることが……できない」

「ひとつ……聞かせて……」

「なんでしょうか」

「あなた……被害者の……里香さんとは……」

なぜかその先が口に上らなかった。

宙ぶらりんになったあたしの問いに、彼は静かに答えた。

「ええ。私は里香さんと関係を持っていました。だが、それは……私自身の望んだものではなかった……。

でも、それも私が悪いんだ。愛してもいないのに、彼女を抱いて、美麻を……

あの子を失った心の隙間を埋めるために、彼女を利用していたに過ぎない……。これは……天罰だ」

彼はそう吐き出すように言うと、ソファに沈んだ。

少しの沈黙が、まるで永遠のように感じられた。

やがて、ソファに突っ伏した彼がそのまま声を上げた。

「私は心のどこかで彼女を殺したいと感じていたのかもしれません」

「……!?」

「彼女の私に向ける愛が……日々強くなるその愛が……怖くて……

それで……私は意識の途切れた空白の期間に、里香さんを殺したのかもしれない。私が……この手で……」

ゆっくりと彼が顔をあげる。

まるで目にしているこちらの方がつらくなるような、悲痛な顔を。

今にも泣き出してしまいそうな顔を。

この人は、もう限界なのだ。

「しっかりして……!!そんなはずないわ。あなたにはそんなこと、できやしない。

あたしは信じてる。あなたの無実を……信じてる」

彼は自嘲気味に笑った。

「僕を……信じているというのですか?僕自身が自分を信じられないというのに……」

「あたしにはわかるわ。馬鹿にしないで。あたしはプロなのよ?今まで多くの犯罪者と向き合ってきたわ。

そんなあたしの言うことなのよ。素人だったら、無条件に信じなさい!!」

あたしはわざとそんな軽口を叩いていた。

戻って。

出会ったあの日のように、少年みたいに屈託なく笑うあなたに戻って……!!

そんな思いを込めながら。

でも、彼の目に生気は戻らない。

まるで、死人のように光を失った瞳が、静かに揺れているだけ。

「記憶のことが心配なのね?大丈夫よ。記憶がないのはクロロフォルムのようなものを

かがされたからだって熊倉君も言っていたわ。あなたは、ただ真犯人に利用されただけなのよ」

彼はため息をつくと、視線を泳がせた。

「何もかも……失った……でも、それでもいいんだ。それでもよかった。

所詮、僕のいた場所は、僕自身が望んだ居場所じゃない。僕自身が手に入れたものでもない。

だが……いざ失ってみたら、僕はどうしたらいいのかわからなくなってしまった。

どう生きていいのかわからなくなってしまった。僕のいた地位や肩書きは……こんなにも深く、僕を縛り付けていた……」

彼はこの別荘に来て、はじめてあたしをまっすぐに見据えた。

「僕は……これから……どうしたら……いいというんです?」

あたしは彼が口にしていることの意味がわからなかったけど、その痛切な様子に胸にいいようのない痛みを感じた。

「そんな顔しないで。あなたらしくないわ」

「僕……らしい?」

「そう、あなたは……いつだって毅然として……」

少年みたいに屈託なく笑う。

そう、初めて会ったあの日みたいに……。

そんなあなたが……。

あたしは……。

「だって、あなたは雪花コーポレーションの社長で……そうよ。

しっかりしなさいよ。あなた、雪花コーポレーションの社長でしょう?」

すると、彼は笑った。

ひどく自嘲気味に。

「ご存知なかったんですか?僕はもう社長でもなんでもありませんよ」

「えっ……?」

「先日の役員会議で……僕の社長解任が決まりました。昨日、辞令も専務からもらいました。

まだ公式に記者発表はされていませんがね」

あたしは声を失っていた。

「僕はただのちっぽけな男です。肩書きを失い、職を失い……。

ねえ、僕という存在は、いったいなんだったのでしょうか。

僕はね、あの会社の社長というラベリングを失ったら……ただの……哀れな男にすぎないんですよ……」

あたしはショックでかける言葉も見つからなかった。

「ねえ、あなただって、見たでしょう?あなたのお仲間が……僕を取り調べた時のことを。

ねぇ?僕は肩書きさえなくなってしまえば、ただの虫けらなんだ。いや。それ以下かな?ははは……」

道理で取り調べた連中があんなに強気になっていた訳だ。

本来ならば、彼のような大会社の社長など、簡単に取調室になど放り込めるはずないのだ。

あたしはなんて彼に呼びかけていいのか。わからなかった。

いつもあたしは彼を「雪花社長」って呼んでいたから。

でも、別にあたしは彼の肩書きを考えて呼んでいた訳ではない。

彼のファーストネームを呼んでしまったら……なんとなく、もとの位置に帰れないそんな気がしていたから。

元の位置?

それはどこ?

そうだ。あたしは怖かったんだ。

自分の気持ちが引き返せないところまで来ることが……。

でも……。


「海杜……さん……」


彼はあたしの決死の呼びかけに気がついていないようだった。

あたしは思わず、彼を背中から抱き締めていた。

その瞬間、彼の身体がびくんと痙攣した。

彼が振り返った。

あいつに似てる瞳があたしを映して揺れている。

もう、後悔はしたくない。

どうせ後悔するなら……いっそ……。


「肩書きなんて……関係ないわ。あなたは……あなたでしょう?」

「未央さん……?」

「そうだわ……。肩書き?地位?そんなもの、この世の誰かが作り出した、ちょっとした瑕だらけの秩序にすぎないわ。

この地上に存在しているのは、みんな人間。ただの男と女よ。肩書きなんて……関係ある?」


そうだ。

あたしは皮肉なことに彼が、肩書きを捨てたことでこうして自分の肩書きも捨て去る決心がついたのだ。


あたしと彼の関係は、今や刑事と事件関係者……いや、彼は有力な容疑者の一人だ。

こうして二人きりで同じ部屋にいるだけでも、許される関係じゃない。

だけど……。

そんなものだって、肩書きを消してしまえば、無意味になる。

ただの男と女。

それだけでいいじゃない?

ただ、そこに互いの身体があるだけで。

そう、互いを求める躯があるだけで。


「ね?しっかりして……海杜さん。あなたは虫けらなんかじゃないわ。

肩書きなんていらない。あなたが社長だろうが、そうじゃないだろうが、そんなの関係ないのよ。

そうよ。だって……あたしは……あなたが……」


そう、あなた自身が……。


後は言葉にならなかった。

言葉の代わりに互いの唇が触れ合った。


あたしはその夜、刑事という肩書きを捨てた。







杉羅さんのマンションを出たアタシたち三人は、とぼとぼと歩を進めていた。

槌谷君なんて、真っ青な顔して、さっきから一言も話そうとしない。

無理もない……。

アタシはようやく美麻ちゃんに声をかけた。

「美麻ちゃん……」

たぶん、ううん。間違いなくアタシはひどい顔をしていたと思う。

まさか、あんな事実を知らされるなんて。

馬鹿ね。一番苦しいのは、一番ショックなのは、美麻ちゃんに違いないのに。

「伊山さん……槌谷先輩……わたし……平気ですから」

「えっ……?」

この時、アタシはまだ気がついていなかったのだ。

聡明な美麻ちゃんが、杉羅氏の話によって明らかになった事実以上のことに辿り着いていたことに。

そして、それが美麻ちゃんの心をもう戻れないところまで追い詰めていたということに。

そう。この時、この瞬間こそが、あの最後の悲劇の幕開けだったのだろう。





朝日が差し込む寝室で、あたしは目覚めた。

傍らにはあたしの元見合い相手。

こうして見ると、ふしぎなものだ。

あたしが変な意地を張らないで彼と結婚していたら、どうなっていたんだろう。

あたしが主婦?

思わず苦笑した。

やっぱり、想像できない。


彼を起こさないように、そっとベッドを抜けると、顔を洗った。

床に散らばる衣服を皺を伸ばしながら着る。

ふと気になって、胸ポケットに手をやると、なじみの感触。

取り出すと、警察手帳の中に制服姿のあたしがいた。


あたしはやっぱり刑事なのだ。


丁寧に手帳をポケットに戻すとあたしは立ち上がった。

冷蔵庫を開ける。食材の賞味期限は平気。

手近にあった卵とハムで朝食を作ることにした。

あたしの分ではない。

餞別のつもりだった。


できあがった食事にラップをかけ、あたしはバックと上着を手にした。

眠る彼の顔をもう一度って思ったけど、やめた。

きっと、ここから出て行けなくなる。

彼から離れられなくなる。

あたしは勢いよくドアを開けると、燦々と照りつける太陽の下を歩き出した。

だが、この時、あたしはまだ気がついていなかったのである。

この雪花海杜との一夜が、あたしの人生を一変させることに……。







その夜、雪花家では里香奥様の通夜が営まれておりました。

ワタクシは、もうてんてこ舞いで唯慧さんと準備に当たっておりました。

何せ、今までこれらの全てを取り仕切ってこられていた当の奥様が、今は棺の中で冷たくなっていらっしゃるのですから……。

まして、今は海杜様も英葵様もおいでになりません。

海杜様はまだ警察からお戻りになられていませんが……英葵様はどうされたのでしょう……?

「大変でしょう?私にも手伝えることはないかしら」

私がそのハスキーな声に顔を上げると、専務の吉成水智さんが立っておりました。

「そんなっ!!専務さんにお手伝いして頂くなんて!!」

「ふふ……。遠慮なんていらなくてよ。不知火さん。私は雪花コーポレーションに忠誠を誓った身ですもの。

こうした時こそ、思う存分に使って頂きたいわ」

「そんな……」

「それにしても、元社長は警察として、新社長に会長もいらっしゃらないの?」

「はい……。英葵様も旦那様もいらっしゃいません……どうされたんでしょう……。通夜……始まってしまいますのに」


その時、ふと聞きなれた声が響きました。


「遅くなってすまない」


それは旦那様でした。

でも、驚いたのは……。


「着付けに手間取ってしまって……遅くなって、ごめんなさい。私にも何か手伝えることはないですか?」


会長の傍らには、黒い和服に身を包んだ咲沼美麻様が立っておられたのです。

髪型はいつものようにさらさらとしたロングヘアをそのままにしていらっしゃいましたが、

ワタクシは美麻様の洋装以外を拝見したことがなかったので、とても驚きました。

いいえ。

驚いたのは、まるでその姿が……奥様がお戻りになられたかのようだったから……。

ワタクシの狼狽に気がついたのか、会長が、

「ああ、この着物は里香のものだ。形見分けとして彼女にもらってもらうことにしたのだ。

もともとは……薫のものだったんだがな……」

と言いました。

「薫……あっ!!先代の奥様のことですか!!」

「ああ」

考えてみると、旦那様は前妻に後妻とお二人も奥様を亡くされているのです。

ワタクシは旦那様の心中をお察しすると、とても悲しくなりました。

そして……新旧お二人の奥様のお召しになっていた着物……。

ワタクシはそれを着て佇む美麻様の人形のように美しい顔をただ、見つめておりました。







それは、列席された皆様へのご挨拶の時間でした。

葬儀屋の進行係の方は、マイクを旦那様に恐縮しながら渡しました。

ですが、どういう訳か、旦那様はマイクを夕貴坊ちゃまに手渡されました。

坊ちゃまは、最初、緊張された面持ちで、参列者を見回しておいででしたが、小さく頷くと、マイクに向かって声を上げました。

「皆さん、本日はお忙しい中、こうしてお集まり頂き、ありがとうございます。雪花家二男の雪花夕貴です。

雪花里香は僕のお母様でした。……お母様を失って、僕はとても悲しいです。

でも、僕はただ悲しんでいる訳にはいかないのです。僕はお母様にはたくさんのことを教えてもらいました。

僕はお母様が僕に教えてくれた、様々なことをお母さまの思い出とともに大切にしながら、一生懸命頑張りたいと思います。

本日は、ご列席、ありがとうございました」

「夕貴坊ちゃま……」

ワタクシは思わず、どしゃぶり涙でございました。

いけませんよね。一番泣きたいのは、当のお坊ちゃまですのに。

すると、目の前に何かが差し出されました。

それはハンカチでございました。

驚いて顔をあげますと、

「李さん。はい」

と優しく微笑む夕貴坊ちゃまのお顔がありました。

凛としたお姿でした。

「大丈夫だよ。李さん。僕は、大丈夫だから。

お母様はちゃんと、僕をあの空から見守ってくれているに違いないのだもの。

だから、僕は、しっかり前を向いて生きていかなければならないんだ。でないと、お母様に叱られてしまうからね」

夕貴坊ちゃまと過ごすようになったこの一年余りの間に、本当にこの家では、様々なことがございました。

楽しいこと、嬉しいこと、そして、悲しい出来事……。

それらを乗り越えて、坊ちゃまはこうして成長なさってこられたのですね。

お母様の死という悲しみさえも乗り越えて、今坊ちゃまはご自分の未来を、ご自分の力で踏み出そうとされているのですね。

「どうしたの?李さん。ハンカチ……。使わないの?」

そのご立派なお姿に、ワタクシはまた涙が止まりませんでした。

ですが、これが生きている坊ちゃまを見た、最後となってしまうなんて……一体誰が想像できたのでしょうか……?







通夜に参列した客人を送った後、だいぶ寂しくなった広間には、親戚縁者の他、顔なじみの者ばかりが残っていた。

今夜は通夜。

文字通り、夜通し里香の側についている訳である。

「じゃじゃ馬の次は奥様か?この家は本当に死霊の棲家だな」

そう言うと、恭平は祭壇のまん前を陣取り、ボトルキープのウィスキーを一気に呷った。

「あまり飲むと身体によくないわよ。前社長さん?」

「心配してくれるのか?専務殿」

そう恭平が顔を上げると、女専務はふっと笑った。

「こうして落ちぶれたからと言って、あなたも雪花一族の系統には違いないのですからね。

これ以上、この家から死者が出たら雪花コーポレーションにとってはうまくないですもの。

たとえ、その死因がアルコール中毒でもね」

「はん……。お前は雪花コーポレーションのことしか頭にないんだな。

いっそのこと、お前が社長になったらどうだ?女狐さんよぉ」

水智はふっと笑った。

「私はそんな器じゃないわ。人間、やっぱり器ってあるのよ。

その地位に相応しいか相応しくないかのね。あなたは残念だけど、その器じゃなかったって訳。

諦めなさい。ふふ……」

「あの狸オヤジと同じことを言うなよ。

……じゃあ、聞くがな。女狐さん。

お前のお目にかなったその器を持つ人間ってのはどいつなんだ?まさか、英葵か?」

「さあね。そのアルコールに犯された憐れなおつむで考えて御覧なさい。うふふ……」

そう立ち去ろうとした水智の腕を、ふいに恭平が掴んだ。

「待てよ」

「……なあに?」

水智の怪訝な眼差しを無視し、恭平の指先が彼女のスーツの胸元に滑り込んだ。

「馬鹿ね。里香さんの前で……。しかも、あなたを裏切った女狐を抱こうっていうの?あなたもとんだお人よしさんねぇ」

だが、水智は小馬鹿にしたような笑みを浮かべると、そっと恭平の耳元で囁いた。

「仕方がないわね。今夜だけ付き合ってあげるわ。哀れな前社長さんに……。うふふ……」







槌谷玉は、なんとなく暇を告げるタイミングを逸して、

ずるずると他の来客が帰宅の途に就いた後も、雪花家の広間の隅で一人、晩酌をしていた。

それというのも、美麻のことが気になったからに他ならなかった。

実はあの日。あの杉羅夜斗との会談の日を境に、美麻と連絡が取れなくなっていた。

美麻は既に「ひまわり園」を辞していたし、

今まで住んでいたマンションにも入院期間も入れてもう数ヶ月戻っていないらしかった。

家賃だけはきちんと払われているので、部屋はそのままの状態らしいが、

玉にはもう美麻があのマンションへ戻ることがないのではという漠然とした不安が頭をもたげ始めていた。

では、彼女は一体どこに?

玉はだから、生前特に親しかった訳でもなかった里香の通夜にこうして列席した。

卑怯なことだと胸が痛んだが、こうでもしなければ、

今後美麻に会うことができないのではないかという不安というか、恐怖の方が先立った。

あの日、最後に美麻が言った言葉。

そして、美麻の顔。

玉はそれを思い出すだけで、いてもたってもいられない衝動に駆られ、ここに来た。

100%出会える可能性がある訳ではなかった。だが、彼は来ずにはいられなかったのだ。

果たして美麻は現れた。

読経が響く中、和装の美麻が現れた時、玉は声を思わず、声を上げてしまいそうになった。

たった数日のことだと言うのに、美麻の様子が一変していたから。

そこにいる美麻は、まだ十九歳の少女にはとても見えなかった。

「あの日」と同じ瞳の色を湛え、美麻は静かにそこにいた。

相変わらず、右手に巻かれた包帯が痛々しい。

結局、声をかけることができなかった。

そして、玉はまた美麻を見失った。

「美麻ちゃん……」

そう呟くと、玉は厠を借りるため、立ち上がった。

歩き出したはいいが、広い屋敷の中で、なかなか目的地は見つからなかった。

玉は座敷を往来していたメイド服の少女に事前に手洗いの場所を聞いておくのだったと後悔した。

「このままじゃ、埒が明かない……引き返そう……」

ふいに踵を返した瞬間、襖の向こうから声がした。

その中に「美麻」という名前を聞いた気がして、玉は思わず、聞き耳を立てた。

次に響いてきたのは、紛れもなく美麻の声だった。

「この度は……なんて言ったらいいんでしょう……会長。里香さんまで……あんなことになられて……」

「薫も里香も逝ってしまった。美咲も今は遠い異国の空の下だ……。もう、私にはお前しかいないんだ。美麻」

「会長……」

「お前は決して私の側からはいなくならないでくれ。お願いだ……。美麻……」

次に響いてきたのは、着ずれの音……。そして、美麻の吐息らしい声。

玉は思わず、その場から走り出していた。

「美麻ちゃん……。君は……。どうして……?だって、君は……」

その瞬間、玉はあの日の美麻の表情の訳がわかった。

あの「この世の果て」でも見据えたかのような暗い瞳の意味が。

玉は廊下の隅にたどり着くと、その場に崩れ落ちた。

「美麻ちゃん……君はなんて……なんて……」

玉はその場で声を上げて泣いた。

愛した少女のそのあまりに過酷な運命を呪いながら……。







「槌谷君……?ねえ、もしかして、槌谷君?」

玉がその聞き慣れた明るい声に顔を上げると、そこには記者の伊山凛が立っていた。

「あ……伊山さん・・」

玉は慌てて、涙を拭った。幸い、薄暗い廊下だったので、彼が泣いていたことが凛に気づかれることはなかった。

「伊山さん、いついらしたんです?通夜の時にはいらっしゃらなかったですよね?」

「あ……あはは。実は記事の脱稿が押しちゃってさ。今着いたとこなの。一応、お線香をって思ってね」

「じゃあ、一緒に行きましょう。僕も座敷に戻るところですから」

玉は奥の部屋に後ろ髪を引かれる思いで、凛を伴って廊下を戻った。

「あら~。もう人、だいぶいないね。うへえっ!?もう11時回ってる……!?

やだ……。こういう仕事してるとさ、時間の感覚……狂うんだよねぇ~。まったく」

そう言うと、凛は里香に手を合わせた。

「……今日は……英葵さん……いないのかな?」

「ええ。通夜にもいませんでしたよ」

「そっか……」

玉の答えに、凛が微かに落胆したのは、気のせいだろうか?

「美麻ちゃんもいないみたいだね?今日は久々に会えるって思っていたんだけど」

今度は玉が落胆する番だった。とてもじゃないが、

ありのままの現状を話す訳にはいかないので、玉は「さっきまでいたんですけどね」と答えた。

「そっか。残念。もう遅いもんね。あたしも退散した方がいいかな~?槌谷君はどうする?」

いい潮時なのかもしれない。

玉は「そうですね。僕もそろそろお暇します……」

と言った。

「そ。じゃあさ、この後、よかったら、一緒に飲まない?

締め切りギリギリ作業でストレス溜まっちゃってさ。今日はパーっと行きたいんだよね?どうかな?」

こんな夜は、彼も呑まなくてはやっていられない。

どうせ、一人で独身寮に戻っても眠れそうにはなかった。

「そうですね。それもいいかもしれませんね」

「よし、じゃあ決まりっ!!のまのまイエイっ!!」

そう凛が拳を振り上げた瞬間。


座敷をつんざくような悲鳴が響いた。


「……えっ……?何?今の……」

「悲鳴……でしたね?」

「う……うん。空耳……じゃ……ない……よね?」

そう言った側から二発目の悲鳴が響き渡った。

「あっちだ!!伊山さん!!」

「えっ?あ、は、はいっ!!」

脱兎のごとく駆け出した玉に、蹴っ躓きながら、凛が続いた。

「どうしたんです?何かあったんですか!?」

「何事だ?騒々しい」

「なあに?なんなの?」

廊下を駆けるごとに、人が増えていく。

やがて一団は、廊下の奥に着いた。

「どこから聞こえたんだ……一体……」

「この奥でしたよ。この奥の部屋はなんです?」

玉の問いに、バスローブ姿の水智が答えた。

「えっ……?そこは確か浴場でしょう?私もさっき、お湯をもらったわ」

「浴場……?」

そう玉が呟くと同時に、奥から腰を抜かしたらしいメイド服の少女・李が現れた。

「ひっ……ひっ……ひいっ……」

「大丈夫かい?君」

玉が李を支えると、李は玉にしがみ付いた。

「どうしたんだよ。メイドちゃん。まさか、またおっぱじまったってのか?」

恭平が冗談めかして言ったが、当然のごとく誰も笑う者はいなかった。

「どうしたんです」

優しく問う玉に、ようやく李が顔を上げたそして、ゆっくりと伸ばした腕で浴場内を示した。

「……これは……」


脱衣所には、何か。いや、誰かが倒れていた。

まだ小さな影。

こちら側に向けられた頭は、まるでセルロイドの人形のようだった。

その少年―――雪花夕貴は息絶えていた。

可愛らしい袴姿のままで。


呆然と夕貴の亡骸を見詰める玉の耳に、懐かしい声が響いた。

「夕貴……君……」

思わず顔を上げると、そこにはネグリジェ姿の美麻が立っていた。

「美麻ちゃん……」

「夕貴……く……」

「あっ……!!美麻ちゃん!!」

崩れ落ちた美麻の身体を玉が慌てて受け止めた。

「やれやれ……通夜の晩にまた殺人か?はん。本当にこの家は呪われてるな。くくく……あはは……!!」

乾いた恭平の笑い声が空しく邸内に響いた。





あたしは所轄からの報告を受けた時、自分の耳が信じられなかった。


雪花夕貴少年が殺害された……。


どうしてこんなことに……。


「先輩……こんな……こんな……」

苗子は混乱しながら、涙を流すことしかできないようだった。

あたしだって、気持ちは同じだ。

あんなに無邪気に明るかった少年が、無残にも殺害されるなんて。

誘拐事件の時には、小さな身体を盾にして、少女を守ったあっぱれな少年。

この世には、神も仏もいないのかもしれない。

そして、事態は悪い方向へと転がり出していた。

「雪花海杜を釈放した途端に死体が転がったじゃないか!!奴がホンボシで間違いない」

「雪花海杜を任意で引っ張りましょう。いや、検事に頼んで逮捕状を請求した方がいいかもしれない……!!」

普段は強引な彼らを諌めたい衝動に駆られるのだが、今日はその気力も湧かなかった。

彼らが雪花海杜を疑うのも無理もなかった。あたしだって、彼本人を知らなければ、いきまく同僚と同じ決断を下したと思う。

それにしても、敵はなんという相手なのだろう。

幼い命をやすやすと奪った上に、彼を更に追い込んでいく。

あたしは見えないどす黒い影が彼の運命を染めていくような嫌な感触を覚えた。

「では、検事に連絡を……」

「待って下さい」

あたしは思わず声を上げていた。一気にあたしに視線が集まる。

「彼にはアリバイがあります……」

「犯行時刻は深夜なんだぞ?どうして君が証言できるんだ」

「それは……」

あたしは口ごもった。

それを口にしたら、あたしはきっと……いや、確実に……。

でも……。

あたしは口を開いた。

「それは……あたしが……その時間……彼と……雪花海杜と一緒にいたからです」

ざわめきがあたしを襲った。

軽い眩暈。

「先輩……」

苗子が声を上げた。

信じられないというような目であたしを見ている。

別に非難している訳ではない。ただ、驚きだけがそこにあった。

深夜に男と女が同じ部屋にいたのだ。何を言われても言い訳なんてできない。

いや。そもそもあたしに反論なんて許されない。

だって、あたしは現に、ここにいる誰もが脳裏に描いているであろう行為を実際に行ったのだから。

あたしは覚悟した。

あたしの刑事生命は……本当に終る。

だけど、あたしは言わない訳にはいかなかった。

あたしは刑事。

正義のみに服従する法の番人。

ならば、あたしは刑事である以上、アリバイのある人間を沈黙によって罪に陥れる訳にはいかない。

これは、あたしの刑事としての最後の良心。そして、プライド。

それと引き換えに、刑事という職業を失うことになっても……。

「羽鳥君……。君は……」

「どんな処分も覚悟の上です」

あたしはそう言い残すと、捜査本部を立ち去った。







「容疑者と寝るなんて、やってくれたわよね。羽鳥未央」

「だから女はって言われるのよね。いい迷惑だわ」

「そうそう。あの人、本部長の娘だからって、なんか勘違いしてるんじゃないの?」


罵声なんて、言われ慣れている。

本部長の娘ということで、子供の頃からなにかといわれ続けてきていたから。

でも、今回は不思議と堪えた。つらかった。

あたし自身が何よりもそういう人間になるのを嫌っていたはずだったから。

だけど、後悔はなかった。


「やあ。未央君。お茶でもどうだい?今日は僕特製のマーマレードのクラッカーがあるんだよ」

あたしは力なく頷いた。すると、熊倉は満足そうに頷いた。そして、背後の同僚たちに目を向けた。

「あ、そうそう。君たち、何か言いたいことがあるんだったら、直接本人に言いたまえ。

まるで、負け犬の遠吠えみたいで、哀れさ大爆発だからね。うん」







熊倉はあたしの本部での告白を知っても、なんら変わるところがなかった。

それはあたしにとって、何よりの慰めになった。

「さ、冷めないうちに飲みたまえよ。マーマレードはご自由に。

ああ、紅茶に入れてロシア紅茶にするのもいいかもしれないね」

「聞かないのね」

「もしかして、それは君の元見合い相手の事件当夜のアリバイの件かい?

僕が聞いてどうするんだい。それとも、話したいの?」

あたしは紅茶に手を伸ばした。

「じゃあ聞くけど……未央君、君は一晩を問題の彼と一緒に過ごした……。

その時にはそれなりのやりとりがあった。そう考えてもいいんだろうか?

……いや。答えたくなければ答える必要はないよ。

ただし……査問委員会では嫌でも答えることになるだろうけどね」

「答えは……YESよ」

「なるほどね……。君もずいぶんと大胆なことをしたものだね」

「大胆……?」

そうかもしれない。あの日のあたしはどうかしていた。

いや、あれがあたしの本心。

女としてのあたしの……。

その証拠に、あの夜のあたしは幸せだった。

どんなカタチであれ、愛した男に抱かれて……蕩けるような快感の中で、確かに……幸せだった。

「愛しているんだね。彼を」

「ええ」

すんなりと答えが出た。

自分でもふしぎなくらいに。

熊倉はちょっと首をすくめた。

「やれやれ……当てられてしまったなぁ」

そして、小さく呟いた。

「僕の忠告も……用をなさなかったようだね」

「えっ……?」

彼ははっとしたような顔をすると、すぐにいつもの人を食ったような笑顔に戻り、

「未央君。紅茶をもういっぱいどうだい?」

とポットを掲げた。

その時、ドアが開いた。

そこには予想通りの闖入者がいた。

「先輩!!」

「苗子……」

「先輩、やっぱりここだったんですね。もう心配したんですよ。いきなり捜査会議から飛び出しちゃって……」

その時、あたしのポケットから一枚の封筒が落ちた。

それはよりによって、正面を上にして床に落ちた。

「えっ……。辞表?先輩……どういうことですか!?」

「そのままの意味よ」

「先輩……本気ですか?」

「あたしがこれを書かなくても、あたしは刑事という役目を降ろされるわ。確実にね。

その前に……自分で幕を引いてやろう……そう思ってるのよ。悪い?」

「悪いです!!」

苗子は力いっぱい言い放った。

「先輩、おかしいですよ!!それ!!だって、先輩、先輩は刑事である前に人間なんですよ?

先輩……たとえ、雪花さんとそういうこと……になっても……わたしは変だなんて思いません。

非難もしようなんて思いません。だって、先輩……ずっと雪花さんのこと、好きだったんですもん」

「苗子……。あんた……」

「先輩。わたしのこと、甘く見ないで下さいよ。そんなのお見通しなんですからね。えへへ」


苗子はそう言うと、くりくりとした大きな瞳をウインクさせた。

「それに、先輩、刑事としても間違った行動もしていないじゃないですか。

だって、先輩、自分がこういう立場に追い込まれることを知りながら、雪花さんのアリバイ、ちゃんと証明したじゃないですか」

「苗子……」

「そうだねぇ。未央君。君、このまま幕を引く気かい?

どうやら、君の守りたい人間は何者かに陥れられているようだ。

そんな彼を君は助けたいと思わないのかい?

君は彼を追い込んだ人間を君自身で逮捕したいとは思わないのかい?」

「それは……」

確かに……このまま全ての真実を見ないまま、刑事人生を終るのは……あたしとしても……釈然としない。

でも……。

あたしにやれるの?

女として全てを悟ってしまった。

女としての弱さに気づいてしまったあたしに……。

「先輩。一緒にやりましょう?やれますよ。先輩。」

あたしは気がついたら、頷いていた。








「ごめんなさい……。タイミングが悪かったのよ。

……そう。まさか、あんなことが起きるなんて

……警察が来たからにはどうしようもないでしょう?

……わかっているわ。昨夜やるべきだったってことは

……でも、いいじゃない。計画に悪影響を及ぼすことではないもの。

むしろ、計画通りじゃない。

どこの誰だかわからないけど、感謝なくちゃいけないくらいだわ。ね?そうでしょう?

……やだ……そんなこと、言わないで。

……ええ。大丈夫。

今度こそ……今度こそ、任せて。

あの男の息の根を必ず止めてみせるわ」







「伊山……。お前なぁ……」

いつもの編集部。

そして、アタシはいつもの通り、頭を抱えた編集長のデスクの前で、頭を下げていた。

「格好の現場だったってのに、その場で死体見た途端に気絶して、写真の一枚も撮れてねぇってのは、どういうことなんだよ……」

「すみません……」

「挙句の果てに、気絶している間に一通りの事情聴取は終わっちまってて、お前が起きた時には朝だったってのは、どういうことなんだよ……」

「すみません……」

「伊山……聞き間違いじゃなかったら、お前、確か、事件記者志望だったよな?」

「すみません~。ううっ……」

「決めたぞ。今度からお前のことは、『必殺・現場殺し』と呼ばせてもらうからな。伊山」

「なんですか~。それ~!!」

くう~っ!!アタシは編集長のこと、『必殺・イヤミ虫』って呼んでやるっ!!

こ、心の中だけだけど……。

「とにかく。お前も疲れただろう?今日は一日オフにしてやるから。その代わり、あたしに付き合え」

「はあ~!?それ、ぜんぜんオフじゃないじゃないですか!!」

「いいから、来い。帰りに上手い飯食わせてやっから。な?」

ううっ……。それは……魅力的かも……。

だって今月ピンチだから……一食浮くのは助かるかも……。







「気がついたかい?美麻ちゃん」

目を開けると、心配げな槌谷先輩の眼差しにぶつかった。

「よかった。気がついて……。ここは病院だよ。美麻ちゃん気を失って、救急車で運ばれたんだ。覚えているかい?」

あ……。わたし、夕貴君のことで……。

「もう、気分は悪くないかい?のど、渇いていないかな?」

「はい。もう、大丈夫です」

その時、ふいに思い出される夕貴君の顔……。

「あっ……ううっ……私……私……。うっ……ううっ……」

「美麻ちゃん……!!」

嗚咽を漏らした私を先輩が抱き留めた。

甘えちゃいけない。

わたしは……穢れているのだから。

この人の純粋さとはもう……。

だけど……。

「ごめんなさい。先輩……ごめんなさい……今だけ……今だけ……」

「ああ。いいよ。いいんだよ。美麻ちゃん」

その声のトーンで、知った。

先輩がわたしと会長の秘め事を知っているのだということを。

それでも、変わらずに優しくわたしを抱き締めていてくれているのだということも。

「ああ、お医者さんが君に話があるそうだよ。起きられるかな?」

「は、はい……」

わたしは身体を起こした。軽い眩暈と吐き気。

「無理しないで。車椅子、僕が押してあげるから」

先輩に優しく抱き上げられ、車椅子に乗せられる。

一瞬だけ、先輩がわたしを強く抱き締めたような気がしたのは、気のせいかな?

病室を抜け、白い廊下を進む。

診察室と書かれた扉の前に来ると、先輩の声が降ってきた。

「じゃあ、僕、ここで待っているよ」

そっと先輩の手が離れる。

わたしは、ゆっくりと車椅子の車輪を押した。

看護婦さんがカーテンを押し開け、白衣を着た女性の元にわたしをいざなった。

彼女(女医さんだろう)は優しくわたしに問いかけた。

「気分はどうかしら?」

「ええ……。もうだいぶ楽になりました」

「つわりはない?」

「えっ……?」

わたしは女医さんの放った言葉の意味がわからずに、顔をあげていた。

「あら、あなた、ご存知なかったの?ちょうど、三ヶ月目ですよ」

きょとんとしたわたしに、女医は優しく微笑んだ。

「おめでたですよ。よかったですね。うふふ……」


わたしはその時、どんな顔をしたのかを覚えていない。







「あれ?編集長。どこ行くんですか?そっち、飲食店なさそうですよ?」

「言っただろ?ちょっと野暮用でな。悪いが付き合ってもらうぜ?」

「ええ~?」

先に腹ごしらえだと思ってたのに……。む~ん。

「ええ~?じゃない。飯代浮くんだから、我慢しろ」

なぜか編集長は途中で花束を買った。

「うへっ……。まさか、デートですか!?」

「ばーか。普通、デートで花束買うのは男の役割だろうが」

「あ、でも、編集長だったらありうるかな?とか」

「なるほどね。って、馬鹿。あたしにそんな趣味はない。だいたい、なんでデートにお前を同伴させないとならないんだよ」

それもそうだ……。

だいたい、編集長とデートなんて、一番結びつかない。

おっと、今の失言かな?

そんなこんなで、やがて着いたのは……。

「お墓……?」

そう。そこは都内のはずれにある霊園だった。

「へ、編集長……。これ……」

「悪いな。今日が月命日なんだよ」

そう言うと、編集長は慣れた雰囲気で立ち並ぶ墓石を歩いていく。

やがて編集長はひとつの墓石の前に立った。

そこには「矢保家之墓」とある。

矢保って……確か……編集長の苗字……。

なずなさん……?」

その聞いたことある声に顔をあげると、そこにはいつかのカッコいい女刑事さんが花束を持って立っていた。

「よお。未央ちゃんじゃないか」

「刑事さんと編集長……お知り合いなんですか?」

「まあね。未央ちゃんは死んだあたしの兄貴の同僚でね。なんだ、伊山。お前のとこに来た刑事って未央ちゃんのことだったのか」

「ええ」

「惜しかったな。知ってたら、一緒に飲みにでも行けたのに。ああ、今夜からでも遅くないか。

ははは。それにしても……勝手におっちんだ馬鹿兄貴の墓参りに来てくれる奇特な人なんて、あんたくらいなものだからね。

感謝してるよ。きっと、兄貴も墓の下でさ」

「そんなことないですよ。もし、彼がいなかったら、あたしは死んでいたか人殺しになっていたでしょう……」

アタシは意外だった。この刑事さんが、こんなに寂しそうな目をするなんて。

それを察したのか、編集長が言った。

「未央ちゃん、あんた、兄貴のこと引きずってるんだったら、さっさと忘れちまいなよ」

「えっ……?」

「兄貴があんたをどうして守ったんだと思う?それはね、あんたの未来を守ろうとしたからなんだよ」

女刑事さんがはっとして顔をあげた。

「あいつ、馬鹿がつくくらいに真っ直ぐなとこあったからさ。それが原因で人とうまくいかない面もあったんだよ。

特に、ああいう組織みたいな縦社会ではさ、そういうの……煙たがられたりするからね。

どうしても……。そんな時にさ、同じような気持ちを持ったあんたと出会えて、嬉しかったんだと思う。

きっと、あんたのこと、同士みたいに思ってたんだと思うよ。兄貴。

それで、あの日、きっと、あんたのことを全力で守ろうとしたんだと思う。その結果、死んじまったけどさ。

あいつ、それはそれで本望だったと思うんだよ。

それなのに、あんたがそんな風に兄貴を引きずってウジウジしてたんじゃ、兄貴、浮かばれないじゃないか」

女刑事さんは、寂しげにうつむいた。

「未央ちゃん、あんた兄貴のこと、好きだった?」

「えっ……?」

「……質問変えようか。あんた、今、恋してる?」

戸惑う女刑事さんの反応に、編集長は頭を掻いた。

「図星か。悪い、兄貴の墓の前で。でもさ、だからこそ、言って欲しいんだよ。兄貴の前で。

今、あたしは好きな人がいるんだって。あんたのことなんて、吹っ切っちまったよって。兄貴、きっと喜ぶからさ」

そう微笑んだ編集長の顔があんまり優しかったから、アタシはちょっと見とれてしまった。

不覚……。







立ち去る薺さんといつかの女性記者の背中を見送りながら、あたしは考えていた。


「あんた、今、恋してる?」


薺さんの問いに、あたしは答えられなかった。

でも、あたしは確かに今、恋をしている。

愛してる。

あたし、彼を。

そして、彼のために刑事という職さえも賭けている。

そう、あたしの全てを……。


あたしはあの夜、誓ったのだ。

あたしの中で彼が眠っていたあの夜に。

彼に消えない痕を刻まれたあの夜に。

たとえ、あの行為が彼の意思に反したことだったとしても……。


なぜか、熱いものが頬を伝った。

あたしは自分がこんなに弱い人間だなんて思っていなかった。

誰か、一人の男のために泣くようなセンチメンタルな人間だなんて……。

こんなあたしのことを、叱り飛ばして。笑い飛ばして。

ねえ、矢保さん……。







あたしが雪花夕貴殺害現場である雪花家の浴場に入ると、微かに周囲がざわめいた。

視線が突き刺さる。

あたしはスーツから使い慣れた白い手袋を取り出すと、ゆっくりとそれをはめた。

肌に馴染む感触があたしに勇気を与える。


そうだ。あたしは逃げない。この職からも、この事件からも。

そして、彼への想いからも。


あたしがいつも通り、気合いを入れるため手を打つと、苗子がにっこりと笑った。


「みんな。悪いけど、まだここの捜査指揮官はこのあたしよ。気合入れて頼むわね!!」

「先輩、これ。見て下さいよ」

苗子の声に見ると、脱衣所に粉のようなものが微かに落ちている。

「これ、何でしょうかね?」

苗子はしゃがみ込むと、白い手袋の上にその粉を拾い上げた。

どうやら、細かな木屑のようだった。

あたしは広く、まるで温泉旅館のような脱衣所を見回した。

太い木材がむき出しの状態で縦横に走り、その美しい木目を魅せている。

「結構、年代がかった浴場のようだし。老朽化して落ちてきたのかしらね」

「あ、先輩。もしかして、これじゃないですか?」

苗子の声に振り向くと、脱衣所の柱に小さな傷のようなものがついていた。それもひとつではない。

複数の傷跡が綺麗に並んで刻まれているのだ。

「あ。先輩。これ、夕貴君の身長を測っていたんじゃないですかね?ほら。ここに小さく、134cmとか書いてますよ」

「そうね……。でも、これは彫刻刀か何かで付けられたもののようだし、削った後は掃除だってしたでしょう。あら……?」

あたしは何気なく見上げたその傷跡のある柱の上の梁に別の傷跡を見つけた。

「苗子。見て。あれ……」

「あ?。あんなとこにも……なんでしょうね?これ……まだ新しいみたいですよ。なんか、今までの傷と形状も違うみたいだし……」

そう言って、苗子がその跡を指差した。

苗子の言う通り、この傷は今までのものとは明らかに違う。

面積が広いし、削れ方も違う。

「この傷ができるまでには、結構な圧力がかかっていたみたいね、御覧なさい。木屑が落ちているわ」

「でも、梁になんでこんな跡がついているんでしょう……?」

「さあね……」

こんな瑣末なこと、事件にさえ関係ないことなのかもしれない。

でも、あたしには確信があった。

あたしにまだ残されているであろう、刑事の勘。

それが、あたしに囁いている。

これは重要な手がかりなのだと。

今のあたしは自分を信じるしかないのだ。

そして、あたしの手で彼を救い出す。

これしか、あたし自身が救われる方法はない。

そう……それしか……。

「鑑識さ~ん。この傷、バッチリ撮影しておいて下さいね~☆」







「なるほど……。梁の傷ねぇ……」

そう言うと、熊倉はオレンジマーマレードのたっぷり塗られた自前のパンを頬張った。

いつの間にか、あたしたちの溜まり場と化した熊倉研究室では、いつも通りのティータイムが模様されていた。

「で? 関係者のアリバイとかはもうはっきりしたのかい?」

「はい! 熊倉先生が割り出してくださった死亡推定時刻の関係者のアリバイですが、雪花会長と美麻ちゃんは、一緒に会長のお部屋にいたみたいです。

あと、更級恭平さんと吉成水智さんもご一緒だったそうです。

メイドの不知火李さんは、座敷で後片付けやらいろいろなことに追われていたみたいで、目撃者も多数いますね。

槌谷玉さんや伊山凛さんも同様に座敷で話し込んでいるところを目撃されていますし、互いにアリバイを主張しています。

……あのう、雪花莢華さん、河原崎唯慧さん、そして英葵は、一人で自室にいたみたいで……アリバイの証人はいません」

「そして……雪花海杜は、紛れもなく、このあたしと一緒だったわ」

熊倉君は、敢えてなのか、あたしの主張を軽く受け流した。

「なるほど。だいたいの人物のアリバイは証明されてるって訳か。えっと~。被害者になった雪花少年を殺害した凶器はまだ見つかっていないんだっけ?」

「そう。布だってことだけは判明しているけどね。他ならぬ、あなたの指摘で」

「そうだね。死因は頸部圧迫による窒息死。これで間違いないよ。しかし、とんでもない力が加わっていたようだね」

「えっ……?」

「この少年の首、骨折していたんだよ」

苗子が大声を上げた。

「骨折!?骨折までしていたんですか!?」

「ああ。もうボッキリいっていてね。可哀想ったらなかったよ。今回の犯人は相当の握力を持った人物だってことだねぇ。

よかったじゃないか。犯人像が絞れる材料が出て。ただ……事件の関係者にそんな人、いたかねぇ」

「う~ん。平たく言えば、マッチョ系な人ですか……?そんな人……いましたかねぇ?先輩。

あっ。実はみなさん、脱いだらすごいのかも……」

「そんな冗談言ってる場合じゃないでしょう?しかし……いったい、この事件……何がどうなっているのかしら……」

あたしはそう言うと、爪を噛んだ。

「未央君。そうカリカリするのはよくないね。さあ、このカルシウムいっぱいの僕手製のサブレでも食べたまえ」

あたしは仕方がないので、爪を噛む代わりにそのお手製サブレにかぶりついた。







生まれ育ったはずの家は、まるで初めて訪れる異郷のように冷たく私を迎えた。

やはり、この家はもう私の居場所ではないのだ。

私は足早に邸内に入ると、静かにドアを閉めた。

別荘でテレビにも新聞にも触れていなかった私は、夕貴までもがその幼い命を奪われたことを知らなかった。

私はある決意を持ってここに帰って来ていた。

それは、家を出ることだった。

私はここでの全てを捨て、全く別の人生を送ることを選択したのだ。

薄暗い廊下を進み、自室のドアの前に立つ。

なぜか自室に入るのがためらわれたが、思い切ってドアを開けた。

そこには、私がここを出た日のままの見慣れた、だが、どこか寒々とした光景が広がっていた。

クローゼットから旅行用のバックを取り出し、荷物を詰めた。

必要最小限のものだけを持つことに決めていたから、そう時間のかかる作業ではなかった。

預金通帳の宛名に触れる。

『雪花海杜』

この家を出ても、私はこの名前にこれからも縛られ続けるのだろうか。

作業を終え、ふと部屋を振り返る。

もうここに帰ることもないだろう。

私がそう後ろ髪引かれる思いで立ち上がった瞬間。

闇に聞きなれた声が響いた。


「どこへ行くの?お兄様」


しばらくぶりに見る莢華は、ずいぶんやつれた印象だった。

あの自信に満ちた凛とした姿はすっかり影を潜め、こけた頬がくっきりと陰影をたたえていた。

「莢華……」

「その荷物はなあに?お兄様」

私は答えられなかった。

莢華は気が付かないのか、気が付かない振りをしているだけなのか、それ以上、追求しなかった。

ただ、ぽつりと言った。

「会いたかったわ。お兄様」

そして、ふと笑みを見せた。

「お兄様がいないあいだ、どれくらい心細かったことか……。

ううん。お兄様は例えここにいても、いないのと同じことでしたわね」

「えっ……?」

「だって、そうでしょう?お兄様はずっとあの子のことばかり見ていたんですものね」

「…………」

莢華は絹のローブをまとっていたが、突然前を留める帯に手をかけた。

ローブがはらりと莢華の肩からすべり落ち、暗い室内に莢華の白い裸身が浮かび上がった。


「ねえ、お兄様。莢華を抱いて」


「莢華……?」

戸惑いを隠せない私に、莢華は寂しげに言った。

「あの子は抱けて、妻である私は抱けないんですの?」

私は言葉を失っていた。硬直した私に莢華はすがり付いてきた。

「ねぇ、お兄様。お願いよ。莢華を抱いて……ねぇ?お兄様ぁっ!!」

莢華の涙が私のシャツを濡らす。

「私があなたの妻なんですのよ?あの子じゃない、この私なの。私を見てよ!!ねえ!!」

私はこの瞬間、この結婚生活の破鏡を完全に悟った。

私の浅はかな決断は、美麻だけでなく莢華も深く抉っていたのだ。

莢華に身体を預けたまま、私はきつく目を閉じた。

「お兄様……。あの子の……咲沼美麻の手を砕いたのは……この私よ?」

「…………!?」

「悔しい?私が憎い?ねえ?お兄様」

莢華はそう言うと、物凄い笑みを私に見せた。

「悔しいでしょう?憎らしいでしょう?だったら、私を責めればいいのよ!!

ねぇ、私を見て?私を睨み付けて!!私を蔑んで!!軽蔑して!!ねえ!?」

「…………」

「ねえ、お兄様。どうして何もおっしゃらないの!?ねえ!?」

私はただただ悲しくて仕方がなかった。

自分自身の犯した罪によって狂った二人の少女の人生が。

私は長い息を吐くと、莢華を見下ろした。

「お兄様……やっと……やっと私を見てくれたわね?もう何ヶ月も私を見てくれなかったお兄様……。

隣にいても一番遠いところにあなたはいたの。あなたの心は……うっ……ううっ……」

私は美麻だけでなく、莢華の心まで追い詰めていた。

全て私の咎だ。

どうしてこの子を責めることができるだろう。

私は床に落ちた莢華のローブを取ると、彼女の肩に掛けた。

「莢華……すまなかった。全て……僕のせいだ」

私は莢華を抱き締めると、彼女の耳元で囁いた。


「離婚しよう。莢華」







莢華は何も身に着けないまま、ベッドの上で、夫の言葉を反芻していた。


「離婚しよう。莢華」


その瞬間、彼女はあらゆる感覚を失った。

悲しみも悔しさも何も感じなかった。

感じられなかった。

ただ、愛する者が去っていく、その喪失感だけがそこにあった。

「嘘よ……嘘でしょう……?」


厳かな神殿の中で、海杜と莢華は夫婦となった。

長い宮司の祝詞のあと、まず、海杜が杯に口付けた。

続いて、莢華が三々九度の杯を飲み干す。

嚥下されていく熱いものを飲み下した時。

莢華は海杜と夫婦になったのだという喜びに眩暈を感じたほどだった。


結婚初夜。

初めて寝室で二人きりになった時。

莢華は不安と期待の中にいた。

莢華にとって、それは初めての経験だったから。

海杜のものになるという幼い頃からの夢が眼前のものとなり、言い知れぬ興奮の中に彼女はいたのだ。

この瞬間のために、自分は自分を守り通してきたのだ。

莢華の期待とは裏腹に、どこか遠慮がちな夫の様子。

それは、今までの二人の間に流れる空気となんら変わりがなかった。

ただのいとこ同士という関係と。

莢華はそっと目を閉じた。

海杜もまた、何かを決意するかのように莢華の手を取った。

唇に触れた柔らかな感触と、抱き上げられ、浮かぶ身体。

やがて、莢華の感じたことのない目くるめく快楽が、津波のように押し寄せ、その痛みと喜びに莢華は枕を濡らした。

永遠に自分は愛する男の妻として生きていけるのだ。


だが、そんな喜びは、長くは続かなかった。


全ては、あの少女。

咲沼美麻の出現で……。


咲沼美麻に対する、自分の犯した引き返すことの許されない罪と、それでも狂おしいほどに高まる海杜への愛情。

今まで莢華は望むものは全て手に入れてきた。

それは海杜も例外ではなかったはずだった。

だが、莢華が手に入れたと思い込んでいたのは、海杜の身体だけであり、彼の心はここにはなかった。

それを認めたくなかった。

認める訳にはいかなかった。


こんな現実、認めない……。


莢華はきつくシーツを握り締め、白い海に顔を埋めた。

その時、ふいにむき出しの素肌に柔らかなぬくもりが感じられた。


「えっ……?」


「莢華様……」


彼女を背中から抱き締めているのは、唯慧だった。


「唯……慧……?」

「どうか、もう苦しまないで下さい。莢華様」

唯慧の指先が、そっと莢華の肌を滑る。

「あなたには、私がいます。いつもいつまでも、私がいます」

顔をあげた莢華の驚くほど目の前に見慣れた唯慧の顔があった。

「あなたの苦しみを理解できるのは、私だけ……あなたと同じ想いを抱いたこの私だけなんです……。莢華様」

「同じ……想い……?」

莢華がそう問い返した瞬間、莢華の唇は唯慧の柔らかな唇で封じられていた。

「やめてっ!!」

「きゃ……っ!!」

莢華の叫びと同時に唯慧の身体は床に叩きつけられた。

「……唯慧……これは……なんの真似なの……?」

唯慧は床に突っ伏したまま、答えた。

「……報われない愛などお捨て下さい。莢華様。あなたには……私がおります」

「唯慧……」

「ああ……!!全て……あの男のせい……全てあの男のせいで崩れてしまった……!!

あらゆることが……!!うっ……ううっ!!憎い……憎い……あの男が憎い……ぃ……!!

あなたを連れ去ったこの家が憎い!!ううっ……」

そう叫ぶと、唯慧は抑えていたものを全て吐き出すように、その場に倒れ、泣き出した。

普段、何があってもただ物静かに佇んでいた唯慧の変貌ぶりに、莢華は唯慧の激情をただ見詰めることしかできなかった。

どれくらいの時間が経ったのか、唯慧がゆっくりと顔をあげた。

そこにはいつものように能面のように冷たい面があった。

「莢華様、どうか、お忘れにならないで……。唯慧はいつでもあなたの御心のままに生きていることを……」

「唯慧……あなた……まさか……」

唯慧は何も答えずに、部屋を後にした。







私は車に戻って、ハンドルにもたれた。

ひどく疲れた。

身体が鉛のように重く、もう指一本さえも動かないのではないかというくらいだった。

私の告げた一方的な清算が、莢華をいかに抉ったかは、想像に難くない。

だが、これ以上、このままの生活を続けても、彼女が受けるであろう傷は変わらないであろうことも予測がついた。

自分の決断で、美麻だけでなく莢華おもひどく傷つけたということ。

その後悔の念だけが残された。

償いきれぬその大罪だけが……。


私はようやく顔を上げた。


「無用心だな。海杜」

「えっ……?」

声が響いたと思った瞬間、私は背後からシートごと羽交い絞めにされていた。

「……!?」

「車にキーもかけずに行くとはな。まあ、詰めが甘いお前らしいがね」

バックミラーで確認するまでもなく、恭平が笑っていた。

どこか、狼でも思わせるかのような血走った目で。








皆さん、こんにちは。

メイドの……じゃなかった……社長秘書代行を仰せつかりました不知火李です!!

ワタクシは、現在、会長のお側にお仕えしております。

社長である英葵様が突然ご不在になられたため、会長が業務を代行しております。

もちろん、この英葵様のご不在に関しましては、トップシークレットでございますけど。

会長はそれはそれは厳しい方ですので、本当に緊張致します。

優しかった海杜様が恋しくて恋しくて……あっ、申し訳ございません。

どうか、このことは会長のお耳には入れないでやって下さいまし……。

とにかく、ワタクシ、今自分にできることを精一杯遂げて、海杜様をお待ちしようと考えております。

恭平様とのことは……正直……まだ……吹っ切れておりません。

でも、もうワタクシ……海杜様をお待ちしようと心に決めましたので……。

ワタクシができることなんて、高が知れておりますけど……

なんとか海杜様のお力になりたいなって……思うんです。笑わないで下さいましね。

ああ、海杜様……今、どうされているんでしょう……。

あ、またお話が脱線してしまいました。ごめんなさい……。

ああ、またこうしてぼんやりしていたら、会長に叱られてしまいます……。

と慌てて傍らのデスクに座る会長に目を向けると……。

「えっ……?」

そこでは、会長が胸を抑えてうめいているではありませんか!!

「えっ?ど、どうされたんですか?会長」

ワタクシが駆け寄りますと、いきなり物凄い力で腕を捕まれました。

「ひっ……!!」

ワタクシはそのあまりの力に腕が握り潰されてしまうのではないかと本気で思いました。

そう思った瞬間、会長のお身体が崩れたのです……!!

「会長……!?会長……!?しっかりして下さいまし!!会長!!だ、誰か……誰か来て下さいまし~!!」






「どこへ行く気なんだ?」

私の問いに答えず、恭平は車を走らせる。その乱暴な運転に、何度も舌を噛みそうになった。

「海杜。俺も不覚だったぜ。おかげでとんだ三日天下になっちまった」

「……えっ?」

私は恭平の言葉の意味を知らなかった。私はまだ彼が社長を解任されたことを知らなかったから。

私は彼の意図もわからず、乱暴に車から引きずり下ろされ、どこかの部屋(どうやら、恭平の部屋らしい)に連れ込まれると、寝室に押し込められ、そのままベッドのグレーの海に放り出された。

息つく間もなく、恭平が覆いかぶさる。

「なあ、海杜。あのカバンはなんのつもりだ?」

耳元で恭平が囁いた。

「僕はあの家を出るんだ」

「家を出るだと? 海杜」

恭平はその切れ長の目で私を見下ろした。彼のシルエットの中で、そこだけが異様な光を放つ。

「そうだ。君の望み通りになっただろう? 恭平君」

私は負けじと彼を睨めあげた。

「君が恨むのは雪花家の長男である『雪花海杜』だろう? 僕にはもう何もない。あの家を捨てれば、僕はただの一人の男に過ぎないじゃないか」

私はそう言って、顔を背けた。その私の顔を恭平は強引に自分に向ける。驚くほど近くに恭平の顔がある。私は訴えた。

「僕をもう自由にしてくれないか? 僕は何もかも失った。僕は君に負けたんだ。それでいいじゃないか」

「失った? 何もかも? 冗談言うなよ。海杜」

そう言うと、恭平はにやりと笑った。

「お前には、まだこの身体が残っているじゃないか」

「えっ……?」

私はぞくりとした。どういう意味だ?

「そうだ。お前にはまだ身体も心も残っている。お前はまだ菊珂や里香奥様みたいに、灰になった訳じゃないだろう?」

「…………!?」

まさか……。彼は……!?

「そうだよ。わかったか? 海杜」

私は必死に首を振っていた。

「もう、僕を自由にしてくれ!!」

私がそう叫んだ瞬間、何かがシーツに突き刺さっていた。

それは、ナイフだった。一気に身体が硬くなるのを感じた。

「どうした? 海杜。怖いのか?」

そう言うと、恭平は手の中のナイフを器用に回転させた。

「恭平君」

「さて。お楽しみの時間だな。海杜」

喉元にぴたりと掲げられるナイフ。その鈍い光が、私の目に刺さる。

「君は何を言っている? そして、何をしようとしているんだ?」

「そのままの意味さ。そして、そのままの行動だ」

そう言うと、恭平は私のシャツの第二ボタンをナイフで弾き飛ばした。その瞬間、私の脳裏に、里香の無残な刺殺体が蘇った。

私は今まで、一連の犯行は復讐心に駆られた英葵の単独だとばかり考えていた。

だが、それにしても、里香のあの惨状は酷すぎる。私は思わず、問うていた。

「聞かせてくれ。恭平君。里香さんを殺したのは……まさか、君なのか?」

「さてね?」

そうせせら笑うと、恭平は刃先を私の顔に向けた。

「さあ、海杜。どこを切り裂いて欲しい?」

「僕を……殺す気か?」

いや、『僕も』と言うべきなのか。

「安心しろ。殺したりはしない。殺せるはずないだろう?お前というおもちゃを、俺は手放す気はないんだ」

「いやだ!!」

私は反射的に恭平を振り払っていた。

その瞬間、私の腕に鋭い痛みが走った。振り払った時に切れたのか、ワイシャツの二の腕辺りが裂け、微かに血が滲んでいた。

「ふふ……抵抗したら、危ないだろう? 海杜。それとも、本当に切り刻まれたいのか?」

恭平は私の露になった胸にナイフを当てた。

鋭い冷たさが肌を刺す。同時に、湧き上がる言い知れぬ恐怖。

先ほどのしくじりが尾を引いているのか、身体が痺れたように動かない。

「震えているのか? 海杜」

「やめるんだ。恭平君」

なんとも不毛な説得だと思った。実際、私の制止も空しく、ナイフは私の肌に食い込んだ。

ナイフが滑ると同時に、私の肌に赤い線が走る。そのラインは、少しずつ膨らみ、やがてじんわりと赤い血を滲ませる。

恭平はその様子を面白がっているようだった。彼の中のサディストとしての核が、爆発したかのようだった。

狂気が彼を突き動かしている。

「やっと……やっとお前を跪かせたと思ったら、このザマか。くくくっ……やはり、お前のことはこの俺の手できっちりと葬ってやらないとならないみたいだな? そうだろう? 海杜」

今のこの男は、正常じゃない。

痛みは麻痺していた。その代わり、麻酔でもかけられたかのように、身体が痺れて動かない。

まるで、蛇に睨まれた蛙だ。

「どうした? 抵抗してくれないと面白くないじゃないか」

恭平の目の色が変わる。

迫る銀の光。

殺られる……!!

私はきつく目を閉じた。







こちらは、W大学付属病院。会長が救急車で搬送された病院でございます。

一時は危ういところだったようですが、緊急処置の後、こちらの一般病棟に移られました。

一般病棟とは言いましても、特別室ですので、まるでホテルのようなお部屋です。

それにしても、危篤状態から抜けて、本当にほっと致しました。

今は、海杜様も英葵様もいらっしゃいません。

もう、ワタクシが頼りにできるのは、会長のほかにいらっしゃらないのです。

その会長にまで倒れられて、ワタクシ、本当にどうすればよろしいのでしょうか。

そして、この雪花家は一体……どうなってしまうのでしょう。

「あのう……会長のご様態は……」

ワタクシが恐る恐る問いますと、お医者様は憤懣やるかたないというようなお顔で、ため息混じりにおっしゃいました。

「よくここまで放っておかれましたね」

「えっ……?」

「雪花幸造さんは、狭心症ですよ。しかも、極めて重度の……今までなんの発作もなかったことが不思議なくらいだ」

「ちょっと、待って下さい」

声を上げたのは、吉成水智専務でした。

この方がいて下さって、ワタクシ、それだけ救われたかしれません。

彼女はいかにも怪訝そうな顔をして、

「会長は今年の春の健康診断でもなんの異常も診られてはおりませんでしたわ。それが急に狭心症だなんて……」

とお医者様に詰め寄られました。すると、今度はお医者様も、

「しかし……これほど重度だと、相当以前から症状が出ていなければ、おかしいのですがねぇ……」

と首を傾げます。

確かに、会長は今まで心臓の発作など、一度も起されておりません。

一体……どういうことなのでしょう……?

「本当に……呪われているのかもしれんな……」

「会長……!?」

思わず振り向くと、会長が天井を見上げたまま、静かに横たわっていました。

そして、そのまま会長は続けました。

「他ならぬ、この私の過去の所業のせいで……」

「お目覚めでしたか……」

吉成専務はそう目を細めると、ツカツカと会長のベッドに近づきました。

「どうか、ご無理はなさらないで下さいまし」

「ああ……。だが……これは……この家に降りかかった災厄は、全て私のせいに違いないのだ……。吉成君」

「会長……」

ワタクシはこんなに弱気で、こんなに心配げな会長のお姿を拝見したことはございませんでしたので、とても驚きました。

病気というものは、やはり人を気弱にするものなのですね。

恐らく、吉成専務も同じ思いだったのか、少し驚いたような顔をなさいましたが、すぐに優しく微笑み、

「会長はお疲れなのですわ。今は、ゆっくりご静養なさらなくては……」

と布団から出された会長の腕をそっと中に戻しました。

「ああ……」

会長はまだ何か言いたげでしたが、ドクターストップがかけられたため、ワタクシたちは病室を後にしなければなりませんでした。


ドアを閉める瞬間、会長がぽそりと呟きました。


「許してくれ……ミサキ……」







「でな、伊山。アタシは今、ちょいと考えていることがあるんだよ」

馴染みの中華料理店で、編集長にゴチになりながら、アタシは彼女の話に耳を傾けていた。

「これでもアタシは昔、T新聞社でバリバリの事件記者だったんだぜ?」

「えっ?編集長……事件記者だったんですか?」

「まあな。だから、あの世界の厳しさも、嫌ってほどわかってる。だからな、伊山。

お前に生半可な気持ちであの道に進んで欲しくなんかなんだよ」

「むっ……。アタシ……生半可な気持ちなんかで事件記者、志望している訳じゃないですよ」

「ああ、悪ぃ。そういう意味じゃないんだ。ああ……アタシはどうも口が上手くないから、こういう時、不便だな。

兄貴とおんなじだ。あのな。そうじゃなくて、アタシはお前に事件記者になって欲しいって思ってんだよ。

ただし、きちんとあの世界のことを弁えてからな」

「は、はあ……。で、考えてることってなんです?」

アタシはアツアツの飲茶を頬張った。

「ああ、あのな。話ってのは、ほかでもない。今回の雪花家連続殺人事件のことだよ」

「へっ?編集長。うちの雑誌、完全な女性誌じゃないですか。今回の事件考えたって、記事にできませんよ」

「お前の意見は至極もっともだ。だがな、今回は記事にしようって話じゃないんだ」

アタシはますますわからなくなった。

いつもの編集長だったら、記事にならないような事柄なんて、OUT OF 眼中なのに。

「まあ、そう鳩が豆鉄砲でも食らったような顔すんなよ。あのな。今回はお前にとって、言葉は悪いがいい修行の場になると思う。

お前が事件の関係者である咲沼美麻の密着取材をすることになったのも、何かの縁だと思うんだ。

前に言っただろ?お前のペンであの子を救えって。その実践編って訳さ。

事件記者には、事件を見通す観察眼と推理力が必要なんだ。そう……想像力もだな。

とにかく、これからお前と今回の事件を整理してみたいと思うんだ」

アタシは俄然張り切った。

「は、はい!!」

「ま、その前にきっちり腹ごしらえしようぜ?伊山」

そう言うと、編集長はアタシが狙っていたシュウマイの最後の一個を頬張った。







どれくらい切り裂かれたのか。

どれくらいの血が流されたのか。

もう判断が不能だった。

もうどうでもよくなっていたのかもしれない。

私は少し、笑ったかもしれない。

なんだか、ひどく滑稽な光景だったから。

手のひらをかざしてみる。

赤い雫が滴るその穢れた手を。


血だ。

血。

血。


血が流れていく。

ただ垂れ流されていく。

それなら、いっそ。

こんな穢れた血など一滴残らず絞り出してしまってくれないか。


この血を。

この血が。


これは、私の血か?

それとも……。


これは、罰だ。


これは……。


流れているのが、血なのか涙なのかさえ、わからなくなっていた。


次の刃の感触で、私は完全に意識を失った。







ひどい悪夢にうなされ目覚めると、恭平の姿はなかった。

恭平の車のキーも見当たらなかった。

買い物にでも出たのだろうか。

いずれにせよ……。


今しかない。


私はつながれたロープを必死に噛み切った。

浅い傷だったため、幸い、出血は全て止まっていた。

痛む身体に鞭打ち、床に散らばる衣類(無残に裂け、血に塗れたそれは、正直、衣類と呼べるような代物ではなくなっていたが)を身につけ、

テーブルの上の車のキー(さっきまで恭平が私に見せびらかすようにしていた)を掴む。


逃げなければ。

ここから。

でないと、私は。


殺される。


ふと鏡に映った自分の身なりを見て、恭平の衣服を借りることも考えた。

だが、恭平の体臭を感じた瞬間、吐き気がしてやめた。

マンションを出ると、尋常ではない身なりの私を隠す闇夜に感謝をしつつ、足早に愛車へ乗り込んだ。


車を発進させると、急に雨が降り出した。

何度も眩暈がしてハンドルを持つ手が狂った。


あの場所へ……。

あの場所へ行けば、私は救われるかもしれない。


私はそんなことをただ一身に願いながら、ハンドルを握った。

呼吸をするたびに、身体が軋むように痛む。

ヒーターを入れても、引き裂かれた着衣の隙間から差し込む言い知れぬ寒さは消えなかった。

これが私の罪に対する裁きなのだろうか。

それならば、私に拒む権利などない。

それは、わかっている。

だが、もう耐えられそうにない。


どうすれば楽になる?


全て「無」になってしまえば楽になれるのだろうか。


では、「無」とはなんだろう。

全て無くなるとはどんなことなのか。


それは、文字通り、全てが「無」になること……。


では、死とは、「無」になることなのか。

そうなのか?

例えば、意識不明でずっと昏睡状態の場合、本人にとって、それは死と等しいのではないだろうか?

少なくとも、意識を無くしている間は、何も考えられず、何も感じることもできないのだから。

そして、本当に死んだとしたら。

当然、意識はなくなり、身体は灰になって地に還る。


全てが「無」だ。

意識がなくなってしまえば、もう苦しみにのた打ち回ることもない。

身体がなくなれば、もう誰にも辱めを受けることもない。


それは、なんだかひどく楽な気がした。


私は先に逝った九十九や菊珂や里香が、たまらなく、羨ましくなった。


その時、走行中の車の目の前に白い光が飛び込んできた。

「!?」

慌ててブレーキを踏み込んだ。

耳障りな摩擦音を響かせて、車が動きを停止した。

心臓が高鳴っている。

汗が一筋、額から頬に流れた。

フロントから白い光の方向を見ると、対向車だった。

朦朧とするうちに、私は車線を誤ったらしかった。

ドライバーがウィンドウを開け、何か叫んでいる。

恐らく、無謀な運転をした私をののしっているのだろう。

散々まくし立てたあと、ドライバーは鋭く私を一瞥し、何事もなかったかのように走り去った。

ラジオを切った車内では、ただ、ワイパーの耳障りな音が響いていた。


私は今、どうしてハンドルを切ったのだ?

そのまま突っ込んでいれば、死ねたかもしれないのに。


「無」になれたかもしれないのに……。


私はどうしてだかわからないが、妙に可笑しな気分になって笑い出していた。

笑いながら、涙を流していた。

腹がよじれるくらい笑っていた。

気が狂うとはこんな感じか。

いっそ、このまま本当に気が狂ってしまえれば、楽になれるのだろうか。

私の地位も名誉も人生の全てを一切失って、狂気の世界で遊ぶことができれば、私は楽になれるのだろうか?


そんなことを考えながら、私はただ笑い転げていた。


いっそ、殺された方が楽か?


ああ、なんて滑稽なんだろう。


私は「殺される」のが怖くて恭平のマンションを逃げ出したというのに、今は「殺されたい」と願っている。

私は馬鹿だ。

大馬鹿者だ。


神よ。私はもう何も望まない。

だから……。


誰か、私を…………殺してくれ。







やっとの思いで目的のドアの前に辿り付いた。

もう私はすっかり濡れ鼠で、雨水を含んだ衣類に包まれた腕を上げる気力さえ残っていなかった。

最後の力を振り絞り、微かな光を頼りにキーの束から一際古ぼけた銀の鍵を探し当て、鍵穴に差し込んだ。

鈍い音を立て、施錠が解除される。

ドアを開けると、微かに明かりが漏れてきた。

「……えっ……?」

ここは、だいぶ前から空き家だったはず……。


「誰……?誰ですか?」


そう懐かしい声がした。

私はその声に、思わず顔をあげていた。

近づく足音。

そして、そこには……。


「美麻……?」


そう。紛れもなく、美麻が立っていた。


「海杜……さん……」


私はドアを閉めるのも忘れて、ただ立ち尽くしていた。

美麻もまた、同じように私をただ見つめ、凍り付いていた。

背後では、強さを増す雨音が容赦なく鳴り響いていた。








私がもう一度、彼女の名前を呼びかけようとした瞬間、突然、美麻は駆け出していた。

「美麻!?どこへ行くんだ!?」

私は慌てて彼女の後を追った。

「来ないで!!来ないで!!」

「美麻!?」

身体が軋むように痛み、思うように走ることができない。

更に、水分を吸い、重くなった衣類が私の行動を妨げる。

狭い室内にもかかわらず、なかなか美麻と私の距離は縮まらなかった。

「どうしたんだ?美麻。どうして、逃げるんだ!?」

私は喘ぐようにそう叫んだ。

美麻は私を振り返りもせずに、ただ駆けていく。

暗い廊下を駆けていく。

窓から走る閃光で、美麻のシルエットが浮かび上がる。

雨音が美麻の足音を重なり、不協和音を奏でていく。


君まで私を見捨てるのか?

君まで、私を……。


嫌だ。

見捨てないでくれ。

私を……。


私は救いを求めるように、彼女を追いかけていた。


美麻が突き当たりのドアを開ける。

その扉が閉まる寸前に滑り込んだ。

行き場を失った美麻の身体を背中から抱き締めた。

冷え切った身体に、美麻の温みが伝わる。

懸命に私の腕を振り解こうとする美麻を、必死に押さえ込む。

「私に触れないで!!私に触らないで!!」

「どうしたんだ?美麻。どうして、僕を避ける?」

「ダメです!!私、穢れてしまったんです!!だから……私に触れないで!!」

「恭平君とのことか?それなら、僕も知っている。僕のせいで、すまないことをした。

君をまた傷つけてしまった……。許して欲しいとは言わない。だが……」

「それだけじゃないの……!!わたし……わたし……」

美麻が涙に濡れた顔を私に向けた。


「わたし、会長とも……」


小さく、だが、はっきりと放たれたその一言に、私は言葉を失っていた。

「その顔だと……やっぱり……気がついているんですね?海杜さん……」

「美麻……!?」

「そうです。許されないんです。私、穢れてしまったんです。許されないことをしました。罪深い女なんです。

会長とのことだけじゃないわ。そう……あなたとのことも……」

「それは……君のせいじゃない……」

「いいえ!!そのことを知っても……私の行動は止まることはなかったと思います。

私は……あなたを愛することを止められなかったと思います……。

だから、私が悪いんです。だって……私とあなたは許されないんですものね?

本当は……あなたのことだって、愛しちゃいけないんですよね?」

「美麻……知っていたのか……?」

「やっぱり……海杜さんも気がついていたんですね」

美麻は寂しげに微笑んだ。

私はその美麻の刹那的に美しい微笑みに、黙って頷いた。

「海杜さんは、いつから知って……気が付いていたんですか?

……そんなこと……聞いても意味ないですよね?……ふふ……うふふ……」

そう笑い声を上げると、美麻は私から背を向けた。そして、私の手から身体を離した。

「初めから……こうなる運命だったんです。お別れしなければならない運命だったんです。

そんな気がします。本当は、出会うべきじゃなかったのかもしれません。

そうだわ……。あなたに出会わなければ……」

「美麻……」

「そうでしょう!?だって、私とあなたは……!!」


私は美麻の唇を塞いだ。

美麻の唇が、悲しい運命(さだめ)を紡いでしまわないように。


その瞬間、強く瞬いた稲光が室内を照らした。

まるで、神の怒りが体現されたかのように。


許されないことはわかっている。


そんなこと、関係ない。

関係ないんだ。

そうだろう……?


確かに、この所業は神に真っ向から背く行為に違いない。

だが、それがなんだというんだ?

私はとうの昔に神から見捨てられている。

いや、違う……。

私が捨てたのだ。

あなたを失ったあの日から。

私は神の存在を捨てたのだから。


『この子は君にとって、大切な子になる……。なんだか、そんな気がするの。』


あなたの予言通りになった。


もう、私はこの子なしで生きていくことなど、かなわないのだから……。







どうしても気になることがあった。


それは、美麻ちゃんのピアニスト生命を奪った事故。


本当にあれは事故だったのだろうか。

アタシは、独自に捜査を開始することにした。

ズボラなアタシが、記事とは関係ないことに動いている。

はっきり言って、自分が信じられない。

きっと、美麻ちゃんへの罪滅ぼしの念もあったんだと思う。

アタシの不注意で全国にばら撒かれてしまったあの写真。

そのせいで、美麻ちゃんはどれだけ苦しんだんだろう。

軽はずみなアタシの行動が、確実に美麻ちゃんをえぐってしまった。

「ごめんね。美麻ちゃん……」

いくら宙に謝っても……どうにもならない。

なんとか、美麻ちゃんを救わないと。

そうだ、絶対にあの事故は、事故のはずがない。

美麻ちゃんが誰かを庇っているんだ。

アタシは絶対にその真相を暴いてみせる。

そして、今回の一連の事件だって……。

そう強く自分に言い聞かせると、アタシはマンションを飛び出した。







バケツをひっくり返したかのように響く、耳障りな雨音と轟く雷鳴と交互に乱射する白い光。

浮かんでは消える視界に見え隠れする愛しい肢体。

手探りで求めあう冷え切った肌。

美麻の細い指先が私の濡れた髪に絡む。

数週間ぶりの感触に、私はただ夢中で彼女を抱いていた。

ほんの数週間の空白は、私を白痴と化していた。

言葉もなく、ただ少女を貪る。

理性がなんだったのか、倫理とはなんだったのか。

その概念さえ失念している。

もう愛さえもわからなくなっていた。

今なら、感情も理性も持たない獣の気持ちがわかる気がした。


この子と繋がっている。ただ、それだけでいい。


そもそも今、言葉などに何の意味があるのだろう。

言葉の代わり、唇に全てを宿らせ、少女の全身に捧げる。

冷え切っていたはずの肌は、摩擦のせいか、いつしか今にも火を噴きそうな程に燃える。

全身がマッチ棒にでもなったかのようだった。

スピードが増していく。

それと比例して加速する美麻の吐息。

アンティークのベッドはその激しさに耐え切れず、絶えず悲鳴を上げていた。


「この傷……まさか、恭平さんが……?」

そう美麻が呟くように言った。

私は答えず、美麻への愛撫を続けた。

「ひどい……こんなの……あんまりひどすぎます」

「君が泣くことじゃない。美麻」

「いいえ。あなたの痛みはわたしの痛みです……。あなたが付けられた傷は、わたしの傷なの」

そういうと、美麻は私の傷ひとつひとつに優しく口付けた。

「わたし……あなたのために何ができるのか……考えたんです」

「僕のために……?」

「そう……あなたのために……わたしなんかができることなんて限られているけど」

それは一体……。

その答えを問おうとした唇は美麻によって塞がれる。


この刻《とき》が永遠に続けばいい。

叶わぬと知りつつも「あの日」と同じように私は願った。


そして、その晩。

私は再び、神に裏切られた。


いや、これは裁きだったのか。


この荒れ狂う嵐のように、最後の悲劇トラゴーデイアーは突然、幕を開けたのだ。


明け方近く、冷蔵庫から冷えたボトルを取り出すと、グラスと共に寝室へ戻った。

君も飲むかとグラスを掲げると、美麻は頷いたが、起き上がる気力がないようだった。

私は美麻を抱き上げ、自分でグラスの中身を呷ると、そのまま美麻に口付けた。

水分を補給し、少し力を取り戻したのか、美麻が私にもたれたまま、ゆっくりと瞳を開けた。


「ねぇ。海杜さん。聞きたいことがあるんです」


彼女を覗き込んだ私に、美麻は……。







嵐が去った後のこの上ない穏やかな朝だった。

昨夜の激しさが嘘のように、穏やかな空間。

カーテンの隙間から差し込む光に顔をしかめつつ、傍らに手をやる。

だが、そこにあるべき存在がない。

「美麻……?」

微かにへこんだシーツの痕。

だが、そこにぬくもりは感じられなかった。

私はバスローブを取ると、ベッドから抜け出した。

あらゆる音をなくしたかのような静けさの中に、私の足音だけが響いていく。

懐かしいアンティークの家具たち、テラスから差し込む光に揺れる庭の薔薇。

小さなこの家のどこにも彼女の姿はなかった。

「……美麻……?」

私がふいに古い小さなピアノに近づいた時。


「……えっ?」


小さなピアノの上に手紙があった。

宛名は『海杜さん』とだけあった。

見慣れた美麻の筆跡で。

私は慌ててその手紙の封を切った。


やっと取り戻したぬくもりは、瞬く間にまた失われていた。


そう。永遠に……。







「お前から俺を誘うとは……どういう風の吹き回しだ?」


俺は実に意外な人物から呼び出しを受けた。

目の前には、俺を呼びつけた張本人が静かに立っている。


咲沼美麻が。


少女は指定されたホテルの一室に現れた俺を一瞥し、すぐに視線を逸らした。

見ると、指先が小刻みに震えている。

やがて、決意したかのように背を向けたまま声を上げた。

「今日は……あなたにお願いがあって来たんです」

「ほう……。どんな風が吹けばお前からそんなセリフが引き出せるんだ」

俺はそう言うと、美麻の身体を強引に俺の方に向かせた。

怯えたような美麻の視線が俺の視線とクロスする。

「お願いごとってのは、相手の目を見てすることじゃないのか?お嬢さん」

俺の言葉を受けてか、美麻は真っ直ぐに俺を見返した。

そして、ゆっくりとその可憐な唇を動かした。



「私を抱いて欲しいんです」


その瞬間、俺はさすがに言葉をなくしていた。

そして、次の瞬間、俺を襲ったのは猛烈な滑稽さだった。

「……くく……ははは……。お前、気でも狂ったのか?馬鹿にするのもいい加減にしろよ?」

「冗談じゃありません。あなたに私の身体を……買って欲しいんです」

「買う……?で?その引き換えにお前が要求するのは?金か?」

「いいえ。海杜さんの自由です」

俺はまた噴き出した。

「はん。お前は憐れな生贄の羊スケープゴートって訳か?」

「ピアノが弾けなくなったわたしには、もうこの身体しか賭けるものがないんです。

お願いします。わたしをあなたのものにして下さい。そして、もう海杜さんを解放してあげて?」

「で?お前は愛する男のために自分自身をBetするってのか?

はん。前にも言っただろう?お涙頂戴のメロドラマは他でやってくれって。

だいたい、お前、こういうの浮気って言うんじゃないのか?」

「いいえ、海杜さんとはお別れしました。わたしは、もう二度と彼には会いません。

だから、お願い……!!もう彼を自由にしてあげて下さい!!」

俺は少女の叫びを飲み込むように唇を奪った。

長い口付け。

美麻が苦しげに呻いた。

これくらいでギブアップするようでこの俺にBetするとは……身の程知らずなガキだ。

だが、すぐに俺は異変に気がついた。

美麻が挑むように俺の舌に自分の舌を絡めてきたのだ。
今日のガキは、実際どうかしているのかもしれない。

この態度は、俺を素直に高揚させた。

俺はそのまま美麻の身体をまさぐった。

「待って……」

そう言うと、美麻は俺を押し留めた。

「なんだ。自分から言い出して、決意が揺らいだのか?お嬢さん」

「違います……。自分で……自分で脱ぎますから……」

そう言うと、美麻は自分からブラウスのボタンを外し始めた。

「なるほど、いい心がけじゃないか。感心したぜ?」

「あなたに褒められても……嬉しくありません」

俺はぴしゃりとしたガキの反論に思わず、顔を上げていた。

いつもと違うオーラのようなものがこの少女を包んでいたから。

彼女を捉えていた震えも消えていた。

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やがて露になる透けるような肌。

少女臭さの抜けない、どこか成熟しきらない躯。

触れたら壊れそうな硝子のような躯。

そして、海杜が愛してやまない躯か。

空恐ろしいくらいに「あの女」に似た躯……。

美麻は全てを脱ぎ去ると、その決意に満ちた瞳を向けた。

「わたしのことは……あなたにあげます。あなたの好きにして下さい。

だから、お願いします……もう二度と……海杜さんにひどいこと……しないで下さい」

「やれやれ……そのセリフは海杜からも聞いたぜ?お前ら、揃いも揃って自己犠牲か。

呆れるくらい似た者同士だな。いや、憐れなくらい似た者同士だ」

美麻は機械のように繰り返す。何の反応も何の感情も現れていないおもてで。

「約束して下さい」

「約束を守るか守らないかは……これからのお前の奉仕次第ってことにしておこうか?」

俺は美麻の裸身を抱き上げると、シーツの波間に放り込んだ。







美麻ちゃんが庇うとしたら、一体誰なんだろう。

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彼はこの問題で、雪花コーポレーションの社長を引責辞任している。

元を正せば、アタシのせいとも言えるけど……とほほ。

でも、彼はそんなことしないだろう。

じゃあ、一体……?


あっ……。


一番大事なことを忘れていた……。


雪花社長と美麻ちゃんの関係が許されなかった理由……。

それは、彼が既に妻帯者だったから……!!


今回のことで、一番美麻ちゃんを憎むとしたら……。


雪花海杜の……奥さん……?


確か、綾小路財閥の令嬢って記者仲間が言っていた……。


その人が……?


調べてみよう……。

やってみよう……。

アタシの手で真実を手に入れるんだ。

そして、美麻ちゃんを救うんだ!!








「今日は泣き叫ばないんだな」

俺は美麻の肌から唇を離し、そううそぶいた。

美麻は何も答えない。ただ、悲しげな目で俺を見上げただけだった。

「そんなつまらない反応だったら、約束って奴も守れそうにないな。お嬢さん」

俺がそう美麻を見下ろすと、彼女は真っ直ぐと俺を見据えた。

「あなたは、可哀想な人ですね。傷つけなければ愛することができないなんて」

「…………!?」

「本当に……可哀想な人……」

「おい……。泣いているのか……?」

こいつは、俺のために泣いているのか?

なぜだ?

どうして、お前が俺のために泣く必要があるんだ?

俺の仕打ちに対して、自分自身のために泣くならわかる。

だが……こいつは俺のために泣いている……?

どうして……。

その眼差しが、「あの女」に重なる。

あの日、光の差すテラスで風に揺れていた「あの女」。

どこか、この世の全てを超越したかのように微笑んでいた「あの女」。


そう。まるで聖母のような……。


まだ少年だった海杜が、眩しそうに見つめていた「あの女」。


そうだ。俺だって……。


俺は気が付いたら、美麻の唇を塞いでいた。

感じたことのない感情が溢れ出す。


こんなにも優しく女を抱いたのは、初めてのことだった。








「お呼びですか?恭平さん」

俺はあの夜から二日後、自分のマンションに美麻を呼びつけた。

定刻通りに現れた美麻は、相変わらず、そこに何の感情も宿らせてはいない。

俺はそれがいくらか物足りなかった。

もし、ここにいるのが海杜だったら、こいつはどんな顔を奴に魅せるのか。

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「自分で脱ぎます。シャワーお借りしてもいいですか?」

美麻は、そう無表情のまま「女」のセリフを口にした。

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洗いざらしの髪がベッドに広がる。

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バスタオルをはだけると、露になる蒸気で火照った少し赤みを帯びた肌。

「お前は俺のものだ」

「交渉は……成立したんですね」

俺は「YES」と言う代わりに美麻の首筋に強くキスをした。

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俺は気が付いたら、歯軋りしていた。

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ナイフでめちゃくちゃに奴を切り裂きたい。

本気でそう思った。

「言えよ……。愛してるって言え!!さあ!!」

俺は美麻の肌に噛み付いた。

「いやあああっ!!」







「旦那様。さあ、着きましたよ。無事にお戻りになられて、本当に良かったです」

ワタクシは今朝退院されたばかりの旦那様の車椅子を押しておりました。

入院期間は三日ほどでしたが、絶対安静ということで、ワタクシは車椅子を押している間中も、全く気が抜けませんでした。

車椅子を押して、廊下の奥にしつらえられた新しい旦那様のお部屋へ向かいます。

新しいお部屋では、様々な医療機器の備えられえたベッドがあり、

ボタンひとつで近隣の病院に連絡が行くようになっていますし、とても安心です。

会長はドクターストップがかかっているにもかかわらず、このお部屋に早速大量の書類をお持込になられましたが。

会長が書類の束から何かを取り出しました。

「これが……役に立つ時が来てしまったようだな」

「えっ……?ひっ!?」


それは、け、け、け、拳銃でございました!!


「この間、アメリカで買ってきた。護身用にな」

そう言うと、旦那様は微かに唇の端を上げました。

笑っていらっしゃるようでございますです……。

「もう、『悪魔』の好きにはさせん……。絶対にな……」

「だ、だ、旦那様!!そんな物騒なもの……どうか、お仕舞い下さいませぇ!?」

ワタクシが大慌てで旦那様に懇願すると、ようやくそれをサイドボードにお仕舞いになられました。

ドキドキ……。







どれくらいの時間が経ったのか。

既に西日が傾き、室内は夕焼け色に染められている。

俺はベッドサイドのシガレットケースとライターを手探りで手にすると、火を付けた。

傍らの美麻は死んだ魚のような虚ろな目を天井に向けたまま、無言で倒れていた。

身体中に俺の付けた赤い無数の花弁を散らしたまま。

頬には白い砂になった涙の跡がくっきりと残っていた。


結局、俺はまたお前を泣かせちまったな。


「今まで誰にも言わなかった俺の正体をお前に教えてやる」

「正体……?」

「そうだ。俺は更科家の実子ではない。確かに戸籍上はそうなっている。

だが、本当は違うんだ。俺は、雪花家の子供だ」

「えっ……?」

「俺にだってあの椅子に座る権利はあるんだ。あの社長の椅子に……。

だってそうだろう?俺は分家の子なんかじゃない。正真正銘、あの男・雪花幸造の息子なんだからな!!」

その瞬間、美麻の顔にその日初めて感情が宿った。

「あなたが……会長の……?」

「そうだ。おふくろが死ぬ間際、俺にだけ告白したんだ。

若い頃、俺のおふくろは雪花幸造と愛人関係にあったんだ。

そして生まれたのが俺だ。俺は正真正銘あの男・雪花幸造の息子だ!!」

きょとんとした顔を俺に向けていた美麻は、突然、爆発するように笑い声を上げた。

「お……おい……?み……美麻?」

彼女はひとしきり笑い転げると、俺を見上げた。

あの例の妖婦のような笑みで。

「かわいそうな人ですね。……あなたも……会長さんも……

そして……かわいそうな海杜さん……。ふふふ……うふふ……」

涙を流しながら彼女は笑っていた。

なぜだ?なぜお前が笑う?

俺を嗤うんだ?

「やめろ……笑うな……俺を嗤うな!!」

「かわいそうな人……うふふ……ふふふ……」

「やめろ!!やめてくれ!!」

俺は美麻の口を塞いだ。

それでも美麻の笑い声は止まない。

くぐもったようなそれは俺の手のひらに振動を伝えてくる。

俺はただ、その笑い声を止めたくて夢中で美麻の口を塞いだ。

そして……。







警察から解放されたワタクシは社長業務の引継ぎの書類を恭平様から受け取るために、

吉成専務から手渡された住所を手がかりに、恭平様のマンションを探しておりました。

深い関係になってからも、恭平様はワタクシをマンションに連れ込むようなことはなさいませんでしたので、

ワタクシは彼のマンションの所在は知りませんでした。

地下鉄を御成門駅で下車した後、芝公園を抜け、同じ場所をグルグルと回って、ようやくそのマンションを発見したのは、もう日が傾きかけた時刻でした。


東京タワーが見えるマンションの最上階の一番奥の部屋。

ここが彼の住居らしいのです。

ワタクシは少しドキドキしながら、呼び鈴を押しました。

が、反応がございません。

いらっしゃらないのでしょうか?

ワタクシはなんとなくがっかりして、ふいにドアノブに手をかけておりました。

でもその時、妙なことに気がついたのです。


ドアが開いている……?


恭平様は、近くのコンビニにでもおでかけなのでしょうか?

とにかく、このままだと物騒だと思い、ワタクシはお邪魔させて頂くことに致しました。

恭平様のお宅は、思ったよりコザッパリした印象のお部屋でした。

全体的にグレーで統一された感じの室内は、なんとなく男性を感じさせて、ワタクシは無意味に胸が高鳴ってしまいました。

なにせ、ワタクシ、男性のお部屋にお邪魔するのはこれが初めてだったものですから……。

ワタクシ落ち着かなくて、お茶でも入れて恭平様をお待ちしようと思い、キッチンを探しました。

ところが、ワタクシが開けたドアは、寝室でした。

シングルのベッドを目にした瞬間、ワタクシはまたドキドキしてしまいまして、慌ててドアを閉めようとしましたが、

またワタクシは妙なことに気がついたのです。


床に……何か……ある……?


寝室はカーテンがかかっていて、薄暗く、それがなんなのか、わかりませんが、妙に気になりました。

というのも、恭平様のお部屋は本当に無駄なものがなにひとつないというくらいに片付けられていて、

床も塵ひとつないというくらいに整頓されていたからでした。

ワタクシは背広か何かなのだろうと思い、せっかくなのでハンガーにかけておこうと寝室に踏み込みました。

暗くて不便だったので、電気をつけました。


が、次の瞬間、ワタクシはその場にしゃがみこんでおりました。


床には、変わり果てた恭平様が倒れておりました。

長い髪が床に漂い、その切れ長の目は虚ろに天井を見上げたまま止まっておりました。

彼は上半身は裸の状態で、均整のとれた褐色の肌には、深く包丁が突き刺さっておりました。

そこから溢れ、下腹部を染める血は既に凝結を始めておりました。

その光景のあまりの恐ろしさから思わず目を逸らしますと、ふいに恭平様の腕が何かに伸ばされているのが目に入りました。

それは、小さな小箱でした。

どうやら、綺麗にラッピングされているようでした。


ワタクシは、そのあまりに場違いなプレゼントを見つめたまま、声にならない悲鳴を上げておりました。


ですが、その時、更に恐ろしい光景が浴室に広がっているなどとは、いったい誰が想像したでしょう。

そう。浴室では咲沼美麻様が全身を真っ赤に染められて息絶えていたのですから……。
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