【全年齢版】この世の果て

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第六章 愛を殺して

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『愛というものの中には、常に幾分の狂気がある。

 狂気の中には、常に幾分の理性がある。


                        ーーフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ』




「あなたにはピアノがあるじゃない!!

それなのに、私から海杜さんまで奪うというの!?

あなた、そんなの虫が良すぎるじゃありません?」

そう。

わたしは悪い女です。

わたしはわたし自身の手で、愛する人を追い詰めているのかもしれませんね。

だから、わたしは……。





「本当に……夕貴君……意識を取り戻してくれて……よかった……」

わたしは夕貴君のお見舞いの帰り、ホテルのレストランで海杜さんと食事をしていた。

こんなに穏やかな時間、もうどれくらいぶりなんだろう。

なんだか、すごい年月が知らぬ間に流れてしまったみたい。

ふと目の前の海杜さんを見上げる。

でも、今日の彼はなんだかいつもと違う。

海杜さんから誘ってくれたのに、

今だって上の空っていうか……ナイフとフォークもぜんぜん動いていない。

ひどく思い詰めているというか……何か悩んでいるみたいでなんだか、すごく寂しい。

「あの……海杜さん?」

「えっ……?」

「あ、聞いてなかったんですか?」

「ああ……すまない」

やっぱり……どうしたんだろう?

やがてランチが終わり、食後のコーヒーも飲み終えると海杜さんは、

「さて、これからどうしようか」

とようやく、わたしを見た。でも、やっぱり目線は暗い。

「海杜さん……」

「ん?」

「私と海杜さんといられれば……それでいいです」

「…………」

わたしは自分で言って、慌てて首を振った。

「あああああっ!!あの……」

場所を聞かれてるのに、わたし……何いっているんだろう。

「あ……ごめんなさい……。変なこと……言いました。ごめんなさい。あの……」

なぜか海杜さんがその瞬間、すごく優しい目をした。

わたしはほっとした。いつもの海杜さんだだったから。

「僕もだ……」





「うわぁ……すごい部屋……」

わたしと海杜さんはこのホテルのスイートにいた。

わたしはその部屋の豪奢さに圧倒されて、声を上げながら倒れそうになった。

こんな豪華な部屋……見た事ないんだもの。

そして、部屋じゅうを見回していた視線が奥の部屋で止まった。

そこには大きなベットがあったから。

顔が赤くなった。

嫌だな。わたし……何考えているんだろう。

ふと、背後の海杜さんの事が気に掛かり、わたしはそっと振り返った。

その途端、抱きすくめられ、唇を奪われた。

「んっ……」

わたしも彼の背中に腕を回し、きつく抱きしめた。

すると、海杜さんはいきなりわたしの身体を抱き上げた。

「きゃっ!!」

さっき目にしたベットに優しく横たえられる。

慌てて顔を上げると、真剣な目をした海杜さんにぶつかった。

どうしよう……。やっぱり今日の海杜さん……なんか違う……。

「あの……シャワー……」

「必要ない」

「でも……」

「君はいつでも綺麗だよ」

「あの……」

「時間がないんだよ。あと、二時間ちょっと。

それでこの夢は醒めてしまう。君といられる夢のような時間がね」

海杜さんはそう寂しげに言うと、優しくわたしに口付けた。

その唇が、ゆっくりと首筋に回る。

「あっ……」

彼の指が優しく髪を撫でていく。

「あっ……あはん……」

わたしはいつものクセで、必死に声を押さえていた。

「美麻。声を……もっと声を上げていいんだよ。ここは家でも、会社でもない」

「でも……」

「君の声が聞きたい」

そう言うと、海杜さんはさらに激しくわたしを攻めた。

こういう時の海杜さんは……本当に……意地悪……!!

わたしはとうとう大声で喘いだ。

「ああん……!」

わたしは叫んだ。

「好き……好きよ……大好き!!」

なぜか急に、こないだのパーティで海杜さんの隣で微笑む莢華さんのことが思い出された。

彼女がうらやましかった。それ以上の感情はないはずだった。

でも、今はっきりとわたしは自覚した。


彼女が憎い。


公衆の前で、堂々と彼の口から「愛してる」と言われる事が出来るあの人を。

海杜さんの血を残せるあの人が。

「もっと……もっとして」

あの人より激しく、深く愛して欲しい。

「美麻……?」

「もっと……もっと……」

わたしはいつしか泣いていた。泣きながら海杜さんに抱かれていた。

「愛してるの……どうしようもないの」

海杜さんは莢華さんのもの。  

わたしはそれでもいいと思っていた。だって、それは仕方がないことだもの。

ずっと、そう自分に言い聞かせてきた。

だけど、今は……。

好き。もう、止められない程に。

初めて肌を合わせた夜、わたしはこの想いをますます押さえつけなければならない、そう決心した。

だって、これはタブー。

公になったら、海杜さんは今の地位も名誉もすべて失ってしまうんだもの。

でも、想いは強くなるばかり。

海杜さんの囁き、唇、指先。

そして、わたしだけに向けられる笑顔。

そのすべてが欲しい。欲しい……!!

あなたを愛するようになってから、わたし、どんどん嫌な女になっていく。

あなたの側にいたい。

あなたの全てが欲しい。

そう願うのは罪ですか?

あなたはこんなにもわたしを愛してくれているのに、それ以上を望むのは、罪ですね。

でも……。


イカナイデ。

カエシタクナイ。



ねえ、どうしたらいいの?

お兄ちゃんの忠告通りね。

このままだと、わたし、きっと本当におかしくなってしまう……。

わたしが醜い心にこの身を覆い尽されてしまう前に……。


この歪んだ愛と一緒に、わたしを殺して下さい。





無機質な携帯の音が薄暗い部屋に鳴り響く。

その音に反応して海杜さんがサイドボードから携帯を取った。

「……そうか……わかった」

溜息混じりに電話を切ると、海杜さんは彼に身を任せているわたしを、寂しげな目で見つめた。

わたしの身体は無意識に震えた。

わたしにはわかっていたから。

その電話が、海杜さんを連れ去ってしまうことが。

「夢は終わりだ」

やっぱり……。

わたしは思わず泣き出しそうになった。

その一言は聞きたくなかった。

もう慣れないと。わたしは、ただこくんと頷いた。

海杜さんは愛おしそうにわたしの髪を撫でると、

「シャワーを浴びてきなさい」

と言った。

わたしはゆるゆると首を横に振った。

わたしは自分の肌に残る彼のぬくもりを少しでも長く感じていたかったから。

彼は再びわたしの髪を撫でると、そのままバスルームに消えた。

着替えなくちゃ。

わたしはけだるい身体を起こして、衣服を手にした。

わたしが着替えている間に、海杜さんが出てきた。

洗いざらしの髪の海杜さんは、はっとするくらいに綺麗。

思わず、視線をそらしてしまった。

わたしはどうしても気恥ずかしくて、いまだに彼の裸を直視できない。

彼は簡単にドライヤーで髪を乾かすと、まるで、なんにもなかったみたいにワイシャツを身にまとった。


この時間が、本当に終ってしまう。


その瞬間、わたしは思わず、彼の背中に抱きついていた。

「美麻……?」

わたしはダメね。

割り切れない。

切り替えられない。

大人になれない。

海杜さんはわたしからゆっくりと身体を離すと、わたしの手を取り、指に口付けた。

「あっ……」

その瞬間、さっきまでの感覚が蘇る。

痺れるような快感。

どうか、このまま……。

わたしがそう願った瞬間、彼の唇が離れた。

「行こう」





部屋を出たら、わたしと彼はもう他人。

わたしたちは無言で廊下を歩いた。

わたしと海杜さんが地下の駐車場で車に乗り込もうとした瞬間。

辺りを眩い光が一斉に辺りを包み込んだ。

薄暗い駐車場が一気に太陽が差し込む地上になったみたいだった。

「えっ……?」

わたしと海杜さんを取り囲んでいたのは、たくさんのカメラと記者たちだった。






アタシは昨日久々のオフで、丸一日眠っていた。

その間、世間は瞬く間に変わり果てていた。

昨日発売されたばかりの女性週刊誌を見て凍り付いた。

そこにはでかでかと「某新進企業青年社長、新人美人ピアニストと不倫愛」と銘打たれている。

しかも、記事にはあの夜、アタシが何気なく撮影したキスシーンが一面で載っている。

あのフィルムは確か……こないだ貸したカメラの中に……。

その時、聞き慣れた声が編集部に響いた。

「よっ!!伊山~。こないだはサンキューね。

あ、その雑誌見てくれた?もううちだけの大スクープでしょ?あたし、今回のことで金一封もらっちゃった」

「これ、どういうことよ!!」

アタシは思わず彼女の襟首を掴んでいた。

「何って見たまんまよ。ありがとね、こんないいもんもらっちゃって。

もうあんたに足向けて寝られない……みたいな?」

「この泥棒!!」

アタシは彼女の方をぶっていた。

「いたっ!!何すんのよ!!」

「それはこっちのセリフじゃない!!人のカメラの写真を勝手に……!!」

「馬鹿じゃないの?あんた、甘いんだよ。この世界、伸るか反るか、殺るか殺られるかなんだよ?

そんな大スクープの入ったカメラをのこのこ他の同業者に渡すって方がどうかしてると思うけど?」

そう言うと、彼女はケラケラと笑い出した。

でも、いきなり真顔になって付け加えた。

「あたしだって、これで飯食ってんだよ」

「うっ……」

「いった~い……口の中切ったじゃないの……。でも、この写真に免じて帳消しにしといてあげる」

彼女はちょっと手を上げると、編集部を出て行った。

そうだ。これはアタシのミスだ。

アタシがあんな大事なもの写ってるのに、すっかり忘れて芸能デスクのあいつに渡しちゃったせいなんだ。

「おい!!伊山いるか!?」

聞き慣れた鋭い声に顔を上げると、編集長が例の雑誌を手に編集部に戻ってきた。

「編集長……」

「伊山!!お前、密着取材してて、気がつかなかったのか!?」

編集長、怖い……すごい迫力……。アタシは観念してゲロした。

だいたい、あの写真はアタシが撮ったものなんだから。

「……知ってました……」

黒ぶち眼鏡の奥の編集長の目が釣りあがった。

「馬鹿!!絶好のスクープじゃないか。伊山!!お前どうしてこんな大事なことを!!」

「アタシは……アタシには……書けません!!情報も……渡す訳にはいきません!!」

そうだ。約束したんだ。秘密にするって……。応援するって。

あの夜、美麻ちゃんはアタシを信頼して全部話してくれた。

友人の家ではじめて会ったこととか、彼のおかげでピアニストになれたんだってこととか。

でも、アタシは書く訳にはいかない。

たとえ、何万何億積まれたって、書く訳にはいかないんだ!!

これは……アタシと美麻ちゃんの友情の証なんだから……。

「自惚れるなよ?伊山。お前はこの世界がわかっちゃいない。

だからいつまで経っても半人前なんだ。いいか?

この業界は人の不幸や恥辱を記事にしてナンボなんだよ。

世間ってのはな。いつだって新鮮なネタを渇望しているんだ。

最上のスキャンダルをな。お前が握りつぶしたのは、まさに世間の求める極上のネタだったんだ!!」

そんな……。

「さあ、洗いざらいだしちまいな。伊山。お前、知ってるんだろう?咲沼美麻と雪花社長の関係の真実を」

「そんな……」

「さあ!!」

アタシは……そんな記事を書く為に……記者になったんじゃない!!

「嫌です……」

「伊山!!」

「絶対に……嫌です!!」

「言ったな。伊山。お前の記者生命が終るとしてもその決意は変わらないのか?」

「!?」

「どうなんだ?伊山!!」

「……変わりません……」

編集長とアタシは無言でにらみ合う格好になった。

数秒が、数時間に感じられた。

先に視線をずらしたのは、編集長の方だった。

「やれやれ……だな。伊山。お前には負けた」

「編集長……」

「わかった。お前には頼まない。その代わり、こっちで好きなように書かせてもらうことになる」

「えっ……?」

「うちの連中は案外えげつないからな。あることないこと書きたてるに違いない。

そっちの方が面白い記事になるかもしれないな」

「そんな!!」

編集長は急に真顔になった。

「じゃあ、伊山。お前が書け」

「えっ……?」

「好き勝手書かれるのが嫌なら、お前自身で書け。改めて取材して、

お前の目で見て、お前の耳で聞いて、お前の心で感じたままに、

お前の心に誠実に書け。

お前がいくらなんとかしようとしたって、こうなっちまったからには、

この事実をもう隠蔽することは不可能なんだ。

いいか?本当にお前が咲沼美麻を大事に思うんだったら、書くんだ。

彼女が偽りの醜聞に汚される前に、正確な記事であの子を救うんだ」

「編集長……」

「さ、どうするんだ?伊山。引き受けるのか?断るのか?」

「それは……」

「お前は記者だろう!?お前のペンでお前の大切な人間、救ってみせろよ!!」

アタシは泣いていた。

泣く人間は負けだって、どんなにつらくても悔しくても泣いたことのないアタシは、泣いていた。

ごめんね。美麻ちゃん。アタシのせいで。

でも、アタシ、きっと美麻ちゃんのこと、助けてみせるよ。アタシの記事で。

「伊山凛、謹んでお受けします!!」





「この写真のことはどう説明されます?」

目の前に突き出されたのは、あの夜の……。

どうしてこんな写真が……!?

「いつからのご関係なんです?」

「雪花社長には、奥様がいらっしゃいますよね。これは不倫と考えてよろしいんですよね?」

取り囲むたくさんのカメラのレンズと目、目、目。

わたしは眩暈がした。

「今日はお二人でホテルの個室で過ごされていたんですか?」

「違います……。わたしは海杜さ……いえ……

雪花社長にレストランで昼食をごちそうして頂いていただけです」

「三時間半ですか。ずいぶん、長いお食事ですねぇ」

どっと笑いが起きた。その卑猥な笑みに寒気がした。

この人たち、まさか、ずっと張り込んでいたの?

嫌だ……。怖い……。

でも、ちゃんと否定しなくちゃ。

「あの……」

海杜さんが小さくわたしに耳打ちした。

「何も答えなくていい」

「でも……」

「否定すればするほど、深みにはまるだけだ。……失礼」

そう言うと、海杜さんは記者を掻き分けてわたしを助手席に乗せた。

そして、無言で運転席に乗り込むと、車を急発進させた。

どんどん遠ざかる人並みとフラッシュの嵐。

でも、わたしの胸は潰れてしまいそうに高鳴っていた。

ばれた……ばれてしまった。

どうしよう。これから、どうしたらいいんだろう。

わたしはどうしようもなく不安になって、海杜さんを見上げた。

彼も見たこともないくらい険しい顔をして、ただ正面を見つめていた。

「海杜さん……」

あんな写真が出てしまったら、どう言い繕うこともできない。

終わり……これで終わりなの?

これで、お別れ?

嫌だ……堪えられない。

でも……もうお終いだよね?

ごめんなさい。海杜さん。





莢華は珍しく、女性週刊誌を目にしていた。

背後のテレビでは、ホテルから出てきたところだという二人の様子が流れていた。

否定も肯定もしない二人の様子が、ただ何度も繰り返し、流れてくる。

唯慧は莢華を慮ってチャンネルを変えるが、

どのチャンネルも同じ映像を流しているため、とうとう唯慧はテレビを切った。

やがて、静かになったリビングには、

莢華の手の中の週刊誌がぐしゃぐしゃに潰されていく音だけが響いた。

「莢華様……」

莢華は黙って立ち上がるとテラスに駆け込み、海杜のピアノを開け、弾き始めた。

優雅な演奏の中、繰り返されるミスタッチ。

莢華の精神は限界に達した。

バンというピアノから出たとは思えないような不協和音が響く。

莢華は立ち上がっていた。彼女の背中は明らかに怒りで震えていた。

「咲沼……美麻……」

いまや、世間中が知っている。

二人が密かに愛し合っていたという事実を。

知らなかったのは自分だけ。

妻という地位が与えられていたはずの自分だけ。

「ねえ。唯慧。私は世間の笑い者なのかしら」

「莢華様……そのようなことはございませんわ」

「ねえ、唯慧。あなたは知っていたの?」

「……知っておりました」

その瞬間、唯慧の頬に鋭い痛みが走った。

唯慧が頬を押さえ、顔を上げると莢華の青褪めた顔にぶつかった。

「そう、知っていたの?私は本当の道化ですわねぇ。ふふふ……」

莢華は、自分の方がいつだって美麻よりも上だと信じてきた。

家柄だって、血筋だって、財力だって。

確かにピアノの才能では及ばなかったかもしれない。

だが、莢華は恋愛部分では確実に自分が勝ったと考えていた。

いや、信じ込んでいた。

信じ込もうとしていた。

だが、それさえも自分は……。

いまや自分は憐れな敗北者にすぎなかった。

「嫌よ……嫌……認めない……こんなこと認めないわ」






「おはようございます」

「おはよう……」

いつもと変わらないはずの朝の風景。

だが、今は違った空気が社内を支配していた。

社員たちの視線が突き刺さる。

彼らの中にあるのは、私への猜疑心と好奇心か。

覚悟していたことだった。

あの子と通じた夜から……。

自分はあの子を愛せる立場でもないのに、あの子を愛した。

ならば、今の自分の全てと引き換えにしてもあの子を愛していこうと。

これが罪への罰ならば、私に拒む権利などない。

「あ、海杜様……おはようございます」

秘書の李が頭を下げた。彼女もまた、少し声の調子が変わっていた。

「おはよう。今日のスケジュールを頼むよ」





「いい加減、泣き止めよ。莢華」

「だって、恭平お兄様!!私、こんな屈辱を受けたのは初めてですわ!!」

そう叫ぶと、莢華はまたピアノに顔を埋めた。

そんな莢華の肩に恭平は手をかけた。

「触らないで!!」

そう叫ぶように言うと、莢華は身体を翻して恭平の手から逃げるように離れた。

恭平は、悪びれる様子もなく、やれやれと首を竦めた。

「やれやれ……お前はまるでアルテミスだな。ガキの頃からの付き合いの俺に、肩にさえも触れさせないって訳か」

莢華は真っ赤に泣きはらした鋭い目を恭平に向けると、噛み締めるように言った。

「私はずっと海杜お兄様のことだけを想って生きてきたの。

やっと、やっと手に入れたのよ。それを……あんな子に……」

「で?お前は旦那寝取られて、そのままスゴスゴと泣き寝入りしているつもりなのか?」

「えっ……?」

「本当にお前らしくもないザマだな。莢華。やられたらやられっぱなしなのかよ。情けない」

「情けない?この私が!?」

恭平の思惑通り、勝気な莢華は激昂した。恭平はさも面白そうに口元を緩めた。

「何が可笑しいんですの!?」

「悪い、悪い。ちょっと、いい考えが浮かんだもんでね」

「いい考え?」

「ああ。お前は俺の妹みたいなもんだからな。こんな状態にされて黙ってる訳にはいかねえってことだ」

莢華もまた涙を拭き、いつものように自信に満ちた不敵な笑みを浮かべた。

「私に協力するってことですの?珍しい。今夜は雪でも降るかしら。

……恭平お兄様のことですから、何か魂胆がおありなんでしょう?」

「何。別に魂胆なんかねぇよ。ただ……」

「ただ?」

恭平はますます口元を歪めた。

「お前をここまで泣かせた女に会ってみたくなったんだよ」





何日ぶりかのメールでわたしの心は躍っていた。

海杜さんに会える。それだけで嬉しかった。

もう終わりだって思っていたし……。

海杜さんは日本有数の大企業のトップだし、何より彼には妻がいる。

優先順位は彼女達にはかなわない。

指定された部屋の前に着くと、わたしの胸の鼓動は最高潮に達した。

このドアの向こうに彼がいる。

ドアの横にあるベルを震える指で押すと、ガチャッと鍵が開く音がし、ゆっくりとドアが開いた。

が、そこに立っていたのは思わぬ人物だった。

「現れたわね、泥棒猫」

それは莢華さんだった。





「現れたわね、泥棒猫」

莢華はそう言って美麻の腕を掴んだ。

「あの……」

怯える美麻の腕を引いて、莢華はずんずんと奧に行く。

入り口の方からオートロックのドアの閉まる無情な音がした。

「主人がお世話になりましたわね?」

「えっ」

莢華は美麻の顎を上げた。

「あなた、こんな綺麗な顔して、やることはとんでもないことですわね。

あなた。自分が何しているか、わかっていらっしゃる?」

美麻は何も答えなかった。

「強情な方ね。じゃあ、思い出させてあげる」

そう叫ぶように言うと、美麻をバスルームへ押し込んだ。

「何するんですか?莢華さん!」

美麻がそう叫んだ瞬間、容赦ないシャワーの水しぶきが彼女を襲った。

「きゃあああっ!!」

「苦しい?痛い?でもね、私の感じた痛みはこんなものではありませんのよ?」

見る見る間に美麻の髪や顔や衣服がずぶ濡れになっていく。

美麻は耐え切れなくなって、その場にしゃがみこんだ。

「あなたがやっているのは不倫なのよ?汚らわしい人」

「不倫……?」

美麻は思わず、その一言を反芻していた。

ああ、そうだ。

わたし、不倫しているんだ。

これは、不義の関係なんだ。

海杜さんは、もう莢華さんのものなんだもの。

でも……。

「嫌です」

「えっ……?」

「私、海杜さんと別れません」

「あ、あなた、自分がいったい何を言っているのか、わかっているの!?」


だって、わたしは……。


「私は、海杜さんを愛しています」

「うっ……!!」

まるで別人だった。

いつも控えめで自分の主張など、皆無だったのに、今は、静かな情熱が美麻を包み込んでいる。

それは、美麻が海杜に愛されているという自負だと莢華には感じられた。

それが、溜まらなく口惜しい。

莢華は嫉妬で気がおかしくなりそうだった。

彼女の中で決心がついた。莢華はシャワーの栓を締めた。

「そう。話し合っても無駄なようですわね」

「えっ……?」

「お聞きの通りよ。恭平お兄様」

「えっ……!?」

美麻が慌てて振り返ると、奥のドアから一人の男性が現れた。

「可愛い顔してなかなか大胆なガキだな」

「あの……あなたは……」

「この夫を寝取られた哀れな妻の従兄弟さ」

「えっ……?」

そう言うと、美麻を抱き寄せ、唇を奪った。

「いやっ!!」

美麻は思わず、恭平の頬を打っていた。

「あっ……」

「っ……いてぇじゃねぇか。さすがだな。愛人風情で本妻にタンカ切っただけのことはある……」

「愛人……!?」

美麻にはその一言がひどくショックだった。

「いいんだろ?莢華。……後悔するなよ?」

恭平は、傍らの莢華に確認するように言った。

「ええ。そんな子……そんな子……めちゃくちゃにして!!」

そう叫ぶと、莢華は部屋を後にした。

美麻は本能的に危険を感じ、恭平の腕から逃れようとした。

だが、力の差は歴然だった。

ドアを閉める瞬間、美麻の叫びが耳を掠めた。

だが、莢華は無情にもしっかりと鍵をかけた。

「あの子が悪いのよ……」

海杜お兄様は、私のもの。

誰にも渡すものか。

「そう。これは当然の罰なんだわ……」





これが海杜の女?

こいつは菊珂の葬式にもいた、菊珂のクラスメイトで英葵の妹じゃないか。

こんなガキが?俺は拍子抜けした。

今はずぶ濡れの状態だが、確かに、はっとするくらい美しい少女には違いない。

長いまつげに彩られた瞳や、形のよい唇は妙にこちらの気をそそる。

濡れて透けている清潔感のある水色のワンピースに包まれた身体も悪くないだろう。

文句なしの上玉だ。

だが、所詮ガキはガキだろうが。

まあ、海杜にはちょうどいいかもしれないが。

こんなミルク飲み人形が海杜を陥落させたというのは、面白い。

いったい、どれほどのもんなのか、じっくり楽しませてもらおうじゃねぇか。

な?海杜。

だが、俺はひとつ気になることがあった。

俺はこの瞳を知っている。

どこでだ?

思い出せ。

ああ、あれは。

そうだ。あの女だ。

なるほど。そういうことか。海杜。

愉快だな。

このガキを弄んで傷がつくのは、どうやらお前だけではないようだな。

海杜。お前はこのガキを俺が抱いたと知ったら、どんな顔をするんだ?

楽しみだな。海杜。







「やだっ!!やだっ!!やめてください!!」

美麻は恭平に抱かかえられ、ありったけの力で彼を何度も蹴った。

「痛くも痒くもない。その程度か?所詮は、ガキだな」

「うっ……」

「さて。楽しませてもらおうかな?せっかくこうしてお前自身が濡れてくれている訳だしな」

そう言うと、恭平は乱暴に美麻をベッドの放り投げ、濡れた彼女の髪に触れた。

「やっ……。触らないで!!」

「しかし、お前みたいなガキに海杜がのぼせるとはな。だが、理由はわからないでもない」

「えっ……?」

「お前、怖いくらいに似ているからな。あの女に」

「どういう……ことですか?」

「かわいそうにな。お前は所詮、身代わり人形なんだぜ?」

「身代わり……?」

いったい何?

この人は何を言っているの?

美麻が恭平の言葉に混乱している間に、美麻のスカートの中に手を差し入れていた。

「あっ……。やっ……あんっ!!」

「お前、初めてじゃねぇんだろ?はじめてでもないんだったら、そんなに拒む必要もないだろう?」

「やあっ!!」

相手は……当然、海杜か。

あの馬鹿。やることだけはやってやがったか。

なんとなく恭平は悔しくなった。

その理由は彼にもよくわからなかったが。

何より恭平にとっては、あの海杜が不倫などという大それたことをしたというのが何よりも意外だった。

そして、あれだけストイックだった海杜がこうして誰かを愛したと言う事実も。

「はっ、あの野郎。聖人君子みたいな顔して、最低だな」

「止めて下さい!!海杜さんは何も悪くないんです!!わたしが……わたしが……」

「お涙頂戴のメロドラマは他でやってくれ」

そう言うと、恭平は美麻の腕をねじりあげた。

「いたいっ!!」

美麻は必死に抵抗したが、到底男である恭平に敵うはずもなかった。

美麻はみるみる衣類を剥ぎ取られ、とうとう裸にされていた。

美麻は海杜以外の男性に肌を晒したことが恥ずかしくて泣きたくなった。

「お願いです!!やめてください!!んっ!!」

美麻の哀願は容赦なく恭平の唇で封じられた。

拒んでもむりやり差し込まれる舌が、咥内を生き物のように駆けめぐる。

「んん……ん……」

「海杜よりいいだろう?」

「いいえ……」

美麻は恭平をにらみつけた。その目は恭平が思わず怯んだほどの威圧感だった。

「感じるだろ?」

「いいえ。感じない……わ」

「海杜の方が良いって言うのか?」

恭平の問いかけに、美麻は妖婦のように笑った。

乱れ、頬にへばりつく濡れた髪を払うこともなく。

彼女の中で何かが弾けたようだった。

恭平はそんな女を見た事がなかった。

自分に身体を征服されながら、少女は自分より高い位置にいるように感じた。

その様子はそれだけで恭平を高揚させた。

「もちろん」

「な!!」

美麻はせせら笑うように言い放った。

「海杜さんの方が、ずっとね!!」





「うっ……痛い……」

身体中が痛い。

そして、軽い眩暈。

頭を振ってベットから身体を起こした。そして、愕然とした。

わたしは何も身に付けていないかった。

慌てて見回すと、床に衣服と下着が散らばっていた。

そして、わたしは自分がいるシーツを見て思わず悲鳴を上げていた。

そこは真っ赤に濡れていたから。

そして、身体中に付けられた紫色の痕。

どうして……!?

その瞬間、わたしの脳裏にあの光景が蘇った。

「あっ……ああっ……!!」

そうだ。わたし……あの男の人に……。

わたし、海杜さん以外の男の人に……。

「い……いやあああっ!!」

わたしは声を上げて泣いていた。

枕を布団を放り出して泣いていた。

どうして?

どうして……?

大切な人だけに……本当に好きなだけ人にあげたかったのに!!

「うっ……うあっ……嫌だ……こんなの……いやあああっ!!」

でも、これは当然の報いなんだよね?

誰も攻めたりなんてできない。

きっと、神様が怒ったんだ。

「ごめんなさい……」

わたしは誰にともなく言っていた。

「ごめんなさい……」

わたしがこの言葉を伝えなきゃならない人は、たくさんいるから。

ごめんなさい。

海杜さん。

わたし、穢れてしまいました。

もう、あなたに会えません。





俺はその夜、眠れなくてロックをあおっていた。


なんだか、妙にジリジリとして神経が高ぶっていた。


脳裏から消えないシーン。

一瞬、少女が見せたあの妖婦のような笑み。

ぞくりとするくらいに魅力的だった。

あの笑みが見たい。

あの笑みが欲しい。


「海杜さんの方が、ずっとね!!」


あのガキは俺に身体を征服されながら、同時に俺を征服していた。

性行為で、俺より優位に立ったのはあのガキが初めてだった。

いや、むしろ夢中になっているのは俺の方か?

俺は愕然とした。

信じられないことが起きている。

今、俺はあのガキに本気になっている?

「馬鹿な……」

俺はボトルに口付けた。





私は苛立っていた。落ち着かなかった。

いくらかけても美麻の携帯も自宅の電話も留守電だった。

留守電にメッセージを残しても、メールをしても返信がない。

どういうことなのだろう。こんなこと、今までなかったのに。

美麻はたいてい私から連絡すると、たとえ留守電でもすぐに折り返し連絡をくれ、弾むような声を返してくれるのに。

その時、ふいに電話が鳴った。美麻からの着信。

私は慌てて電話を取った。

「海杜さん……?」

「美麻。今、どこにいるんだ?」

「ごめんなさい……。わたし、もう海杜さんに迷惑をかける訳にはいかない」

「何を言っているんだ?」

「わたし……もっと早くこうしていればよかったんですよね。

そうすれば、誰も傷つけることもなかった。莢華さんのことも……海杜さんのことも……」

「美麻……?」

「もう、わたし、海杜さんの前に二度と現れません。だから、莢華さんのこと、大切にして下さい」

「待ってくれ……!!美麻!?」

「さようなら……」

美麻の最後の言葉は無情にも、無機質な機械音に変わる。

私は街中だということも忘れて、彼女の名前をただ叫んでいた。







「美麻ちゃん……!!お久しぶりねぇ。どうしたの?」

「お久しぶりです……。園長先生……」

結局、行く場所なんてないわたしは、「ひまわり園」の門を叩いていた。

「まず、お入りなさい。今、ココアでも淹れてあげるから」

「ひまわり園」も本当に久しぶり。

ぜんぜん変わっていないはずなのに、なんだか違って見えるのは、わたし自身が変わってしまったからなのかな?

「はい。お待たせ」

そう言うと、園長はにっこりとわたしにココアを勧めた。

「本当にお久しぶりね。がんばっているみたいで、わたしも嬉しいわ」

弥生園長は、わたしと海杜さんのことが連日テレビで報道されているにもかかわらず、

そのことには一切触れなかった。わたしには、それがとてもありがたかった。

「あ!!美麻お姉ちゃんだ!!」

「え?美麻お姉ちゃん?」

いつの間にかぱたぱたと足音が響いて、子供たちが集まり出していた。

「お姉ちゃん。いつ来たの?元気だった?」

「……うん。元気だよ。みんなも元気そうで……嬉しいな」

無邪気な顔をして抱きついてくるみんなを見ていると、わたしはいつの間にか泣き出していた。

「美麻お姉ちゃん、どうしたの?どこか痛いの?」

「ううん。ごめんね。嬉しいの。またみんなに会えて」

「さ、みんな。美麻お姉ちゃん、少し疲れているみたいなの。休ませてあげましょう。

みんなは広場で遊んでいらっしゃい。さ、広場のジャングルジムまでみんなで競争よ。よーい、ドン!!」

園長がそう号令をかけると、みんな一目散に駆け出していった。

「みんな、変わらないでしょう?でも、いつかはここを巣立ってしまうのよね。寂しいけど、それは同時に嬉しいことなの」

「園長……?」

「でもね、何かあったら、いつでも戻ってきて、相談してほしいって思っているのよ。

だって、ここは、みんなの家なんですからね?」

「園長……先生……」

園長の優しい眼差しに促されるように、わたしは全てを話していた。

長い話になったはずだけど、園長はただ優しく耳を傾けてくれていた。

「そうだったの……。大変だったわね」

そう言うと、園長は優しくわたしを抱き締めてくれた。

玄関のあたりがざわめいた。子供たちが帰ってきたらしい。

その中に、懐かしい声が混じっていた。

「ああ、みんな、パスがだいぶ上手くなったね。僕の代わりにフィールドに立つかい?あはは」

「あ……槌谷先輩……!!」

「……!!……美麻ちゃん……」

先輩はとても驚いた顔をしていたけど、すぐにいつものような優しい笑顔になって、

「やあ、久しぶりだね。元気そうでよかった」

と言ってくれた。

「先輩も……」

「ああ。僕はとても元気だよ。いつも君の活躍する姿を見てた。自分のことみたいに誇らしかったよ」

「そんな……。私の方こそ、先輩の活躍……すごく励みになりました」

先輩だって、当然知っているんだよね。わたしと海杜さんのこと……。

なんだか、彼の顔が見れない……。

「ありがとう……」

先輩は少し声のトーンを落とした。少しの沈黙。それを破ったのは、園長だった。

「ねえ、行く場所がないんだったら、ずっとここにいてもいいのよ。美麻ちゃん」

「えっ……?」

「みんな、大歓迎よね?」

園長がそう子供たちに問いかけると、元気に「うん!!」という声が響いた。

「本当に……?」

「当たり前じゃない。ここは、あなたの家なのよ?」

わたしの家……。

帰る場所があるって、なんて素敵なことなんだろう。

それからわたしは、「ひまわり園」で再び暮らすことになった。

久しぶりの心穏やかな時間。

全ての出来事が夢だったんじゃないかな?って思えるくらい。

「先輩、すみません。いつも手伝って頂いちゃって……」

「いいんだよ。サッカーも、シーズンオフに入ってしまえば、有り余るくらい時間もあるからね。

なんて。本当は合宿から抜け出していてるんだけど。ははは」

そう言うと、先輩は屈託なく笑った。

すごく、輝いている……。

先輩……先輩も夢を叶えたんですね。

「それになにより、ここが落ち着くんだ。今は、君がいてくれるしね」

「先輩……」

「ねえ、美麻ちゃん。なんだか、あの頃に戻ったみたいだと思わないかい?」

「あの頃に……?」

「そう……まだ学生だった僕たちに……」

「あ……そうですね」

まだ、何も知らなかったあの頃……。

まだ、無邪気でいられたあの頃……。

もう、戻れないあの頃……。


「ずっと……こうしていられるといいね、美麻ちゃん」

槌谷先輩はそうわたしの耳元で囁いた。





美麻が消えてから、一週間が経過していた。

美麻はマンションにも帰っていないようだった。

英葵は父についてアメリカにいるので、美麻の居場所は知らないだろう。

澤原柚生に聞いても、美麻の行方は知れなかった。

私はふと思って、美麻が学生時代を過ごしたという養護施設を訪ねることにした。

そこは私の同級生でもある美作弥生が園長を務める施設だった。

「ごめんください」

私が玄関で声を上げると、ひとりの青年が顔を出した。

彼を、どこかで見たことがある気がした。

ああ、テレビだ。テレビのスポーツニュースだ。

彼は確かに、某サッカーチームのエースストライカー槌谷玉に違いなかった。

「えっ?美麻ちゃんですか?」

「ああ。彼女はここに来ていないだろうか」

すると、槌谷青年は、首を振った。

「いいえ、美麻ちゃんはここしばらく、ここには来ていませんよ」

なぜだかわからないが、彼の視線に微かに険を感じた気がした。

「そうですか……。ありがとう」

私は彼に礼を言うと、そこを後にした。

だが、突き刺すような彼の視線は車に乗り込むまで、私の背を刺し続けていた。





「先輩、お客さんですか?」

「あ、ああ」

どうしたんだろう。先輩、なんだか表情が険しい。

「美麻ちゃん。僕じゃダメなんだろうか?」

「えっ……?」

先輩……。なんかいつもと違う……。

なんだか、様子が変……?

その瞬間、わたしの身体は彼に組み敷かれていた。

「先輩……?」

先輩がわたしを見下ろしている……すごく……怖い目……。

男の人の目?

「あの人が……雪花社長が……君を抱いたんだね……」

「……!!」

「君のこの肌に触れて……君の髪を撫でて……。そして、こうやって……」

「せ……先輩……?」

先輩の吐息が近づく。もう、先輩の顔がぼやけて見えない。

あっと声を上げる間もなく、重ねられた唇。

唇を離した先輩は、優しくわたしの髪を掻き揚げた。

やがて、露になったうなじに押し付けられる唇。

「んっ……」

先輩の指先が、ブラウスの上から身体に触れた。

「あっ……やっ……」


どうして?

どうして先輩がこんなことするの?


「美麻ちゃん……」

「あっ……ああっ……」


先輩がブラウスのボタンに手をかけた。


嫌だ……コワイ!!


「いやあっ!!」

わたしが思わず叫ぶと、先輩ははっとしたように顔を上げた。

「あっ……ごめん……」

その瞬間、わたしは先輩が還ってきたって思った。

先輩はわたしから手を離すと、深くうな垂れた。

わたしは、慌ててスカートの乱れを直した。

どうしよう、胸が苦しい。どきどきして、息が……できない……。

「ごめん……美麻ちゃん……僕……何やってるんだろう……」

「い……いいえ……」

「僕は……なんてことをしてしまったんだろう……。君の心はここにはないのに……」

そう言うと、先輩は唇を噛んだ。

「僕は君の心を掴むことができなかったね。正直、とても悔しい。

だけど……君が本当に彼が好きならば……僕は君を応援する」

「えっ……?」

「言っただろう?美麻ちゃん。僕はいつでも君の味方だよって……。

彼は……君の夢を叶えてくれた恩人だものね」

「先輩……」

「それに、今のこともお詫びしないとならないしね……。

本当に……申し訳ないことをしてしまったね。許して欲しい」

「そんな……。私の方こそ……」

そうだ。わたしの方こそ……先輩はいつもこんなに優しいのに。

そして、あの人を思い続けることは……あの人の迷惑にしかならないのに……。

ごめんなさい。先輩……。

ごめんなさい。海杜さん……。





美麻ちゃんが消えてもう一週間。

アタシはついに、雪花海杜自身を直撃することを決意した。

夕方の雪花コーポレーション。

社員通用口には、すでに報道陣が陣取っていた。

負けるもんか。アタシはアタシの取材をするんだ。

その時、場が騒然とした。

ターゲットが現れたのだ。

間違いない、彼はいつかの貴公子。雪花海杜だった。

記者団が一気に彼を取り囲む。ちょっと出遅れた。

アタシは外側の陣営での活動を余儀なくされた。

彼は、アタシたちには見向きもしないでただ黙って歩いている。

その冷静沈着で涼しいポーカーフェイスを見ていると、アタシはムカムカと腹が立ってきた。

本当に愛しているんだったら、どうして今の家庭を捨ててでも、あの子を選んであげないの?

それとも、単なる遊びだったの?

美麻ちゃんはいったいどんな思いで、いつもこの人を待っていたんだろう。

そんなの……卑怯だよ……。

アタシは周りの記者を押しのけた。思わず、行動していた。

ぐっと雪花社長の姿が近くなる。

でも、彼の方が遥かに背が高いから、アタシは思いっきり伸びをしながら彼について歩いた。

「あなたは……咲沼美麻さんを……どう思っているんですか?」

アタシは尋ねた。

記者としてではなく、美麻ちゃんの友人として、彼にカセットレコーダーを向けた。

「咲沼美麻さんが消えたのは、あなたに対して信頼を持ち続けることに自信がなくなったからなのではありませんか?

あなたを愛し続けることに疲れたからなのではありませんか?」

そうだ。

あなたが……ちゃんと美麻ちゃんを受け止められなかったから。

「あなたは、本当に美麻ちゃんを大切に思っているの?答えて下さい。あなたは……美麻ちゃんを……」

すると、彼はアタシにちらっと視線を寄越した。

アタシが思わず、「美麻ちゃん」と発言したから、美麻ちゃんの知り合いだって悟られたのかもしれなかった。

寂しげな漆黒の瞳に、アタシは思わず言葉を失った。

彼は、すぐにテレビカメラに目を移した。そして、立ち止まった。

突然、記者軍団の動きが一気に停止したため、アタシは思わずつんのめりそうになった。

彼はゆっくりと口を開いた。

カメラを真っ直ぐに見据えて。

「美麻。帰ってきて欲しい」

初めて彼が発した言葉に、場は騒然となった。一気にフラッシュが焚かれる。

まるでその場が真昼に戻されたかのような閃光に包まれる。

彼はその光に顔をしかめる訳でもなく、ただ真っ直ぐにカメラを見据えていた。

まるで、そこに美麻ちゃんがいるかのように。

「君を愛している」






その朝、雪花コーポレーションは蜂の巣をつついたような大騒ぎとなっていた。

社長である海杜が不倫を認める発言をした。

そのことは一気に社内に駆け巡り、役員総会が開かれるまでに至った。





「今日はみんなで公園まで遠足よ」

みんな、いそいそとリュックにおやつやお弁当を詰めている。

本当はわたしもいくんだったんだけど、今日はなんだか熱っぽいので、遠慮した。

「美麻ちゃん、じゃあ、園のこと、お願いね」

「わかりました。気をつけて行って来てください」

みんなを送り出すと、急に静まり返る園内。

わたしは箒を取り出して、玄関を掃いた。

その時、ふいに人の気配を感じて、顔をあげた。

その瞬間、わたしは思わず声を上げていた。

「ごきげんよう。美麻さん」

「莢華……さん……」





「では、あなたは全てが事実であったとおっしゃるのですか?社長」

専務である吉成水智の朗々とした声が響く。

「全ては……事実です」

言い訳をする気はなかった。

言い訳して何になる?

濡れ衣などではない。全ては事実だ。

真実以上の言い訳など、あるはずがない。

底知れぬ蟻地獄から這い上がることができる言い繕いなんて、私には思いつけなかったし、口にする気もなかった。

「全ての責任は私にあります。どんな処分も、覚悟しています」

「やむおえませんわね。残念ですが……。雪花海杜君の社長職解任を決議します。賛成の方は挙手をして下さい」

ほとんどの役員から、静かに上げられる手。

「では、賛成多数のため、雪花海杜君の社長解任を決定します。次に、後任となる社長職ですが……」

「この僕以外にはいないでしょう?」

恭平だった。

「まどろっこしいことは抜きにしましょう。皆さん。雪花君の後任には、この僕が立候補させてもらいますよ」

「しかし、会長が戻られるまでは、あくまで社長代行を……」

「まどろっこしいことはやめにしようと言っただろう?専務。さあ、皆さん、異議は?」

誰も異議を申し立てるものはいなかった。

「では、副社長である更科恭平君の社長就任を決議したいと思います。賛成の方は、挙手を」

再び、挙げられる手。

その瞬間、恭平の顔に不敵な笑みが広がった。





わたしは来客者用のコーヒーカップにインスタントコーヒーの粉末を入れて、お湯を注いだ。

なぜか、莢華さんは事務室ではなくて、この遊技場の小さな椅子に腰を下した。

「ずいぶん探しましたわ。こんなところにいらしたの」

そう言うと、莢華さんは壁中に貼られた子供たちの絵や習字に目をやった。

「あのう……今日は……どのような御用で?」

すると、莢華さんは壁に目をやったままで言った。

「海杜お兄様は、あなたを探していらっしゃるわ。それはもうみていられないくらいに憔悴されて」

海杜さんの名前が出て、わたしは無意識に緊張した。

それを察したのか、莢華さんが小さく笑った。

「本当に海杜お兄様は、あなたが大切なのね」

「そんな……」

「いいのよ。あの人は優しい人ですから、決してそんなこと、おくびにも出そうとはしませんけど。あの人、嘘も下手なの」

そう言うと、莢華さんは寂しげに笑った。ふと、その視線が窓際のピアノで止まった。

「あら。可愛いピアノね。ここで、子供たちに弾いてあげているの?」

「えっ……ええ」

莢華さんは立ち上がると、赤いカバーのかかったそのピアノを撫でた。

「ねえ、咲沼さん。ピアノを聞かせて下さらないかしら?」

「えっ……?」

「あら。そんなに不思議そうな顔、なさらないで。私、あなたのピアノ好きですのよ。本当に。

コンクールの時は、本当に素晴らしかった。私、あの時、あなたに負けたって思いましたのよ。とても、敵わないと……ね」

「あの……それは……どうも。ありがとうございます」

わたしは、莢華さんに促されるままにピアノに向かった。

わたしがピアノを弾き始めると、莢華さんは目を閉じて熱心に耳を傾けた。

わたしもせめて莢華さんが望むようなピアノを弾こうって頑張った。

だって、わたしにはこれくらいしか罪滅ぼしができないから。

ごめんなさい。莢華さん。

ごめんなさい。

わたしがはっとした瞬間、驚くくらい近くに彼女の気配を感じた。

いつの間にか莢華さんは、わたしの背後に立っていたのだ。

「あなたには、海杜お兄様がいるんだから。いいのよね?」

そう囁くような声が聞こえた。

「だって、ピアノも恋愛もあなたが独り占めするなんて……不公平だと思いません?」

「えっ……?」

「だから、いいのよね?あなたがピアノを失うことになっても」


それから後のことを、わたしは覚えていない。





「ああ、やっぱり、この椅子の座り心地は最高だな」

恭平は社長室で椅子に座ると、一回転させた。

「満足?」

そう言うと、吉成水智は笑った。

「ああ。大満足だ。俺がどれだけこの日を待っていたか、お前にはわからねぇだろうな」

水智は首をすくめた。

「だが、まだ終らないぜ。まだ本丸が残っているからな」

「それは、会長のことかしら?」

恭平は意味ありげに笑った。

「そうそう。そろそろ役に立ちそうだぜ?お前のくれた切り札がな」

「あら。今頃、登場?ずいぶん、もったいぶったのね」

「切り札ってのはな、ここぞって時に使わないと、ただの紙切れなのさ。

全ては、会長が帰国してからだ。一騒ぎ起きるぜ。楽しみだ」

「クーデターって訳?」

「ああ。一気に会長を追い詰める。この会社は、俺のものだ」

そう言うと、恭平は水智を抱き寄せたが、急に動きを止めた。

「あら。今日は何もないの?」

「あ……?ああ」

「珍しいこと。でも、ちょうどよかったわ。私もそんな気分じゃなかったから」

そう言うと、水智は香水を首筋に吹きかけた。

「男にでも会うのか?」

「焼いてるの?」

「馬鹿言え。誰がお前相手に焼くかよ」

「そんなこと、最初から期待していないわ。じゃあね。新社長さん」

そう言うと、水智は妖艶な笑みを残して社長室を去った。





もうすぐこの鉄の翼がその大きな羽を休める。

約二週間ぶりの日本だった。

僕は義父の外遊にお供していた。

いつもは義兄の役割だったが、彼は砒素中毒で動けなかったため、僕にそのお鉢が回ってきた。

義父は外遊中、僕に様々な取り引き相手との顔合わせを行った。

こうしたパイプラインは、何より大切にしろ。

彼は何度も僕に耳打ちした。

彼は何を企んでいる?

そして、彼は何を望んでいるのだ?


この「脅迫者」としての僕に。

釈然としないまま、僕は帰国の日を迎えた。

僕が不在の日本で、どんなことが起きていたのか、全く知らないままに。

そう。最愛の妹の身に何が降りかかったのか。

それが、どんなに痛ましく、恐ろしいことだったのかを僕は知ることになったのだ。





「ね?咲沼さん」

その瞬間、莢華は鍵盤の蓋を思いっきり閉めていた。

「きゃあああああああっ!!」

莢華は突然響いた美麻の悲鳴で我に返った。

「あっ……」

見ると、美麻が崩れるように椅子から落ち、右手を喘ぐようにかばっていた。

「あっ……。何……?」

美麻の指先がみるみる色を失っていく。

内出血!?いや……それだけじゃない……!!

「あっ……うああっ……」

尋常でない美麻の呻きに、莢華は怖くなって、その場を走り去った。

「私のせいじゃない……私のせいじゃないわ……」

目の前がチカチカと点滅を繰り返す。

津波のように襲う猛烈な吐き気に美麻は喘ぐように床を這いつくばった。

「あっ……うっうっ……」

美麻は痺れる右手をかばいながら、必死に声を振り絞った。

「助けて……誰か……」

だが、子供たちの笑い声の消えた遊戯室は、無情な程に静けさに沈んでいた。





既に傾いた日が差し込む、誰もいない会議室。

私は下された結果に、ただ放心していた。

私は社長職を解任された。

決して自らの力で勝ち取ったものでもない与えられた地位。

時には煩わしささえ感じられた地位。

こんなもの、いらないと何度も念じた地位。

だが、この喪失感はなんだというのだ。

「よお。相変わらず、お前は黄昏るのが好きらしいな?海杜」

私には、振り返る気力さえ残されてはいなかった。

「それにしても、哀れだな。海杜。くくっ……」

私には、答える言葉さえ残されてはいなかった。

「そう、落ち込むな、海杜。お前は今日から俺の秘書にしてやる」

私は恭平の発した言葉の意味が理解できなくて、オウムのようにただ繰り返した。

「ひ……しょ?」

「そうだ、いきなり無職ってのも、可哀想だからな。お慈悲で会社にいさせてやるんだ。感謝しろ」

私はやはりその意味が理解できなくて、ただ恭平を見上げただけだった。

「不服か?勘違いするなよ?海杜。命令するのも決定するのも当然、俺なんだぜ?」

「……!!」

「お前は今や俺の部下だ。つまり、お前は俺のモノなんだぜ?くくく……」

私はその事実を改めて突きつけられ、言葉を失っていた。

「どれだけこんな日が来ることを待っていたと思う?俺がお前を追い抜き、お前を跪かせる日が来ることをだ。

あらゆることで俺はお前に屈服させられてきた。俺は分家の子だからと蔑まれてきた。

だが、全てが今日、変わったんだ。今は、全ての決定権は、この俺にあるんだ」

「恭平君……」

「違うだろう?呼び方が。今は俺が『社長』なんだぜ?」

「社長……?」

今まで私はずっとそう呼ばれてきた。

だが、そのラベリングも今日剥がされた。

そうだ。私は呼び名であったはずの地位を失った。

私はいったい何者なのだろう。

「さあ、呼んでみろよ」

「…………」

「聞こえないぜ?海杜」

もう私には何もない。もう誰でもない。

もう、何も見えない。見たくない。

何も感じられないし、感じたくもない。

美麻、君は今、どこにいるんだ?

どこで何をしている?

いまや私は君だけでなく、地位も名誉もプライドも全て奪われた。

君がいない世界で、私は生きていくことなどできそうにない。






「莢華様。お帰りなさいませ」

莢華は唯慧の出迎えにも何も答えないまま、部屋に閉じこもった。

「私は……悪くないわ……。全部……あの子が悪いのよ……」

ふいに響くノック。

「莢華様。どうかされましたのですか?」

唯慧の心配げな声。

莢華はふいに涙がこぼれそうになった。

自分は夫を愛しているだけ。

それだけなのに。

「どうして……?ねえ、どうしてなの?」





考えてみれば、俺は本気で誰かを愛したことはないのかもしれない。

その点で言えば、俺とこいつは同類だったのかもしれない。

俺は学生時代から多くの女を抱いてきたが、満足したことなどなかった。

その場その場で押し寄せる衝動をただ機械的に処理しているだけ。

そんな感じがしていた。

一方の海杜は学生時代から、潔癖なまでに誰とも付き合おうとはしなかった。

そのストイックな姿勢は、学生時代を終え、結婚するまで続いたようだった。

いや、結婚してからというのも怪しいものだ。

莢華はただ結婚というカタチを手に入れたにすぎない。

だから、こいつがあの娘と、咲沼美麻と愛し合っていることを知った時、

どうしようもないような苛立ちの中にいた。

テレビを通して全国に流された「愛している」の言葉。

本気だ。海杜は本気になっている。

海杜は全てを賭してあの娘を選ぼうとしている。

実際、海杜はこうして全てを失った。


お前はどんな言葉をかけて、どんな態度をとって、どんな風にあの娘を抱いた?


真実の愛って奴を俺の鼻先に見せ付けた二人を、俺は許せないのかもしれない。

そして、その二人を俺はどうしようもなく壊したいのかもしれない。

奪いたいのかもしれない。

愛されたいのかもしれない。

愛?

馬鹿な。俺はそんなヤワな人間じゃない。

「教えてやろうか?海杜。俺は咲沼美麻を抱いたぜ?」

その瞬間、海杜の目が大きく見開かれた。

失われていたはずの感情が、急速に奴の中に還ってきたようだった。

「なんだっ……て……?」

「あのガキはよく喘いでいたぜ?今のお前みたいにな」

「馬鹿な……」

「俺が憎いか?海杜」

海杜は何も答えない。ただ、静かに俺を見上げている。

静かだが、殺意さえ感じさせる目。

「お前にも、まだそんな牙が残っていたんだな」

「あの子にだけは……手を出すな……」

俺は海杜の回答が気に入らなかった。

「答えはNOだ」

「恭平君!!」

「俺はあのガキが気に入った。あの女、なかなかのタマだぜ」

「やめてくれ……僕と関わったばかりに……あの子にはつらい思いばかりかけているんだ……」

「安心しろ。海杜。お前以上にあのガキにいい思いさせてやるからよ」





「いた……い……」

美麻は眩暈のような苦しみの中にいた。

呼吸をする度に、指に電流のような痛みが走る。

「助けて……海杜さん……」

美麻は携帯を取り出すと、思わず、海杜にダイヤルしていた。

もう二度とかけないと誓った番号。

だが、いつまでたっても相手が出る気配がなかった。

「海杜……さん……」

美麻はそのまま意識を失った。







私は走っていた。

白い廊下を走っていた。

何度も看護婦から注意を受けた。

だが、今の私はそれどころではなかったのだ。


「海杜君……?海杜君ね?」

恭平の束縛から逃れ、やっとの思いで家に戻った私は、電話に呼ばれた。

受話器から聞こえたのは、懐かしい声だった。

「弥生……。君は弥生なのか?」

「ええ」

かつての同級生のただならぬ様子。

受話器を握る指先に力がこもった。

「どうしたんだ」

「美麻ちゃんのことなの」

「えっ……?美麻……?美麻はやっぱり、君のところにいたのか」

「ええ。ええ。海杜君……。とんでもないことになったわ」

「とんでもないこと?」

次の瞬間、弥生から発せられた言葉を、私はどうしても信じることができなかった。

頭が真っ白になった。

理解できなかった。

そんなことが、あっていいはずがない。

私はその瞬間、はじめて神の存在を疑った。





帰国早々、診察室で美麻の主治医と対面し、僕は声を失っていた。

美麻に下された診断は「右手指の複雑骨折」。

治療により普通の生活には支障がないくらいには回復するが、

今後、どんなにリハビリに励んでも今までのようにピアノが弾ける確率は、皆無に等しいというものだった。

「そんな……」

病室に戻ると、美麻はただ静かにベッドに座っていた。

美麻の右手は幾重にも巻かれた包帯で膨らんでいた。

僕はその痛々しい光景に思わず涙が溢れそうになった。

一体、この子が何をしたというんだ。

どうしてこの子がこんな目に遭わなければならない?

僕は言葉もなく、その場に立ち尽くした。

「ねえ、お兄ちゃん……」

美麻は窓辺に目をやったまま、呟くように言った。

「私……平気よ」

「美麻……」

「私……大丈夫よ。たとえ、ピアノがもう弾けなくても」

美麻はそう言うと、僕の方に顔を向けた。その顔は微笑みに溢れていて、僕ははっとした。

「全て……いい夢だった。そう思えるわ」

そう言うと、美麻の目からは涙が溢れた。

「私……平気だから……ね?お兄ちゃん」

僕はその時、美麻が誰より美しく見えた。





はっとして足を止める。

私は美麻の病室さえも弥生から聞き忘れていた。

これではいつまでたっても美麻のもとには辿り着けない。

駄目だ。どうかしている。

いや、今こうして意識を保っていられるということ自体が、どうかしているのかもしれない。

神はなぜ残酷なまでに試練を与える?

いや、それは当然のことなのかもしれない。

私には報いるべき罪がある。

だが、なにも美麻にまでそれを負わせることはないではないか。

全ての罰は私に与えられるべきものだ。

あの子は関係ない。

むしろ、あの子こそ、私の被害者だ。

私はナースステーションに引き返した。

玄関付近のナースステーションに着くと、私は見覚えのあるシルエットを見つけた。

激しい雨の降る中をビニール袋を持ってこちらに歩いてくる。

私は慌てて傘を取ると、雨の中に飛び出した。

「槌谷君……槌谷君だったね」

私がそう問うと、相手ははっとして傘に隠れた顔をあげた。

「よかった……すまない。美麻ちゃんの病室を教えてもらえないだろうか」

「あなた、どうしてここへ」

「弥生……いや、美作園長が教えてくれたんだよ」

「園長が……?」

私はその時の青年の顔を見て、ようやく彼が美麻に好意を持っていて、

私に嫌悪感を持っているのだということに思い当たった。

「いったい、どういうおつもりですか?」

「えっ……?」

燃えるような青年の目が、私の前にあった。

「いったい、どういうつもりでここに来たのかと聞いているんです」

「それは……」

「お帰り願いませんか?美麻ちゃんは、あなたには会いたくないと言っています」

「美麻が……?」

「そうです。とにかく、お断りします。……あなたは……まだ美麻ちゃんを傷つけようというのですか?」

「えっ……?」

「あなただったらしいですね。美麻ちゃんをピアノコンクールに出場させたのは……」

私は頷くことしかできなかった。

「あなたのせいだ……」

「えっ……?」

「もともと、美麻ちゃんは、ただ施設の子供達にピアノを弾くだけで満足だったんですよ。

彼女はピアニストになるなんて……大それた思いなんてなかったんだ。

それをあなたがけしかけたせいで……あんな……あんなコンクールなんかに……!!」

私ははっとした。青年が涙を流していたから。

「本当は美麻ちゃん、嫌だったに違いないんですよ。彼女はもともと大勢の人の前に出るなんて、出来る子じゃないんだ」

彼は涙を硬く握り締めた手の甲でぬぐった。

「無理していたんですよ。あなたの期待に応える為に……彼女は無理をしていた。

深夜まで練習して……学校でつい居眠りして先生に叱られてしまったと彼女は笑っていた。

でも、本当はつらかったに違いないんですよ。大きなプレッシャーにその小さな胸を痛めていたに違いないんだ。

あの子がコンクールに出場しなければ、あの子はただ普通の女の子でいられたに違いないんですよ。

平凡だけど、普通の幸せを……掴めたに違いないんだ」

私は言葉を失っていた。

コンクールに出場し、栄冠を勝ち取ること。

プロのピアニストになること。

それが、美麻にとっての最高の幸せだと思っていた。

だが、それは私の勝手な思い込みだったのかもしれない。

あの子を追い込むだけの……私の勝手な思い上がりだったのかもしれない。

「美麻ちゃんがこんなことになったのは……あなたのせいだ!!」

そう言うと、青年は病院の中に駆け込んだ。

その青年の言葉は、矢よりも弾丸よりも今の私の胸に深く突き刺さった。

私のせいで美麻はこんな状態になったのか?

私のせいで……。

せめてもの罪滅ぼしのつもりだった。

そして、何より彼女ほどの才能が埋もれてしまうのは、同じピアノを志すものとして黙っている訳にはいかなかった。

私の期待通り、彼女は自らの手で希望への扉の鍵を手に入れた。

それなのに、いったいどこで歯車は狂ってしまったのだろう。

いや……。やはり、私のせいだ。

彼女の両親を死に追いやった私などが、彼女を救えるはずなかったのだ。

私などがでしゃばった真似をしたせいで、彼女は、

美麻はもっとも大切なピアニストへの夢を絶たれることになってしまった。

それだけではない。

彼女の右手は元に戻るかさえもえわからないのだ。

私は……一体どうしたらいいと言うんだ。

どう償ったらいい?

私は……。

私は……。

いつしか、私の手から傘が離れ、雨が容赦なく打っていた。

まるで、天さえも私を攻めているかのように。





玉が病室に戻ると、美麻が身体を起こした。

「先輩……?今のは誰?」

「雪花社長だよ」

「えっ……?海杜さん?」

玉は唾棄したいとでも言うように、吐き捨てるように応えた。

「ああ。だけど、もう帰ってもらったよ。君だって、会いたくないだろう?」

「いや……」

「えっ……?」

「いやああああっ!!」

爆発するような美麻の号泣に、玉は思わず声を失った。

「美麻ちゃん……!?」

「海杜さんに会いたい……海杜さんに……会いたい……」

そう叫ぶように言うと、美麻は玉の腕を振り解き、廊下に飛び出した。

玉は彼女を慌てて追いかけた。美麻は玄関から雨の降る街へと飛び出した。

「美麻ちゃん!!」

突き刺さるような豪雨の中を美麻は走っていた。

海杜さん……。

どこ……?

行かないで。

イカナイデ……!!

美麻はバランスを崩して前に倒れた。水しぶきをあげて美麻の身体はアスファルトに崩れた。

美麻はそのまましばらく倒れこんでいた。やがて、しゃくりあげるような声が、激しい雨音に混じって聞こえてくる。

「海杜さん!!……ううっ……うっ……」

「美麻ちゃん……」

玉は、ただ雨の中に佇む美麻を見守ることしかできなかった。





私は雨に濡れたままで、父のコレクションでもある、ブランデーボトルを次々と空けていた。

味の感覚はなかった。

ただ、義務的に琥珀色の液体を自分に流し込む。

そんな感じだった。

「海杜さん……!!」

麻痺した脳天から聞きなれた声が響いた。

里香だった。

彼女はすたすたと私の側に来ると、また声を上げた。

「まあ、海杜さん……一体どうなさったというの!?」

私はその声を無視してボトルをグラスに傾けた。だが、ブランデーは降って来ない。

気が付くと、ボトルが空になっていた。

「こんなに濡れて……風邪をひいてしまいますわよ?」

私は傍らのもう一本のボトルに手をかけた。

その手を里香の白い指が押し止める。

「あまり飲んでは身体によくありませんわ」

身体?

私のこの身体などもう、どうなろうが関係ない。

こんな穢れた身体など。

そうだ。いっそ、アルコール漬けにでもなって、めちゃくちゃになってしまばいい。

そうだ。この愚鈍で女々しい意識さえも。

美麻を追い込んだこの愚かな男を……。

私は早く自分を失ってしまいたかった。

私は無になりたかった。

私はもう疲れたのだ。

私は里香の手を振り切り、ボトルの中身をグラスに注ぎ込んだ。一気に中身をあおる。

「海杜さん!!」

里香は私を抱き締めた。

「一体、何があなたをこんなにしてしまったというの……?」

その柔らかな感触に、私の神経はふと忘れかけた感覚を思い出す。

いや、忘れかけたのではない。

忘れたかった感覚だ。

正直なことを言うと、私と里香のキスはあの見合い前の晩が初めてのことではなかった。

あれはまだ私が高校生の頃。

そして、彼女がまだ私の「先生」であった季節。

私はひどい熱を出して伏せっていた。

里香はそんな私の看病をしてくれた。

既に私の母は他界し、父は今と変わらず仕事人間であった。

家には私と数名の使用人だけだった。

それを不憫に思ったのか、彼女は甲斐甲斐しく私の看病をしてくれたのだった。

ベットで眠っていると、急に息苦しくなった。何かが自分の唇を塞いでいた。

「んっ……?」

それが里香の唇であることに気が付くまで随分時間がかかった。

その間にも彼女の指は私のパジャマのボタンを外し、露になった肌に触れていく。

「せ……先生……?」

彼女は私の問いかけに答えずに、私の衣服を剥いでいく。

やがて彼女は微笑みながら、自分も素肌を晒し、私のベットに潜ってきたのだ。

私は熱で混濁する意識の中で里香を抱いた。

私は文字通り、熱に浮かされたように彼女と関係を持ったのだ。

私は長い間、あれは夢だったのだろうと思い込んでいた。

なぜなら彼女はその後、一度も私に対してそんな素振りを見せることはなかったから。

「私がどうしてあの男と結婚したのか……わかるかしら?」

「えっ……?」

「あなたの側にいたかったからよ」

そう言うと、里香は微笑んだ。この上なく、妖艶に。そして美しく。

「海杜さん……愛しているわ」

脳天が痺れたように感覚が麻痺していた。

ただ、里香の甘い囁きだけが私の脳裏に届く。

「帰っていらっしゃい。海杜さん。私の元へ……」

そう言うと、里香は割れた胸元に私の手を押し付けた。

そして、そのまま私に口付けた。

いつかのように息もできないように激しい口付け。

私の手からグラスが滑り落ちた。

鋭い音が響き、琥珀色の液体と硝子の欠片が飛び散った。

いつしか私は、彼女に導かれるように積極的に口付けていた。










私は今、何をしているんだ?


アルコールで麻痺した脳裏に甘い囁きが響く。

「海杜さん……」

それはまるでひどく遠いところから響いているようだった。

「里香さん……?」

「嫌よ。そんな呼び方しないで。私とあなたは今、一つになっているのよ?」


一つに……?


私の首筋に里香の白い腕が絡みつく。

里香の豊かな乳房の感触が素肌を通して感じられた。

彼女の火照ったように熱い肌の血潮も。

「ああ……どれだけこの日を待ち望んでいたのかしら……。あなたから私を求めてくれる日を」

求める?

誰を?

答えを求めて開きかけた私の唇は、柔らかな唇で封じられる。

虚ろな瞳に映ったのは、私の義母でも父の妻でも夕貴の母でもない、紛れもなく「女」の顔をした里香の妖艶な微笑みだった。

「ねえ。海杜さん。夕貴、あなたに似てきたと思わない?」

「えっ……?」

私は突然、里香が言い出した言葉の意味がわからなかった。

「うふふ……。とてもあなたに似てきたわ。あの子。

……それはそうよね?夕貴は、あなたの子なんだもの」

私は脳天から楔でも打ち込まれたかのような衝撃を受けた。

これは、夢か?

夢なら早く、醒めてくれ。

だが、私の肌と重なる里香の体温は、決して夢の中の感覚ではなかった。

「これが、私の切り札。うふふ……あの子がいる限り、私とあなたの糸は、決して切れない。

私とあなたの運命の糸は……うふふ……」





久しぶりの非番。

あたしは部屋を掃除していた。それも普通の掃除ではない。

まるで年の瀬の大掃除だ。

一人暮らしになってから、なるべく綺麗にしたいって思ってはいるけど、ハードな毎日でなかなかそうもいかない。

ふと、何かが落ちた。

「あっ……」

それは一枚の写真だった。あたしの歓迎会の時の写真。

なんか、一応笑顔を作ってるあたしと、その横で、いかにも仏頂面して座ってるサングラスの男。

もうあれは五年も前の出来事。

まだあたしが新米刑事だった頃……。


「今日から我が課に配属された羽鳥未央君だ。よろしく頼む」

「羽鳥未央です。よろしくお願いします」

あたしは整列した先輩方の前で一礼した。これがあたしの刑事としての第一歩だった。

「T大卒の女エリートだ。すぐに俺達の上に駆け上がるって訳だな」

「しかも、本部長の娘さんなんだろ。お嬢様のお守りか……気が重くなるね」

そんなひそひそ声が聞こえる。あたしは身体が固くなった。

覚悟していたことだった。あたしは否定したくても本部長の娘だったし。

色眼鏡で見られるのは仕方がないって……。

でも、正直きつかった。


「なあ、お前ら。言いたいことあるんだったら、こいつに直に言ってやれよ」


あたしは思わず顔をあげていた。今のは……?


「男の僻みか?みっともなくて見てられないぜ?」


声の主を探すあたしの耳に再び、そのハスキーな声が響いた。

次の瞬間。課長の鋭い声が響いた。

「矢保!!」

その声に反応するように、一斉に視線がひとりの人物に集まった。

その人物は悪びれる素振りもなく、ただ俯き加減にくわえタバコをやっていた。

「矢保!!お前、ここ禁煙だぞ」

「わりぃ。モクが切れるとやる気でないんでね」

「お前はいつだってやる気ないだろうが」

「それは、言えてるな」

そう言うと、その人物はタバコを指で弾いた。

やや長めのボサボサ髪にサングラスのため、顔がよくわからない。

すらりとした長身を黒一色で固めている。

鴉みたい。

それが第一印象だった。彼はゆっくりと片手を上げた。

「ああ。せっかくの自己紹介の邪魔して悪かったな。俺のことは構わず、続けてくれ」

矢保やもて!!」

「キンキンわめくなよ。課長。二日酔いで頭痛いんだ」

「本当にお前は……」

どうやら、この反応を見ると、日常茶飯事の光景らしい。

あたしはぶつぶつと説教を続ける課長と、まったく聞こうとしていないサングラスの間に視線を彷徨うせていた。

「さて……では、羽鳥君。君には誰と組んでもらおうかな」

課長は気を取り直すようにひとつ咳払いをすると、言った。

「課長。矢保がいいんじゃないですか?ほら、矢保はうちのエースですからねぇ」

さっき、こそこそと話していた男性が、声を張り上げた。

「そうだね。矢保からだったら、いろいろなことが学べて羽鳥さんのためになるだろうしね。

表じゃなく、裏だって知ってもらわないとならないからね」

やっぱりこそこそ話をしていた連中が、次々と声を上げた。

課長はそれを聞くと、うんうんと頷くと、言った。

「じゃあ、せっかくだから、矢保と組んでもらおうかな」

すると、サングラスの男性があからさまな舌打ちをした。

「ちっ……。やぶへびだったな」

「羽鳥君。彼が今日から君の教育係になる矢保君だ。我が課のエースだよ。矢保君。前に来たまえ」

この様子だと、課長の「エース」という発言は、いわゆる皮肉なのだろう。

サングラスの男性はしぶしぶといった感じであたしの前に立った。

「なんか、今、勝手な紹介があったが……俺が矢保すすむだ。まあ、よろしく頼む」

男性はあたしを一瞥すると、言った。

「悪いが俺は優しい教育係じゃないぜ?」

「別に……そんなこと、望んでないわ」

「いい答えだな。気に入った。まあ、仲良くやろうぜ。お嬢さん」

あたしは背を向けた彼に毒突いた。

あたしは、まったくあなたが気に入らないんだけどって。





そう言えば、あたしに熊倉君を引き合わせたのも彼だった。

「こいつは熊倉比呂士。三度の飯より腑分けが大好きっていう変態監察医だ。まあ、仲良くしてやってくれ」

「矢保君……非常に的外れな紹介ありがとう。君の深い友情を感じるよ」

そう言うと、銀縁眼鏡の青年は目を細めた。

熊倉と矢保は意外なことに、とても仲がよかった。

はっきり言って、どう考えても正反対のタイプだと思うんだけど、友情とはそういうものらしい。

さて、当時のあたしは、バリバリの強行班を目指していた。

だから、あたしは毎日地下の射撃場で練習していた。

次々と立ち上がる的にどんどん銃口を向けていく。

「お前、下手だな」

突然響いた声に、あたしは思わず振り返っていた。

矢保将だった。

彼は階段をゆっくりと降りながら、続けた。

「腕をもっと真っ直ぐ伸ばせ。あと、無理して片手で撃とうとするな。銃身が不安定になる」

あたしはむっとして拳銃を彼に向けた。

「おいおい。こんなことで俺を殺す気かよ。ずいぶん、お手軽な殺意だな」

「あら。隣人の足音がうるさいからと殺人が起きる。そんな世の中。それが現代じゃないですか。

でも、今は違います。見本見せてもらおうと思ったんです」

「見本?」

「だって、そんなに言うんだったら、拳銃の腕前に相当自信があるんでしょう?可愛い部下に見せてくれません?」

そうだ。それだけ教授しようってんだから、よほど自信があるんだろう。

だったら、それを見せてもらおうじゃないか。あたしは彼に拳銃を渡そうとした。

すると、彼はあたしの手を押し留めた。

「断る」

「えっ……?」

「俺はもう拳銃は握らない」

「なっ……」

なによそれ……。

やっぱり口先だけなんじゃないの。

あたしは反論しようとした。でも、それは遮られた。サングラスごしに見えた眼差しで。

「下手なら下手な方がいい。その代わり……お前は下手なんだからな。拳銃を持つな」

「えっ……?」

なに?この真剣な眼差しは……。

あたしは思わず怯んでいた。

でも、彼はすぐにいつものような悪戯っぽい目をサングラスごしに見せて言った。

「硝煙臭い女は男に嫌われるぜ?」

余計なお世話だって~の!!


あたしは立ち去る奴の背中に思いっきりべ~っとしてやった。





里香との秘め事の翌朝。私は熱を出して倒れた。

罰が当たったのだ。

私は本気でそう思った。

私が自室で臥せっていると、ノックの音と共にドアが開き、お盆に小さな土鍋を乗せた里香が入ってきた。

「お加減はいかが?海杜さん」

「……大丈夫です……」

里香はお盆をデスクに置くと、私の額に手を当てた。

彼女の手は、ひんやりとしていた。

昨夜の燃えるような肌とはまるで別人だった。

「やせ我慢はいけませんわ。海杜さん。まだ熱……高いようですわね。

お粥持ってきましたの。これを食べてこのお薬を飲んで下さいまし」

「今は……食欲がないのです……」

「海杜さん。食欲がなくても、食べないといけませんわよ?」


そう言って、里香は蓮華にお粥を掬い、ふうふうと冷まし、私の口に運んだ。

私はなぜかそれを拒絶していた。

すると里香はため息をついた。そして、顔を上げるとにっこりと微笑んだ。

「あらあら、いけませんわね。海杜さん。身体に毒ですわよ」

だが、次の瞬間の彼女は女の顔をしていた。私はその顔を見た瞬間、危険を感じさっと腰を浮かせていた。

だが、遅かった。彼女は蓮華のお粥を自分の口に含むと、さっと私の頭を掻き抱き、私の唇を奪った。

「んっ……!!んっん!!」

長い口付けの後、彼女はようやく私から唇を離した。

「美味しい?」

そう微笑んだ里香の顔は……ぞっとするくらいに美しかった。

勢いよくドアが開いた。

闖入者は夕貴だった。彼は退院して、すっかり元気を取り戻していた。

「海杜お兄ちゃん、大丈夫?お熱出したっていうから、僕お見舞いに来たんだよ」

里香は優しい微笑みで夕貴を迎えた。それは紛れもなく母の顔だった。

「まあ、夕貴。そのお花、海杜さんに?」

見ると、夕貴は小さなタンポポの花束を持っていた。

「うん。これ、お庭で摘んできたんだよ。綺麗でしょう?」

「ああ。綺麗だ。ありがとう。夕貴……」


「夕貴、よかったわねぇ。海杜さん、とても喜んでいるわ」

夕貴……。この子が、私の子だというのか。

私は夕貴の無邪気な笑顔を見ながら、また眩暈に襲われた。






その日も、矢保はいつも通りに二日酔いの頭を抱えて、酒臭さを一課に蔓延させていた。

あたしの堪忍袋の緒が切れた。

「あのう……あの人、一体何者なんですか?矢保さんはどう考えても、この捜査一課に相応しい人材とは思えません」

あたしの訴えに、課長はちょっと寂しそうな顔をした。

「羽鳥君は強行班希望だったかな」

いきなり振られた関係ない話題に、あたしは面食らった。

「はい……。そうですが……」

「じゃあ、矢保君は君の先輩に当たることになる」

「えっ……?あの人……強行班だったんですか?」

「ああ。二年前まで、彼は強行班に所属していた。優秀な警官でな。

とにかく、銃の腕前では、奴に敵う者はいなかった。何せ、国体にも出たくらいなんだからね」

「えっ……?」

「あの時、私が彼をエースと言ったのは、決して誇張などではなく、歴とした事実なんだよ」

嘘……信じられない。

「じゃあ、どうしてあの人……今は……」

「それは……本人から聞きたまえ」

そう言うと、課長はもうこの話はやめだという風に、手を振った。


「お前、何が悲しくてこんな殺伐としたとこに来たんだ?」

「えっ?」

屋上で風に吹かれていた時、いきなり聞き慣れた声がした。

「矢保さん」

「お前、本部長の娘なんだろう?別にこんなとこにいなくたって、のほほんと花嫁修業でもしてたらいいじゃねぇか。

警察に入るでも、別に事務だっていいじゃねぇかよ。親父さんだって、そうなんだろう?」

「余計なお世話です。だいたい……」

だいたい、あたしはそう見られるのが嫌で同じ警察でも、刑事になったのだ。

誰にも負けたくない。

女だからって馬鹿にされたくない。

あたしは確かに本部長の娘だけど、そんなこと、関係ない。

そんなもの払拭してみせる。

そんな風に肩肘張ってた気がする。

「だいたい……。そんなこと、矢保さんに言われる筋合い……ないですよ」

「それもそうだな。……ただ……」

「ただ?」

「お前が心配なんだよ」

「えっ……?」

そう言うと、彼はいきなりサングラスを外した。

その瞬間、整った切れ長の目が現れた。

あたしは不覚なことに、少しどきりとさせられた。

「矢保さん?」

「よく覚えておけ。羽鳥。人殺しはこういう目の色をしているんだぜ?」

そう言うと、彼は自嘲的に笑った。

「どういうことですか?」

「そのままの意味だよ」

そう言うと、彼はふと瞳をあげた。

あたしは背筋がゾクリとした。

あたしが今まで見たことのないような眼差しだったから。

この人、なんて……暗い目をするの?

「俺は人を殺したんだよ」

「えっ……?」

「今から二年前だ。俺は当時、強行班にいた」

その話は聞いた。

「俺は今のお前みたいに、向上心に燃えていた。心の中から溢れ出す正義感が……俺の誇りだった」

「矢保さん?」

どうしていきなりこんな話を……?

あたしの当惑に構わず、彼は続ける。

「お前が言うように、俺は自分の射撃の腕に自信を持っていた。この管内では誰にも負けない自信があった。

そんな中、ある潜入捜査で同期の仲間がしくじってな。俺達が刑事だってことが組織の連中に知れた。

俺達は緊急で撤退することにした。だが、多勢に無勢だ。逃げるだけで精一杯だった。

その時、同僚に銃が向けられた。俺は護身用に隠し持っていた銃で撃っていた。同僚を守るためだった。

確かに同僚は守られたが、俺が撃った相手は死んだ。

咄嗟のことだったとは言え、俺は急所ははずしたつもりだった。そういう自信があった。

俺は自分自身を過信していた。確かに急所は外れていた。だが、奴は死んだ」

「えっ……?」

「理由はどうあれ、俺は人殺しなんだよ」

そう言うと、彼は小さく見える連行されてきた犯罪者を顎で差した。

「あいつらを逮捕する権利なんて、本当は俺にはないのかもしれない。

だって、俺もまたあいつらと同じような重罪を犯した人間なんだからな」

「矢保さん……」

「なあ。おかしいと思わないか?俺は人を殺しておきながら、こうして犯罪者を追っているんだ。

俺自身が醜い犯罪者だというのに」

あたしはもう聞いていられなかった。

ひどく投げやりな口調だったけど、彼が心底苦しんでいるのがよくわかったから。

彼は懺悔しているのだ。だから、拳銃も封印した。

あたしはそんな彼の話を聞くのが堪らなくつらくなっていた。

まるで肺腑を抉られるような感覚。

「やめて……もう……やめて……」

「例え、職務の上だったからと言え、正当防衛だったからとは言え、俺が人を殺めたことに変わりはない」

「ねえ……やめて……?もう……やめて下さい」

はっとすると、彼の指があたしの頬を撫でていた。

あたしは気がついたら泣いていたらしい。

「泣くなよ。羽鳥。俺はお前に泣いてもらえるような人間じゃない」

そう言うと、彼は小さく笑った。

「ありがとうな……。羽鳥」

彼はそうあたしに微笑みかけると、またサングラスをかけなおした。





あたしと矢保はその日、別件で聞き込みを行っていた。

十件目の聞き込みが終ったその時、矢保があたしを手招きした。

「あれ。見ろよ」

「なんです?」

矢保が指した方を見ると、黒いトランクを抱えた一人の男がきょろきょろと辺りを見回していた。

「ちょいとおかしくないか?あの男の様子」

「えっ……?あっ……。待って下さいよ!!」

矢保は何気ない風を装って、男を尾行しはじめた。

あたしはよくわからないなりに、彼に従うしかなかった。

見ると、男は倉庫に入っていく。次に別の男が中に入った。

同じような黒いトランクを抱えて。

「あ……。あれ、まさか……」

あたしの声に、矢保は、

「ヤクか……。まったく、とんだ大物が釣り上がったもんだな」

と笑った。

「待ってろ。応援を呼んでくる」

そう言うと、矢保は裏に止めてある覆面パトカーに向かったが、振り返り様、付け加えた。

「いいな。妙な気起こすなよ?」

あたしは、いてもたってもいられなかった。

気がついたら、飛び出していた。

ひとりや二人くらいだったら、あたしにだってなんとかできる。

そんな思い上がりがあったのかもしれない。

倉庫に入ると、思った通り、二つの影が今まさに商談しようとしていたところだった。

「そこまでよ!!」

あたしはそう言って胸のホルダーから拳銃と警察手帳を取り出した。

その瞬間、あたしは嫌な汗が背中に流れた。

なぜなら、そこには無数の人間の気配が感じられたから。

ふたりじゃなかった……!!

あたしは今頃になって、肝が冷えた。そして、自分の判断の甘さを悔やんだ。

その時、背後に気配を感じた。あたしは咄嗟に身体を倒して側転した。

その瞬間、あたしのいた位置に拳銃の飛沫が飛んだ。

ヤバイ!!相手も銃を!!

あたしはコンテナの裏に隠れると、銃を握り直した。

撃つしかない。

でも、あたしは両手が震えて引き金に指をかけられなかった。

あれだけ毎日練習してきたのに。

矢保の言葉が過ぎった。

もしかしたら、あたしは人殺しになるかもしれない。

怖かった。

そんな間に、相手は確実にあたしに銃口を定めていた。

勝負あった。

あたしは殺られる!!

その瞬間。

恐れていた銃声が降ってきた。

つんざくようなその音に、あたしは思わず倒れた。

どこをやられたんだろう。不思議と痛みは感じなかった。

いや……。そもそも、あたしは撃たれていない!?

「大丈夫か!?羽鳥!!」

「矢保さん!?」

見ると、彼の握る拳銃から白い煙が上がっていた。

慌てて振り返ると、あたしを狙っていた相手が仰向けに倒れていた。

その男の胸から、鮮血が溢れている。

「矢保さん……。あ……」

彼に封印したはずの拳銃を抜かせてしまった。そして、人を殺させてしまった。

彼はまたきっと苦しむ……。

あたしのせいで。

ねえ、どうして?どうして、あなたはあたしを……。

「どうして……?」

「人殺しの十字架を背負うのは……俺だけでいい……」

あたしは思わず、泣き崩れていた。

あたしは今まで、こんなに大きな優しさに包まれたことなんてなかったから。

「ごめんなさい……。ごめんなさい……」

「馬鹿。泣くなよ。調子狂うじゃねぇか」

その瞬間。

「うあっ!?」

あたしは肩に猛烈な痛みを感じて彼にしがみ付いていた。

「羽鳥!?」

「うっ……くぅっ……」

焼け付くような痛み。今度こそ……撃たれた……!!

「羽鳥!?大丈夫か!?」

「大丈夫……です。かすっただけ……」

「おいおい。こんなところでラブシーンしてる場合じゃないんじゃねぇの?刑事さん」

男の声だけ響く。相手は完全に死角に入っていた。

しかも、悪いことに、相手からはこちらの様子が丸わかりらしい。

どこ……!?どこにいるの?

「さて、どうしようか。あんたたちは俺に手も足も出ないだろう?」

「ふっ……。くくく……」

「何がおかしいんだよ。刑事さん」

「雑魚は所詮、雑魚だな。そんなことで俺の銃から逃れられるとでも思ったのか?」

そう言うと、彼はまったくあさっての方向に銃を構えた。

「矢保さん?」

「おいおい、刑事さん。あんた、気でもおかしくなったか?そんなとこ撃って何になるん……」

銃声が響くと、男の声が消えた。

代わりにどさりと物が落ちるような音がした。

「矢保さん?」

「馬鹿な奴だ。この強化ガラスに映る俺達を見ていたんだろうが……。逆にそのガラスに足元を掬われたな」

見ると、強化ガラスに微かに傷がついていた。

彼はこのガラスに反射させて相手を撃ったのだ。

「羽鳥。少し、我慢しろ」

そう言うと、彼は自分の黒いワイシャツを破って、あたしの肩を止血した。

「うっ……くっ……」

「よし。今すぐ病院に連れて行ってやるから……もう少しの辛抱だぜ?いいな?」

「……はい……」

彼の顔を見ていると不思議と安心できた。

サングラスごしの優しい瞳。

彼は人殺しの目だって言った。

でも、その時のあたしには、この上なく落ち着ける優しい光だった。

突然、銃声が響いた。

次にあたしの耳に届いたのは、小さな呻き声だった。

「えっ……?」

「まだいやがったか。雑魚どもが……」

そう言うと、彼はその場に崩れた。その拍子に彼のサングラスがコンクリートに転がった。

振り返ると、拳銃を握った茶髪の子が走り去るところだった。

「矢保さん!!」

彼は左の脇腹を押さえていた。そこからはとめどない鮮血が溢れていた。

嘘……!?どうしてこんなことに……!!

あたしが暴走したせいだ。

全部……あたしのせいなんだ。

「矢保さん……」

「羽鳥……。泣いてる暇があるんだったら……あいつを早く追え……」

「そんな!!矢保さんを放ってなんて行けません!!」

「馬鹿。俺は死なない。……そんなに俺を甘くみるんじゃねぇよ。

てめぇのことはてめぇでなんとかするから……。お前は早く奴を追え……」

「でも!!」

「これは命令だ!!行け!!羽鳥!!」

「……はい!!」

あたしは泣きながら、その場を後にした。

あたしは刑事なんだ。

罪人を追いかける……。それがあたしの役目なのだ。

あたしは死に物狂いで逃げた罪人を逮捕した。





あたしが現場に戻ると、多くの捜査員が慌しく検証していた。その中には、熊倉もいた。

そして、彼のいた場所には白いシートがかけられていた。

「嘘……」

「未央君……」

あたしは捜査員をかきわけて、白いシーツを剥がした。

そこには、この上なく、安らかに眠るような彼の姿が……。

「嘘つき……」

あたしは呟いていた。

「死なないって……言ったじゃない!!俺は死なないって……」

「未央君……」

「嘘つき!!嘘つきぃ!!」

あたしはそう叫ぶと、もうめちゃくちゃに彼の身体を叩いていた。


「矢保将警視に敬礼!!」

追悼のクラクションを鳴らして、黒い車がゆっくりと滑り出す。

たくさんの制服姿の同僚達が、一斉に車に向かって敬礼した。

あたしも久しぶりの制服で、敬礼していた。

二階級特進して、彼はあたしを追い抜いた。

「お前なんざにゃ、負けねえよ」


彼がそう笑っているみたいだった。

そんな彼の笑顔が、ある男性の笑顔に重なる。

「雪花……海杜……」

似てる。

あの眼差しが。

寂しげな横顔が。

掴もうとしてもすり抜けてしまうような感情が。


しっかりして……。

あたしは刑事。そして、彼は事件の関係者なのよ?

彼は雪花菊珂、九十九出と続いた雪花家連続殺人の容疑者の一人なんだから。

でも……。


あたしははじめて、自分の職業の重さが怖いと感じた。





おはようございます……不知火李です。


あのう……。今日は、お話して良いのか迷ったのですが……思い切ってお話させて頂きます。


「あっ……ああ……。恭平さま……あ……」

ワタクシはいつからこんな浅ましい女に成り下がってしまったのでしょう。

「は……はあ……」

ワタクシは誘惑に負けて、とうとう恭平様に純潔を捧げてしまいました。

それからは、ベッドの中で、恭平様の要求されるままに、

ワタクシの知る海杜様主導のプロジェクトの内容などを全て白状させられておりました。

恭平様がワタクシを利用していることは、痛いほどよくわかりました。

でも、ワタクシの身体はもう、恭平様なしではいられないほどに、彼を求めてやまないのです。

でも、ワタクシは今でも海杜様のことが大好きなのです。

いいえ。以前よりもずっとずっと彼を愛しく感じているのです。

恥を忍んで申し上げますが、ワタクシ、恭平様と……あの……その……

アレをしております時、いつも海杜様のことを考えてしまっているのです。

「お前のおかげだぜ?メイドちゃん。お前が提供してくれた情報がずいぶん役に立った。あいつを蹴落とすためのな」

「!!……そんな……」

「まったく、たいした忠誠ぶりじゃねぇか。くくく……あはは……!!」

そして、ワタクシは海杜様が社長職を解任されたことを知ったのです。

その夜、ワタクシは悲しくて、悔しくて、自分自身が許せなくて泣きました。

本当に浅ましい李。

ワタクシ、本当に消えてしまいたいと幾度枕を濡らしたことでしょう。

海杜様のお顔を見るのがつらくて、何度、お暇させて頂こうと思ったのかしれません。

でも、ワタクシはどうしてもあの家を出て行くことができないのです。

彼の側にいたいのです。ただ、いられるだけで幸せなのです。

ワタクシはなんと身勝手な女なのでしょう。





そんな時、ワタクシは大変な光景を見てしまったのです。

あれは、海杜様が社長職を解任された翌日のことだったと思います。

ワタクシがホールに参りますと、人の気配が致しました。

「海杜様……?」

それは海杜様でした。

でも、海杜様の様子が明らかにおかしいことに気が付いたのです。

ワタクシはカウンターに転がる酒瓶を見て、事態を把握致しました。

海杜様はすっかり酔っていらっしゃるのです。それはもう自分を失われるくらいに。

そして、驚くべきことに、カウンターに座る海杜様はなぜか全身ずぶ濡れだったのです。

ワタクシは慌ててタオルを取りに引き返しました。

タオルを携え、カウンターに踏み込みそうになった時、人の気配を感じて咄嗟に歩を休めたのです。

誰だろう?と思い、ワタクシが覗き込んだ瞬間……。

ああ、その時の驚き。お察し下さいませ。

ワタクシは思わず、声を上げそうになったのを寸前で押し込めました。

なぜなら、それは海杜様のキスシーンだったからでございます。

まして、そのお相手が……。

「お……奥様……?」

それは紛れもなく奥様だったのでございます。

奥様は大胆にもご自分の着物の胸元を開き、白い乳房を海杜にあてがわれました。

そして、彼の首を引き寄せ、海杜様に口付けているのです。

何度も何度も重ねられる長い口付け。

終始、なされるままだった海杜様もまたやがて、奥様の髪にご自分の指を絡めました。

髪留めが落ち、奥様の髪がゆっくりと肩に零れました。

海杜様の愛撫が奥様の首筋に達した時、奥様が声を上げました。

「嘘……こんな……こんな……」

「李さん~。どうしたの?」

「えっ!?」

振り返ると、無邪気な顔をした夕貴お坊ちゃまが立っていました。

ワタクシは泣き出したい衝動を必死で堪え、笑顔で言いました。

「坊ちゃま、向こうで一緒に遊びましょう?」





それから、奥様はすっかり変わられてしまいました。

いいえ、ご様子は以前とは変わられてはいないのです。

ただ、なんと言えばよいのでしょう。どこか妖艶なお方になられました。

以前にも増して、女性の色気のようなものを全身に纏われるようになったのです。

もうひとつ変わったことがございます。

それは、奥様がピアノをお弾きになられるようになったことです。

お話に聞きますと、奥様はもともとピアノ教師だったそうですが、

ワタクシはこの家に参りましてからの一年間、一度も奥様のピアノを聴いたことがなかったものですから、とても驚きました。

旦那様のお帰りが遅い日などは、いつも憂鬱そうにされていたのに、最近はとても上機嫌なのです。

ワタクシはその理由も存じ上げております。

奥様はご自分のお部屋にも小さなピアノをお持ちでした。

奥様は夕食後によくピアノを弾いておりました。

この上なく、ゴキゲンなご様子で。

奥様がピアノをお弾きになること。

それは、海杜様と奥様の逢瀬の合図なのでございます。

ワタクシはそのピアノの音が響くたびに、耳を塞ぎました。

だって、その夜、愛しい海杜様は奥様と……。

でも、ワタクシにいったい何ができましょう。

海杜様の社長解任の原因を作ったワタクシに。

彼を追い詰めたワタクシに。

その日も旦那様から帰宅が遅くなるとご連絡があったことをお知らせしますと、

奥様はただ一言、「そう」とだけ言って、食卓に戻られました。

そして、自室に篭られました。

それからすぐに一度目のピアノの音が聞こえたのです。

その時、リビングでワタクシの淹れた紅茶を召し上がっていた海杜様の顔が、はっと強張りました。

ワタクシも、思わずお盆をぎゅっと握り締めておりました。

海杜様は、「紅茶、美味しかったよ。ごちそうさま」と少し淋しげに微笑まれ、リビングを立ち去りました。

それからどれくらいの時間が経ったのでしょう。

とうとう「お部屋へお呼びになる合図」であるピアノの音が聞こえたのです。


間違いございません。

それは奥様の……。






ワタクシは、静まりかえった暗い廊下をとぼとぼと歩いておりました。

今頃海杜様は奥様と……。

ワタクシはふいに悲しくなって泣き出しておりました。

その瞬間。

ふいに目の前に影が揺らめいたのでございます。

背の高いシルエット。

海杜様……。

慌てて電灯をつけようとしたワタクシの手を、海杜様が押し留めました。

ワタクシは思わず、硬直しておりました。

海杜様の氷のように冷たい手がワタクシの指先を包んでいたのです。

その瞬間。

「知っているんだね。李ちゃん」

陰になってよく見えない海杜様の静かな声だけが振ってきます。

「僕と里香さんのことを……」

「あ……あの……海杜様……」

「隠さなくていい」

海杜様の指先に、ふいに力が篭った気がして、ワタクシは息が止まりそうになっておりました。

「軽蔑するかい?僕を……」

「いいえ……。海杜様……」

ワタクシにどうして海杜様を攻めることができるでしょうか?

ワタクシが海杜様を追い詰めてしまったのだと言うのに。

でも、ワタクシは問わずにはいられませんでした。

「海杜様は……奥様を愛していらっしゃるのですか?」

「……わからない。もう、僕には何も……わからない。今、自分のいるこの場所さえ、何も見えない」

そう言うと、海杜様はようやくワタクシの指を解放しました。

海杜様が廊下の奥に消えてしまってから、ワタクシはふいに涙が溢れました。

「うっ……うっ……。ごめんなさい……海杜様……ごめんなさい……」


それからすぐに、英葵様がお客様と一緒に戻られましたので、お茶の準備に参りました。

ワタクシがお茶の準備を終え、自室に下がらせて頂こうとした瞬間、女性の悲鳴のような音が響きました。

「えっ……?」

空耳かとも思いましたが、あまりにリアルなその音は現実に違いありません。

しかも、それは奥様の自室から聞こえたような気がしました。

恐らく、奥様のお部屋には、今も海杜様がいらっしゃることでしょう。

ワタクシはまた胸がちくりと痛みましたので、そのままにしておこうかとも思いましたが、

なんだか胸騒ぎがして思わず、奥様のお部屋へ向かっておりました。

思えば、それも虫の知らせとでもいうものだったのでしょうか。

いざ、奥様のお部屋に着きましたものの、ワタクシはためらいました。

でも、ワタクシは思い切ってノックを致しました。

でも、反応がございません。ただ、中からは物音はするのです。

「奥様。奥様。李です。あのう……どうかされましたか?」

ワタクシが耳を澄ました瞬間、突然ガラスの砕けるような音がいたしました。

「奥様!!奥様。どうされたんです?」

ワタクシは迷いました。

一介の使用人が、勝手にご家族のプライベート空間に立ち入る訳には参りませんから。

でも、ワタクシは意を決して中に踏み込むことにしたのです。

「失礼致します」

ドアに手をかけると、あっけないくらいに簡単に開きました。

まず、ワタクシはびっくり致しました。

窓が全開に開け放たれて、外から寒い突風が入り込んでいたのですから。

「奥様……?いらっしゃいませんか?」

電灯がついておりませんでしたので、暗くてよく見えないのですが、なんだか人の気配はするのです。

ワタクシは思い切って電灯をつけました。

その瞬間。

そこに広がる光景に、ワタクシは声を亡くしておりました。


そこは一面、血の海でございました。


いいえ。血の海ということに気がついたのは、だいぶ後のことでした。

とにかく、その時のワタクシには、真っ赤なものがあちこちに飛び散っていたという記憶しかございません。

その血の海の中に、奥様がいらっしゃいました。

美しい白い肢体を露にし、里香奥様が目をかっと見開いて倒れておりました。

恐ろしいのは、里香奥様の身体は、もう目もあてられないほどにあちこちを刺され、

恐ろしいくらいの鮮血が辺りにを黒々と染めておりました。

白く滑らかな奥様の肌は無残にも醜い蚯蚓腫れとどす黒い血で覆われておりました。

そして、その白い左の乳房には深々とナイフが突き刺さっており、

その奥様の胸を抉るナイフを握り締めているのがなんと、海杜様だったのです。

彼は、ナイフを握ったまま、上半身裸の状態で仰向けに血を吸った布団の上に倒れておりました。

彼もまた死んだように身動き一つ。呼吸さえもされていないようでした。

ふいに突風が吹き、その拍子に里香様の黒い髪が舞い上がりました。

そして、がくんと首を落とした彼女の光を失った瞳が、ワタクシを睨みあげました。


その時、ワタクシはようやく、叫び声をあげておりました。
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