【全年齢版】この世の果て

409号室

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幕間 切り裂かれたエピローグ

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『俺達が神を殺した、俺とお前達がだ。俺達は皆、神の殺害者だ。

 だが、どうしてそんなことをやったのか?


                       ーーフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ』




警視庁捜査一課の刑事、真幸苗子は世田谷区成城の住宅街にそびえる、一軒の邸宅の前に一人佇んでいた。

主を失ったその家には、かつて日本を代表する大企業の経営者一家が暮らしていた。

ほんの数ヶ月の間に凋落したその一族。

苗子もまた捜査員としてその断末魔を目の当たりにした。

寂寞としたその家は、今の苗子には、まるで墓標のように見えた。

その最後の生き残りだった青年を殺害した容疑で、彼女の幼馴染みだった咲沼英葵(彼は事件が一応の幕引きを得た際、雪花家から籍を抜いていた)は、殺人の現行犯で緊急逮捕された。

彼は取り調べにおいて、何の抵抗もすることなくあっさりと容疑を認め、48時間というタイムリミットに関係なく、すぐ検察にその身柄を送られた。

苗子は、咲沼英葵と旧知の仲ということが知られ、捜査員から外された。

殺人事件の容疑者と親しいというだけで、懲戒処分にならないだけマシだと思えと言われ、このときほど彼女は警察という組織を恨めしく思ったことはなかった。

すぐに苗子は英葵との面会を望んだが、既に検察に身柄を送検された後では、いくら捜査官とは言え、簡単に許可は出ない。

英葵は同じ署内の留置場に身柄を拘束されているにも関わらず、苗子は臍を噛むような毎日を送った。

そして、何度も何度も根気よく申請し、ようやく許可が下りたのは、英葵の逮捕から十日後のことだった。


無機質な足音が響く。

その音が、面会室の前でぴたりと止まった。

苗子の緊張が高まる。

やがて、耳障りな音を立て、奥の鉄扉が開いた。

一人の制服の看守に付き添われ、部屋に現れたのは、紛れもなく英葵だった。

彼の顔は、背後から差し込む光に阻まれ、ほとんど影になって伺い知れなかったが、それは英葵に違いなかった。

苗子は思わず立ち上がっていた。

視線が高くなったことで、影となっていた部分が姿を現す。

隠れていて見えなかったが、英葵の細い手首には、鈍く光る手錠が嵌められていた。

それを目にした瞬間、苗子は涙が溢れそうになった。

手錠を外され、英葵がゆっくりと目の前に腰掛けた。

目の前と言っても、ガラスで阻まれた再会だったが。

椅子に腰掛けた英葵がゆっくりと顔を上げた。

苗子は、ほんの数週間ぶりだというのに、まるで遠い昔に別れたきりのような感覚に襲われた。

そう。十年ぶりに再会したあの見合いの席以上に。

英葵に会えたら、あれも話そう、これも話そうと思い巡らせていたあらゆることが、綺麗に消えていた。

限りある面会時間に、苗子の焦りが増長する。

一方の英葵は、むしろその沈黙を歓迎しているようだった。


「英葵……」


結局、苗子は彼の名を呼ぶことしかできなかった。

そんな苗子に、英葵は優しい声で言った。

「苗子。君には……世話をかけたね」

「やだ、英葵……そんなこと言わないで?私、英葵に何にもしてあげられなかったよ?

英葵の苦しみや悲しみの理由、全部調べて知っていたのに、私、何もできなかった……ううん。何もしなかった。

私……駄目な友達だったね。私……私……」

「自分を責めないでくれ。苗子。これは僕の意思で行ったことであって、君には何の関係もない」

「でも……」

「思い上がらないでくれ。苗子」

ぴしゃりと叩きつけるような英葵の声に、苗子は思わず肩を震わせた。

「僕は君が何を言おうとこの復讐を止めはしなかっただろう。

僕はこの身も命も全てをこの計画に捧げていた。僕の意志は固かった。

君がどんなに僕の決意を壊そうとしても、それは徒労に終わったに違いない。ただ、それだけだ」

氷のように冷たい眼差し。

だが、苗子にはわかっていた。

それが英葵の精一杯の優しさであるということを。

本来、正反対であるはずの拒絶という行為が、この場合においては最大の優しさになるということが、苗子には堪らなく悲しく思われた。

「英葵、留置場は寒くない?何か欲しいものはない?」

英葵はただ、微かに微笑むだけだった。

その微笑を見つめていると、苗子の中に様々な疑問が渦巻いていく。


どうして、彼を殺害しなければならなかったのか?

本当にそうしなければ、英葵の復讐は完了しなかったのか?


どうして?

どうして?

どうして……?


だが、結局、苗子は再び、


「英葵……」


と彼の名を呼ぶことしかできなかった。


苗子には尋ねなくてもその答えがわかっていた。


英葵があの青年を手にかけたのは……。


彼がその青年を実の兄のように慕っていたから。


苗子には今、痛い程感じられた。

愛する者を愛するが故に手にかけた、いや、手をかけるしかなかったこの青年の痛みが、そして苦しみが。

同時に彼女の中で、何かが見えた。

ずっと目に見えなかった、そして確信できなかった想いが。

確信できなかったのではない。確信しなかった。

それは、自分が臆病だったから……。

だが、今ならわかる。

事件の重要容疑者となったあの青年を自分の職を立場を省みず、全てを賭して愛した先輩。

苗子が尊敬して止まぬ一人の刑事……。


羽鳥未央もまた、こんな気持ちだったのだろうかと。

「苗子。僕は死刑になるのだろうね」

ぽつんと響いた英葵の声に、苗子は諫めるように言った。

「やだ。英葵。そんなことを軽々しく口にしないでよ」

「事実だろう。僕はあんなにもたくさんの人間の命を奪ったのだから、当然のことだ。そう。あの一族を構成する全ての人々の命をこの手で奪ったのだから……」

英葵はそう言うと、そっと顔を伏せた。

「ねえ。英葵。……それについて聞きたいの。あの件の一部は、別の容疑者が自白して、一旦決着したじゃない? その解決は、全て誤りだったと言うことなの?」

少しの沈黙の後、英葵は口を開いた。

「……そうだ」

「じゃあ、その犯行も全部、英葵が……?」

「そうさ。僕が仕組み、僕が行ったことだよ。あの的外れの推測で、どうしてあの人があんな自白をしたのか、僕には未だにわからないがね。挙げ句の果てに、命まで落としてしまって……」

そう言うと、英葵は卑屈な笑みを浮かべ、肩を震わせた。

苗子は、そのくぐもった笑いに、どこか憐れささえ感じた。

「……でも、英葵……」

「とにかく、僕は満足だよ。苗子。これであの一族に見捨てられ、見殺しにされた僕の両親も、天上で喜んでいることだろう。僕はどんな形であれ、復讐を完成させたんだ。この手でね……」

そう言うと、英葵は物凄い笑みを魅せた。

「そう。僕は勝ったんだ。あの雪花一族に。そして、あの男。雪花海杜に」

「英葵……」

突然、英葵が立ち上がった。

「……英葵?」

怪訝に彼を見上げた苗子に、英葵は呟くように言った。

「さあ。わかっただろう?苗子。もう、ここには来ないでくれ。そう、君自身のためにも……」
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