間違って地獄に落とされましたが、俺は幸せです。

白井のわ

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貴方に名前を呼ばれただけで、その瞳に見つめられただけで

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 ……今、何て言った? 俺が、誰を怖れてるって? 

 俺が、バアルさんを? 抱くもなにも、好きって気持ちしか抱いてませんけど? とんでもねぇ誤解が生じていらっしゃる!!

「ご、ごめんなさいっ」

 時として悪いことには悪いことが、誤解には誤解が重なるもんだ。

 咄嗟に口にした謝罪。それが察しの良すぎる彼の考えを、ますます悪い方向へと導いてしまうだなんて。

「……やはり、そうでしたか。不安を、怖れを、抱かせてしまっていたのですね……」

「……は? え? バアルさ……」

「なのに……私めは、一人浮かれて」

「ちがっ、違います! さっきのは、不安にさせちゃってごめんなさいって意味で……」

 必死に縋りついたことで、ようやく俺を見てくれた緑の眼差し。まだ寂しい色が滲んでいたけれど、不安に揺れていたけれど、ちょっとだけホッとしたんだ。

 慌てて掴んだせいだ。皺くちゃにしてしまっていた黒いジャケットから手を離す。

 両手で包み込むように触れた白い頬。滑らかな肌から伝わってくる冷たさに、思わず下を向いてしまっていた。

「……俺、頭ん中、いっぱいいっぱいになっちゃってたんです……バアルさんに……やっと抱いてもらえるんだって、スゴく嬉しくて、幸せで……」

 俺の熱が伝わっているんだろうか。手のひらがじんわり温かくなっていく。

 頭の上から息を呑むような音がした。続けて、ぱたぱたと賑やかな羽音が聞こえ出す。釣られて見上げた先で、期待に輝く瞳とかち合った。

 思わず離していた手を、大きな手がそっと掴んで握り締めてくる。

「……で、では、ご夕食の前から、度々ぼんやりしていらっしゃったのは?」

「ぅっ……お、思い出しちゃってて……バアルさんが俺に、だ、抱かせて頂きますって言ってくれたの……それで、浮かれちゃって」

 ふわりと香ったハーブの匂い。気がつけば俺の顔は、執事服の上からでも分かる逞しい胸板に埋もれていた。

 嬉しくて、もっとくっつきたくて、抱き締め返す。頬から伝わってきたバアルさんの温もり。安心する体温と一緒に聞こえてきた忙しない心音に、俺もドキドキしてしまう。

 バアルさんは何も言ってくれない。長く引き締まった腕で、俺を抱き締めてくれたままだ。

 伝えなきゃいけないことは伝えたつもりなんだけど……いいのかな? 誤解は解けたってことで。

「あの、バアルさん……」

 念の為に聞いておこう、と広い背中に回していた腕を緩め、スーツの裾を軽く摘んで訴える。

「アオイ様……」

 全身に響いたかと思った。名前を紡がれた瞬間、一際大きく跳ねてから暴れ始めた鼓動が煩い。息をするのも忘れてしまいそうだ。

 見下ろす眼差しが孕んだ熱。俺だけを捉えて離さない緑の瞳に見つめられるだけで、ぞくぞくと淡い感覚が背筋を駆け抜けていく。

「あ……」

 どうしちゃったんだろ……俺……

 特別なキスをしてもらえた訳じゃないのに。頭ん中が蕩けちゃうくらい、あの大きくキレイな手に触れてもらえた訳でもないのに。

 なのに、何故か力が抜けてしまう。

 腰砕けになり、膝から崩れ落ちそうになっていた俺を頼もしい腕が抱き止めてくれた。

 そのまま軽々と抱き上げられ、一気に近づけた彼との距離。あと数センチをバアルさんから埋めてくれた。ほんのりと頬を染めた彼の額が、俺のと重なる。細く長い触覚が、そわそわと揺れていた。

「確認ですが……貴方様も、私と同様に……今晩を楽しみにして頂けていた……ということで、宜しいでしょうか?」

「は、はぃ……よろしいでふ」

「左様でございましたか」

 花が咲くように綻んだ唇に、気がつけば俺の頬も緩んでいた。でも、つかの間だった。

「では、参りましょうか」

「ふぇ?」

 微笑みかけてくれてから、スラリと伸びた長い足が絨毯の上を進んでいく。静かに、けれども大股で部屋の奥へと。どっしりと構えている、二人で寝転がっても広過ぎる大きなベッドへと。

 も、もしかしなくても今から? まだ、俺、心の準備は……出来てなくもないけれど……身体が! お風呂、まだ入っていないのに!

「あ、ちょっ……た、確かにっ、俺も今すぐキスして欲しいし……え、えっちしたいですけどっ……ちゃんとキレイにしてからの方が、より良いといいますかっ……」

 今度は誤解を招くことのないように、と思っていたせいだ。慌てまくった俺の口は、全て伝えてしまっていたんだ。冷静になれば分かるであろう、言わなくてもいいことまで。

 急ブレーキでもかけたかのように立ち止まったバアルさん。思わず抱きついてしまっていた、鍛え上げられた胸板が、突然くつくつと震え出す。

「えっと……バアルさん?」

 俺を見下ろす眼差しは、うっとりと微笑んでいた。

「ふふ、申し訳ございません。言葉が足りておりませんでしたね。先程はお風呂に向かいましょうか、と誘ったつもりでした。私も、早く貴方様を愛させて頂きたいと、心が浮き立っていたものですから」

「あ……ぅ……」

 そうだった。部屋の奥にあるのは、何もベッドだけじゃない。隣の部屋へ、浴室へと続く扉もあるんだった。

 ポンコツ具合も、ここまでくれば清々しい……訳がない。悲惨だ。

 ……いや、でもプラマイゼロか? バアルさんは喜んでくれたんだしさ。顔が熱くて仕方がないけれど。変な汗が背中に滲んできたけれど。

「じゃ、じゃあ、行きましょう?」

「ええ、そう致しましょうか」

 すっかり上機嫌で何よりだ。同意する声の弾み具合からも、ゆらゆら揺れ、ぱたぱたはためく触覚と羽からも、ご機嫌なご様子が伝わってくる。

 静かに大きく吸って、吐いて。暴れっぱなしの心臓をとにかく落ち着かせようと、呼吸を繰り返していた時だ。

「ん、む……?」

 分かるのに少し時間を要した。なんなら艷やかに微笑む唇が、わざとらしいリップ音を鳴らして離れていって、ようやくだった。

 キスされたんだって。バアルさんから、キスしてもらえたんだって気がついたのは。

「ふぇ……」

「ああ、失礼。今すぐして欲しい、と先程求めて下さったので……つい」

 優しい目元に刻まれた、色っぽいシワをさらに深め、悪戯っぽく彼が微笑む。

 それだけでも十分だったのに。壊れそうなくらいに心臓がはしゃいでしまったってのに。額にも優しく口づけてもらえてしまえたお陰だ。

「っ……」

 音にすらなっていない歓喜の呻きを漏らしながら、俺は再び全身を骨抜きにされてしまったんだ。
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