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覚えていなくても、思い出せなくても、彼とならば

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 ああ……やっぱりな。

 だって、彼は目覚めてから一度も、俺の名前を呼んでくれていない。いや、呼びたくても呼べないんだ。知らないんだから。

 ……もしかしなくても、昨日の影響……だよな。見た目には全然怪我とか無かったし、バアルさん自身も「大丈夫ですよ」と言ってはくれていたけれど。

 ただ単に若返ったってだけなのか? 記憶ごと? 今はまだ元気そうだけど……体調に問題はないんだろうか?

 ずっと……このまま、何だろうか? 忘れてしまったまま、なんだろうか? ……俺を、俺との今までを。

 胸の内を渦巻き、こびりついて……覆っていく不安と寂しさ。目の前が暗く沈み、足元から崩れ落ちていくような焦燥感。それらがあっという間に吹き飛ばされてしまうなんて。

「……全く持ってあってはならぬことです。たかが少々若返り、身体と一緒に記憶まで引っ張られてしまったとはいえ……愛する妻を忘れるなどと……」

 絞り出すような悲痛な声で嘆く彼が、形のいい唇を苦々し気に噛んだ。

 好きな人が、今にも泣きそうな顔で落ち込んでいらっしゃる。何か声をかけるべきだ。普通なら。でも、出来ない。今にもノックアウト寸前だからだ。

 一気に熱を持った頭の中で木霊する。彼が言ってくれた「愛する妻」という嬉し過ぎる言葉が、何度も。

「……つ!?」

 ふにゃふにゃに緩んだ口からようやく出せたのは、たった一音だけだった。

「おや、まだ……でございましたか? ですが……いずれ必ずや、私と夫婦の契りを結んで頂けるのですよね? 私と永遠に、共に暮らして頂けるのですよね? 貴方様が知る私は、貴方様と深く愛し合っているのですから……」

 熱心に俺を見つめていた煌めく緑の眼差しが、固く繋がれた俺達の手へと落ちる。

 繋いでいた手をゆるりと緩められ、エスコートする形で再度取られた左手。その薬指で輝く彼と揃いの銀の輪を、しなやかな指でゆるりと撫でながら、うっとりと瞳を細めた。

 愛しさしかこもっていない声からの、怒涛の問いかけにくらくらする。おまけに答え合わせをする必要もなく、全部当たっているしさ。

 そりゃあ、自分とお揃いの指輪をつけている相手が隣で寝てたら、何となくは察するだろうけど。相変わらずの察しの良さだ。

 バクバクとはしゃいでいる鼓動を押さえ、深呼吸。緩みまくっている頬にも気合を入れてから、期待に満ちた眼差しを見つめた。

「そ、それは……勿論……俺は、バアルさんのものですし……ずっと貴方の側に居るって、心に決めてますから……」

「っ……」

 息を呑み、大きく見開かれた緑の瞳。耳まで真っ赤に染めながら、落ち着きなくゆらゆら彷徨わせていた視線が、真っ直ぐに俺を射抜いた。

「……改めて、お名前をお聞きしても? どうしても、今、貴方様の名を呼びたいのです……」

 ……ああ、やっぱり変わらない。俺を求めてくれる、焦がれるような眼差しも。繋いだ手から伝わってくる温もりも、何もかも。

 だからかな……確信出来た。大丈夫だって。俺のことを覚えていなくても。二人で重ねてきた日々を、このままずっと思い出せなかったとしても。彼となら、大丈夫だって。

「アオイです……貴方の、貴方だけの……」

 鮮やかな緑の瞳の中で星が瞬き、形のいい唇がゆっくりと動く。

「……アオイ、様……」

 噛み締めるように呟かれた自分の名前。いつもより少し高めの声で紡がれた三文字。たったそれだけのことが嬉しくて……胸が、目の奥が熱くなっていく。

「……はい、バアルさん」

「……アオイ」

「……うん、バアル」

 背に回された引き締まった腕が、俺をそっと抱き寄せる。ふわりと香った優しいハーブの匂いに、変わらない落ち着く体温に、今度こそ滲んであふれて止まらなくなってしまった。
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