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この世界が地獄と呼ばれる所以

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 静かな吐息がゆっくり繰り返す。吸って、吐いて、もう一度。生気のない、青白かった頬に少しづつ色が戻っていく。

 ……こんな時、だからだろうか。どうでもいいことを考えてしまうのは。やっぱりバアルさんの足は長いな、だなんて。大きく高いベッドの端から足を伸ばしても、絨毯につま先が届くかどうかの俺と違って長いな、なんて。

 同じく、すらりと長く引き締まった腕が俺の肩を抱き寄せる。恭しく手を取り、繋いでくれた彼の視線の先には俺の薬指が、彼と一緒に選んだペアリングが、銀の輝きを湛えていた。

 顔を上げた彼が口を開く。その眼差しは、俺には見えていない何かを見ているようだった。

「この世界……地獄は、常々『穢れ』という脅威にさらされております」

「穢れ……」

 またしても馴染みがない。というよりは、俺が居た世界には無いものだろう。

 ……とにかく悪い予感しかしない。その音を口にしただけで、背筋がゾクリと慄いたのだから。

「この地に落ちる者……天さえ見放した、深い罪を犯した人間。彼等の魂は、地獄の業火によって長きにわたり焼却され続け、ようやく無へと還ることが赦されます」

 物語を読み聞かせるみたいに淡々と語る声。ただただ事実だけを述べていく抑揚の無い音に、言葉にできない恐怖を覚えてしまっていた。俺の大好きな声のハズなのに。

「その際、魂にこびりついた罪や悪意、負の感情を焼却する際に湧いてしまうもの、それが『穢れ』なのです」

 後ろ向きな感情に心を乱されているせいだろう。彼が語ることを頭の中で上手く噛み砕けない。整理できない。

 ……脅威にさらされてるって、言ってたよな? それじゃあ、バアルさん達の世界を苦しめてるものって……

 ……ああ、そうか。ぐちゃぐちゃな頭でも一つだけ、分かってしまった。

「……俺達のせいで……バアルさん達が……」

「貴方様のせいではございません」

「でも……人間のせい、なんですよね……」

 僅かに伏せた、彼の白くて長い睫毛が震える。歪なラインを描いていた唇が、静かに引き結ばれた。

 ……沈黙は肯定と同じって聞いたことがある。誰だったか、何からだったかは忘れてしまったけれど。こういうことなんだな、と身を持って知る。

「……善があれば悪もおります。そして、一部が悪だからといって、全てが悪だということにはなりません。決して」

 静かに取り込んだ空気が重たい吐息に変わる。ふと、繋いでいる手に力がこもる。釣られて顔を向ければ、温かい光を帯びた緑とかち合った。

「何より……今、貴方様は私達の為に心を痛めていらっしゃる……その事実が、アオイ様のような御方がいらっしゃるということが、私の私達の癒やしとなっているのです」

 ふわりと蘇り、駆け巡った笑顔……ヨミ様、グリムさん、クロウさん。

 サタン様、レダさん、スヴェンさん、シアンさんやサロメさん親衛隊の皆さんや兵士さん、お城の皆さん。人間の俺に普通どころか、優しく接してくれている温かい方々。

 そして、何より目の前のバアルさんの言葉が、繋いでくれている温もりが、胸で渦巻く暗がりを払ってくれた。

「……ありがとうございます…………もう、大丈夫ですよ……だから、話の続き、聞かせてくれませんか?」

 正直、まだ上手く整理出来ていない。こんなにも優しい方々を、人間の悪意が苦しめているなんて。

 でも、今はバアルさんのことが大事だ。しっかりしないと。熱もないのに鈍く痛む頭を軽く振り、息を吐く。空いた方の拳を握り、気合を入れようとしていたところで、穏やかな声が優しい提案をしてくれる。

「……お茶を淹れましょう。ひと息ついてから、改めて穢れについて、儀式についてお話致します」

 口を挟む間もなく、手品のようにぽぽんっと馴染みのある白い陶器のティーポットと、お揃いの花柄のティーカップが現れる。

 意思を持っているかのように自動的にふわふわ浮かぶそれらは、手早く紅茶を注ぎ淹れ、湯気立つカップが俺達の手元へそっと収まった。

「……ありがとうございます」

「いえ……さあ、どうぞ……お熱いので気をつけて召し上がって下さいね」

「……はい。いただきます」

 琥珀色で満たされたカップから漂う、花のように甘い香り。いつもの紅茶が乾いた喉を潤し、冷えた身体を、心を温めてくれた。
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