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当たり前だった日常が

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 今日もいい天気だ。何をしよう。まず、スクランブルエッグの練習はしたいな。ヨミ様へのお礼の為に。

 ちょっと難しい焼き菓子にも挑戦してみたいな。俺も、クロウさんみたいにマカロンとか作れるようになりたいし。朝のお茶会の時に、コツとか聞いてみようかな。

 ああ、魔術の訓練もしないと……それから、内職も。頑張ってバアルさんとのデート代、稼がないとだもんな。

 柔らかい朝の日差しが、真っ白なベッドの上に俺達の影をぼんやり描く。温かい彼の腕の中、すっかり俺は心も身体も寛いでしまっていた。逞しい胸板に背を預け、落ち着く心音に耳を傾けながら、のんびりと。

 満ち足りた、当たり前になっていた日常を、もう彼と過ごすことが出来なくなるかもしれないなんて、これっぽちも思わずに。

「アオイ様……大切なお話がございます」

 耳元で聞こえた、暗く重たい声色。俺達の間で流れていた穏やかな空気とは真逆の雰囲気に、思わず身体ごと振り向いていた。

 ……ただ事ではないんだろうな。

 思い詰めたように引き締まった表情、真剣なんだけれど寂しそうな眼差し。どちらも、今までの彼が俺に向けたことのないものだったから。

「は、はい……なんでしょう? バアルさん……」

 自分でも驚くくらいに弱々しい声だった。

 逞しい膝の上に俺を乗せたまま、彼が姿勢を正す。大きな手が、包み込むように俺の手を取り握った。

「……急なことで申し訳ございません。ですが本日、私はとある要件により、出掛けなければなりません」

「要件……出掛けるって、城下町にですか?」

 だったら、俺も一緒に……そう、思ってすぐに違和感を覚えた。

 ……だって、おかしい。俺も一緒に行けるのであれば、連れて行ってくれるんだったら、こんな回りくどい言い方をしないハズだ。彼だったらすぐに「ご一緒して頂けませんか?」って誘ってくれるハズだ。

 ぞわりと走った、内臓を直接弄られているような嫌な感覚。胸の中にまで及んだ、仄暗い不快感。

「いえ、外界へ赴きます」

 俺の不安は、的中してしまった。

「外界って……え、国の外ってこと、ですか? それって危ないんじゃ……」

 初めて彼と出会った日。俺がこの世界に、地獄に間違って落ちてしまった日。その時目にした光景は、今思い出しても俺の背筋を冷たく撫でていく。

 墨で塗り潰したような、色んな色のペンキを混ぜて、煮詰めたような黒く不気味な空。命の息吹がまるで無い、ひび割れた大地の至るところからは、真っ赤な炎が吹き出し、そこかしこから悲鳴が上がる。ここに落ちた人間達の、助けと赦しを請う慟哭が。

 胃の中を、無理矢理引っ掻き回されたようだった。込み上げてきた気持ち悪さに、空いている方の手で思わず口を塞ぐ。

 不意に、優しいハーブの香りが俺を包み込んだ。とく、とく……と聞こえる心音に、肌に感じた温もりに、ようやく抱き締められたんだと気づく。

 頼もしい彼の手に、ゆったりと背中を撫でてもらい、ざわめいていた心が安堵に満たされた。

 俺が落ち着きを取り戻すまで、待ってくれていたんだろう。しばらくしてから、再び彼が口を開く。

「……貴方様の仰る通り、多少の危険を伴います。ですから、此度の件に貴方様をお連れすることは出来ないのです。お寂しい思いをさせてしまい、申し訳ございません……」

 ……バアルさんの言っていることは正しい。外の光景を思い出しただけでこのザマだ。無理矢理ついて行ったとしても、ただの足手まといにしかならない。

 背中を優しく行き交っていた手が離れ、俺の肩に乗せられる。寄りかかっていた身体をゆっくりと起こされ、大きな手のひらが頬に添えられた。

 柔らかい眼差しはいつも通りなのに、何でだろう? 見つめ合っているだけで胸が苦しくなってしまう。少ししか空いていないのに、僅かに離れた俺達の距離が、何だか遠くに感じた。

「ですが、日が暮れる前には……何としてでも、必ずや、貴方様の元にお戻り致します。ですから、それまで此方で……私の帰りを待っていて頂けませんか?」

「……俺は、大丈夫です」

 強がりだ。ずっと俺のことばかりを心配してくれる彼を少しでも安心させる為の。

 僅かに表情を綻ばせたバアルさんが、ホッと息を吐く。俺の望んだ結果通り。だから、思ってしまった。おかしいなって。察しの良い彼に、バレないなんて……おかしいなって。

「でも、バアルさんは……大丈夫なんですか?」

 抱いた違和感は不安となって、俺の口からこぼれ出していく。

「ホントに多少の危険だけで、済むんですか? まさか、怪我とか……しない、ですよね? バアルさん、強いから……大丈夫、なんですよね?」

 ……全く、今日はイヤな予感ばかりが当たる日だ。

 緑の瞳が揺れて、惑う。白い頬は、色を失ったかのように血の気を失くし、言葉を奪われたかのように口を閉ざす。

 ひと言、言ってくれるだけで良かったのに。大丈夫だって、問題ないって。いつもだったら、言ってくれるのに。その時、俺が一番欲しい言葉をくれるのに……

「……要件って、何なんですか?」

 息苦しさすら覚えるような、重たい沈黙。

「……儀式をする為、でございます」

 ようやく開いた口から紡がれたのは、俺にとっては馴染みが無さ過ぎる言葉だった。

「……儀式?」

「儀式に関するご説明の前に、貴方様にお伝えしていなかった、この国に関する重要なお話しをせねばなりません。ですが……」

 言い淀み、また俺から目を逸らす。いつも柔らかい笑みの形を描いている唇が、今日は、苦しそうに歪んでばっかりだ。

「貴方様にとって、このお話はご不快な……大変お辛い想いをさせてしまうやもしれません……」

 また、歪ませてしまった。それだけじゃない。泣かせてしまいそうだ。

 力なく触覚を垂らし、透き通った羽を縮め、震える指先で俺の頬を、輪郭をなぞるようにそっと撫でている。再び合った瞳には、薄い涙の膜が張られていた。

 ……やっぱり、バアルさんは優しい。優しすぎる。こんな時にまで、俺のことを第一に考えてくれるんだから。

「……それでも、聞きたいです」

「アオイ様……」

「だって、大事なことなんでしょう? この国にとっても、バアルさんにとっても」

 だったら知るべきだ。いや、なんとしてでも知りたい。たとえ傷つくことになっても、辛い思いをしたとしても、だって。

「俺は……ずっとこの国で、バアルさんと一緒に生きるって決めたんです。だから……ちゃんと、全部教えて欲しいです」

 いまだ震えている大きな手に、自分の手を重ねて握る。緑の瞳がはたと瞬き、ふっと細められた。

「……ありがとう、ございます」
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