間違って地獄に落とされましたが、俺は幸せです。

白井のわ

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ようやくスタートラインに立てて……なかっただと?

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 まだ始まってもないのに、すでに色々と計画に綻びが生じているような気もするが……何にせよ、ようやくスタートラインには立てたな。ここからが肝心だ。

 気合を入れ直していた俺に向かってグリムさんが胸を張り、明るく元気な声で宣言する。俺を見つめる大きな瞳は、眩しいくらいにキラキラと輝いていた。

「さあ、アオイ様! 遠慮しないでじゃんじゃん任せてくださいね! 色々頑張ってくれてたクロウの分まで僕、頑張りますから! アオイ様とバアル様の笑顔の為に!!」

 先程のバアルさんからの言葉によって、蕩けきってしまっていたからだろう。まだ落ち着きを取り戻していない脳みそは、グリムさんの言葉をきっかけに、勝手にどんどん飛躍した考えを生み出していく。

 ……ん? 俺達の笑顔の為にって……クロウさんと同じく、グリムさんも察してくれているのか?

 っていうか、バレてる……よな? バアルさんに内緒でこっそりプレゼントを用意するつもりだって……もしかして、バレンタイン的な文化? 風習? が地獄にも有ったりするんだろうか?

「ありがとうございます。でも、何で分かったんですか? バアルさんにサプライズでチョコ作るって」

「やっぱりバアル様の為だったんですね! きっと喜んでくれますよ! アオイ様の作るお菓子、すっごく美味しいですもん!」

「あ、ありがとうございます……因みにですけど、バレンタインって知ってますか?」

「知りません! 初めて聞きました! そのバレンタインってのが、バアル様にチョコを作るのと何か関係があるんですか?」

 完全に俺の深読みだったらしい。満面の笑みと一緒に温かい言葉をいただいて熱くなっていた顔に、更に熱が集まっていく。

 気を取り直して、興味津々な様子で瞳を輝かせていたグリムさんに、バレンタインについて掻い摘んで説明した。

「大切な人へチョコレートと一緒に想いを伝える日、ですか……すっごく素敵なイベントですね!」

 すると僅かに伏せた頬を染め、弾かれるように上げた笑顔がますます眩しくなった。可愛い。

 もうすでに自覚はしているが、俺にはスマートにサプライズをこなす才能は無いようだ。

 それを決定付ける出来事が、サプライズ計画のスタートラインにすら立てていなかったという事実に気づくのが、グリムさんに尋ねられてようやく……というのも救いようがないだろう。

「じゃあ、お待ちしているバアル様の為に、とびきり美味しいチョコのお菓子を作らないとですね! ところで、材料は何処に有るんですか?」

「……あっ」

 ふんすと小さな拳を握った彼の言葉に、熱くなっていた全身が一気に冷えて、背中に嫌な汗が伝い始める。ぽかんと空いた口からは間の抜けた音が、掠れた息と一緒に漏れていた。

 くるんと跳ねた薄紫色の睫毛がぱちぱち瞬く。水を打ったような沈黙が室内に漂う中、どこか言い辛そうにグリムさんが小さな口を開いた。

「……もしかして、何にも無い感じですか?」

「……はい、ごめんなさい……」

 やらかしてしまった。どうにかして、バアルさんの目が届かない状況を作らなきゃってことしか考えてなかった。

 いくら、こっそり準備出来る場所を確保したところで、設備も材料も無ければ話にならないじゃないか。

 泣いたって、どうしようもないんだけど泣きそうだ。うんざりする。自分の、一度一つのことに向かって突っ走り出したらどれだけ大事なことだろうと、それ以外がポンポコ抜け落ちてしまうポンコツな脳みそに。

「ぼ、僕は、うっかりさんなアオイ様も可愛くて素敵だと思います!」

「……ありがとう、ございます」

 どこまでも前向きにフォローしてくれるグリムさんの優しさが、折れかかっている心に染みていく。ぼやけかかった視界に映る「大丈夫ですからね!」と元気づけてくれようとしている笑顔に、鼻の奥がツンとした。

「でも、どうしましょう……僕がバアル様みたいに色んな術を使えたら、こんなピンチちゃちゃっと乗り越えちゃうんですけど……」

 細い腕を組み、小さな頭を傾け、ぶつぶつと呟いていたグリムさんの目がはっと開く。

「あ、そうだ! それです! ちょっと待っててくださいね。早速僕が、バッチリ解決してみせますから!」

「え? ちょっ、グリムさん?」

 不意に過ぎったイヤな予感に手を伸ばすも、駆け出していった細い背中には届かず、行き場を失くした。

 こういう時に限って、そういう予感は的中してしまうもんだ。案の定、俺は膝からふにゃふにゃと崩れ落ちることになる。勢いよく開け放たれた扉と同時に言い放たれた、グリムさんの言葉によって。

「バアル様っ! こちらのお部屋に調理場を出してもらえないでしょうか! あ、理由は聞かないでくださいね! トップシークレットなので!!」

 堂々とした明るい声に、きょとんと大きく見開いた緑と金の眼差しが俺達に向かって一気に注がれる。

「ひぇ……」

 こんなの、もう、言ってるようなもんじゃないか。今から貴方の為に作りますよって。

 決定的過ぎるお願いの内容に、察しのいい二人が気づかない訳もなく、どこか安心したようにバアルさんの表情が和らいでいく。隠し切れていない喜びに満ちた表情と連動して、ゆらゆら、ぱたぱたと上機嫌そうに触覚と羽が動いていた。

 一方、クロウさんはというと……笑いを堪えているんだろうな。大きな手で口を覆いながら、スラリと伸びた背を丸めてぷるぷると小刻みに震えている。面白くて仕方がないって感じだ。

「ふふ、心得ました。一緒にお菓子作りに欠かせない食材と……念には念を入れて、ラッピングに用いる包装紙やリボンも用意しておきますね。他に必要な物はございますか?」

「流石バアル様! お早いご理解、ありがとうございます! えーっと……アオイ様、他に何かありますか?」

「あぅ……いえ、その……十分です……ありがとうございます……」

 スムーズ過ぎる二人のやり取りに、今度こそ堪えきれなかったんだろう。幅広の肩を震えさせ、くつくつと喉の奥で笑うような声をクロウさんが漏らす。

 恥ずかしくて仕方がなかったけれど、それ以上にホッとしていた。心の底から嬉しそうに笑う、バアルさんの姿に。

「畏まりました。コルテ」

 彼の呼び掛けに、ぽんっと光輝く緑の粒が現れた。バアルさんの従者である、ハエのコルテだ。

 金属のような光沢を持つ緑のボディを輝かせ、ガラス細工のように透き通った小さな羽をはためかせ、俺達の元へと一目散に飛んでくる。

 目の前で針のように細い手足を伸ばし、じゃじゃーんと取り出した小さなスケッチブックには「何でも言ってね!」と大きく書かれていた。

「御用の際は、彼に申しつけて下さい。グリムさん、アオイ様を宜しくお願い致します」

「はいっ! どどんと僕にお任せください!!」

 えっへんと胸を張るグリムさんを見ていた緑の眼差しが、ゆっくり俺へと向けられる。

「……アオイ様」

「……は、はい」

 ……何でだろう。言ってもらえてないのに言われたような気がしたんだ。俺だけを見つめる柔らかい眼差しから、花が咲いたように綻ぶ唇から、好きですよ……って。

「楽しみに、待っておりますね……」

「はいっ、頑張ります!」

 好きな人からのエールは絶大だ。瞬く間に元気がみなぎっていく。

 切なく歪んだ微笑みではなく、明るく綻んだ笑顔に見送られ、決意を新たに俺は、グリムさんとコルテを連れて扉をくぐった。
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