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全部、意気地なしな俺のせいです
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水を打ったような静けさの中で、はっと息を飲むような音が聞こえて、それからだ。
彼が、俺を腕の中に閉じ込めたまま、黙りこくってしまったのは。
……はい。誰がどう見ても、意気地無しの俺のせいです。俺が起こしてしまった事態です。
少し冷静さを取り戻した頭で考えても、なんであんなことを言ってしまったのか分からない。
キスして欲しいハズなのに。してもらった時は、胸がいっぱいになるくらい嬉しかったハズなのに、いざとなったら恥ずかしくて堪らないなんて。
「……でしたか?」
ぽつりと耳元で呟かれた低音は、弱々しかった。思わず、胸がきゅっと締めつけられるほどに。
「……バアルさん?」
「……アオイ様は、お嫌でしたか? ……私とのキスが」
「えっ、嫌なわけありませんよっ……そもそも、昨日は俺がして欲しくて頼んだんですし……」
俺の態度に、バアルさんは当然の帰結をしてしまっていた。
慌てて誤解を解こうと、黒いスーツにシワがよるほどしがみついてしまっていた手を緩める。
そっと身体を離し、捉えることの出来た彼の表情には、いつもの柔らかく穏やかな微笑みはない。煌めく緑の瞳は暗く陰り、喜びを湛えている口元は寂しげに歪んでしまっている。
キッチリ撫でつけられた、オールバックの生え際から生えている触覚は、力なさげにしょんぼりと。背にある半透明の羽も、すっかり縮んでしまっていた。
「……では、何故、先程私に謝られたのでしょうか?」
僅かに震える唇が、悲しい響きを含んだ低音が、ぽつぽつと続ける。
「今朝のご挨拶の時も、ご朝食の時も……何故、目を合わせて頂けなかったのでしょうか?」
紡がれていく言葉が鋭い刃となって、俺の胸に次々と突き刺さっていく。
「いつものように愛らしい笑顔を、私に見せては頂けないのでしょうか?」
「そ、それは…………その……」
ついさっき、彼からのキスを拒んでしまったことに関しては当然とはいえ、これ程までとは。こんなにも彼のことを傷つけてしまっていたとは、思っていなかった。
彼のちょっとした言動一つで、たちまち浮かれて舞い上がり、時にはもやもやして、振り回されまくっている俺とは違い、大人なバアルさん。
いつも優しく俺を見守ってくれて、俺に合わせて待ってくれている彼が。どんな時でも涼しい顔で堂々としている彼が、そっと繋いだ手を震わせ、くしゃりと顔を歪めてしまっている。俺のせいで。
「……やはり、昨日のキスが」
「し、したくなっちゃうからですっ」
「……はい?」
「バアルさんに見つめられるだけでドキドキして……その、昨日のこと思い出しちゃって……」
声が勝手に震えて、顔から火が出そうなくらいに熱くて……それでも。
「また……き、キスして欲しいなって、思っちゃう……から……」
これ以上彼のことを傷つけたくなくて、悲しませたくなくて。一から十まで洗いざらい白状した俺を、きょとんとした緑が見つめている。
「……ですが、先程は」
「さ、さっきのは、その……嬉しすぎておかしくなっちゃったっていうか……」
正直なところ、自分でも分からない。彼がアプローチしてくれる度に起きてしまう、擽ったさの正体が。でも。
「多分、俺が、こういうことに慣れていないせいなんでっ……初めて……す、好きになった人が、バアルさんだから……」
伝えなければ。どうにか言葉にしなければ。嬉しいんだって、イヤじゃないんだって。
必死にもがいていた俺の耳に、喉の奥で笑うような声が届く。
声の正体は言わずもがな、バアルさんだった。口に手を当て、何故か機嫌が良さそうに額の触覚を揺らし、ほんのり染まった頬を綻ばせている。
「ば、バアルさん?」
クスクスとひとしきり笑った後だった。ぽかんと半開きのままになっていた俺の口へ、細長い指が伸びてくる。そして、指先が触れた。
「でしたら、喜んでさせて頂きますのに……貴方様がご満足頂けるまで何度でも……」
緩やかな笑みを形作っていた唇が、艷やかに笑う。
聞いただけで、腰の辺りから背筋に沿って、ぞわぞわとした感覚が駆け上ってくる、甘ったるい響き。妖しい熱を持った柔らかい低音が、俺の鼓膜を優しく揺らした。
「ひぇ……そ、それは……とっても嬉しいんですけど…………困ります」
「……何故、でしょうか?」
上擦った声を上げ、また反射的に距離を取ろうとしていた俺の後頭部を、大きな手が撫でる。その手つきは優しいハズなのに、ビクとも動かせない。逃さないと言わんばかりに、しっかりと固定されてしまっている。
俺を覗き込むように首を傾げた、彫りの深い顔立ちが、ゆっくりと近づいてくる。
「あぅ……また、こ、腰が抜けちゃうし……壊れちゃうんで……その、心臓が……」
間近に迫った宝石みたいに煌めく緑に心を射抜かれ、ますます潤んだ声になってしまった。
けれどもバアルさんは構わない。構ってくれない。俺の鼻に、すっと通った鼻先をくっつけてくるんだ。甘えるみたいに擦り寄ってくれてしまうんだ。
「それは……困りますね」
今も絶賛、困ってるんですけど。
「はい、だから」
紡いでいる途中だった俺の言葉は奪われた。ふわりと綻んだ唇に、吐息ごと。
「……申し訳ございません。貴方様の愛らしさの前に、どうしても己を律することが敵いませんでした」
長いようで一瞬だった、彼との触れ合い。ほんの軽いものだった。なのに、頭の芯まで蕩けてしまっていた。
「……お嫌でしたか?」
「嫌じゃ……ない、です……」
「……では、いかがなさいますか?」
額を寄せたまま、誘うように俺を見つめ続ける緑の熱に浮かされる。
「……もう、一回……してくれませんか?」
「……畏まりました」
気がつけば、俺は強請るように黒いスーツの裾を引っ張り、目を閉じていた。
彼が、俺を腕の中に閉じ込めたまま、黙りこくってしまったのは。
……はい。誰がどう見ても、意気地無しの俺のせいです。俺が起こしてしまった事態です。
少し冷静さを取り戻した頭で考えても、なんであんなことを言ってしまったのか分からない。
キスして欲しいハズなのに。してもらった時は、胸がいっぱいになるくらい嬉しかったハズなのに、いざとなったら恥ずかしくて堪らないなんて。
「……でしたか?」
ぽつりと耳元で呟かれた低音は、弱々しかった。思わず、胸がきゅっと締めつけられるほどに。
「……バアルさん?」
「……アオイ様は、お嫌でしたか? ……私とのキスが」
「えっ、嫌なわけありませんよっ……そもそも、昨日は俺がして欲しくて頼んだんですし……」
俺の態度に、バアルさんは当然の帰結をしてしまっていた。
慌てて誤解を解こうと、黒いスーツにシワがよるほどしがみついてしまっていた手を緩める。
そっと身体を離し、捉えることの出来た彼の表情には、いつもの柔らかく穏やかな微笑みはない。煌めく緑の瞳は暗く陰り、喜びを湛えている口元は寂しげに歪んでしまっている。
キッチリ撫でつけられた、オールバックの生え際から生えている触覚は、力なさげにしょんぼりと。背にある半透明の羽も、すっかり縮んでしまっていた。
「……では、何故、先程私に謝られたのでしょうか?」
僅かに震える唇が、悲しい響きを含んだ低音が、ぽつぽつと続ける。
「今朝のご挨拶の時も、ご朝食の時も……何故、目を合わせて頂けなかったのでしょうか?」
紡がれていく言葉が鋭い刃となって、俺の胸に次々と突き刺さっていく。
「いつものように愛らしい笑顔を、私に見せては頂けないのでしょうか?」
「そ、それは…………その……」
ついさっき、彼からのキスを拒んでしまったことに関しては当然とはいえ、これ程までとは。こんなにも彼のことを傷つけてしまっていたとは、思っていなかった。
彼のちょっとした言動一つで、たちまち浮かれて舞い上がり、時にはもやもやして、振り回されまくっている俺とは違い、大人なバアルさん。
いつも優しく俺を見守ってくれて、俺に合わせて待ってくれている彼が。どんな時でも涼しい顔で堂々としている彼が、そっと繋いだ手を震わせ、くしゃりと顔を歪めてしまっている。俺のせいで。
「……やはり、昨日のキスが」
「し、したくなっちゃうからですっ」
「……はい?」
「バアルさんに見つめられるだけでドキドキして……その、昨日のこと思い出しちゃって……」
声が勝手に震えて、顔から火が出そうなくらいに熱くて……それでも。
「また……き、キスして欲しいなって、思っちゃう……から……」
これ以上彼のことを傷つけたくなくて、悲しませたくなくて。一から十まで洗いざらい白状した俺を、きょとんとした緑が見つめている。
「……ですが、先程は」
「さ、さっきのは、その……嬉しすぎておかしくなっちゃったっていうか……」
正直なところ、自分でも分からない。彼がアプローチしてくれる度に起きてしまう、擽ったさの正体が。でも。
「多分、俺が、こういうことに慣れていないせいなんでっ……初めて……す、好きになった人が、バアルさんだから……」
伝えなければ。どうにか言葉にしなければ。嬉しいんだって、イヤじゃないんだって。
必死にもがいていた俺の耳に、喉の奥で笑うような声が届く。
声の正体は言わずもがな、バアルさんだった。口に手を当て、何故か機嫌が良さそうに額の触覚を揺らし、ほんのり染まった頬を綻ばせている。
「ば、バアルさん?」
クスクスとひとしきり笑った後だった。ぽかんと半開きのままになっていた俺の口へ、細長い指が伸びてくる。そして、指先が触れた。
「でしたら、喜んでさせて頂きますのに……貴方様がご満足頂けるまで何度でも……」
緩やかな笑みを形作っていた唇が、艷やかに笑う。
聞いただけで、腰の辺りから背筋に沿って、ぞわぞわとした感覚が駆け上ってくる、甘ったるい響き。妖しい熱を持った柔らかい低音が、俺の鼓膜を優しく揺らした。
「ひぇ……そ、それは……とっても嬉しいんですけど…………困ります」
「……何故、でしょうか?」
上擦った声を上げ、また反射的に距離を取ろうとしていた俺の後頭部を、大きな手が撫でる。その手つきは優しいハズなのに、ビクとも動かせない。逃さないと言わんばかりに、しっかりと固定されてしまっている。
俺を覗き込むように首を傾げた、彫りの深い顔立ちが、ゆっくりと近づいてくる。
「あぅ……また、こ、腰が抜けちゃうし……壊れちゃうんで……その、心臓が……」
間近に迫った宝石みたいに煌めく緑に心を射抜かれ、ますます潤んだ声になってしまった。
けれどもバアルさんは構わない。構ってくれない。俺の鼻に、すっと通った鼻先をくっつけてくるんだ。甘えるみたいに擦り寄ってくれてしまうんだ。
「それは……困りますね」
今も絶賛、困ってるんですけど。
「はい、だから」
紡いでいる途中だった俺の言葉は奪われた。ふわりと綻んだ唇に、吐息ごと。
「……申し訳ございません。貴方様の愛らしさの前に、どうしても己を律することが敵いませんでした」
長いようで一瞬だった、彼との触れ合い。ほんの軽いものだった。なのに、頭の芯まで蕩けてしまっていた。
「……お嫌でしたか?」
「嫌じゃ……ない、です……」
「……では、いかがなさいますか?」
額を寄せたまま、誘うように俺を見つめ続ける緑の熱に浮かされる。
「……もう、一回……してくれませんか?」
「……畏まりました」
気がつけば、俺は強請るように黒いスーツの裾を引っ張り、目を閉じていた。
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