上 下
55 / 906

全部、意気地なしな俺のせいです

しおりを挟む
 水を打ったような静けさの中で、はっと息を飲むような音が聞こえて、それからだ。

 彼が、俺を腕の中に閉じ込めたまま、黙りこくってしまったのは。


 ……はい。誰がどう見ても、意気地無しの俺のせいです。俺が起こしてしまった事態です。

 少し冷静さを取り戻した頭で考えても、なんであんなことを言ってしまったのか分からない。

 キスして欲しいハズなのに。してもらった時は、胸がいっぱいになるくらい嬉しかったハズなのに、いざとなったら恥ずかしくて堪らないなんて。

「……でしたか?」

 ぽつりと耳元で呟かれた低音は、弱々しかった。思わず、胸がきゅっと締めつけられるほどに。

「……バアルさん?」

「……アオイ様は、お嫌でしたか? ……私とのキスが」

「えっ、嫌なわけありませんよっ……そもそも、昨日は俺がして欲しくて頼んだんですし……」

 俺の態度に、バアルさんは当然の帰結をしてしまっていた。

 慌てて誤解を解こうと、黒いスーツにシワがよるほどしがみついてしまっていた手を緩める。

 そっと身体を離し、捉えることの出来た彼の表情には、いつもの柔らかく穏やかな微笑みはない。煌めく緑の瞳は暗く陰り、喜びを湛えている口元は寂しげに歪んでしまっている。

 キッチリ撫でつけられた、オールバックの生え際から生えている触覚は、力なさげにしょんぼりと。背にある半透明の羽も、すっかり縮んでしまっていた。

「……では、何故、先程私に謝られたのでしょうか?」

 僅かに震える唇が、悲しい響きを含んだ低音が、ぽつぽつと続ける。

「今朝のご挨拶の時も、ご朝食の時も……何故、目を合わせて頂けなかったのでしょうか?」

 紡がれていく言葉が鋭い刃となって、俺の胸に次々と突き刺さっていく。

「いつものように愛らしい笑顔を、私に見せては頂けないのでしょうか?」

「そ、それは…………その……」

 ついさっき、彼からのキスを拒んでしまったことに関しては当然とはいえ、これ程までとは。こんなにも彼のことを傷つけてしまっていたとは、思っていなかった。

 彼のちょっとした言動一つで、たちまち浮かれて舞い上がり、時にはもやもやして、振り回されまくっている俺とは違い、大人なバアルさん。

 いつも優しく俺を見守ってくれて、俺に合わせて待ってくれている彼が。どんな時でも涼しい顔で堂々としている彼が、そっと繋いだ手を震わせ、くしゃりと顔を歪めてしまっている。俺のせいで。

「……やはり、昨日のキスが」

「し、したくなっちゃうからですっ」

「……はい?」

「バアルさんに見つめられるだけでドキドキして……その、昨日のこと思い出しちゃって……」

 声が勝手に震えて、顔から火が出そうなくらいに熱くて……それでも。

「また……き、キスして欲しいなって、思っちゃう……から……」

 これ以上彼のことを傷つけたくなくて、悲しませたくなくて。一から十まで洗いざらい白状した俺を、きょとんとした緑が見つめている。

「……ですが、先程は」

「さ、さっきのは、その……嬉しすぎておかしくなっちゃったっていうか……」

 正直なところ、自分でも分からない。彼がアプローチしてくれる度に起きてしまう、擽ったさの正体が。でも。

「多分、俺が、こういうことに慣れていないせいなんでっ……初めて……す、好きになった人が、バアルさんだから……」

 伝えなければ。どうにか言葉にしなければ。嬉しいんだって、イヤじゃないんだって。

 必死にもがいていた俺の耳に、喉の奥で笑うような声が届く。

 声の正体は言わずもがな、バアルさんだった。口に手を当て、何故か機嫌が良さそうに額の触覚を揺らし、ほんのり染まった頬を綻ばせている。

「ば、バアルさん?」

 クスクスとひとしきり笑った後だった。ぽかんと半開きのままになっていた俺の口へ、細長い指が伸びてくる。そして、指先が触れた。

「でしたら、喜んでさせて頂きますのに……貴方様がご満足頂けるまで何度でも……」

 緩やかな笑みを形作っていた唇が、艷やかに笑う。

 聞いただけで、腰の辺りから背筋に沿って、ぞわぞわとした感覚が駆け上ってくる、甘ったるい響き。妖しい熱を持った柔らかい低音が、俺の鼓膜を優しく揺らした。

「ひぇ……そ、それは……とっても嬉しいんですけど…………困ります」

「……何故、でしょうか?」

 上擦った声を上げ、また反射的に距離を取ろうとしていた俺の後頭部を、大きな手が撫でる。その手つきは優しいハズなのに、ビクとも動かせない。逃さないと言わんばかりに、しっかりと固定されてしまっている。

 俺を覗き込むように首を傾げた、彫りの深い顔立ちが、ゆっくりと近づいてくる。

「あぅ……また、こ、腰が抜けちゃうし……壊れちゃうんで……その、心臓が……」

 間近に迫った宝石みたいに煌めく緑に心を射抜かれ、ますます潤んだ声になってしまった。

 けれどもバアルさんは構わない。構ってくれない。俺の鼻に、すっと通った鼻先をくっつけてくるんだ。甘えるみたいに擦り寄ってくれてしまうんだ。

「それは……困りますね」

 今も絶賛、困ってるんですけど。

「はい、だから」

 紡いでいる途中だった俺の言葉は奪われた。ふわりと綻んだ唇に、吐息ごと。

「……申し訳ございません。貴方様の愛らしさの前に、どうしても己を律することが敵いませんでした」

 長いようで一瞬だった、彼との触れ合い。ほんの軽いものだった。なのに、頭の芯まで蕩けてしまっていた。

「……お嫌でしたか?」

「嫌じゃ……ない、です……」

「……では、いかがなさいますか?」

 額を寄せたまま、誘うように俺を見つめ続ける緑の熱に浮かされる。

「……もう、一回……してくれませんか?」

「……畏まりました」

 気がつけば、俺は強請るように黒いスーツの裾を引っ張り、目を閉じていた。
しおりを挟む
感想 5

あなたにおすすめの小説

嫁側男子になんかなりたくない! 絶対に女性のお嫁さんを貰ってみせる!!

棚から現ナマ
BL
リュールが転生した世界は女性が少なく男性同士の結婚が当たりまえ。そのうえ全ての人間には魔力があり、魔力量が少ないと嫁側男子にされてしまう。10歳の誕生日に魔力検査をすると魔力量はレベル3。滅茶苦茶少ない! このままでは嫁側男子にされてしまう。家出してでも嫁側男子になんかなりたくない。それなのにリュールは公爵家の息子だから第2王子のお茶会に婚約者候補として呼ばれてしまう……どうする俺! 魔力量が少ないけど女性と結婚したいと頑張るリュールと、リュールが好きすぎて自分の婚約者にどうしてもしたい第1王子と第2王子のお話。頑張って長編予定。他にも投稿しています。

幽閉王子は最強皇子に包まれる

皇洵璃音
BL
魔法使いであるせいで幼少期に幽閉された第三王子のアレクセイ。それから年数が経過し、ある日祖国は滅ぼされてしまう。毛布に包まっていたら、敵の帝国第二皇子のレイナードにより連行されてしまう。処刑場にて皇帝から二つの選択肢を提示されたのだが、二つ目の内容は「レイナードの花嫁になること」だった。初めて人から求められたこともあり、花嫁になることを承諾する。素直で元気いっぱいなド直球第二皇子×愛されることに慣れていない治癒魔法使いの第三王子の恋愛物語。 表紙担当者:白す(しらす)様に描いて頂きました。

獣のような男が入浴しているところに落っこちた結果

ひづき
BL
異界に落ちたら、獣のような男が入浴しているところだった。 そのまま美味しく頂かれて、流されるまま愛でられる。 2023/04/06 後日談追加

【完結】気が付いたらマッチョなblゲーの主人公になっていた件

白井のわ
BL
雄っぱいが大好きな俺は、気が付いたら大好きなblゲーの主人公になっていた。 最初から好感度MAXのマッチョな攻略対象達に迫られて正直心臓がもちそうもない。 いつも俺を第一に考えてくれる幼なじみ、優しいイケオジの先生、憧れの先輩、皆とのイチャイチャハーレムエンドを目指す俺の学園生活が今始まる。

美貌の騎士候補生は、愛する人を快楽漬けにして飼い慣らす〜僕から逃げないで愛させて〜

飛鷹
BL
騎士養成学校に在席しているパスティには秘密がある。 でも、それを誰かに言うつもりはなく、目的を達成したら静かに自国に戻るつもりだった。 しかし美貌の騎士候補生に捕まり、快楽漬けにされ、甘く喘がされてしまう。 秘密を抱えたまま、パスティは幸せになれるのか。 美貌の騎士候補生のカーディアスは何を考えてパスティに付きまとうのか……。 秘密を抱えた二人が幸せになるまでのお話。

【連載再開】絶対支配×快楽耐性ゼロすぎる受けの短編集

あかさたな!
BL
※全話おとな向けな内容です。 こちらの短編集は 絶対支配な攻めが、 快楽耐性ゼロな受けと楽しい一晩を過ごす 1話完結のハッピーエンドなお話の詰め合わせです。 不定期更新ですが、 1話ごと読切なので、サクッと楽しめるように作っていくつもりです。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー 書きかけの長編が止まってますが、 短編集から久々に、肩慣らししていく予定です。 よろしくお願いします!

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

処理中です...