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バアルさん以外を好きになるなんて、有り得ない

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「俺が…………バアルさんを、す、好きだから……です」

 心臓が、煩い。

 寒くなんかないのに、むしろさっきから顔が、全身が熱くて仕方がないってのに。指先の震えが止まらなくて、おまけに膝まで勝手に笑い出す。

 少しでも気を抜けば、ふかふかの絨毯の上に尻餅をついてしまいそうだ。

「……バアル、さん?」

 目の前に居るはずなのに、いつもの穏やかで聞き心地のいい低音が返ってくることはない。

 静まり返った室内に響くのは、震える俺の小さく情けない声だけ。整然とした、豪華なホテルのような一室の広いこの部屋に、たった一人残された気分になってしまう。

「あの…………えっと……俺がずっと……側に居たいって思うのは、バアルさんだけで……その……」

 さっきまでの浮かれた、熱は嘘みたいに消えていた。代わりに、じわじわと胸の奥から滲み出てくる暗いものを。

「だから……他の人を、好きになるなんて……考えられないというか、有り得ないというか…………」

 背中を伝う、嫌な汗に気づかないふりをして必死に言葉を重ねる。

 なんとか自分の気持ちを伝えようと、もがき続けている俺の耳に、何やらむせたような、苦しそうな短い呻き声が届いた。

 釣られて、反射的に顔を上げた先に映ったのは、いくつもの六角形のレンズで構成された複眼を大きく見開き、きょとんと固まってしまっている彼ではなく。

 胸がドキドキ高鳴るような熱を帯びた、宝石みたいに綺麗な緑色の瞳で俺を見つめ、艶やかな微笑みを浮かべている彼でもなかった。俺が初めて見る姿だった。

 頬を真っ赤に染めた彼は、綺麗に整えられた白い髭が似合う口元を手で覆っていた。

 カッチリ撫で付けられた、オールバックの生え際から生えている触覚と、背にある半透明の羽を小刻みにぷるぷる震わせ、瞳にうっすらと涙を浮かべている。

「……可愛い」

 ついうっかり、心の中にぽんっと浮かんだ言葉をそのまま口から漏らしてしまっていた。

 俺の呟きに反応するかのように、彼の肩がビクリと大きく跳ねる。彫りの深い顔が、耳の先の方までますます真っ赤に染まっていく。

「あの…………だ、抱き締めても……いい、ですか?」

 明らかに平静じゃない彼に対して、最初に言うべき言葉ではないだろうに。湧き上がる衝動のまま、黒いスーツの裾を強請るみたいに摘まんでしまっていた。

 どうしようもない俺を、涙に濡れた緑が捉え、小さく頷いてくれる。

「……失礼します」

 緩く広げられた、細長い引き締まった腕の中へと身を寄せ、広い背中に腕を回す。

 いつもより濃く感じるハーブの香りと、俺と同じように早鐘を打っている鼓動の音に。なにかぽかぽかする温かいもので、胸の中がじんわりと満たされていくのを感じた。


 どれくらいの時間、そうして抱き締め合っていたかは分からない。だけど。

「申し訳ありません……少々取り乱しました」

 耳元でポツリと呟いた彼から、そっと身体を離すと、もういつものバアルさんに。絵に描いたような理想の執事である、彼に戻ってしまっていた。

 さっきの、なんだかほっとけないような。ずっと見つめていると、胸のどこかが擽られるような。

 普段のカッコよくて頼もしい、大人の魅力に溢れた彼とは真逆の姿は、ただの幻だったんじゃないかって、俺が夢でも見ていたんじゃないかって気がしてしまう。

「いえ、えっと……大丈夫、ですか?」

「はい」

 短くそう応えてから、彼は少し曲がってしまっていたネクタイを手早く整え「失礼致します」と、どこからか取り出したバスタオルで、いつものように俺の下半身を覆い隠す。

 そのまま慣れた手つきで巻きタオルの中に手を入れ、俺のズボンを優しく引き下ろし始めてしまった。

 慌てて俺も彼の肩手を置き、脱がせやすいように右足を上げた。


 ……なんだろう、スゴく気まずい。切実に。

 結局、互いに無言のまま、彼が選んでくれたチェック柄のハーフパンツに着替えさせてもらってしまった。

 そのままの流れで、わざわざお姫様抱っこでソファーに運ばれ、座らせてもらってから、膝の少し下まで丈がある黒の靴下を。今は、細いベルトがいくつもついた、長めのブーツを履かせてもらっている。

 してもらっていることは普段通りなんだが……いかんせん彼の表情が固いというか、妙に沈黙が辛いというか。

 いや別に、普段から軽快なおしゃべりをしているわけではないんだけどさ。

 どちらかといえば、淡々と作業を進めるバアルさんをぼーっと見ていたり。いっぱいいっぱいで何も言葉が出なくなっている俺の頭を、彼が優しく撫でてくれたりって感じ。特に、これといった会話はないんだけどさ。でも。

 やっぱりいつもと違う。絶対に違う。だっていつもだったら、こんなにそわそわしないから!

 話さなくてもスゴい気が楽っていうか、のんびり、ゆったり時間が流れていく感じだから!

 それにしても、まだ出掛ける前の準備だってのにこんな雰囲気じゃ、デート中はもっと気まずくなっちゃうんじゃないか?

 白い手袋に覆われた指先から、カチ……カチ……とバックルが鳴らす音に合わせるように、キリキリと俺の胃が悲鳴を上げ始める。

「あの……バアルさ」

 どうにかしてこの居心地の悪い空気を変えようと口を開いた俺の言葉を、最後のベルトを締め終えたバアルさんが、俺の手を包み込むように握りながら遮った。

「先程は……お見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ございません」

「へ? いえ、そんな……」

 よっぽど気にしているのだろうか、跪いたまま俺を見上げる瞳には、いつもの煌めきはない。唇をきつく結んだ彼の表情は、どことなく暗く沈んで見える。

 しょんぼりと下がった額の触覚と、元気がなさそうに縮んでしまっている背中の羽とも相まって、いつもより彼が小さく見える。

 胸の辺りが、きゅっと締めつけられてしまう。なんだか、また抱き締めたくなってしまう。

「あー……見苦しいところなんて、俺の方がいっぱいバアルさんに見せてるし……だからお互い様って訳じゃないんですけど……」

 不意に込み上げてきた衝動を、そんな場合じゃないだろう、とねじ伏せ言葉を紡ぐ。

「その、俺としては、バアルさんのレアな表情が見れてラッキーというか……」

 ただ、やっぱりという、かなんというか。俺には彼みたいに、スマートで気の利いた一言なんて咄嗟に思い浮かぶ訳もなくて。

「と、とにかく……大丈夫ですからっ! どんなバアルさんも素敵なのでっ!」

 一回り大きな彼の手に、ぎゅっと力を込め、勢いに任せて中途半端に言葉を投げてしまっていた。

 大きく見開かれた緑の瞳が、ぽかんと俺を見つめていた。
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