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俺が、ここに居たい理由

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 サタン様の手にある、白い湯気が立ち上るカップは俺と同じサイズのハズ。けれども、彼の大きく分厚い手のせいか、トリックアートみたいに小さく見えてしまう。

 それを一息で飲み干したサタン様が、大きく息を吐いた。俺の様子を窺うように真っ赤な瞳で見つめながら、おずおずと口を開く。

「ところでアオイ殿、お主、魔術を習ってみる気はないかの?」

「魔術……ですか?」

「ああ、いや、別に魔術だけでなくてもの、楽器や絵、ダンスでも構わんがの」

 ……どうしよう。滅茶苦茶、説明しにくいんですけど。

 提案してもらったものの内、すでに二つが教えてもらっている最中だし。おまけに、バアルさん以外の先生は嫌だ、などという我儘を、人に言うには恥ずかしすぎる宣言をしてしまっているし。

 でも、黙っている訳にはいかないし。ホント、どうすれば。

 考えあぐねているせいで言葉が出ない俺を見て、慌てたのんだろう。サタン様が太い眉を下げ「押しつけるつもりはないんじゃよ?」と決まりが悪そうに頬をかいている。

「いずれは天国か、生まれ変わって現世に行くとしても、何かを学んでおくことに損はないはずじゃ。どうかの?」

 こてんと首を傾けてから、何処からともなく取り出したのは、顔写真つきの教師リスト。

 それらが彼の手元から滑るように飛び立つと、見やすいように俺の目線に合わせて、ふわりと宙に浮かんだ。

 これは、もう説明すべきだよな、ちゃんと。

「ありがとうございます。ただ、その……もう先生に決めた人が居るというか……」

 いつもなら俺のすぐ隣に腰掛け、頭を撫でてくれているバアルさん。肝心の彼は、サタン様の手前なのか、ソファーの脇で手を後ろに回し、背筋をピンと伸ばしたまま佇んでいる。

「……もしや、バアルか?」

 ちら、ちらと視線を送ってしまっていたのがバレたらしい。あっさりと言い当てられてしまった。

 なにも悪いことをしている訳じゃないのに、勝手に肩が跳ねてしまう。

「はい。僭越ながら、この老骨めが努めさせていただいております」

「なんじゃ、はよう言わんか。ならば何も問題ないのう」

 俺の代わりに答えてくれたバアルさんが、すらりと伸びた長身を傾け、綺麗な角度のついたお辞儀を披露する。

 途端にサタン様は、安心したように頬を緩めた。愉快そうに笑う声が、お腹にずんずんと響いてくる。

「彼の腕は一級品じゃからの。そなたがここを離れる頃には、一流の魔術師になっとるかもしれんわい」

 がっはっはと豪快な笑い声が、遠退いていくように聞こえた。

 頭の中では何気ない一言が「ここを離れる頃には」という部分だけが、ぐわんぐわんと反響し続けていて。

 またあの感覚が、内側から俺という存在が崩れ落ちていく感覚が。胃の中身を全部ぶちまけてしまいそうな気持ち悪さが、込み上げてきて。

「ダメ……ですか?」

 後先なんて一切考えずに、ただ衝動のまま口を開いていた。

「なんじゃ?」

 小さな俺の訴えを聞き取るべく、サタン様が大きな身体をテーブルに乗り出す。

「ずっと……ここに居てはいけませんか? いえ、居させてくれませんか?」

「それは……天国にも現世にも行きたくはない、ということかの?」

「はいっ! 勿論小さな部屋で構いません……俺が出来ることなんて少ないけど、掃除でもなんでもしますっ! だから……」

 この時の俺は、ただただ必死だった。

 どうして地獄に居たいのか、ここでなければ絶対にダメだと、こだわっているのか。

「それは……わしらとしては問題ないがの。始めに申した通り、この部屋は好きに使ってくれて構わぬ」

 本当の理由も分からずに、ただ、ここから離れたくないという強い想いに突き動かされていた。

「そして、ここに留まるのであれば、今と同様大切な客人として、そなたをもてなさせていただきたい。じゃが……」

 心の赴くまま懸命に、すがりつくように言葉を重ねていた。だから。

「良ければ、何故ここに居たいのか、理由を聞かせてはくれんかの?」

 何故か、と問われて、とっさに顔を向けてしまったんだと思う。

 頭では解っていなかったけど、本心では理解していた理由の方へと。

 大きく見開かれた、鮮やかな緑色と視線がぶつかる。バアルさんの白い頬が、見る見るうちに染まっていく。

 そこで、ようやくだった。

 頭の方でもしっかりと解ってしまった。この人の側を離れたくないから、自分はここに居たいのだと。

「あ……」

 間抜けな声が、ぽつりと漏れる。一気に自分の体温が上がっていくのを感じた。

「どうしたんじゃ? アオイ殿、顔が真っ赤じゃぞ……もしや」

「え、あ、いや……これは、その」

 元地獄の王に相応しい、身体の芯が凍りつくような鋭い目つきに、あっという間に全身から熱が引いていく。背筋が寒くなる。

 ただ気になっている人から、離れたくないからって、何を子供じみた我儘を言っているんだ、俺は?

 パニック寸前の頭には、ぐるぐると、自責の念が渦巻き始めていた。なのに。

 どうしても、あの柔らかい微笑みが、ひどく優しい手の温もりが。二人で過ごす穏やかな時間が、失われてしまうという事実に、耐えられなくて。

「ごめんなさいっ! それでも、俺は、バアルさんの側に居たいんですっ!!」
「まだ体調が優れないのかっ? わしに構わず、すぐ横になるんじゃっ!!」

 思わず上げてしまっていた大きな声に、ひどく慌てた重低音が綺麗に重なった。

「え?」
「ほ?」

 全く噛み合っていない会話の後に、少し間の抜けた疑問の声が、再び同時に俺達の口から発せられる。

「俺……別に体調悪くないです、けど?」

「それは、何よりじゃな……ところでわしの聞き違いでなければ、おぬし、バアルと……」

 真ん丸になっている赤い瞳から追求され、初めて気づく。自分が言わなくてもいい本心を、ぶちまけてしまっていたことに。

 気づいたところで、もう、どうしようもないのだけれど。

 だって、ムリだ。出来ない。適当な嘘をついて誤魔化すなんて、そんな器用なこと。かといって、堂々と開き直る勇気すらない。

「あっ…………ぅ、その……」

 唯一出来たことといえば、どんどん熱くなっていく顔を隠すように、俯くことしか。

 水を打ったように静まり返った室内に、くつくつと喉の奥で静かに笑う声だけが響く。

 その声は少しずつ近づいてきて、俺の真横に腰掛けた。肩に腕を回し、優しく抱き寄せてくれた。
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