上 下
11 / 906

嫌な訳がない、むしろ

しおりを挟む
「ごめんなさい……」

 さっきまであんなに和やかだったのに。すっかり静まり返ってしまった室内の空気に、心がチクチク痛んでいくのを感じる。

「では……私と一曲、踊っていただけませんか?」

「え?」

 なんの脈絡もなく、彼の口から発せられた新たな誘いに、泡が弾けるみたいに胸にのしかかっていた重さが消えていく。

 雰囲気までもが再び穏やかな、胸の辺りがぽかぽかするものへと変わっていく。

 その柔らかい眼差しを、ただぼうっと見つめてしまっていた俺に、困ったように眉を下げ、彼が微笑んだ。

「ダンスは、お嫌いですか?」

「いえ……別に、嫌いってわけじゃ……」

「では、お手を……」

 差し出された大きな手のひらに、誘われるがまま自分の手を重ねる。

 軽々と身体を抱き寄せられ、手の甲に柔らかいものが、恭しく彼が口づけてくれて触れた瞬間、周囲が淡い光に包まれた。

 瞬きの間に、消えてしまっていた。俺達が座っていたソファーも、大きなテーブルも、まるで最初っから存在してなかったかのように。

 唯一残っていた、青みがかった水晶で作られたシャンデリア。淡い光が照らす室内は、広々としたダンスホールへと姿を変えていた。こんなの、映画の中でしか見たことがない。

 彼に腰を支えられ、呆然と立ち尽くしている俺の鼻先に、ぽんっと現れた緑色の粒。

 ハエのコルテが、俺にじゃじゃーんと見せつけるように、細い手足で掲げる。小さな小さな彼専用サイズのバイオリンを携えて。

「コルテ」

 バアルさんの呼び掛けにコルテが応える。ぴかぴか身体を瞬かせ、くるりと身を翻し、俺達の周りを回るように飛び始める。

 どこかで聞いたことがある、ゆったりとした曲調のクラシックを奏で始めた。

「不肖ながら、この老骨がエスコートさせて頂きます」

「でも……俺、踊れませんよ? ステップとか、全然分からないし……」

「構いませんよ、お好きなように踊られて。楽しまれることが大事なのですから。私がフォロー致します……さあ」

 握られた手のひらから伝わる温もりに、ふわりと綻んだ彼の口元に、胸がきゅっと締めつけられる。

 ダンスの経験なんて、体育の授業レベルしかなかったハズなのに。魔法にかかったみたい。彼の動きに合わせて、勝手に身体が運ばれていく。

 ぎこちないものの、なんとかリズムに乗り、ゆらゆらとステップを踏むことが出来た。

「大変お上手ですよ。アオイ様はダンスの才能がおありですね」

「そんな……バアルさんが上手く合わせてくれているだけで、俺はなにも」

 見上げた俺の顔が、キラキラと輝く宝石のような、六角形のレンズで構成された複眼の瞳に映る。

 足元に集中していたせいで気づかなかったけど……いつも以上に近くないか?

 いや、当たり前か。でなけりゃ踊れやしないし……でも……

 ふわりと漂うハーブの香りに、間近にある鼻筋の通った彫りの深い顔立ちに。さっきから心臓が煩くて仕方がない。なんだか妙に気分までそわそわしてくるし。

 それも、これも腰に手を回され、ほとんど互いの身体が密着しているせいだ。

 抱き締められているような、彼と抱き合っているような気になってしまっているせいだ。

「アオイ様……」

「あ…………っはい、なんでしょう?」

「あまり、そのようなお顔で見つめられますと……この老骨めは、勘違いをしてしまいます」

 よっぽど変な顔でもしていたのだろうか? でも、だったら何で照れているんだろう。

 白い頬を染め、熱を帯びた瞳で見つめてくるバアルさん。彼から漂う大人の色気に、もともとおかしくなっていた心臓が、ますます激しく高鳴っていく。

「貴方様のお許しをいただくことなく、その唇を奪ってしまってもいいのかと……」

「くちっ?!」

 う、奪うって……俺とき、キスしたいって思ってくれてるってことでいいんだよな? そうだよな?

 ……どうしよう……また、胸がいっぱいすぎて頭がくらくらする……

 でも俺達、まだ恋人になったわけじゃないし……何故かプロポーズは、すでにしていただいているんだけどさ。

 その返事だって俺、ちゃんと出来てないし……嫌ってわけじゃないんだけど……

 というか、嫌なわけがないんだよなぁ……だって、一番しんどくて困ってた時に助けてくれたんだし。

 知らない場所で一人ぼっちの俺の側に、ずっと居てくれてるんだぞ? 嫌な顔一つもせずにさ……

 そんなの…………そんな風にされたら、俺……

「申し訳ありません……困らせてしまいましたね」

 切なそうに伏せられた瞳に、寂しい響きを持った低音に、胸の奥が詰まってしまったように苦しくなる。

 腰に添えられていた手が、するりと離れていく。少し空いてしまった俺達の距離が、気持ちまで一緒に離れていってしまったように感じてしまう。

「ちが……俺、そうじゃなくて……その……」

 また、あの、気持ち悪さが腹の奥からじわじわと滲み出てくる。視界まで、だんだんボヤけていった。

「大丈夫ですよ」

 長い指が、そっと俺の目元を拭う。大きな手のひらが、頬をゆるゆる撫でてくれる。

「貴方様のお気持ちの整理が出来るまで、いくらでもお待ち致します」

 柔らかい彼の眼差しに、胸の中でわだかまっていた暗いものが溶けていく。口から自然と息が漏れた。

「バアルさん……」

 穏やかな笑みを浮かべる彼を見ていると、なんでだろう、釣られて俺も笑顔になってしまう。

 潰れてしまいそうな不安も、寂しさも、全部あっという間に吹き飛んでしまうんだ。

「ですが……ただ待つというだけでは、いささか面白味に欠けますので」

 つい、ほんのさっきまで俺達の間に漂っていた、ほんわかとした空気がガラリと変わる。

 射抜くように真っ直ぐな彼の眼差しと、口元に浮かんだ妖しい笑みのせいで。

「このようなアプローチは、引き続きさせていただきます」

 勢いよく抱き寄せられ、バランスを崩してしまった俺の身体を、長い腕が包み込むように抱き止める。

 不可抗力で彼の胸元に埋めてしまっていた。慌てて顔を上げた先には彼が、艶やかに微笑む彼が、すでに数センチ先まで迫っていた。

 額に触れた柔らかい感触と、わざとらしいリップ音に、湯気が出そうなくらいに顔が熱くなっていく。

「勿論、お許しいただけますよね?」

 トドメと言わんばかりだ。至近距離で、悪戯っぽい笑顔まで。

「ひぇ…………はい、もちろんです……」

 お陰様で、頭がくらくらするどころか、腰までもが抜けそうになってしまった。
しおりを挟む
感想 5

あなたにおすすめの小説

嫁側男子になんかなりたくない! 絶対に女性のお嫁さんを貰ってみせる!!

棚から現ナマ
BL
リュールが転生した世界は女性が少なく男性同士の結婚が当たりまえ。そのうえ全ての人間には魔力があり、魔力量が少ないと嫁側男子にされてしまう。10歳の誕生日に魔力検査をすると魔力量はレベル3。滅茶苦茶少ない! このままでは嫁側男子にされてしまう。家出してでも嫁側男子になんかなりたくない。それなのにリュールは公爵家の息子だから第2王子のお茶会に婚約者候補として呼ばれてしまう……どうする俺! 魔力量が少ないけど女性と結婚したいと頑張るリュールと、リュールが好きすぎて自分の婚約者にどうしてもしたい第1王子と第2王子のお話。頑張って長編予定。他にも投稿しています。

幽閉王子は最強皇子に包まれる

皇洵璃音
BL
魔法使いであるせいで幼少期に幽閉された第三王子のアレクセイ。それから年数が経過し、ある日祖国は滅ぼされてしまう。毛布に包まっていたら、敵の帝国第二皇子のレイナードにより連行されてしまう。処刑場にて皇帝から二つの選択肢を提示されたのだが、二つ目の内容は「レイナードの花嫁になること」だった。初めて人から求められたこともあり、花嫁になることを承諾する。素直で元気いっぱいなド直球第二皇子×愛されることに慣れていない治癒魔法使いの第三王子の恋愛物語。 表紙担当者:白す(しらす)様に描いて頂きました。

獣のような男が入浴しているところに落っこちた結果

ひづき
BL
異界に落ちたら、獣のような男が入浴しているところだった。 そのまま美味しく頂かれて、流されるまま愛でられる。 2023/04/06 後日談追加

【完結】気が付いたらマッチョなblゲーの主人公になっていた件

白井のわ
BL
雄っぱいが大好きな俺は、気が付いたら大好きなblゲーの主人公になっていた。 最初から好感度MAXのマッチョな攻略対象達に迫られて正直心臓がもちそうもない。 いつも俺を第一に考えてくれる幼なじみ、優しいイケオジの先生、憧れの先輩、皆とのイチャイチャハーレムエンドを目指す俺の学園生活が今始まる。

美貌の騎士候補生は、愛する人を快楽漬けにして飼い慣らす〜僕から逃げないで愛させて〜

飛鷹
BL
騎士養成学校に在席しているパスティには秘密がある。 でも、それを誰かに言うつもりはなく、目的を達成したら静かに自国に戻るつもりだった。 しかし美貌の騎士候補生に捕まり、快楽漬けにされ、甘く喘がされてしまう。 秘密を抱えたまま、パスティは幸せになれるのか。 美貌の騎士候補生のカーディアスは何を考えてパスティに付きまとうのか……。 秘密を抱えた二人が幸せになるまでのお話。

【連載再開】絶対支配×快楽耐性ゼロすぎる受けの短編集

あかさたな!
BL
※全話おとな向けな内容です。 こちらの短編集は 絶対支配な攻めが、 快楽耐性ゼロな受けと楽しい一晩を過ごす 1話完結のハッピーエンドなお話の詰め合わせです。 不定期更新ですが、 1話ごと読切なので、サクッと楽しめるように作っていくつもりです。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー 書きかけの長編が止まってますが、 短編集から久々に、肩慣らししていく予定です。 よろしくお願いします!

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

処理中です...