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ちっぽけなプライドよりも

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 流せるものはあらかた流し終え、すっきりした俺を待っていたもの。それは、初対面の人に抱きつきながら、壊れたように泣き続けるという醜態を晒してしまったという事実。

 そして、俺のせいで色が変わるほどぐしょ濡れになってしまった、生地からして明らかに高そうなスーツを、どう弁償するのかという難問だった。

「ごめんなさい……お金は……持ってないんですけど、俺に出来ることならなんでもするんで……その……」

「ふふ、アオイ様は律儀な方ですね。この程度は些末なことですので、どうかお気になさらないで下さい」

 長い指先が、俺の涙が染み込んだ生地の表面を撫でる。すると、まるで時間が巻き戻ったみたいに大きな染みが消えていく。

 ものの数秒で解決してしまうとは。目を白黒させている俺に、柔らかい微笑みを向けていたバアルさん。すっくと立ち上がったかと思えば、深々と頭を垂れる。

「改めて、私からも心からお礼を……彼等を赦して下さり感謝致します」

「え? そんな……俺、結構キツい言い方しちゃったし……最後は、無視……しちゃいましたし」

「それでも、貴方様は怒りを収めて下さいました。お陰様で彼等の首を切らずにすみました」

 首を……切るだって!?

 ……危なかったな……俺の気持ち次第では、二人とも仕事を辞めさせられていたかもしれないなんて。

 そんなことになったら後味が悪いもんなぁ……いくら初対面の相手とはいえ。

「死なないとはいえ、首だけの状態で地獄の業火に焼かれ続けては、精神が摩耗してしまいますからね……」

 特に彼はまだ100歳と幼いですし……と安堵の溜め息を漏らしながら、ぽんぽんと俺に向かって言葉の爆弾を落としていく。

「え……首を切るって、死神の仕事を辞めさせられるってことじゃなくて……そんな物理的な意味だったんですか?」

「ええ、勿論でございます。それだけの罪を犯したのですから」

 むしろこれでも軽い方です、と続けた緑色の瞳には、見つめられると魂が凍ってしまいそうなほど剣呑な光を宿していて。

「俺っ怒ってません! 怒ってませんからねっ!?」

 思わず、白い手袋に覆われた手を取り、両手で握りしめてしまった。

 お陰で余計に気を遣わせてしまうことに。「大丈夫、分かっていますよ」と微笑ましそうに目尻を下げた彼から、頭を撫でられてしまったんだ。

「そういえば……俺って、これからどうなるんですか?」

 普通に考えたら天国に行くか、生まれ変わるんだよな? やっぱり。地獄に落ちたのは間違いだったわけだしさ。

「それが……非常に申し訳ないのですが、しばらくは此方に滞在して頂く必要がありまして……」

 流暢に紡いでいた口が言い淀む様に、暗い影が宿った緑色に、言い様のない不安が俺の胸に渦巻き始める。

 はたと目が合ったバアルさんが、ゆるりと微笑んで再び隣に腰掛ける。俺の手を温めるように両手で包み込んでくれた。

「貴方様にとってはお辛い話になると思いますが……今までの経緯と共に、ご説明させて頂いて構いませんか?」

「……お願いします。ちゃんと全部知れた方が、前に進めると思うんで」

 泣くだけ泣いてすっきりしたせいか、手から伝わる温もりに安心と頼もしさを感じているせいか。いつの間にか、潰れそうになるほどの不安は溶けるみたいに消えてしまっていた。

「ありがとうございます…………まず、理由からご説明致しますね」

 ふわりと綻んだ口元に、俺を見つめる眼差しの柔らかさに、何故か心臓の辺りがきゅっと締めつけられる。

 壊れ物にでも触れるかのように手の甲をゆるゆる撫でられて、自分の体温が一気に上がった気がした。

 なんだか居たたまれなくなってきて視線を落とす。俺が顔を熱くしている間にも、聞き心地のいい低音が粛々と言葉を紡いでいく。

「……貴方様の魂は、本来の寿命を全うできずに刈られてしまいました。生まれ変わるにしろ、天国へ行かれるにしろ、生命力に満ちた魂をそのまま送るわけにはいきません」

「えっと……じゃあ、その生命力を減らすのに時間がかかるから、それまでここで待たないといけないってことですか?」

「はい、左様でございます。アオイ様は大変理解力に優れていらっしゃいますね」

 大きな手が、よく出来ましたと褒めるように俺の頭をよしよし撫で回す。

 なんでだろう……撫でてくれることに関しては悪い気はしないんだけども。むしろ、もっとして欲しいんだけど……

 この人から子供扱いされるのは……なんか、嫌だな……

「……どうか、なさいましたか?」

「……いえ、別に。それで、手違いってのは結局どういうことだったんですか?」

 瞳を細め、俺を窺う顔には明らかに心配だと書かれているように見えた。

 が、まさか、あなたに子供扱いされるのが不満なのだと言える訳がなく。話題を振ることで無理矢理、誤魔化した。

「……実は本日、貴方様と同姓同名で性別も年齢も同じ方が病気で亡くなる予定でして……」

 聡いけれども心優しい彼は、納得してはいないものの俺の意を汲んでくれる。追求することもなく応えてくれた。

 それがまた、大人の余裕を見せつけられたような気がして、なんだかモヤモヤしてしまう。

「……ああ、それで間違ったってわけですか」

 お陰で、自分のことだってのに他人事のように吐き捨てていて。

「本当に、申し訳ありません……」

 彼の表情をますます曇らせてしまった。

「そんな謝らないで下さいよ……あなたは何も悪くないじゃありませんか」

「ですが……」

 俺の手を抱き締めるように胸の前で固く握り、揺れる瞳で一心に見つめられてしまえば。自分のちっぽけなプライドなど、なんだかどうでもよくなってしまって。

「あー……別に自棄になってるわけじゃなくてですね……ただ、さっき頭を撫でられたのが……その……」

「……ご不快でしたか?」

 促されるままボロボロと、自分の心の内を漏らしてしまっていた。

「いえ、撫でられるのは正直嬉しいんですけど……なんか、子供扱いされてるみたいだな……って……バアルさんには、そういう風にされたくないってゆーか……その……」

 なんだか、言わなくてもよかったことまで言っちゃった気がするんだけど……

 今更ながら熱くなってくる頬を、片手で仰ぐ。すると、クスクス静かに笑う声が耳に届いた。

 釣られて顔を向けると、何故か満面の笑みを浮かべた彼と目が合った。

「ふふ、つまり貴方様は私に、ご自身を一人の男として扱って欲しい……というわけですか?」

「ひぇ……あ、ぅ……そう、ですね?」

 心臓を鷲掴みにされてしまった。熱を帯びた緑色と妖しく上がった口元に。

 ドキドキと鼓動が高鳴り、声が思わず上ずってしまう。なんか、疑問系のイントネーションで返しちゃったし。

「畏まりました。では、これからはそのように」

「えっと……よろしく、お願いします」

 会釈したバアルさんに釣られて軽く頭を下げる。お辞儀し合う自分達の様子が、なんだか無性に可笑しくて。つい吹き出してしまった俺を、頬を綻ばせた彼が優しい眼差しで見つめていた。
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