上 下
91 / 466

……なんだか、俺ごと食べてくれているみたいだ

しおりを挟む
 上から覗き込めば、満開の白い花が咲いているように見える陶器のカップ。その中が徐々に、赤みがかった茶色の液体で満たされていく。

 ゆらりと立ち上っていく白い湯気と共に、花のような甘い香りが、昼下がりの室内に漂い始めた。

 バアルさんは、いつもどおり穏やかな笑みを湛え、どこか上機嫌に触覚を揺らし、半透明の羽をはためかせている。そんな彼に対して俺の心は、どんよりと沈んでしまっていた。自分への不甲斐なさに。

 今朝、最大のチャンスをうっかり逃してしまった俺は、彼に対して再度、密かにアタックを試みていた。

 お散歩デートに出かける際、俺の方から彼の手を握って繋いでみたり。中庭のベンチで隣に座る彼の肩に、そっと凭れかかってみたりと。

 俺としては勇気を出して、精一杯アプローチしていたつもりなんだが……密かすぎて、彼には全く効かなかったようだ。

 なんせ、俺が何をしてもバアルさんは、健気に頑張る幼子を見つめる親のような顔で微笑んで、頭をよしよし撫でてくれるだけだったからな。

 それはそれで嬉しいけどさ……そうじゃないんだ。俺は、彼を……繋いだ手から、寄せ合った身体から心音が伝わってくるくらい、ドキドキさせてみたいんだ。

 言葉に出さなくても顔を見れば、好きだって思ってくれてるんだって分かるくらい、バアルさんのことをときめかせてみたいんだ。

 恋愛経験が皆無の……バアルさんが最初で最後の好きな人である俺にとって、無茶な挑戦だってのは分かっているけどさ。

 うんうん思考回路を回しながらも、いつものように俺は、彼が淹れてくれたハーブティーをちゃっかり完飲していたようで。気配り上手な彼が「失礼致します」とおかわりを注いでくれる。

「……あっ、ありがとうございます」

「いえ、折角ですから今日のお茶菓子は、サタン様から頂いた生チョコレートに致しましょうか」

「は、はい。お願いします」

 白い髭が素敵な口元をふわりと綻ばせ、バアルさんはカップとお揃いのティーポットを、音もなくテーブルに置く。続けて、何処からともなく黒い小さな箱を取り出した。

 蓋の真ん中には、盾をモチーフにした金色の紋章が、その下には見たこともない文字が筆記体のように書かれていた。

 彼曰く、地獄では有名な高級チョコのブランドらしい。さすが元地獄の王様、お心遣いも一流だ。

「アオイ様」

 流れるような動作でソファーに腰掛け、ぴたりと俺に肩を寄せた彼が「どうぞ」とココアパウダーをたっぷり纏ったチョコをフォークに刺し、俺の口へ運んでくれる。

 含んだ瞬間、ホロホロとほどけるような口どけと、じんわり広がる丁度いい甘さ。思わず頬が自然と緩んでしまう。

「んっ、バアルさん……これ、すっごく美味しいですっ」

「それは何よりでございます。もうお一つ、いかがですか?」

「はいっ! いただきます」

 バアルさんは、自分のことのように嬉しそうに目尻を下げて、再び手ずから食べさせてくれる。

 俺の中でのチョコレートの概念を塗り替えてしまった美味しさに、すっかり夢中になってしまった。

 箱の中の茶色い面積が、三分の一ほど自分の胃に収まってからだった。バアルさんが一口も食べていないことに、はたと気づいたのは。

「ご、ごめんなさい、俺ばっかり食べちゃって……」

「ふふ、お気になさらないで下さい」

「今度は、俺がバアルさんにしますからっ」

「……では、お言葉に甘えさせて頂きますね」

 どこか楽しそうに触覚を揺らして待つ彼から、フォークを受け取った俺は、再び不甲斐なさに沈んでいた。

 それと同時にふと、頭に過ぎってもいた……これは彼にアピールする、またとない機会なのでわ? と。

 そのせいだろう、俺の思考回路は明後日の方向へと連想ゲームをし始める。チョコレートといえば……好き同士の食べさせ合いっこといえば……と。

「……バアルさん、どうぞ」

「はい…………アオイ様?」

「ん……ほぉうほ」

 その結果が、普段じゃ恥ずかしすぎて絶対に出来ない行動へと俺を走らせた。フォークに乗せたチョコを咥え、彼に受け渡そうなどという大胆な行動に。

 少しの間バアルさんは、目を見開き、どこか落ち着きなく羽をはためかせていた。照れくさそうに伏せられていた瞳が、俺を見つめる。

「……失礼致します」

 バアルさんの、彫りの深い顔がゆっくりと俺に近づいてくる。

 彼の柔らかい温もりが、口に触れた瞬間だった。待っている間、高鳴りっぱなしだった心臓が、一際大きく跳ねた。

「……どう、でしたか?」

「……美味しいですね、とても」

「で、ですよねっ……良かった、です」

 この時の俺は、内心ガッツポーズをしていた。そっと顔を離し、小さくもくもくと動かしていた彼の白い頬が、ほんのり赤く染まっていたからだ。

 少しは俺に、ときめいてもらえたかもしれないっ!

 何とも言えない達成感に、俺は浮かれきっていた。流れ的に予想することは出来ただろう。が、頭の中にお花が咲き乱れている俺にとっては、思いも寄らなかったお願いが、彼の口から発せられる。

「では、もうお一つ頂いても宜しいでしょうか?」

「へ? ……あの、それって…………やっぱり……」

 いつの間にか、瞳に妖しい熱を灯していた彼の声が、蕩けるような甘さを帯びる。

「ええ、先程と同じように……お願い致します」

 熱い吐息を吹き込むように囁かれ、ぞくぞくとした感覚が、腰の辺りから背筋に沿って這い上がってきた。

「ひぇ…………はぃ……分かり、ました……」

 ほんのさっきまで居たはずの、積極的な俺は何処へ行ってしまったのか。

 ぽつんと残されたヘタレな俺の手は、小刻みに震えてしまっていて。何度乗せようとしても、ぽとりとチョコレートに逃げられてしまう。

 不意に大きな手が、俺の握るフォークをそっと抜き取り、瞬きの間にぱっと消す。

 いつも欠かさず着けていた白手袋も同時に消していたのか、露わになった細く長い指が、チョコをそっと摘んだ。

 そのまま口にちょんと押し当てられ、熱を帯びた眼差しを一心に注がれる。

 煌めく緑の瞳にすっかり見惚れ、捉われていた俺は、促されるままにチョコを咥えた。引き締まった彼の首に、自ら腕を絡めていた。

 一度目とは違い、艷やかな笑みを浮かべている彼が、ただの受け渡しで済ませるハズもない。

 チョコを一息に飲み込むと、すぐに俺との距離を詰め、優しく唇を食んだ。味わってるみたいに何度も、何度も。

 ……なんだか、俺ごと食べてくれているみたいだ。

 バアルさんから触れてもらえる度に、だんだんと頭の芯が痺れてきて、身体の力が抜けていく。

 ほんのり香るカカオとチョコの甘さを彼と共有しながら、俺はふわふわした夢見心地のまま目を閉じていた。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

朝方の婚約破棄 ~寝起きが悪いせいで偏屈な辺境伯に嫁ぎます!?~

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:17,808pt お気に入り:221

さようなら旦那様

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:46,208pt お気に入り:443

不妊を理由に離縁されて、うっかり妊娠して幸せになる話

恋愛 / 完結 24h.ポイント:468pt お気に入り:2,641

出戻り王女の恋愛事情 人質ライフは意外と楽しい

恋愛 / 完結 24h.ポイント:170pt お気に入り:387

君の瞳は月夜に輝く

BL / 連載中 24h.ポイント:35pt お気に入り:171

処理中です...