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あの日とは違う、今の俺の側には、大好きな彼が居てくれるから

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 ほんの少し前の、息苦しいほどに重たかった空気はすっかり消え、代わりに部屋には和やかな空気が満ちている。

 ゆっくりと話し始めたグリムさんの表情は、憑き物が落ちたみたいにすっきりとしていて、自然な笑顔が浮かんでいた。

「先程は、お恥ずかしい姿を見せてしまってすみません。……僕、アオイ様にありがとうなんて……言ってもらえる資格、ないって思ってましたから……」

 今度は逸らされることなく、俺を真っ直ぐ見つめる薄紫色がゆるりと細められる。柔らかい光を帯びている瞳が、また少しだけ滲んだ。

「だから……とっても嬉しかったんです。びっくりさせちゃって、ごめんなさい」

「いえ、俺の方こそ会いたいからって、サタン様に頼んで無理に呼び出しちゃって、すみませんでした……」

「わわ、頭を上げてくださいっ……その、僕も会いたかったんですから。勇気が、出なかっただけで……」

 立ち上がり小さな頭をぺこりと下げた彼を追いかけるように、俺もソファーから立って頭を下げる。

 シーソーみたいに頭を交互に下げ合う自分達が、なんだか可笑しくて。つい、吹き出してしまった俺につられたんだろう。グリムさんもくすくすと可愛らしい声を漏らした。

 ひとしきり笑い合ってから、ふと絡んだ眼差しに真剣な光が宿る。

 俺達と一緒に微笑んでいた皆も口を結び、室内に再び静寂が訪れた。

「アオイ様……」

「はい……」

「本当に、ごめんなさい…………それから、ありがとうございます…………僕を、師匠を……赦してくれて……」

 一度深く頭を下げ、再び合った瞳からあふれた雫が、赤く染まった頬を伝う。

 クロウさんが音もなく立ち上がり、逞しい腕で震えるグリムさんの背中を支えながら、続けて頭を下げた。

「こんな僕に……権利なんて、ないけど……こんなお願い、烏滸がましいって、分かっているけど…………どうか、僕に、僕達に……これからのお二人の幸せを、願わせて……くれませんか?」

 祈るように頭を垂れる彼の瞳からこぼれ落ちた涙が、細かい装飾が施された絨毯へと静かに吸い込まれていく。

 ……胸の奥が熱い。目の奥も。目の前にいるハズの彼らが、突然ぼやけて見えてくる。今度は俺の方が、彼につられてしまったみたいだ。

 しわくちゃになるほどマントの裾を握りしめ、震える喉から振り絞るように言葉を紡ぐ姿が、不意に初めて出会った時のグリムさんと重なる。

 ごめんなさい、ごめんなさい……と青い石造りの床に頭を擦りつけ、涙をこぼしていた彼に。

 あの日……互いに庇い合う彼らを、グリムさんとクロウさんを見て、俺の胸を占めていた気持ちは諦めと虚しさだった。

 もう済んだことだから仕方がないだろうと。真摯に謝る彼らに怒りを、悲しみをぶつけたって、何も解決しないだろうと。

 心の内側が真っ黒に塗り潰されたみたいに、言いようのない寂しさで、埋め尽くされてしまっていたんだ。

 でも、今は違う。ずっと側に居てくれるって約束してくれた人が、俺のことを好きになってくれた……大好きな彼が居るから。俺を受け入れてくれて、優しく見守ってくれている人達が居るから。

 ……俺は、今とても……幸せだから。

 そっと横を見下ろせば、宝石のように煌めく緑の瞳が俺を見つめていた。

 柔らかい笑みを浮かべたバアルさんが、小さく頷く。彼に向かって微笑み返した俺の胸の内は、雲ひとつない空のように晴れ渡っていた。

「グリムさん……」

「はい……」

「ありがとうございます……とても嬉しいです」

 知らず知らずの内に俺は、あの日のように手を伸ばし彼の頭を撫でてしまっていた。

 ゆっくりと顔を上げたグリムさんのぱちぱちと瞬いた瞳から、壊れたように涙がどっと溢れ出してから、ようやく気づく始末だ。

「ご、ごめんなさいっ、俺、大変失礼なことを……」

 なんとなく親しみやすいというか、勝手にグリムさんに親近感を覚えているからって距離感を間違えすぎだろ。

 どれだけ見た目は年下に見えても、彼は100歳なんだぞ? 人生の大先輩なんだぞ?

「ぐすっ……そんなこと、ないですよ…………僕、嬉しいです……とても……」

 ふにゃりと微笑んでくれた彼に、ほっと胸を撫で下ろす。

 ぐしゃぐしゃになった目元を拭ったせいで、すっかり濡れてしまった袖から覗く指をもじもじ動かしながら、グリムさんがおずおずと口を開いた。

「あの、アオイ様……これからもお二人のお部屋に、お花を届けに行ってもいいですか?」

「え? 俺は嬉しいですけど……いいんですか? 大変なんじゃ……」

「全っ然大丈夫ですっ! 僕が、したくてしてることなんでっ!」

 胸の前で拳を握った彼が、はつらつとした声で「任せてくださいっ」と勢いよく身を乗り出す。

 宥めるようにグリムさんの背中を優しく叩いていたクロウさんが、続けて「私達の朝の習慣になっていますから気にせず。ぜひ、受け取ってください」と微笑んでくれた。

 俺とバアルさんからしても、有り難いお話だ。なんせ、届いたお花を飾って二人で眺めるのは、もはや、朝のルーティンというか、楽しみになっていたのだから。二人のお言葉に、甘えることにしたんだ。

「じゃあ、お願いします。これからは、毎朝会えますね」

 単純な俺は、こう考えていた。

 もう、隠す必要はないんだから、今までと違って俺もバアルさんと一緒にお花を受け取れるだろうと。

 そしてあわよくば、グリムさんと仲良くなれたら嬉しいなと。そんな能天気な思考で、彼に向かって手を差し出していたんだ。

「毎朝……僕が、アオイ様と?」

「あ、すみません……グリムさん話しやすいから、その……友達になれたら嬉しいなって……」

「とも、だち……僕と……アオイ様が……」

「ほっほっほ、いいんじゃないかのう? お主ら、さっきは息もぴったりじゃったし」

 静かにことの成り行きを見守っていたサタン様が、コウモリの形をした真っ黒な羽を大きく広げ、嬉しそうに鋭い牙を見せる。

 それは、ほぼ同時だった「気が合うんじゃないかの?」とサタン様が厳つい身体を乗り出し尋ねたのと、大きく見開いていた丸い瞳から、再び雨のような勢いで雫がこぼれ落ちたのは。

「おいおい、大丈夫か? 今日はお前、涙腺緩みっぱなしだなぁ」

 声を上げずにただただ涙をこぼし続けているグリムさんを、クロウさんが自分の胸元へぽすんっと抱き寄せ、あやすように背中や頭をぽんぽん撫でている。

 ……ところで今日の俺は、何故か、誰かとシンクロしてしまうらしい。

「ご、ごめんなさいっ、俺のせいで」

「あー……問題無いですよ。これ、嬉し泣きですから」

 咄嗟に謝罪を口にした俺と、責任を感じているのか、大きな手を意味なくおろおろと動かしていたサタン様に向かって、クロウさんが困ったよう眉毛を下げて笑う。

 少し間を置いて口にした、

「え?」

「ほ?」

 といった間の抜けた声が、まるでタイミングを計っていたかのように、サタン様のものと綺麗に重なったんだ。
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