間違って地獄に落とされましたが、俺は幸せです。

白井のわ

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バアルさんが俺に無体をって……え?

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 途端に静まり返ってしまった室内と大きくて見開かれた瞳に、たった今、口にしてしまった自分の発言が、ワンテンポ遅れて甦る。

「あっ、いや…………べ、別に変な意味じゃなくて、ですね……えっと……」

 いや変だろ、完全に。というか変な意味にしか取れないだろ、確実に。

 ぐるぐるとパニック寸前の頭の中でも、まだ冷静な部分は残されていたらしい。自分のどうしようもない言い訳に対して、的確なツッコミが返ってくる。

 バアルさんは、いまだに時が止まってしまったんじゃないかってくらいに、目を点にしたまま固まっているし。おまけに、俺の近くで元気よく瞬いていたコルテも、いつの間にか煙みたいに消えてしまっているし、なんだか泣きそうだ。

「ごめんなさい……」

 胸にたくさん重たい石が、詰まってしまったような息苦しさに堪えきれずに俯く。

 俺の鼻先を、ふわりと優しいハーブの香りが擽った。なんだか温かいものが、俺の身体を包み込む。

「バアル……さん?」

 背中にぎゅっと回された長い腕に、耳元で聞こえる彼の静かな息づかいに。心臓が激しく暴れ始め、浮かれた熱で頭がぽやぽやしてきてしまう。

 彼から抱き締めてもらえているという事実だけで、嬉しくてどうにかなってしまいそうなのに。

 彼が膝をついているからか、なくなってしまっている身長差と、お陰でいつも以上に近く感じる彼の温もりに、余計に胸がいっぱいになってしまう。

「ひぇ……」

 ふにゃふにゃになった俺の口からは、情けない悲鳴が勝手に漏れてしまっていた。


「失礼致しました。少々抑えがきかなくなってしまいまして……」

 たったの数十秒だけだったのか、それとも数分もしてもらえたのか。どちらだったにしろ、俺にとっては、あっという間にしか感じられなかった至福の時間が終わりを告げた。

 すらりと引き締まった彼の体躯が、心地のいい温もりが俺の側から離れていく。

 胸の奥を切なく締めつけてくる、名残惜しさから目を逸らし、追いすがるように伸ばしかけていた手を、必死に押さえつけた。

「あ、いえ……俺の方こそ……その……」

 再び口にしようとしていた謝罪の言葉は、彼によって遮られる。

「あまりの愛らしさに、危うく貴方様の言いつけを破ってしまうところでした」

 俺が感じている寂しさを、いとも簡単に、ついでだと言わんばかりにぶっ飛ばし、悪戯っぽく笑うバアルさん。

「キスもまだなのですから……まずは軽いスキンシップから、ですものね?」

 長い人差し指が、半開きになったまま固まっている俺の唇を、ちょんとつつく。

「え、あ、は……い?」

「今日は記念すべき貴方様との初デートですのに……危うく、とんでもない無体を働いてしまうところでした」

 私としたとこが、大変お恥ずかしい限りでございます……と、申し訳なさそうに眉を下げる。俺の頭を一撫でしてから、いつの間にか戻ってきていたコルテから、銀のやすりを受け取った。

 何でもなかったかのように、再び俺の爪を磨く作業へと戻ってしまった。

 …………ちょっと待ってくれ、今、彼は、なんて言ったんだ?

 いつも通りの涼しい顔をしている彼と違って、俺は間抜けな顔を晒したまんま。とっ散らかった頭の中では、先程の彼の発言を噛み砕けず、ただぐるぐると回り続けている。

 …………言いつけを破るところだったって……キスも、まだなのにって……俺に、無体を働くって……………………ん?

「ぁ、えっ!?」

「いかがなさいましたか?」

 突然、すっとんきょうな声を上げた俺を「どこか痛いところがございましたか?」とバアルさんが心配そうに、宝石みたいに輝く緑の瞳を細める。

 針よりも細い手足で爪磨き用の道具を抱え、彼のアシスタントをしていたコルテもだ。ぴるぴると、不安げな音を透明な羽で奏でている。

「う……いや、その…………なんでも、ない……です」

「……そうですか? 何かあれば、遠慮せずに仰って下さいね」

「はい、ありがとう……ございます」

 いまだに心配そうに眉をひそめてはいるものの、優しい彼が追究することはない。視線を俺の手へと戻し、広い室内には再び規則正しい、やすりをかける音だけが響き始める。

 ……いや、まさか、そんな。確かに今までも、ドキドキし過ぎて心臓に悪いような言葉を、言ってもらえたりはしていたけど、そんな。

 …………まさか、俺に、え、エッチなことしたいって思ってくれたなんて、そんな訳……ない、よな?

 ……ないだろ。本当に朝っぱらから何を考えているんだ、俺は。

 ありえない着地の仕方をしてしまった考えを、無理矢理頭の隅に追いやって、静かに息を吐く。

 それでも、一度想像してしまった光景は。優しく微笑む彼に押し倒され、口付けられ、あの大きな手で、彼の好きなように甘やかされるという独りよがりの妄想は、なかなか消えてはくれなくて。

 どうか彼に、この手の震えが伝わらないように、どうか俺の浅ましい想いが、バレてしまわないようにと。願いながら目を瞑り、時が過ぎるのを待つことしか俺には出来なかったんだ。
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