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2巻
2-3
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「俺は餓鬼のお守りをしに来たわけじゃねえぞ」
「ですが、貴方も時間が限られているはずだ」
「……チッ」
不愉快そうに舌打ちをし、ゼィルムはロウルの隣を通り過ぎる。それから、ゆっくりとした歩調でリーシェン、ではなく、どうしてかフェリの目の前に立った。
「……精霊の民か」
長く尖った独特の耳に、人形めいた相貌。
それらの特徴から判断し、そう言葉をこぼす。
「名前は」
「……フェリ・フォン・ユグスティヌと申します」
「フェリ・フォン・ユグスティヌ……」
何か思い当たる事があったのか。
眉根を寄せてゼィルムは少し考え込み、言う。
「フォン、と言えば『巫女』の一族か」
「……っ!」
ゼィルムの言葉に、どうして知っているんだとばかりにフェリは目を見張り、顔に驚愕の色を張り付けた。
口調、雰囲気、それらから、ゼィルムの歳は三〇手前程度なのではと思っていた矢先のその言葉は、あまりに衝撃的過ぎた。何故なら彼の言う『巫女』という存在は、すでに埋もれた歴史であったからだ。
「……これでも一応、本業は考古学者なんでな。歴史にはそれなりに詳しいんだよ」
そしてゼィルムの視線は、フェリの腰に下げられた二本の剣に向かう。
僅かに目が細められたが、反応はそれだけに留まった。
「……あのフォンの一族ならまだ戦力になるか」
ゼィルムは値踏みするようにフェリを眺めた後、そう言って興味をなくしたように、次はリーシェンの前へと移動する。
「で、テメェが視えるってヤツねえ……」
そう言って品定めするように視線を下から上へと這わせ。それを数回繰り返したところでまた、ため息を吐いた。
「まぁ、可能性がねえわけじゃねえか」
ゼィルムは数歩だけ、後ずさる。
「『不死身』がすでに名前を言ったが、俺の名前はゼィルム・バルバトス。周りからは『虚離使い』と呼ばれてる」
脱いだ方がいいか――
そんな事を言ってから、ガシリと頭に被せていたフードの先を掴み、脱ぎ捨てる。
「……っ」
「……チッ」
息を呑む音が聞こえてくるのと同時、ゼィルムはまた不愉快そうに舌打ちをした。
現れた相貌。
顔全体を覆うような火傷痕が痛々しく、皮膚は少し変色をしていた。
「……顔はしっかり覚えておけ。知らねえ顔だからっていざという時に敵意向けられちゃ堪んねえ」
そう言って、ゼィルムはフードを被り直して踵を返す。
「……顔合わせは済ませた。俺はここで失礼させてもらう」
ぞんざいに言い捨て、その場を後にするゼィルムの背中が遠ざかっていく。誰もがその背中を見つめる中、彼が振り返る事は一度もなかった。
「気を、悪くしないでやってください」
ゼィルムが遠く離れた事を確認し、ロウルがそう切り出した。
苦笑いするロウルは、ゼィルムとそれなりに知った仲なのだろう。気遣いのようなものが見て取れた。
「悪いヤツでは、ないので」
言葉こそ乱暴であったものの、所作には少し品を感じさせる部分もあった。
何か訳ありなのだろう。大半の者がそう判断していた。
「これで、〝英雄〟格が四人」
白衣の中に手を忍ばせ、何かを確認するような動作を見せるロウル。
「武器の手入れは入念に、お願いします」
そう言って白衣から手を引き抜く。
ロウルなりの武器の確認であったのだろう。
「もし、決意が揺れたのであれば、僕に知らせてください」
決意とは、覚悟。
いざ、魔物と対面し、背を向けるようでは連れていく意味がない。そう考えた故に出た言葉であった。
「出発は明朝になります。明日以降は雨の可能性が極めて高いので」
海が荒れていたから孤島に辿り着けませんでした、では、話にならない。
「今日は、しっかり英気を養ってください」
ロウルは儚く笑った。
頭上に広がる空のような、曇った感情を見せながら。
第四話 覚悟を
緩やかなさざ波がザザザと音を立てる。
ウェルス達が乗り込んだ帆船は順調に目的地へと進んでおり、幸いにも天候によるトラブルに見舞われる事はなかった。
しかしながら、空は生憎の雨模様。
不安を掻き立てるような暗澹とした曇天が空いっぱいに広がっていた。
「で、話ってなんだ」
船の甲板の上にて、海を背景に立つロウルに向かって、グレリアが声をかけた。
それに続くようにぞろぞろと船内から人が現れ、グレリア、ウェルス、リーシェン、フェリ、ゼィルム、そしてロウルを含めた計六人が顔を突き合わせる。あえて他の騎士達が甲板にいないタイミングを狙っての、ロウルによる呼び出しであった。
「伝え忘れていた事柄がありまして」
くるくると注射器を弄りながら、小風に白衣をはためかせるロウル。鼻をつくツンとした臭いが潮風に混じり、薬師である事が否応なく強調されていた。
さながら闇医者のようだ。
終始浮かべている悪びれない笑みが、伝え忘れではなくあえて伝えていなかったのだと、面々に確信を持たせる。
「孤島に棲まう魔物、その正体についてです」
「……知ってんのか?」
はじめに食いついたのはゼィルムだった。
彼自身、本業が考古学者であると言うだけあって、歴史については人一倍興味を見せていた。
なにせロウルが話題に出したのは、アンタッチャブルとまで呼ばれる孤島についてである。その道の人間であるゼィルムが気にならないわけがなかった。
「一応、これでも一度は行って帰ってきた人間ですので」
そう言って、ロウルはくるくると弄り続けていた注射器を、見せつけるように五人の前に突きつけた。
「その前に、僕の能力の説明をしましょうか」
これから生死を共にするわけですし、と付け加える。
そして続けざま、ロウルは己の首に注射器を打ち込み、痛々しい音と共に彼の表情へ渋面が広がった。
直後、ロウルの瞳に薄く鮮紅色が入り混じるが、それも刹那。理性の色と共に元に戻る。
「僕の能力はこの身体。凶薬に耐えられるこの身体が、僕の唯一にして無二の能力」
ロウルは中身のなくなった注射器を白衣の中に収め、代わりに小ぶりのサバイバルナイフのような短剣を取り出す。
「この薬は外傷に対し、再生と増殖――つまり復元を促す効力を持ちます」
五人に見えるように、ロウルは左の人差し指をすっと立てる。
そしてそのまま、
「……ッ」
ほんの僅かだけ苦悶の表情を浮かべるも、己自身の人差し指を一瞬の逡巡すらなく斬り落とした。
その異常さに他の五人全員が目を剥いた。しかし、誰かが眼前の光景に声を上げるより先に、バキボキと痛々しい音が場に響く。
ロウルが自ら斬り落としてみせた人差し指の断面から、新たに肉のような、骨のような何かが膨れ上がり、増殖し、再生を始める。
ぐちゃぐちゃと何かが混ざり合う音も入り込み、聞く者に生理的嫌悪を抱かせるも、一〇秒と経たぬうちに傷は元通りに。
人差し指の残骸であるナニカだけが残され、それ以外は全てつい先程と何も変わらない状態に逆行した。
「この通り、斬り落とされても数秒で再生を終えます。ただ――」
ロウルはその残骸を拾い、ぽいっと海へ投げ捨てる。
そしてぷらぷらと斬った方の手を見せびらかした。
「再生に伴う痛みが尋常じゃないものでして。普通の人間であれば絶対に精神が崩壊してしまいますね」
要するに失敗作です、とロウルは笑った。
「ですが、僕の身体だけは例外で、その痛みが緩和、というより薬のうち過ぎのせいで痛覚が鈍った事が幸いして、耐える事ができるんです」
そのせいでついた二つ名が『不死身』。
誰かを治したい。その一心で作り上げた薬は、自分だけを守る事ができる壊れた凶薬に成り果てた。
「皮肉な結果でしょう?」と言うロウルの表情には、筆舌に尽くし難い暗い影が宿っている。
「ま、この能力のお陰で、僕は孤島の中心部に辿り着く事ができたんですけどね」
すでに孤島のシルエットは帆船からうっすらと見えている。豆のように小さなそのシルエットに、ロウルだけは、懐かしさを抱かずにはいられなかった。
「あぁ、それと」
ロウルは短剣を収めながら、さり気なく一言。
「僕の血液には、触れないようにしてくださいね」
え?と思う者も数人いたが、触れてはいけない理由はすぐ側に転がっていた。
斬り落とされた人差し指が落ちていた場所だけ、異様な変色を遂げていたのだ。
見た者を不快にさせるような、ドスの利いた紫色に。
ロウル・ツベルグという男の体質を知っていた故に、真っ先にウェルスは気づく。
彼が何をしてきたのか、を。
「ッ……、ロウル、お前身体の血を全て……」
猛毒に変えてきたのか……ッ!!
そうウェルスが言い切るより先に、言葉が返ってくる。
「――戦いですよ」
低い声。
普段のロウルとは打って変わって、力の込められた声だった。
「死なない為に準備は怠らない。そんな事、当然じゃないですか」
ロウル・ツベルグは生粋の〝英雄〟ではない。
ゆえに、驕りが一切ない。
それが何にも勝るロウル・ツベルグという人間の強みであると、ウェルス・メイ・リィンツェルは理解している。だからこそ、常識の埒外とも言える行為をこうも当たり前に行えてしまうと、分かってしまう。
敵に自分の身体の一部が喰われてしまう事を念頭に置き、その状況ですら自分に有利に働く一手に繋げるべく、誰よりも命懸けでこの場所に立っている。
「甘さは捨ててください、ウェルス王子。あそこに存在する脅威は魔物だけではないのですから」
むしろ、魔物はオマケです、とロウルは付け加える。
「あの島には魔物が何匹も存在しています。ただ、その魔物達はあの島の本当の住人ではないんです」
「……どういう意味だ」
ウェルスですら事前に聞いていない、孤島に関する情報。どうして今の今まで秘匿していたのか。
加えて、含みのある言葉に苛立ちを隠せず、ウェルスは堪らず聞き返していた。
「言葉の通りですよ。あの島の住人は、魔物ではありません」
「……おいおい」
焦燥の感情が声に孕む。
ロウルが何を言いたいのかをいち早く理解してしまったゼィルムは、自らが至ってしまった嫌な予感を口にした。
「じゃあなんだ? その魔物は何かに使役でもされてるって言うのか? その魔物は、曲がりなりにも二〇〇年前の〝英雄〟を退けたと、俺は聞いてるんだがな……」
島に存在している。
だけれど、島の住人ではない。
であるならば、答えは限られてくる。
ロウルは恐らく、広く伝えられている魔物はオマケでしかない、と言いたいのだろう。その魔物を使役できるような他の化け物がいる、と。
だが、〝英雄〟を斃せるレベルの魔物を使役できる者がいるという話は、ゼィルム自身聞いた事がなかった。故に、でまかせだなと笑う。
ただ、その笑みが続いたのは数秒だけであったが。
「数百年前、大陸からとある種族が排斥されました」
ピクリとゼィルムの片眉が跳ねた。
数百年前。種族。
考古学者であるゼィルムの中で、最悪の予感が脳裏を過った。不穏な空気をロウルの言葉から感じ取ったのか、リーシェン達も全員が顔を引きつらせている。
数百年前ともなれば、平均寿命が五〇歳にも満たないこの世界においては、途方もなく遥か昔の出来事にあたる。
「ある種族は、数百年前のその日を以て絶滅した、はずでした。ですが、その種族のある一族だけは人知れず逃げ果せていたのです」
ロウルだけは、真の敵の正体を知っていた。
二〇〇年前に英雄らが集っても知る事が叶わなかった事実を、身を以て知っていた。
「彼らはあの孤島を『聖域』と呼んでいます」
「『聖域』?」
「ええ。『聖域』――セイクリッドと、言っていました」
「〝侵されぬ聖域〟、か」
ふぅ、とため息を吐いたのは誰だったか。
そんな事を気にすることもなくロウルは言葉を続けた。
「島は大きな見えない膜に包まれています。誰かがそこに入り込んだその瞬間に、侵入者を排除する為に魔物が放たれる仕組みです」
もしかしたら、視える体質であるリーシェンであればその膜が視えるかもしれない。なんて思ったのか、一瞬だけリーシェンに視線を向けてからロウルは細かな説明を補足した。
「島に入ったが最後。生きのびる為には、島の半径一〇〇メートルまで外に出るか、敵を倒す以外に方法はありません」
ですから――
「だから、準備し過ぎなんて事はあり得ないんです。負けたその瞬間に、死ぬんですよ?」
散々に痛めつけられ、『不死身』の身体を以てしても数百回と殺されたロウルだからこそ、力を込めて言う。
「……あの孤島に住まう種族は、吸血鬼」
かつて、栄華を誇った戦闘種族。
あまりの凶悪さと、同族を除いた無差別の吸血行為を続けたが為に、他の種族からの恨みを買い、排他されてしまった一族。
最早、おとぎ話レベルの話だ。
それでも、ロウルは沈痛な面持ちから表情を変えない。
「数百年前の生き残りにして、眷属である魔物を使役する主人です」
故に、ロウルは魔物をオマケと呼んだ。
その魔物でさえ、〝英雄〟クラスの強さのものがいるという。戦闘種族と呼ばれていただけに、彼らの戦闘能力は頭抜けていた。
「この中の誰かが目の前で死んだとしても、怒りに駆られる事だけは、ないように」
激情したところで、死体が一つ増えるだけ。
多くの者を生き残らせる為にも、まずこの五人に話すべきだとロウルは考えた末、今に至る。
「もし、吸血鬼と出くわしたとしても、吸血鬼との戦闘だけは、何があっても避けるようにお願いします」
思い出されるかつての記憶。
一矢報いようと足掻いた、いつかの経験。
歯が立たない以前に、相手にすらされなかった苦い思い出。そして思い知らされた、火を見るよりも明らかな、単純明解な種族の差。
対面した時、胃や腸が捻れ切れるのではと錯覚してしまった思い出が蘇る。それ程までに圧倒的な威圧感であり、存在感であった。
故に、言う。
少しでも、生存率を上げる為に。
「――あれは、人が勝てる相手ではありません」
第五話 始まりの音
「リーシェン姫殿下とゼィルムには、これを渡しておきます」
そう言って、ロウルは彼女らに白一色の何かを一つずつ手渡していく。
大きさは直径一五センチ程で、筒状のモノに丸いボタンが一つ取り付けられているだけの、簡易的な装置であった。
どうも、ボタンを押す事で筒の先から何かが打ち出される仕組みであるらしい。
「これは……」
リーシェンが見慣れないモノを不思議そうに眺めて言葉を詰まらせたところで、ロウルは笑って答えを口にする。
「信号銃です。虹の花を集め終わり次第、これを空に向けて撃ってください」
リーシェンがどうしてと尋ねるより先に、ロウルの言葉が続いた。
「船はもしもの事がないように、遠方で待機させておきます。なので、それは帰還の合図です。ゼィルムがその時存命であれば、ゼィルムの能力を使う。そうでなければ、僕達がリーシェン殿下を迎えに行く目印として扱うので、くれぐれも失くさないようお願いします」
どうして信号銃を渡されたのか、その理由が判明する。
死ぬ事を前提にした理由であった故に、リーシェンだけはゴクリと音を立てて唾を嚥下していた。
「僕達は始めに船を着けた場所付近にて魔物を引きつけ続けます。ですので、信号弾を撃ったら『虚離』の能力でここまで移動を。ゼィルムがいなかった場合は、信号弾は後回しで構いません」
これが、合流する手筈になります――と、説明が終わる。全員の理解が得られた事を確認するように、ロウルが各々の顔を見回した。
「説明は以上になりますが、大丈夫そうですね。では、僕は騎士達にも説明をしてきますので、皆さんは休養を取っていてください」
そう言ってから、船内に続くドアに向かってロウルが歩き出す。
十数秒後。バタン、と扉が音を立てて閉められると同時に、沈黙という名の静寂が場に降りた。
「ですが、貴方も時間が限られているはずだ」
「……チッ」
不愉快そうに舌打ちをし、ゼィルムはロウルの隣を通り過ぎる。それから、ゆっくりとした歩調でリーシェン、ではなく、どうしてかフェリの目の前に立った。
「……精霊の民か」
長く尖った独特の耳に、人形めいた相貌。
それらの特徴から判断し、そう言葉をこぼす。
「名前は」
「……フェリ・フォン・ユグスティヌと申します」
「フェリ・フォン・ユグスティヌ……」
何か思い当たる事があったのか。
眉根を寄せてゼィルムは少し考え込み、言う。
「フォン、と言えば『巫女』の一族か」
「……っ!」
ゼィルムの言葉に、どうして知っているんだとばかりにフェリは目を見張り、顔に驚愕の色を張り付けた。
口調、雰囲気、それらから、ゼィルムの歳は三〇手前程度なのではと思っていた矢先のその言葉は、あまりに衝撃的過ぎた。何故なら彼の言う『巫女』という存在は、すでに埋もれた歴史であったからだ。
「……これでも一応、本業は考古学者なんでな。歴史にはそれなりに詳しいんだよ」
そしてゼィルムの視線は、フェリの腰に下げられた二本の剣に向かう。
僅かに目が細められたが、反応はそれだけに留まった。
「……あのフォンの一族ならまだ戦力になるか」
ゼィルムは値踏みするようにフェリを眺めた後、そう言って興味をなくしたように、次はリーシェンの前へと移動する。
「で、テメェが視えるってヤツねえ……」
そう言って品定めするように視線を下から上へと這わせ。それを数回繰り返したところでまた、ため息を吐いた。
「まぁ、可能性がねえわけじゃねえか」
ゼィルムは数歩だけ、後ずさる。
「『不死身』がすでに名前を言ったが、俺の名前はゼィルム・バルバトス。周りからは『虚離使い』と呼ばれてる」
脱いだ方がいいか――
そんな事を言ってから、ガシリと頭に被せていたフードの先を掴み、脱ぎ捨てる。
「……っ」
「……チッ」
息を呑む音が聞こえてくるのと同時、ゼィルムはまた不愉快そうに舌打ちをした。
現れた相貌。
顔全体を覆うような火傷痕が痛々しく、皮膚は少し変色をしていた。
「……顔はしっかり覚えておけ。知らねえ顔だからっていざという時に敵意向けられちゃ堪んねえ」
そう言って、ゼィルムはフードを被り直して踵を返す。
「……顔合わせは済ませた。俺はここで失礼させてもらう」
ぞんざいに言い捨て、その場を後にするゼィルムの背中が遠ざかっていく。誰もがその背中を見つめる中、彼が振り返る事は一度もなかった。
「気を、悪くしないでやってください」
ゼィルムが遠く離れた事を確認し、ロウルがそう切り出した。
苦笑いするロウルは、ゼィルムとそれなりに知った仲なのだろう。気遣いのようなものが見て取れた。
「悪いヤツでは、ないので」
言葉こそ乱暴であったものの、所作には少し品を感じさせる部分もあった。
何か訳ありなのだろう。大半の者がそう判断していた。
「これで、〝英雄〟格が四人」
白衣の中に手を忍ばせ、何かを確認するような動作を見せるロウル。
「武器の手入れは入念に、お願いします」
そう言って白衣から手を引き抜く。
ロウルなりの武器の確認であったのだろう。
「もし、決意が揺れたのであれば、僕に知らせてください」
決意とは、覚悟。
いざ、魔物と対面し、背を向けるようでは連れていく意味がない。そう考えた故に出た言葉であった。
「出発は明朝になります。明日以降は雨の可能性が極めて高いので」
海が荒れていたから孤島に辿り着けませんでした、では、話にならない。
「今日は、しっかり英気を養ってください」
ロウルは儚く笑った。
頭上に広がる空のような、曇った感情を見せながら。
第四話 覚悟を
緩やかなさざ波がザザザと音を立てる。
ウェルス達が乗り込んだ帆船は順調に目的地へと進んでおり、幸いにも天候によるトラブルに見舞われる事はなかった。
しかしながら、空は生憎の雨模様。
不安を掻き立てるような暗澹とした曇天が空いっぱいに広がっていた。
「で、話ってなんだ」
船の甲板の上にて、海を背景に立つロウルに向かって、グレリアが声をかけた。
それに続くようにぞろぞろと船内から人が現れ、グレリア、ウェルス、リーシェン、フェリ、ゼィルム、そしてロウルを含めた計六人が顔を突き合わせる。あえて他の騎士達が甲板にいないタイミングを狙っての、ロウルによる呼び出しであった。
「伝え忘れていた事柄がありまして」
くるくると注射器を弄りながら、小風に白衣をはためかせるロウル。鼻をつくツンとした臭いが潮風に混じり、薬師である事が否応なく強調されていた。
さながら闇医者のようだ。
終始浮かべている悪びれない笑みが、伝え忘れではなくあえて伝えていなかったのだと、面々に確信を持たせる。
「孤島に棲まう魔物、その正体についてです」
「……知ってんのか?」
はじめに食いついたのはゼィルムだった。
彼自身、本業が考古学者であると言うだけあって、歴史については人一倍興味を見せていた。
なにせロウルが話題に出したのは、アンタッチャブルとまで呼ばれる孤島についてである。その道の人間であるゼィルムが気にならないわけがなかった。
「一応、これでも一度は行って帰ってきた人間ですので」
そう言って、ロウルはくるくると弄り続けていた注射器を、見せつけるように五人の前に突きつけた。
「その前に、僕の能力の説明をしましょうか」
これから生死を共にするわけですし、と付け加える。
そして続けざま、ロウルは己の首に注射器を打ち込み、痛々しい音と共に彼の表情へ渋面が広がった。
直後、ロウルの瞳に薄く鮮紅色が入り混じるが、それも刹那。理性の色と共に元に戻る。
「僕の能力はこの身体。凶薬に耐えられるこの身体が、僕の唯一にして無二の能力」
ロウルは中身のなくなった注射器を白衣の中に収め、代わりに小ぶりのサバイバルナイフのような短剣を取り出す。
「この薬は外傷に対し、再生と増殖――つまり復元を促す効力を持ちます」
五人に見えるように、ロウルは左の人差し指をすっと立てる。
そしてそのまま、
「……ッ」
ほんの僅かだけ苦悶の表情を浮かべるも、己自身の人差し指を一瞬の逡巡すらなく斬り落とした。
その異常さに他の五人全員が目を剥いた。しかし、誰かが眼前の光景に声を上げるより先に、バキボキと痛々しい音が場に響く。
ロウルが自ら斬り落としてみせた人差し指の断面から、新たに肉のような、骨のような何かが膨れ上がり、増殖し、再生を始める。
ぐちゃぐちゃと何かが混ざり合う音も入り込み、聞く者に生理的嫌悪を抱かせるも、一〇秒と経たぬうちに傷は元通りに。
人差し指の残骸であるナニカだけが残され、それ以外は全てつい先程と何も変わらない状態に逆行した。
「この通り、斬り落とされても数秒で再生を終えます。ただ――」
ロウルはその残骸を拾い、ぽいっと海へ投げ捨てる。
そしてぷらぷらと斬った方の手を見せびらかした。
「再生に伴う痛みが尋常じゃないものでして。普通の人間であれば絶対に精神が崩壊してしまいますね」
要するに失敗作です、とロウルは笑った。
「ですが、僕の身体だけは例外で、その痛みが緩和、というより薬のうち過ぎのせいで痛覚が鈍った事が幸いして、耐える事ができるんです」
そのせいでついた二つ名が『不死身』。
誰かを治したい。その一心で作り上げた薬は、自分だけを守る事ができる壊れた凶薬に成り果てた。
「皮肉な結果でしょう?」と言うロウルの表情には、筆舌に尽くし難い暗い影が宿っている。
「ま、この能力のお陰で、僕は孤島の中心部に辿り着く事ができたんですけどね」
すでに孤島のシルエットは帆船からうっすらと見えている。豆のように小さなそのシルエットに、ロウルだけは、懐かしさを抱かずにはいられなかった。
「あぁ、それと」
ロウルは短剣を収めながら、さり気なく一言。
「僕の血液には、触れないようにしてくださいね」
え?と思う者も数人いたが、触れてはいけない理由はすぐ側に転がっていた。
斬り落とされた人差し指が落ちていた場所だけ、異様な変色を遂げていたのだ。
見た者を不快にさせるような、ドスの利いた紫色に。
ロウル・ツベルグという男の体質を知っていた故に、真っ先にウェルスは気づく。
彼が何をしてきたのか、を。
「ッ……、ロウル、お前身体の血を全て……」
猛毒に変えてきたのか……ッ!!
そうウェルスが言い切るより先に、言葉が返ってくる。
「――戦いですよ」
低い声。
普段のロウルとは打って変わって、力の込められた声だった。
「死なない為に準備は怠らない。そんな事、当然じゃないですか」
ロウル・ツベルグは生粋の〝英雄〟ではない。
ゆえに、驕りが一切ない。
それが何にも勝るロウル・ツベルグという人間の強みであると、ウェルス・メイ・リィンツェルは理解している。だからこそ、常識の埒外とも言える行為をこうも当たり前に行えてしまうと、分かってしまう。
敵に自分の身体の一部が喰われてしまう事を念頭に置き、その状況ですら自分に有利に働く一手に繋げるべく、誰よりも命懸けでこの場所に立っている。
「甘さは捨ててください、ウェルス王子。あそこに存在する脅威は魔物だけではないのですから」
むしろ、魔物はオマケです、とロウルは付け加える。
「あの島には魔物が何匹も存在しています。ただ、その魔物達はあの島の本当の住人ではないんです」
「……どういう意味だ」
ウェルスですら事前に聞いていない、孤島に関する情報。どうして今の今まで秘匿していたのか。
加えて、含みのある言葉に苛立ちを隠せず、ウェルスは堪らず聞き返していた。
「言葉の通りですよ。あの島の住人は、魔物ではありません」
「……おいおい」
焦燥の感情が声に孕む。
ロウルが何を言いたいのかをいち早く理解してしまったゼィルムは、自らが至ってしまった嫌な予感を口にした。
「じゃあなんだ? その魔物は何かに使役でもされてるって言うのか? その魔物は、曲がりなりにも二〇〇年前の〝英雄〟を退けたと、俺は聞いてるんだがな……」
島に存在している。
だけれど、島の住人ではない。
であるならば、答えは限られてくる。
ロウルは恐らく、広く伝えられている魔物はオマケでしかない、と言いたいのだろう。その魔物を使役できるような他の化け物がいる、と。
だが、〝英雄〟を斃せるレベルの魔物を使役できる者がいるという話は、ゼィルム自身聞いた事がなかった。故に、でまかせだなと笑う。
ただ、その笑みが続いたのは数秒だけであったが。
「数百年前、大陸からとある種族が排斥されました」
ピクリとゼィルムの片眉が跳ねた。
数百年前。種族。
考古学者であるゼィルムの中で、最悪の予感が脳裏を過った。不穏な空気をロウルの言葉から感じ取ったのか、リーシェン達も全員が顔を引きつらせている。
数百年前ともなれば、平均寿命が五〇歳にも満たないこの世界においては、途方もなく遥か昔の出来事にあたる。
「ある種族は、数百年前のその日を以て絶滅した、はずでした。ですが、その種族のある一族だけは人知れず逃げ果せていたのです」
ロウルだけは、真の敵の正体を知っていた。
二〇〇年前に英雄らが集っても知る事が叶わなかった事実を、身を以て知っていた。
「彼らはあの孤島を『聖域』と呼んでいます」
「『聖域』?」
「ええ。『聖域』――セイクリッドと、言っていました」
「〝侵されぬ聖域〟、か」
ふぅ、とため息を吐いたのは誰だったか。
そんな事を気にすることもなくロウルは言葉を続けた。
「島は大きな見えない膜に包まれています。誰かがそこに入り込んだその瞬間に、侵入者を排除する為に魔物が放たれる仕組みです」
もしかしたら、視える体質であるリーシェンであればその膜が視えるかもしれない。なんて思ったのか、一瞬だけリーシェンに視線を向けてからロウルは細かな説明を補足した。
「島に入ったが最後。生きのびる為には、島の半径一〇〇メートルまで外に出るか、敵を倒す以外に方法はありません」
ですから――
「だから、準備し過ぎなんて事はあり得ないんです。負けたその瞬間に、死ぬんですよ?」
散々に痛めつけられ、『不死身』の身体を以てしても数百回と殺されたロウルだからこそ、力を込めて言う。
「……あの孤島に住まう種族は、吸血鬼」
かつて、栄華を誇った戦闘種族。
あまりの凶悪さと、同族を除いた無差別の吸血行為を続けたが為に、他の種族からの恨みを買い、排他されてしまった一族。
最早、おとぎ話レベルの話だ。
それでも、ロウルは沈痛な面持ちから表情を変えない。
「数百年前の生き残りにして、眷属である魔物を使役する主人です」
故に、ロウルは魔物をオマケと呼んだ。
その魔物でさえ、〝英雄〟クラスの強さのものがいるという。戦闘種族と呼ばれていただけに、彼らの戦闘能力は頭抜けていた。
「この中の誰かが目の前で死んだとしても、怒りに駆られる事だけは、ないように」
激情したところで、死体が一つ増えるだけ。
多くの者を生き残らせる為にも、まずこの五人に話すべきだとロウルは考えた末、今に至る。
「もし、吸血鬼と出くわしたとしても、吸血鬼との戦闘だけは、何があっても避けるようにお願いします」
思い出されるかつての記憶。
一矢報いようと足掻いた、いつかの経験。
歯が立たない以前に、相手にすらされなかった苦い思い出。そして思い知らされた、火を見るよりも明らかな、単純明解な種族の差。
対面した時、胃や腸が捻れ切れるのではと錯覚してしまった思い出が蘇る。それ程までに圧倒的な威圧感であり、存在感であった。
故に、言う。
少しでも、生存率を上げる為に。
「――あれは、人が勝てる相手ではありません」
第五話 始まりの音
「リーシェン姫殿下とゼィルムには、これを渡しておきます」
そう言って、ロウルは彼女らに白一色の何かを一つずつ手渡していく。
大きさは直径一五センチ程で、筒状のモノに丸いボタンが一つ取り付けられているだけの、簡易的な装置であった。
どうも、ボタンを押す事で筒の先から何かが打ち出される仕組みであるらしい。
「これは……」
リーシェンが見慣れないモノを不思議そうに眺めて言葉を詰まらせたところで、ロウルは笑って答えを口にする。
「信号銃です。虹の花を集め終わり次第、これを空に向けて撃ってください」
リーシェンがどうしてと尋ねるより先に、ロウルの言葉が続いた。
「船はもしもの事がないように、遠方で待機させておきます。なので、それは帰還の合図です。ゼィルムがその時存命であれば、ゼィルムの能力を使う。そうでなければ、僕達がリーシェン殿下を迎えに行く目印として扱うので、くれぐれも失くさないようお願いします」
どうして信号銃を渡されたのか、その理由が判明する。
死ぬ事を前提にした理由であった故に、リーシェンだけはゴクリと音を立てて唾を嚥下していた。
「僕達は始めに船を着けた場所付近にて魔物を引きつけ続けます。ですので、信号弾を撃ったら『虚離』の能力でここまで移動を。ゼィルムがいなかった場合は、信号弾は後回しで構いません」
これが、合流する手筈になります――と、説明が終わる。全員の理解が得られた事を確認するように、ロウルが各々の顔を見回した。
「説明は以上になりますが、大丈夫そうですね。では、僕は騎士達にも説明をしてきますので、皆さんは休養を取っていてください」
そう言ってから、船内に続くドアに向かってロウルが歩き出す。
十数秒後。バタン、と扉が音を立てて閉められると同時に、沈黙という名の静寂が場に降りた。
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