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semper crescis aut decrescis;(汝は常に満ち欠けを繰り返す)
女優と老演出家
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1:劇場にて
この小さい国が不穏な空気に包まれ始めたのはいつからだったろうか?
だが、そのような状況下にあっても人々は娯楽を求める。否、現実から目を背けたい気持ちのなせる業なのであろう。
今夜もこの国で指折りの劇団「コメディ・ラ・ロズレ」の興業は幕を下ろし、俳優たちは三々五々家路につこうと支度を始めたのだったが・・・
「アディ、いるか?」
劇団のプリマドンナ、アドリエンヌ・クレールは楽屋で座長のジェラール・マティスにドア越しにそう声を掛けられた。
「ええ、空いているから入ってちょうだい」
アドリエンヌ─アディは疲れのにじまない明瞭な声で座長であり養父でもあるマティスに答える。「どうかしたの?」
やや不機嫌そうに楽屋に足を踏み入れたマティスは彼女に一通の手紙と小箱を渡す。「いつもの男からだ…アディ、常々言い含めていることだが特定のファンとは─」
然し、その言葉が終わらぬうちに「まあ! エクトールったら。ここにはあまり来ないでと言っているのに、困った人ね」とアディがセリフとは裏腹にその麗しく艶やかな顔を赤い薔薇のように綻ばせる。それを見てマティスは思わず眉をしかめた。
エクトール。ロアン伯爵であり今までその若さにも関わらず幾度も叙勲を受けている勇敢な美貌の騎士。この国のトップ女優であるアドリエンヌ・クレールはその男に心惹かれているのだ。マティスにとっては座長としても養父としても由々しき事態だった。
「今日はいったい何を? …なんて綺麗! サファイアのイヤリングだわ。深くてどこまでも青い…小さな月長石で縁取られていて…むしろこれはジャンヌのほうがお似合いかもね」
小箱から涙型のイヤリングを取り出したアディは陶然としている。「ジャンヌ」とはこの劇団のセコンダドンナであるジャンヌ・ピレーシュのことだ。豪商の娘で気位は高いが、本来ライヴァルであるアディとは仲が良い。人々はアドリエンヌを赤薔薇、ジャンヌを白薔薇と評するのが常だった。
「…アディ」
マティスは低い声で「いいか、お前は女優なんだぞ? 取り巻きたちに特別な男がいると知られては人気に陰りが出る。ロアン伯にもよく言っておけ」と釘を刺す。
するとアディはやや困惑したように微笑む。「大丈夫よ。あの人に限ってそんなことはないわ…私は、彼を信頼しているもの」
信頼、か。薄っぺらな恋愛感情ではなく信頼―
マティスは5歳から育てていた義理の娘がもう子供ではないのだと痛感させられた。そうか、アディも23歳になるのか…そろそろ結婚を意識してもいい年齢だ。
「ではな、明日の興業もしっかり頼んだぞ」
複雑な感情を振り払い、マティスはアディの楽屋を後にする。仕方がない、俳優にとって恋愛も勉強のうちであることは何より元役者である自分がよく知っている。つまらぬ私情を持ち込んではならないのだ。
ふう、と一つ息をついて廊下を歩き始めると帰り支度を済ませたジャンヌが向こうからやってくるのにゆき当たった。
「あら、ジェラール。お疲れのようね…その様子だとまたアディの想い人絡みかしら?」
白いトレーンのついた大きな青い帽子を整えながらジャンヌ・ピレーシュが白い首を優雅に傾げる。彼女は隣国の出身で本名をジョヴァンナ・ピリスといった。この地域では争乱など日常茶飯事に近い。「敵国」の人間だろうと、この国にいてこの国の言葉を話していればそれはもう同胞なのである。
「ああ…いっそのことあいつがジャンヌに心変わりでもしてくれれば万々歳だが」
つい本音が出てしまう。
「もう、ジェラールったら。いくらアディが可愛い娘だからといってそんなこと言うもんじゃないわ…そりゃ私だって貴族の恋人欲しいけど」
母親から貴族と結婚しろとうるさく言われているジャンヌは口をとがらせる。さりとて彼女は他人の恋人を盗るような卑しい品性の持ち主ではないのだが。
「じゃあ、また明日ね。アディにロアン伯爵のお友達を紹介してくれるように言っておいて」
冗談とも本気ともつかない口調でジャンヌはそう言うと、足早に劇場を出て行った。
薄暗い廊下に取り残されたマティスは、いつもの劇場にも関わらず、ふと今まで感じたことの無い寒気を覚えた。どうした、いったい―それでなくともこの国には「災厄」としか呼ぶことの出来ない奇怪な出来事が蔓延しつつあるというのに。
小競り合いのことは政治屋と軍隊に任せておけばいい。我々は市民たちに希望を持ち続けて欲しいから、今日も明日も芝居をする。その程度しか出来ないし、それが精一杯であった。
明日のことは明日、心配すればいい。今日はもう帰ろう―そして老演出家も帰り支度を始める。そして、数日後によもやあのような事態になろうとは神ならぬ身では知る由もなかった―
この小さい国が不穏な空気に包まれ始めたのはいつからだったろうか?
だが、そのような状況下にあっても人々は娯楽を求める。否、現実から目を背けたい気持ちのなせる業なのであろう。
今夜もこの国で指折りの劇団「コメディ・ラ・ロズレ」の興業は幕を下ろし、俳優たちは三々五々家路につこうと支度を始めたのだったが・・・
「アディ、いるか?」
劇団のプリマドンナ、アドリエンヌ・クレールは楽屋で座長のジェラール・マティスにドア越しにそう声を掛けられた。
「ええ、空いているから入ってちょうだい」
アドリエンヌ─アディは疲れのにじまない明瞭な声で座長であり養父でもあるマティスに答える。「どうかしたの?」
やや不機嫌そうに楽屋に足を踏み入れたマティスは彼女に一通の手紙と小箱を渡す。「いつもの男からだ…アディ、常々言い含めていることだが特定のファンとは─」
然し、その言葉が終わらぬうちに「まあ! エクトールったら。ここにはあまり来ないでと言っているのに、困った人ね」とアディがセリフとは裏腹にその麗しく艶やかな顔を赤い薔薇のように綻ばせる。それを見てマティスは思わず眉をしかめた。
エクトール。ロアン伯爵であり今までその若さにも関わらず幾度も叙勲を受けている勇敢な美貌の騎士。この国のトップ女優であるアドリエンヌ・クレールはその男に心惹かれているのだ。マティスにとっては座長としても養父としても由々しき事態だった。
「今日はいったい何を? …なんて綺麗! サファイアのイヤリングだわ。深くてどこまでも青い…小さな月長石で縁取られていて…むしろこれはジャンヌのほうがお似合いかもね」
小箱から涙型のイヤリングを取り出したアディは陶然としている。「ジャンヌ」とはこの劇団のセコンダドンナであるジャンヌ・ピレーシュのことだ。豪商の娘で気位は高いが、本来ライヴァルであるアディとは仲が良い。人々はアドリエンヌを赤薔薇、ジャンヌを白薔薇と評するのが常だった。
「…アディ」
マティスは低い声で「いいか、お前は女優なんだぞ? 取り巻きたちに特別な男がいると知られては人気に陰りが出る。ロアン伯にもよく言っておけ」と釘を刺す。
するとアディはやや困惑したように微笑む。「大丈夫よ。あの人に限ってそんなことはないわ…私は、彼を信頼しているもの」
信頼、か。薄っぺらな恋愛感情ではなく信頼―
マティスは5歳から育てていた義理の娘がもう子供ではないのだと痛感させられた。そうか、アディも23歳になるのか…そろそろ結婚を意識してもいい年齢だ。
「ではな、明日の興業もしっかり頼んだぞ」
複雑な感情を振り払い、マティスはアディの楽屋を後にする。仕方がない、俳優にとって恋愛も勉強のうちであることは何より元役者である自分がよく知っている。つまらぬ私情を持ち込んではならないのだ。
ふう、と一つ息をついて廊下を歩き始めると帰り支度を済ませたジャンヌが向こうからやってくるのにゆき当たった。
「あら、ジェラール。お疲れのようね…その様子だとまたアディの想い人絡みかしら?」
白いトレーンのついた大きな青い帽子を整えながらジャンヌ・ピレーシュが白い首を優雅に傾げる。彼女は隣国の出身で本名をジョヴァンナ・ピリスといった。この地域では争乱など日常茶飯事に近い。「敵国」の人間だろうと、この国にいてこの国の言葉を話していればそれはもう同胞なのである。
「ああ…いっそのことあいつがジャンヌに心変わりでもしてくれれば万々歳だが」
つい本音が出てしまう。
「もう、ジェラールったら。いくらアディが可愛い娘だからといってそんなこと言うもんじゃないわ…そりゃ私だって貴族の恋人欲しいけど」
母親から貴族と結婚しろとうるさく言われているジャンヌは口をとがらせる。さりとて彼女は他人の恋人を盗るような卑しい品性の持ち主ではないのだが。
「じゃあ、また明日ね。アディにロアン伯爵のお友達を紹介してくれるように言っておいて」
冗談とも本気ともつかない口調でジャンヌはそう言うと、足早に劇場を出て行った。
薄暗い廊下に取り残されたマティスは、いつもの劇場にも関わらず、ふと今まで感じたことの無い寒気を覚えた。どうした、いったい―それでなくともこの国には「災厄」としか呼ぶことの出来ない奇怪な出来事が蔓延しつつあるというのに。
小競り合いのことは政治屋と軍隊に任せておけばいい。我々は市民たちに希望を持ち続けて欲しいから、今日も明日も芝居をする。その程度しか出来ないし、それが精一杯であった。
明日のことは明日、心配すればいい。今日はもう帰ろう―そして老演出家も帰り支度を始める。そして、数日後によもやあのような事態になろうとは神ならぬ身では知る由もなかった―
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