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821 ルナの話し ⑩ 慈愛

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「あ・・・・ス、スカーレッ・・・・・うッ!」

目の前に立つその女の名を口にしかけたその時、緋色の髪の女は一切の言葉を発する事なく、右手を伸ばし私の首を掴んだ。

あまりに突然だった。

ただの一言もなかった。
顔を合わせた瞬間に首を掴まれるなんて、夢にも思わなかった。
私達は闇の巫女だ。帝国にとって失ってはならない重要な存在のはず・・・それなのに、まさかこんな事をしてくるなんて・・・・・

あまかった。
自分達の利用価値を高く見て、手荒な真似はできないだろうって慢心していた。


「うっ、ぐっ・・・!」

両手でスカーレットの腕を掴み、引き離そうと力を入れるけど、私の首を掴むスカーレットの右腕はびくともせず、とても引き離せそうにないくらい強かった。


「・・・・・覚悟はできてるんだよね?」

スカーレットの金茶色の瞳が、刃のように鋭く私を見据える。
背筋が凍るような、恐ろしいくらいに研ぎ澄まされた殺意。

本気だ・・・・・スカーレットは本気で私を殺す気だ。

帝国に連れて帰る事も頭にはあるだろう。だけど抵抗されてまた逃げられるくらいなら、殺してもかまわないと思っている。

握り潰されると思う程、スカーレットが私の首を掴む力は強い。
ギリギリ・・・そう、あと少し、もうほんの少しだけ力を入れれば、私の首を潰せるギリギリのところでスカーレットは止めていた。

「・・・ねぇ?聞いてるんだけど?あの時私の手を取らなかった。つまり覚悟はできてるって事だよね?ねぇ?返事くらいしてよ?」

「あぐっ!・・・う・・・・あ・・・・」

スカーレットの腕に更に力が入り、呼吸が全くできない程に絞めつけられた。

息が・・・でき、ない・・・・・
意識が・・・・・


気が遠くなって、視界が真っ赤に染まった・・・・・



「やめろーーーッツ!」

かすかに聞こえる叫び声・・・

私の意識が暗い穴倉に落ちそうになったその時、首を圧迫していたスカーレットの手が突然外れた。
腰が抜けるように地面に落ちて、私はそのまま倒れ込んだ。

「ウッ・・・ゲホッ!ゲホッ!・・・ハァッ!ゼェッ!うぅ、はぁ、はぁ・・・げほっ!」

解放された喉に供給を止められていた空気が入るが、激しい咳とともにすぐに吐き出される。


「ルナっ!起きて!ルナ!」

咳が止まらず強く圧迫されていた喉の痛みに、私が倒れ込んでいると、私を呼ぶイリーナの声が聞こえて顔を上げた。


「ルナ!逃げて!早く逃げて!」

「げほっ・・・うぅ、え・・・イ、イリー・・・ナ?・・・・・・・」

目の前の光景が信じられなくて、私は言葉を失った。


「ルナ!逃げてー-ー-----ッツ!」


イリーナはスカーレットの体にしがみついて、地面に押し倒していた。
さっき私の喉からスカーレットの手が外れたのは、イリーナがスカーレットにぶつかって行ったからだったんだ。

「イ、イリーナ・・・・・」

「行って!私がこいつを抑えている間に逃げて!」

怖いくらい必死な顔で私に声を飛ばすイリーナに、私は一瞬ビクリと体をこわばらせた。

こんなイリーナは初めて見た。スカーレットの上に覆いかぶさり、両腕を脇の下に入れて自由にさせないように押さえ込んでいる。


「くっ、このっ、離せイリーナ。私はお前達を生かして連れ帰ればいいだけだ。別に五体満足でなくてもいいんだぞ?」

押し倒されたスカーレットの声には、僅かな苛立ちが感じられた。
スカーレットの右手に風が集まり、空気を斬り裂く鋭い音が持続的に鳴り出した。

「それで私の手なり足なり斬るつもり?やってみなよ?失血死、ううん、私みたいなか弱い女は、痛みで死んじゃうね。白魔法使いは連れて来てないんでしょ?」

スカーレットの右手を見ても、イリーナは怯むことはなかった。
その蒼い瞳で、スカーレットの金茶色の瞳と正面から睨み合う。

「・・・私に正面から言葉を返すか・・・か弱いが聞いて呆れる」

脅しだったのだろう。スカーレットの右手の風が散る。淡々としているが、僅かな言葉の抑揚が、イリーナが自分にぶつかってきた事、そして自分に向かって臆せず言葉を発している事への驚きが感じられる。

「ルナ!何してるの!さぁ今のうちに行って!クインズベリーはすぐそこよ!」

再び私に向かって声を張り上げるイリーナ。
でも、私だけ逃げるなんてできない。

「イ、イリーナも一緒に・・・」
「行って!私は大丈夫だから!早く行きなさい!」

私が近づこうとすると、イリーナは一層厳しい顔で、より高い声を私に飛ばした。

「い、イリーナ・・・や、やだよ・・・い、一緒に・・・」

自分でも気づかないうちに、私の目には涙が溜まり声が震えていた。

私一人だけクインズベリーに?そんな事できない。私とイリーナはずっと一緒だったんだ。
これからも一緒じゃなきゃ嫌だ・・・・・


「ルナ!思い出して!私は大丈夫!でも私達二人が捕まったら本当にお終いかもしれないんだよ!あなただけでも逃げなきゃ駄目なの!お願いだから行って!」

「イ・・・イリー・・・ナ・・・・・」

堪えきれずに、ボロボロと涙があふれ出した。
どうして?あと少しだったのに・・・あともう少しでイリーナと二人でにげられたのに・・・・・
ううん、そうじゃない・・・・・どうして私とイリーナが、こんな闇の巫女なんてものに選ばれなきゃならないの?どうして・・・・・

私達は、ただ普通に生きたかっただけなのに・・・・・



「・・・ルナ、大丈夫・・・きっとまた会えるから・・・・・お願い、行って・・・」


「うっ・・・うう・・・イリーナ・・・・・・う、うう・・・うわぁぁぁぁぁー-----!」


私は背を向けて逃げ出した。

最後に見たイリーナは笑顔だった。私が心配しないようにって、少しでも私の気持ちを楽にするために・・・・・笑顔で・・・・・笑顔で送り出してくれた。


【思い出して】・・・・・イリーナの言ったこの言葉は、多分昨晩の事だ。

トバリは私達に言っていた、オマエタチハマダダ・・・と。
それなら大丈夫かもしれない。
イリーナが捕まって闇に捧げられても、闇がイリーナを拒むんだ。
帝国だって、それ以上どうしようもないはずだ。

私にできる事を考えるんだ。
今の私には逃げる事しかできない、だったら逃げ切るんだ!
クインズベリーに行って助けを求めるんだ!絶対にイリーナを助けるんだ!


私は走った。溢れる涙を噛み締めて走った。
私を助けるために残ったイリーナを想うと、胸が張り裂けそうになる。

「う、うぅ・・・・・イ、イリーナ・・・・・・」

涙が溢れて止まらなかった。
けれど唇を噛み締めて私は走った。


イリーナ・・・・・絶対に、絶対に助けるから!







「・・・イリーナ、お前はルナが本当に助かると思ってるのか?」

「・・・どういう意味?」

「追ってが私一人ではない事は知ってるだろ?コルディナにレジス、カシレロにデービスまで来ているんだ。ヤツらはすでにクインズベリーに入っている。ルナは捕まりに行ったようなものだよ」


スカーレットの言葉は、イリーナを絶望させるだけの力があった。
自分が身を挺して助けたはずのルナが、わざわざ敵の待つ場所へと逃げて行った。
それはイリーナの気力をもぎ取るには十分なはずだった。

だが・・・・・


「・・・そう、だから何?ルナは捕まらないわ」

予想外の反応だった。
絶望に顔を青く染めるどころか、逆にスカーレットを挑発する。
イリーナの毅然とした態度に、スカーレットの瞳が僅かに揺れる。

「あんた、ルナの事何も知らないでしょ?ルナはね、少し気弱なところはあるけど、自分をしっかり持ってるの。こうと決めたらしっかりやりぬく強い心を持ってるの。だから絶対に捕まらないわ」

「・・・何を言うかと思えばただの根性論か?馬鹿らしい。けどその目・・・お前のその目は気に入らないね。どうにもならない現実がある事を教えてやろう」

次の瞬間イリーナは、腹の下から突如吹いた強烈な風に飛ばされ、数メートル程後ろに転がされた。

「うぐっ!う・・・痛っ・・・」

何度か体を回してようやく止まるが、あちこちが痛み、すぐには起き上がれなかった。
一瞬でボロボロになったイリーナは、地面に手を着いて気力を振り絞って顔を上げる。

「イリーナ・・・これだけ私を挑発したんだ、覚悟はできてるんだよね?ねぇ?殺しはしないよ。けど、ちょっと痛い目はみてもらうからね?」

目の前には、氷のように冷たい目をしたスカーレットが、イリーナを見下ろして立っていた。
桁違いの魔力が威圧するように、イリーナに向けて発せられている。
その魔力を浴びせられただけで、イリーナの全身は震えあがりそうだった。


「・・・ふふ・・・・・」

「・・・何がおかしい?」

絶望的なこの状況でイリーナは笑った。




ねぇ、ルナ・・・本当はね、私も寂しかったんだ

フィリス様がいなくなって、私はあの冷たくて暗い部屋でいつも一人だった

だからね、ルナ・・・あなたと初めて会った時、私は本当に嬉しかったの

もう一人じゃないんだって、お友達ができたって

あの部屋に連れて来られて、あなたはとても心細かったと思う
私もそうだったから分かるわ・・・・・

でも私にはフィリス様がいた
初めてあそこに連れて行かれた日、フィリス様が私を慰めてくれたの
私の心はフィリス様に救われたの


だから今度は私が・・・・・・
あなたが笑えるように、あなたが私と一緒で良かったって、そう思ってもらえるように・・・



「ルナ・・・・・大好きだよ」


風に揺れる絹糸のような金色の髪
大切な人を想う慈愛に満ちた青い瞳


ルナが逃げられて良かった・・・・・・


かけがえのない大切な友達を想い、イリーナは微笑んだ
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