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ストーカー編──第四章『攻防と転落』──

その29。嵐の中で 1

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しばらくぶりね。元気そうじゃない。まぁ、話は後で良いわね。いらっしゃい、先方様も待ってるから」
「……行かない」
「何を今更。ここに来たのはその為でしょ?」
「違うから。俺、断ったよね。いい加減、勝手に話を進めるのやめてくれるかな」
「何を……。あら、誰その子」

 脩一しゅういち母は、すぐに奥へ彼を連れていこうとしたようである。けれども脩一はその場から動かず、拒絶の意思を言葉にも乗せた。
 わずかばかり苛立ちを見せた脩一母に、再度脩一の拒否の姿勢。そこでようやく、彼の背後にいた美鈴みすずに気付いたようだ。
 自分に意識が向けられた事で、美鈴は脩一の背から飛び出す。

「あの、初めまし、て……」

 ペコリと頭を下げ、改めて脩一母へ視線を向ける。
 淡い灰色に水色の小紋を散らした和装の、脩一に似た──いや、脩一が似ているのか──年齢の割りに若々しく見える女性だった。けれどその表情は冷たく、美鈴の言葉は尻すぼみになって消えてしまう。
 先程の女性とは違うが、美鈴を否定する視線である事は明白である。

「……さあ、行くわよ脩一。もう先方様が随分御待ちだわ」

 まるっと美鈴の存在を無視し、再び脩一へ声を掛けた母親。

「ほらっ……。何よ、その手」

 そして動かない脩一にごうを煮やしたのか、彼の腕を掴んだ──ところで、美鈴と繋がれた手に視線が留められる。

「行かないって言ってるだろ。もうこれ以上、俺の事に口を出さないでくれ。……今日はそれだけを言いに来た」
「な……にを……」
「さぁ、行こうか」
「脩一っ」

 完全な拒絶の姿勢を見せ、脩一は母親から視線を外した。あまりの事に対処出来ないのか、脩一母はなかば放心状態である。
 けれどもそれを気遣う事もなく、脩一は美鈴へと柔らかな視線と言葉を向けた。
 そして完全に脩一の背を見た母親が声を荒らげるも、彼の歩みを止められない。この状況に戸惑っている美鈴も同じで、結局脩一に促されるまま、その場を後にする事になった。

 ※ ※ ※ ※ ※

 ──まずいまずいまずいまずいまずいまずい……。

 美鈴の手を引きながら、脩一は迷う事なく車へ戻ってきた。勿論ヒールの美鈴を気遣う事は忘れず、だが。
 けれどもその心境は嵐の真っ只中である。
 あの時、何故かあの場所にいたのは──脩一のストーカー犯人だ。有弘なおひろの話では、北海道だか何処かに異動になった筈である。
 それがどうしてか、脩一の前に姿を表した。

「脩一、さん?」

 戸惑ったような静かな声に意識を戻される。見れば、困ったような顔で脩一を伺っている美鈴がいた。
 既に車に乗り込んでいるのにも関わらず、一向に発進しない彼をいぶかしんでの事か。

「あ……あぁ、ごめん。すぐ……」

 謝罪を口にしつつ、発進しようとギアに掛けた脩一の手に美鈴のものが乗せられる。
 その温かさに、どれだけ自分の手が冷たくなっているのかを知らされた。

「大丈夫?顔色悪いから、少し休憩していかない?」

 そしてその声音に、どれだけ自分の心が悲鳴をあげていたのかを知らされた。
 心配そうな美鈴の表情も、少しだけ脩一を冷静にしてくれる。

「……ふっ。それ、分かって言ってる?」
「えっ?」

 思わずこぼれた笑みのまま、驚きを隠さない美鈴へ脩一は言葉を続ける。

「『ホテルに行こうか』って意味があるんだけど」
「ぅきゅっ!なななななな何を、言って……」

 爆発したような勢いで顔を真っ赤にした美鈴は、これでもかとばかりに動揺を見せていた。

 ──さすがに、今言った事は分かるみたいだな。けど、フフフ……反応が面白すぎる。

 バタバタと手を振りながら否定しようとしている様子の美鈴だが、脩一に混乱させられていて言葉が出てこないようである。
 そんな美鈴の様子を見ていた脩一は、静かに息を吐き出した。
 胸に──心につっかえていたものが、少しだけ小さくなる。

「あの、さ。ちょっと聞いてほしいんだよね」

 脩一の変化に気付いたのか、美鈴は大人しく彼へと視線を留めてくれた。
 そんな彼女の態度に、脩一はギアから離した手を腹の上で組む。そして、シートに身体を預けるようにして、車の天井──正確にはその先に視線を向けた。

「俺、ね。ストーカー……ってのに合った事あるんだよね」
「っ」
 ポツリとこぼした言葉に、美鈴は何かを察したかのように息を呑んだ。

 ※ ※ ※ ※ ※

「俺、ね。ストーカー……ってのに合った事あるんだよね」

 その脩一の言葉は、鋭く美鈴の心に突き刺さる。
 テレビやインターネット等の情報で、どのようなものなのかは美鈴だって知っていた。でも、事実その被害に合った人を知らない。身近にない犯罪は多く、大半がモニタの向こう側の情報だった。
 けれども今、目の前にいる。そして恐らく、犯人はあの──。

「もう……六年くらい前なんだけどさ。その時はまだ物流倉庫勤務で……」

 静かに語られた脩一の過去。
 視線から始まり、社内ロッカー内への手紙、通勤時の尾行。自宅に盗撮された写真や手紙が毎日のように届けられ、社内ロッカーにも品物が入れられた。プレゼントだなんて思えないような『物』もあったらしい。
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