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かいこい編──第二章『出会い』──
その14。告白の裏側と動く感情 2
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「やっと下りてきた」
彼女が一番下の段に足を下ろした瞬間、声を掛ける。
可能な限り自分の動揺を見せないように、相手に付け込まれないように、脩一は己の心に鎧を纏った。──しかしながら、彼女の反応は想像していたものとは違っていたのである。
静かな通路で突然聞こえた脩一の声に驚いたのは分からなくもないが、反対側の壁にすがり付く程に凶悪な声ではない筈だ。けれども酷く動物的な反射で、瞳だけ大きく見開いてこちらの動きを観察している。
無表情で、瞬きだけをする女性。まるで野良猫の反応を見ているようだった。
「……分からない?」
それを見て、やはり彼女は『脩一が誰だか』分かっていないのだと確信する。だが同時に不快感を感じた。
脩一自身は、この場所でかれこれ十分弱待っている。勿論知人ですらない彼女と約束をしていた訳でもないし、それどころかこれから一方的な事情まで押し付けようとしている訳だ。
しかしながら何故か、脩一は自分を知らない彼女に苛立ちを覚えたのである。
「……でね。あ、お疲れ様です」
そこへ一課の元木が、電話をしながら階上へ歩いていった。その時僅かに彼女の瞳に光が灯る。
恐らく『知っている人』だったからだろうが、その反応がまた脩一の自尊心を引っ掻いた。
けれども頭の片隅で、『場所が悪い』と冷静な自分が訴え掛ける。
「……ちょっと時間ある?出よう」
「え……?あの?」
彼女の返答を聞く事なく、近くにあった右肘を掴んで引く。
それ程抵抗なくついてきてくれるようで、少しだけ心のトゲが和らいだ。だが、それも一瞬で終わる。
「あれ?……柊木さん、どうしたの?」
当直室から出てきたのは、確か一課受注担当のチーフである楳木だ。
直接脩一と関わりがなくとも、さすがにチーフの名前くらいは覚えている。
──柊木と言うのか。
「あ、お疲れ様です、楳木さん。私はもう上がりなので、お先に失礼します」
「あ、あぁ、うん。お疲れ様、柊木さん」
彼女の名前すら知らなかった脩一は、一課の楳木と彼女の会話に、自分への恐怖心が全く現れていない事に驚いた。
これまでの彼女の反応は、少なからず脩一の事を知らない筈なのにである。ここで楳木に助けを求められたとして、現状一番罰せられるのは脩一ではないかと冷静な自分が気付いた。
それでも彼女は何も告げない。そのせいか楳木は何も追及してくる事なく、俺達を見送った。
何だかその一連の出来事に毒気を抜かれた気がして、脩一は知らず込められていた肩の力を抜く。そして先程より腕を掴む力を緩め、そのまま少し離れた場所にある公園まで歩いてきた。
「……柊木」
「はい?」
名前を呼んでも、先程の楳木に対するものとは違う反応が返ってくる。
ただ真っ直ぐ見上げられる視線。
「俺を知らないのか」
そう再度問い掛けても、きょとんとした表情を浮かべるだけだった。
そもそもが『脩一を知っているか否か』の問題ではない。過去の経験から、自分に向けられる女性の反応はこんな純粋なものではなかった。
自意識過剰なのだと言われてもおかしくない程、彼女は脩一に興味がないようである。
そんな反応に、自然と笑いが込み上げてきた。
「俺を見て、無表情でいられる女がいるとはな。……面白い。お前、名前は」
「え……柊木、です」
「それは知っている、さっき聞いた。下の名前だ。ファーストネーム」
「……美鈴、ですけど」
「みすず……な。分かった、美鈴。俺と付き合え」
「は……え?」
不審そうな表情から、少し怒ったような表情に変わる。そして次に驚いた表情が、真っ直ぐ脩一に向けられた。
くるくる変わる反応に、脩一は柔らかく目を細める。
──そうだ。彼女……美鈴は、感情が顔に出ない訳じゃない。警戒が強い時には、感情が出にくいだけなんだな。
こんな『初告白』になった脩一だが、妙に心の中は晴れ晴れしている。
「あのっ。失礼ですけど、貴方は誰なんです?」
再び怒った顔になり、言葉でも食いついてきた美鈴だ。
『誰か』と怒りと共に問い掛けられたのは初めてである。常識的に考えて、突然『付き合え』と言われたらこうなる筈だ。
──そう、これなんだよ。
脩一は楽しくて仕方がない。
女性と会話して『楽しい』だなんて、初めてではないだろうかと今更ながらに思った。
「くくくっ……それだよ、それ」
美鈴を逃がさないように右手を放さず、でも腹部が痛みを覚える程、脩一は押し殺していても笑いが耐えられない。これ程感情を動かされるのも、久し振りだった。
仕事で上手くいっても、何をしていても、楽しかったり嬉しかったりは一瞬だったのである。それによって目をつけられるかもしれないという、ストーカーに対する恐怖が常にあった。
「くく……っ、良いな美鈴。俺は脩一……、牧田脩一だ。今から美鈴の彼氏な」
「へっ?な、何……あ、良い匂いの人っ」
脩一を押し退けようとしたようで、美鈴の両腕に力が入る。けれども腕の中でもがいていた彼女の方が、逆に脩一にすり寄ってきた。
一瞬、『女性』への恐怖心が湧き上がる。だが美鈴の仕草は身体を擦り付けるものではなく、どちらかと言えば犬が嗅覚を使うようなものだった。
「は?におい?」
──ちょっと待て、俺って臭いのか?あ、いや、良い……匂い?
「うん、良い匂い。石鹸?何か、爽やかな……ってちょっと、放して下さいよっ」
「嫌だ。顔を誉められた事は嫌という程あるが、体臭は初めてだ」
戸惑いから思わず美鈴の顔を覗き込んだ脩一だったが、嫌悪を表す言葉ではなかった事に安堵する。それどころか逆に、誉められたのだ。
その後の解放要求を即却下し、再び抱き締める脩一である。
──ヤバい。無性に嬉しいんだけどっ。
陽が暮れ始めの空の下、せめて自身の顔の熱が冷めるまではと、脩一は思う存分美鈴を抱き締めていた。
彼女が一番下の段に足を下ろした瞬間、声を掛ける。
可能な限り自分の動揺を見せないように、相手に付け込まれないように、脩一は己の心に鎧を纏った。──しかしながら、彼女の反応は想像していたものとは違っていたのである。
静かな通路で突然聞こえた脩一の声に驚いたのは分からなくもないが、反対側の壁にすがり付く程に凶悪な声ではない筈だ。けれども酷く動物的な反射で、瞳だけ大きく見開いてこちらの動きを観察している。
無表情で、瞬きだけをする女性。まるで野良猫の反応を見ているようだった。
「……分からない?」
それを見て、やはり彼女は『脩一が誰だか』分かっていないのだと確信する。だが同時に不快感を感じた。
脩一自身は、この場所でかれこれ十分弱待っている。勿論知人ですらない彼女と約束をしていた訳でもないし、それどころかこれから一方的な事情まで押し付けようとしている訳だ。
しかしながら何故か、脩一は自分を知らない彼女に苛立ちを覚えたのである。
「……でね。あ、お疲れ様です」
そこへ一課の元木が、電話をしながら階上へ歩いていった。その時僅かに彼女の瞳に光が灯る。
恐らく『知っている人』だったからだろうが、その反応がまた脩一の自尊心を引っ掻いた。
けれども頭の片隅で、『場所が悪い』と冷静な自分が訴え掛ける。
「……ちょっと時間ある?出よう」
「え……?あの?」
彼女の返答を聞く事なく、近くにあった右肘を掴んで引く。
それ程抵抗なくついてきてくれるようで、少しだけ心のトゲが和らいだ。だが、それも一瞬で終わる。
「あれ?……柊木さん、どうしたの?」
当直室から出てきたのは、確か一課受注担当のチーフである楳木だ。
直接脩一と関わりがなくとも、さすがにチーフの名前くらいは覚えている。
──柊木と言うのか。
「あ、お疲れ様です、楳木さん。私はもう上がりなので、お先に失礼します」
「あ、あぁ、うん。お疲れ様、柊木さん」
彼女の名前すら知らなかった脩一は、一課の楳木と彼女の会話に、自分への恐怖心が全く現れていない事に驚いた。
これまでの彼女の反応は、少なからず脩一の事を知らない筈なのにである。ここで楳木に助けを求められたとして、現状一番罰せられるのは脩一ではないかと冷静な自分が気付いた。
それでも彼女は何も告げない。そのせいか楳木は何も追及してくる事なく、俺達を見送った。
何だかその一連の出来事に毒気を抜かれた気がして、脩一は知らず込められていた肩の力を抜く。そして先程より腕を掴む力を緩め、そのまま少し離れた場所にある公園まで歩いてきた。
「……柊木」
「はい?」
名前を呼んでも、先程の楳木に対するものとは違う反応が返ってくる。
ただ真っ直ぐ見上げられる視線。
「俺を知らないのか」
そう再度問い掛けても、きょとんとした表情を浮かべるだけだった。
そもそもが『脩一を知っているか否か』の問題ではない。過去の経験から、自分に向けられる女性の反応はこんな純粋なものではなかった。
自意識過剰なのだと言われてもおかしくない程、彼女は脩一に興味がないようである。
そんな反応に、自然と笑いが込み上げてきた。
「俺を見て、無表情でいられる女がいるとはな。……面白い。お前、名前は」
「え……柊木、です」
「それは知っている、さっき聞いた。下の名前だ。ファーストネーム」
「……美鈴、ですけど」
「みすず……な。分かった、美鈴。俺と付き合え」
「は……え?」
不審そうな表情から、少し怒ったような表情に変わる。そして次に驚いた表情が、真っ直ぐ脩一に向けられた。
くるくる変わる反応に、脩一は柔らかく目を細める。
──そうだ。彼女……美鈴は、感情が顔に出ない訳じゃない。警戒が強い時には、感情が出にくいだけなんだな。
こんな『初告白』になった脩一だが、妙に心の中は晴れ晴れしている。
「あのっ。失礼ですけど、貴方は誰なんです?」
再び怒った顔になり、言葉でも食いついてきた美鈴だ。
『誰か』と怒りと共に問い掛けられたのは初めてである。常識的に考えて、突然『付き合え』と言われたらこうなる筈だ。
──そう、これなんだよ。
脩一は楽しくて仕方がない。
女性と会話して『楽しい』だなんて、初めてではないだろうかと今更ながらに思った。
「くくくっ……それだよ、それ」
美鈴を逃がさないように右手を放さず、でも腹部が痛みを覚える程、脩一は押し殺していても笑いが耐えられない。これ程感情を動かされるのも、久し振りだった。
仕事で上手くいっても、何をしていても、楽しかったり嬉しかったりは一瞬だったのである。それによって目をつけられるかもしれないという、ストーカーに対する恐怖が常にあった。
「くく……っ、良いな美鈴。俺は脩一……、牧田脩一だ。今から美鈴の彼氏な」
「へっ?な、何……あ、良い匂いの人っ」
脩一を押し退けようとしたようで、美鈴の両腕に力が入る。けれども腕の中でもがいていた彼女の方が、逆に脩一にすり寄ってきた。
一瞬、『女性』への恐怖心が湧き上がる。だが美鈴の仕草は身体を擦り付けるものではなく、どちらかと言えば犬が嗅覚を使うようなものだった。
「は?におい?」
──ちょっと待て、俺って臭いのか?あ、いや、良い……匂い?
「うん、良い匂い。石鹸?何か、爽やかな……ってちょっと、放して下さいよっ」
「嫌だ。顔を誉められた事は嫌という程あるが、体臭は初めてだ」
戸惑いから思わず美鈴の顔を覗き込んだ脩一だったが、嫌悪を表す言葉ではなかった事に安堵する。それどころか逆に、誉められたのだ。
その後の解放要求を即却下し、再び抱き締める脩一である。
──ヤバい。無性に嬉しいんだけどっ。
陽が暮れ始めの空の下、せめて自身の顔の熱が冷めるまではと、脩一は思う存分美鈴を抱き締めていた。
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