9 / 92
かいこい編──第二章『出会い』──
その9。幸運と衝撃のダブルパンチ 1
しおりを挟む
※ ※ ※ ※ ※
「回線、切り替わります」
フロアの遠くで声が聞こえ、これで本日の受注時間は終了となる。受注専用の電話回線が閉じられ、そちらに電話をしてもアナウンスが流れるだけになるのだ。
美鈴が時計を確認すると、既に十七時を過ぎていた。
そしてこの後の時間からのメンバーは、基本的に当番の受注担当とパラパラ帰社してくる営業担当になる。そして電話は営業専用回線のみ通じる形になっている為、全く通知音が鳴らないわけではない。
そんな中、当然のように当番ではない者達が、一人また二人とフロアから出ていった。勿論、神田女史と米子さんもその中に含まれる。
「じゃあ、柊木さん。俺は当直だから、何かあったら来てね」
「あ、はい、分かりました。行ってらっしゃい、楳木さん」
わざわざ楳木チーフが美鈴に声を掛けていくのは、今日が自分の当直だからではなく、結構頻繁にある。──けれども美鈴はそれを、『面倒見の良い先輩』としか認識していなかった。
ただ親切という理由で、美鈴だけを気に掛ける筈がない。さらには楳木チーフがこうして声を掛けるのは、彼女にだけ──美鈴は気付いていないが──なのだ。
──さあて……。とりあえず今のところ、営業担当の帰社待ちだよ。『牧田さん』も現在進行形で不明なまま……うぅ、変にドキドキする。って言っても、まだ誰も帰ってこないんだけどねぇ。
フロア内は現在、当番の受注担当が各課にいるだけだ。
当然の事ながら、基本的に不要な残業をしないようにと社内で定められている。
──あ、課長が帰ってきた。ってか、一課の課長しかはっきりと分からないけどさ。
営業一課のトップ、冨沢課長が一番の帰社だった。
営業課は一課から五課まであるが、営業部内の決まりとして、営業課長は必ず一人在社する事になっている。
今日は三課の課長が残っていたらしいが、美鈴の座席からはフロアの柱があり、生憎目視出来なかった。──見えたところで、覚える気はあまりないが。
「冨沢課長。総務部からFAXが来てましたので、机に置いておきました」
「あぁ、今日は柊木くんが当番か。ありがとうな」
身長の割りに体重があるようで、かなり横に広がりのある身体付きだ。けれどもどちらかというと、力士に近いだろうか。脂肪質ではなく、筋肉質で大きな肉体なのだ。
美鈴が配属されて来た時の自己紹介で、冨沢課長は趣味を『格闘技』と言っていたのだが、あいにく彼女の記憶に欠片も残っていない。
「柊木くん。手が空いているようなら、この資料を集めてくれないか?」
「あ、はい……。あぁ、先月の営業実績ですね。分かりました、今からやります」
特にやる事もなく、座席に大人しく座っていた美鈴へ、冨沢課長は総務部からのFAXを差し出してきた。どうやら次の会議に提出する為の、資料集めが依頼内容のようである。
こういった資料集めは普段、神田女史が行っていた。彼女の受注担当経験が長い事もあり、こちらへ割く時間を捻出しやすいからだろう。
対して美鈴は異動してきてから日が浅い事もあり、受注担当業務以外をあまり求められていなかった。
それでも美鈴は『必要以上は手を出さない』性分である為、何の不満もない。そもそも過分に求められるのは困るし、出来るなら楽をしたいのだ。
──まぁ、出来ない訳じゃないものね。えっと、一通り神田女史からは聞いているから……。
実際に携わる事がなくとも、データベースのどのファイルに保存されているかは聞かされている。当番の際に聞かれて分からないのでは、営業担当の補佐として全く役に立たないからだ。
そうして神田女史から聞いた事は、美鈴は小さなノートに書き出して纏めてある。所謂『虎の巻』なのだが、今回はそれを確認しながら美鈴は必要データを探し出す事にした。
──このエクセルとこのエクセルと……。
「ただいま戻りました~」
「お帰り」
「おかえりなさいです~」
誰かの声掛けに、冨沢課長が答える。それに反応するように、顔を上げる事なく美鈴も応じた。
虎の巻ノートとパソコン画面を見比べながら、必要となる資料部分を抜き出し、新規のExcelシートに書き記していく。
「戻りました」
「お帰り」
「おかえりなさいです~」
そんなやり取りを繰り返しているうち、漸く冨沢課長から頼まれたデータを抜粋出来た。そして『終わった』と美鈴が顔を上げた時、既に各課共にかなりの営業担当が帰社していたのである。
そしてあまりの人の数に、美鈴は思わずうんざりとした表情になってしまった。
──いつの間にか、こんなにも帰ってきてる……。しかも、皆が席を立ってうろうろしてて、誰が誰かさっぱりじゃんっ。
もとより、美鈴は人混みが苦手である。様々な人が入り乱れる場所は、様々な臭いの入り乱れる場所でもあった。
そして営業担当だからこそ、一日中様々な場所を巡ってきている。色々な臭いが染み付いているし、それを誤魔化す為の香水をつけている人もいた。
──あぁ、うんざりするぅ。神田女史程ではないけど……。皆、香水なんかつけないでよぉ。
『臭い』の中でも、美鈴が一番苦手とするのは『香水』である。つまりは、人工的な香料がダメなのだ。
更に言えば香水だけではなく、柔軟剤などのキツい香料も不得手としている。
「回線、切り替わります」
フロアの遠くで声が聞こえ、これで本日の受注時間は終了となる。受注専用の電話回線が閉じられ、そちらに電話をしてもアナウンスが流れるだけになるのだ。
美鈴が時計を確認すると、既に十七時を過ぎていた。
そしてこの後の時間からのメンバーは、基本的に当番の受注担当とパラパラ帰社してくる営業担当になる。そして電話は営業専用回線のみ通じる形になっている為、全く通知音が鳴らないわけではない。
そんな中、当然のように当番ではない者達が、一人また二人とフロアから出ていった。勿論、神田女史と米子さんもその中に含まれる。
「じゃあ、柊木さん。俺は当直だから、何かあったら来てね」
「あ、はい、分かりました。行ってらっしゃい、楳木さん」
わざわざ楳木チーフが美鈴に声を掛けていくのは、今日が自分の当直だからではなく、結構頻繁にある。──けれども美鈴はそれを、『面倒見の良い先輩』としか認識していなかった。
ただ親切という理由で、美鈴だけを気に掛ける筈がない。さらには楳木チーフがこうして声を掛けるのは、彼女にだけ──美鈴は気付いていないが──なのだ。
──さあて……。とりあえず今のところ、営業担当の帰社待ちだよ。『牧田さん』も現在進行形で不明なまま……うぅ、変にドキドキする。って言っても、まだ誰も帰ってこないんだけどねぇ。
フロア内は現在、当番の受注担当が各課にいるだけだ。
当然の事ながら、基本的に不要な残業をしないようにと社内で定められている。
──あ、課長が帰ってきた。ってか、一課の課長しかはっきりと分からないけどさ。
営業一課のトップ、冨沢課長が一番の帰社だった。
営業課は一課から五課まであるが、営業部内の決まりとして、営業課長は必ず一人在社する事になっている。
今日は三課の課長が残っていたらしいが、美鈴の座席からはフロアの柱があり、生憎目視出来なかった。──見えたところで、覚える気はあまりないが。
「冨沢課長。総務部からFAXが来てましたので、机に置いておきました」
「あぁ、今日は柊木くんが当番か。ありがとうな」
身長の割りに体重があるようで、かなり横に広がりのある身体付きだ。けれどもどちらかというと、力士に近いだろうか。脂肪質ではなく、筋肉質で大きな肉体なのだ。
美鈴が配属されて来た時の自己紹介で、冨沢課長は趣味を『格闘技』と言っていたのだが、あいにく彼女の記憶に欠片も残っていない。
「柊木くん。手が空いているようなら、この資料を集めてくれないか?」
「あ、はい……。あぁ、先月の営業実績ですね。分かりました、今からやります」
特にやる事もなく、座席に大人しく座っていた美鈴へ、冨沢課長は総務部からのFAXを差し出してきた。どうやら次の会議に提出する為の、資料集めが依頼内容のようである。
こういった資料集めは普段、神田女史が行っていた。彼女の受注担当経験が長い事もあり、こちらへ割く時間を捻出しやすいからだろう。
対して美鈴は異動してきてから日が浅い事もあり、受注担当業務以外をあまり求められていなかった。
それでも美鈴は『必要以上は手を出さない』性分である為、何の不満もない。そもそも過分に求められるのは困るし、出来るなら楽をしたいのだ。
──まぁ、出来ない訳じゃないものね。えっと、一通り神田女史からは聞いているから……。
実際に携わる事がなくとも、データベースのどのファイルに保存されているかは聞かされている。当番の際に聞かれて分からないのでは、営業担当の補佐として全く役に立たないからだ。
そうして神田女史から聞いた事は、美鈴は小さなノートに書き出して纏めてある。所謂『虎の巻』なのだが、今回はそれを確認しながら美鈴は必要データを探し出す事にした。
──このエクセルとこのエクセルと……。
「ただいま戻りました~」
「お帰り」
「おかえりなさいです~」
誰かの声掛けに、冨沢課長が答える。それに反応するように、顔を上げる事なく美鈴も応じた。
虎の巻ノートとパソコン画面を見比べながら、必要となる資料部分を抜き出し、新規のExcelシートに書き記していく。
「戻りました」
「お帰り」
「おかえりなさいです~」
そんなやり取りを繰り返しているうち、漸く冨沢課長から頼まれたデータを抜粋出来た。そして『終わった』と美鈴が顔を上げた時、既に各課共にかなりの営業担当が帰社していたのである。
そしてあまりの人の数に、美鈴は思わずうんざりとした表情になってしまった。
──いつの間にか、こんなにも帰ってきてる……。しかも、皆が席を立ってうろうろしてて、誰が誰かさっぱりじゃんっ。
もとより、美鈴は人混みが苦手である。様々な人が入り乱れる場所は、様々な臭いの入り乱れる場所でもあった。
そして営業担当だからこそ、一日中様々な場所を巡ってきている。色々な臭いが染み付いているし、それを誤魔化す為の香水をつけている人もいた。
──あぁ、うんざりするぅ。神田女史程ではないけど……。皆、香水なんかつけないでよぉ。
『臭い』の中でも、美鈴が一番苦手とするのは『香水』である。つまりは、人工的な香料がダメなのだ。
更に言えば香水だけではなく、柔軟剤などのキツい香料も不得手としている。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
29
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる