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かいこい編──第一章『馬鹿じゃないの。興味がないだけ』──

その4。仕事内容を簡単に 2

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柊木ひいらぎさん、今日当番よね。二課の牧田さんに、これを渡しておいてくれないかしら」
「あ、はい。分かりました」

 神田女史からの指示に、反射的に返答をする。そうして当然のように差し出された書類を受け取るものの、内心で途方にくれるのだった。
 依頼内容は『書類を渡す』だけ。けれども美鈴みすずは──先にも伝えたが、『人』へ関心が薄い。悪く言えば興味がないのだ。
 それは名前と顔を一致させるといった、人付き合いの基礎的な部分にも繋がる。結果的に人の顔を覚えられなかった。
 勿論著しく記憶力が欠如しているとか、言ってしまえば『バカ』だからという訳ではない。

 ──絶対に違うからねっ。

 だが、覚えられないのだった。しかも『見た事ある』程度になるまで、結構かかる。必要以上に時間が掛かるのだ。
 美鈴が営業一課の受注担当になって、今日で三ヶ月。異動は毎回春におこなわれる為、そろそろ梅雨時に差し掛かろうとしている今日この頃である。
 最低限──営業一課の面々を覚える事で必死になっていた美鈴。ふと気付けば他にもフロア内に四課も営業課があるのに、他課の営業メンバーはほとんど記憶にしるされていなかった。
 そもそもが、同じフロアの受注管理課にいた美鈴である。接触の機会は幾らでもあったし、名前を見聞きする事は頻繁にあった。
 だが営業担当の帰社時間は、受注管理課のメンバーと異なる。そして当然の事ながら、一年目・二年目の初心者ペーペーだった美鈴に誰も質問をしてこない。
 そして結果、『見た事のある人』『○○さんかもしれない人』『営業だと思う人』となった。

 ──誰、二課の牧田さんって?

 そもそもフロア内の男性は、基本的にスーツである。営業担当も、受注担当も、運送管理ですら。──運送管理は、正しくは運送管理課。自社便以外の配送便全て、送り状管理から集荷依頼、未着確認までこなしてくれる部署だ。

 ──やっと、一課の営業担当の顔と名前が……大まかにだけど、一致するようになってきたのに、他課なんて知らないよぉ。

 と泣いたところで、心の叫びは誰にも伝わらないのである。
 ちなみに『当番』とは残業規定があるがゆえの、受注担当へ過度な業務を与えないという名目で各課内で一名のシフト制で回ってくるものだ。
 どうしても営業補佐の為、電話だけではおこなえない業務も少なからず存在する。依頼はおもに営業担当側からだが、直接でないと不備が生じる書類作成などの為だ。──帰社の遅い営業担当は、『営業手当て』が支給されている。その為、残業などの対象にはなっていない。
 通常、席に座ってさえいれば、フロア全体の座席表から当たりをつけることは出来る。だが、営業担当はそう簡単にはいかなかった。
 課内全体の顧客を覚える為と称し、営業担当の変更が当然のようにある。長くて三年、短いと三ヶ月なんてのもあった。
 ようは、顧客との癒着を避ける為である。営業担当も大変なもので、慣れた頃には即『さよなら』なのだ。トークで顧客の心を掴むなど、夢のまた夢である気がする。
 そして当たり前のように、引き継ぎ中は元営業担当と、新営業担当が隣同士に座っているのだ。その方が打ち合わせなどがしやすい、当然の理由である。それゆえ、営業担当の座席はあってないようなものだった。
 営業一課内ですら、佐橋さんのところの『ミネルバ』が木村さんに変更で、元木さんの『大村カーテン』は鈴木さんの『滝田クロス』とチェンジで──となっている。
 正直言って美鈴には、佐橋さんも木村さんも、元木さんも鈴木さんも、皆同じに見えるのだ。『へのへのもへじ』とまでは言わないが、メガネの有無くらいしか──いや、それも曖昧である。

 ──鈴木さんがメガネを掛けているか?なんて聞かれても、即座にイエスと返答出来ないんだよねぇ。

 だがここで、『牧田さんって?』と神田女史に聞けないのだ。
 いや、教えてくれない訳ではない。それどころか、懇切丁寧に『容姿』から『彼女の思う性格設定』まで説明してくれる。

『あの流れる黒髪は少し癖が強いけど、大人な香りのワックスでそれはもう芸術的に仕上げてあるわね。ファジーにでもダイナミックに流してあって、香料からしても素敵っ。健康的にに焼けた肌も綺麗に剃ってある顎も、清潔感たっぷりだわっ。スーツの下の筋肉。普段は見えないけれど、ジャケットを脱いだ時なんてもう私が熱くなっちゃう程鍛え上げられているわぁ。彼なら軽々と私をお姫様抱っこしてくれて、あまつさえクルクルと回ったりしてくれそうっ』

 これは長々と続けられた、美鈴の『佐橋さんてどなたですか?』の答えだ。
 いつ呼吸をしているのか不思議な程に長文であった為、最終的に何を言っているのか理解に苦しむ。言われた事が伝わらず、言葉尻しか印象に残らなかったのだ。
 こういった過去の経験から、彼女へは余程でない限り質問しない事にしたのである。

 ──そもそも『あまつさえ』って、悪い事が重なるって方の言葉じゃなかったっけ?しかも、言ってる事の半分以上が分からない。え、想像なの?妄想なの?
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