流されて

まひる

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第二章 夏

2の4 少しだけ心苦しい

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「ふふ、すみません。あまりにも杏梨あんりさんがお可愛らしいので、調子に乗ってしまいました」
「うぅ……」

 私の反応に満足したのか、博嗣ひろつぐさんはいつもの緩やかなにっこにこへと表情を変えた。
 私は熱い頬を両手で隠すように覆い、視線をテーブルに落とすくらいしか出来ない。

 もう本当に、対処不可能。私は恋愛偏差値どころかコミュニケーション能力すら園児レベルなのだろう。
 いや今どきは幼女ですら、『○○くんとけっこんする』とか言ってそう。

 博嗣さんは動けなくなってしまった私の頭部を優しく撫で、そのまま先程の椅子に戻っていく。
 撫で方は子供にするそれと同じで、安心させるようなものだった。大きな手でふんわりと包まれ、私はその初めての感覚に驚きを隠せない。

 私は今までの人生で──博嗣さん以外から、物理的な愛情表現を受けた記憶がない。
 母親は私を育ててくれたけど。それは私が保護すべき、己の世帯メンバーだったからだと思っている。世帯主としての、義務みたいな。保護者の責任的な。
 だから抱き締めるとか撫でるとかのスキンシップは皆無で、衣食住の提供と教育部分の義務があるだけ。
 女手一つの子連れで、社会で生きていくには心の余裕なんてなかったのかも。心情を吐露された事はないし、そんな会話をする時間もなかった。──つまりはほとんど一緒にいなかった。

 私は独りで家にいた記憶しかないし、家事を私がするしかない状況だった。家事って言っても子供が出来る事は当然限られていて、洗濯機を回して洗濯物を干す。乾いた洗濯物を取り込んで片付けるなどの洗濯全般と、軽い掃除くらい。
 そして食事は一人分。レンジを使用するものか、ポットのお湯で作れるもの。簡易的に食べられるものって物凄くたくさんあるから飽きないし、食べられるだけで充分。
 母親は朝から夜まで仕事で、帰ってきても寝るだけ。中学二年の私の誕生日で他界するまで、その生活。

 『愛された』と自認出来る記憶がない。
 私の中では、生きていける事だけで感謝すべきもの。飢えもしない、こごえもしない。──その環境に対して、不満をいだく理由も比較対象も必要なかった。
 自分とそれ以外の他者は別物という観点で、比べるものではない。一度比べてしまえば、自分をおとめる事しか出来ないだろうと本能的に理解していたのかも。

 お金持ちでない事実は分かっていた。
 だから必要以上に求めなかった。たぶん私が──母親の明らかな重荷になったならば、捨てられるかしれないと危機感を感じていたのだろうと思う。
 そんな過去の認識があるから、今でも必要以上に他者に求めない。不要な存在になれば、見捨てられるだろう危機感が離れないから。

 そしてそれらは、今の私自身を形成している。博嗣さんが私に対して優しいのも、はっきり言ってしまえば怖い。
 慣れない感情への不信感なのか。それでもそれを喪失する事への恐怖なのか。
 でも、何事も必要最低限で良い。無条件の愛なんてものを知らないから、博嗣さんから向けられてくる『情』も疑ってしまっている。
 受け取ったなら返さなくてはならない、と思う。でも私は、いったい彼に何を返せるのだろう。

 お願いだから、あまり踏み込んで来ないでほしい。

※ ※ ※ ※ ※

 杏梨さんの様子がおかしい。──先程のハグは、やりすぎただろうか。その後から、妙に心の距離を感じる。
 だがしかし、アレはない。予想外過ぎて、衝動が抑えられなかった。

 交際を初めて、すぐに杏梨さんの誕生日を聞いた。
 俺の誕生日を祝う意味でデートしてくれたのだからと、いつものようにして迫ったのは理解している。俺自身は、誕生日を口実に彼女とデートしたかっただけだ。仕方ない。
 今回は杏梨さんの誕生祝いと称して、夕食を一緒にしようと誘った。俺は毎日彼女と共にいたいのだが、さすがに攻め込みすぎては逃げられるだろう。逃がすつもりは毛頭ないが。

 それはそれとして。杏梨さんの母君が、既に鬼籍に入っているとは。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 またしても博嗣さんから夕食をご馳走になってしまった。私はいつももらってばかり。お付き合いというものが、されてばかりというのと同意であるとは思えない。
 人間関係は持ちつ持たれつギブアンドテイクなのだから、私も何かをしなくてはならない。──のだけれど、どうすれば良いのか分からない。

 夕食の後にデザートを食べて、当然のように博嗣さんは私の住む賃貸アパートまで送って行ってくれた。お腹いっぱい、とっても満足ぅ。
 でもタクシー代すら出させてくれない。

「ありがとうございました、博嗣さん。ごちそうさまでした」
「いいえ。貴重な時間を共に過ごす事が出来て、私はとても幸せな気持ちです。また御一緒させてください」
「はい。では……おやすみなさい、博嗣さん」
「おやすみなさい、杏梨さん」

 アパートの扉前で。こちらが中に入って閉めるまで、博嗣さんは視線をらさない。
 先に扉を閉めるの、結構な勇気っていうか。踏ん切りみたいなの、必要な気がするんだけど。いつまでも玄関先で見つめあっててもねぇ。

 今日はタクシーも待たせているから、私はすぐに頭を下げてお別れの挨拶をした。
 博嗣さんの過度とも思える対応に、私は少しだけ心苦しい。何だろう。コミュニケーション能力の足りなさかな。対人関係に重圧を感じているのだろうか。
 一緒に時間を過ごす事は、嫌ではない。楽しくも、思える。

 それなら私は、何が不満なんだろう。──あんなにも良くしてくれているのに。
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