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第三十五話 黒百合の影

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 冬に差し掛かった良く晴れた日。近頃寒くなり始めていたが、天気が良いせいかぽかぽかと温かく、エリサベータはその陽気に誘われモーニングティーを庭園の四阿で楽しんでいた。

「あら?」

 新たにお茶を淹れていたツェツィアが不意に声を上げたので、エリサベータは不思議そうに空を見上げた。

「先程まではあんなに晴れておりましたのに」

 いつも自分の側にいてくれる侍女につられてエリサベータも空を見上げた。

「本当に……急にどうしたのかしら?」
「どうにも薄気味の悪い雲です」

 王都を覆うように灰色の雲が渦巻くような、波打つような不気味な様相を見せながら天井が落ちてくる様な閉塞感が強くなる。

「そろそろナターシャも来る頃だし、邸内に戻った方がいいかしらね」

 ティーカップをソーサーに戻したエリサベータは頬に片手を添えながら首を傾げながら呟く。

「そうですね……それが宜しいかと」

 その呟きを拾ったツェツィアは主人あるじに同意し、屋敷に戻る為に日傘の準備をしようとした時、びゅっと短い間ながら強く冷たい風が吹き荒んだ。

 その風は四阿の中に数片の花弁はなびらを巻き込み、その一片ひとひらがエリサベータのティーカップの中に舞い落ちた。

 それはカップの中の緋色の液体に波紋を作りながら揺蕩たゆたう漆黒の一片ひとひら

「え?」

 それは美しくも不吉な黒い欠片……黒百合の花弁はなびらであった。

──黒百合?当家の庭に黒百合は無かった筈……

「きゃあああ!」

 エリサベータは当惑して考え込んだが、次の瞬間ツェツィアの悲鳴で我に返った。

「どうし……た……」

 そう声を掛けようとしたエリサベータも絶句して驚きで目を大きく見開いて固まった。

「う……そ……」

 四阿の周りの花壇が全て黒一色に染まっていたのだ。

「これは……黒百合?」
「ありえません!この庭に黒百合など一輪もなかった筈です」

 エリサベータもツェツィアも理解が追い付かなかった。

「いったい何が起きて……」

 エリサベータの疑問を呈する言葉は再び吹き荒れた風に遮られた。花壇の黒百合が一斉に騒めき、黒い花弁はなびらが四阿を囲むように舞い上がる。

 舞い上がった大量の花弁はなびらがやがて辺り一面を覆い尽くした。エリサベータはその黒一色の世界に言い知れぬ不安が胸中を締め、何故だか心臓が高鳴り始めた。

わらわの贈り物は気に入って貰えたかの?」

 突然掛けられた声に驚き、エリサベータとツェツィアが振り返れば、いつの間にか黒百合の絨毯の上に一人の女性がたたずんでいた。

 艶やかに波打つ全てを溶かし込みそうな闇夜の髪、見るもの全てを引き摺り込みそうな深淵の瞳、身に付けているローブはそれにも劣らない不気味な漆黒。

 その黒とは対照的な病的なまでに白い肌と見た者を魅了しそうな美しい切れ長の目、ローブの下から押し上げる豊満な肉体は男達を惑わせそうだ。

 エリサベータの前に現れたのは、そんな二十代くらいの蠱惑こわく的な美女だった。

 全体的に不吉な印象を与える漆黒の美女は、やはり黒一色の世界の中で口の端を吊り上げる不敵な笑いをその顔に貼り付け、エリサベータを挑発的な目で見据えていた。

「エリサベータ様お下がりください!」

 ツェツィアはかばおうとエリサベータの前に身を差し出そうとした。しかし、エリサベータはツェツィアを制して一歩前に出ると忽然こつぜんと屋敷の中に現れたこの不気味な美女を睨み付けた。

「招いた覚えはございませんが、いったいどちら様でしょうか?」
「ふふふ……このわらわを前にして随分と威勢の良い小娘よ」

 何人にも臆さないエリサベータは毅然とした態度で漆黒の美女に臨んだ。

「何事だ!」
「ご無事ですかエリサベータ様!」

 異変を察知して次第に家人達が集まってきたが、その女は集まって来たヴィーティンの家人達を歯牙にもかけないといったていで余裕の笑みを浮かべるだけ。

 そしてエリサベータから視線を外すと周囲を見回した。

「ふむ、脆弱ぜいじゃくな守りよな……これなら問題あるまい」

 一人納得するように頷く漆黒の美女に家人達が色めき立つ。

「何だと!」
「エリサベータ様お下がりください」
「ここは我らが!」

 家人達が殺気立つが、それでも漆黒の美女は涼しげな顔だ。彼女はいきり立つ家人達を無視して視線をエリサベータに戻した。

わらわ其方そなた達が『冒瀆ぼうとくの魔女』と呼ぶ者。まことの名は忘れた……」
「なんだと!」

 その有名な名前を聞き家人達に動揺が走った。

「さて始めようかの」

 『冒瀆ぼうとくの魔女』を名乗った美女から黒いもやのような不吉な何かが立ち上る。それと同時に周りの黒百合も地面に敷き詰められた無数の黒い花弁はなびら陽炎かげろうのように揺らぎ、霞みながら同じようなもやとなって立ち上った。

其方そなたわらわにどんな嘆きこえを聞かせてくれるかの?」

 エリサベータと家人達が戦慄する中、周囲を黒い霧で覆われた魔女の笑い声が庭園に響き渡った。
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