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第二十五話 赤髪令嬢デビュタント事件

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 ナターシャはしばらくレイマンとアグネスを二人きりにする為に目的もなく会場をふらふらと徘徊して時間を潰していた。

 鮮明な赤髪に理知的な新緑の瞳。白と黒のコントラストの強い会場でナターシャはきりっとした立ち姿とその美貌も相俟って行く先々で注目を浴びた。

 成人の儀に参加している令息達が声を掛けたそうにしているのだが、気位の高そうなナターシャの雰囲気に気圧されて狼狽えている者ばかりだ。

 しかし、そんな彼女に背後から人垣を掻き分けて近寄る者がいた。

「おい!そこの赤髪」

 一人会場を歩くナターシャに掛けられた突然の大声。恐らくは自分の事だろうとは思ったが、ナターシャはその無礼な呼びかけを無視した。

「無視をするな!お前のことだ」

 振り向き確認した声の主は癖のある黒髪と茶色の瞳、凡庸そうな顔つきの令息だった。こちらはアグネスと異なり直ぐに癇癪を起す輩の様だとナターシャは辟易した。

「俺はゲオルク・ファルネブルクだ。知っているだろ?次期侯爵様だぞ!返事をしろ!」

──ふーん。こいつがレイマン様の出来の悪い異母兄なんだ。

「その次期侯爵様が私に何の用かしら?」

 やっと反応を示したナターシャにゲオルクは胸を反らし、居丈高に鼻を鳴らした。

「喜べ!お前を俺の女にしてやる。ありがたいと思え」
「お断りします」

 ナターシャは間髪を入れずに拒絶した。

 どうやらゲオルクは男爵令嬢のナターシャなら権威で簡単になびくと考えていたらしい。ぴしゃりと断られて反応できずに金魚のように口をパクパクとさせ唖然としていた。

 そんなゲオルクを取るに足りない人物だと即断したナターシャは鼻で笑うとさっさとその場を離れようとした。そんな彼女の左肩を背後から我に返ったゲオルクが掴んだ。

「貴様!折角この俺が誘っているのに、たかが男爵令嬢如きが侯爵に向かってその態度は何だ!」

 振り返るとナターシャは軽蔑の眼差しをゲオルクに向けた。

「侯爵?貴方はまだ只の貴族令息でしょう。確かに私は男爵令嬢如きですが、爵位を継いでいない貴方と立場は変わらないわ」

 爵位を継承する前の貴族子女は何者でもない。ナターシャの理屈は建前上の正論である。

「なんだと!?お前の家など俺の力でどうとでもなるんだぞ!」
「貴方のではなく、貴方の家の力でしょ」

 ナターシャの攻撃的な物言いに、ゲオルクが爆発寸前となる。そんな様子を周囲の貴族子女や警護の騎士達が固唾を呑んで見守っていた。

 ゲオルクはファルネブルク侯爵の嫡子であり、現ファルネブルク侯爵シュタイマンの寵愛を受けていることは、ここにいる者は全て知っている。その為、騎士達も直ぐに動けなかった。

 ゲオルクの絡んだ相手がアグネスのような高位貴族の令嬢であれば良かった。助ければ、その家が庇護してくれるだろう。しかし、ナターシャは地方の男爵家の娘。助けてゲオルクの面子を潰した後、ファルネブルク侯爵の不興から守ってもらう事ができない。

 それは騎士達以外の貴族子女も同じであった。つまりは、ナターシャは人垣に囲まれて逃げ道を塞がれた、孤立無援の状態であった。

 ところがナターシャに全く気負った様子は見えない。

「離してくださる?私、連れを待たせているの」
「あんな奴はどうでもいいだろ!俺の方が爵位が上なんだ。お前は黙って俺に着いてくればいいんだよ!」

 ゲオルクはナターシャの左手首を掴んで、強引にさらおうとした。

「全く度し難い屑ね」

 呆れを含んだ声で小さく呟いたナターシャは、掴まれていた左手をくるりと返すと簡単にゲオルクの拘束を解き、逆に彼の右手を掴んで足を引っかけながら引き倒すと、ゲオルクは無様に引っ繰り返ってしまった。

「あらあら、次期侯爵様は随分とお酒が進んでいらっしゃるご様子で」

 ナターシャがゲオルクを小馬鹿にすると、そんな二人の遣り取りを見ていた周囲の人々から失笑が漏れ聞こえてきた。

 ゲオルクは立ち上がると、恥をかかされたと顔を真っ赤にしてナターシャに掴みかかろうとした。

「貴様!」
「はん!」

 しかし、ナターシャは余裕で躱すと今度は鋭い拳を繰り出し、それは見事にゲオルクの顎先を捉えた。脳を揺らされて平衡感覚を失ったゲオルクはその場で不格好に倒れ伏した。

「ぐぁ!なんだ?た、立ち上がれない」


「頭を揺らされて立てなくなっただけよ」

 勝利宣言の様に胸を張るナターシャに、時が止まったかのように静まり返っていた会場から俄かに拍手喝采が湧き起った。

 本来なら令嬢にあるまじき振る舞いなのだが、ゲオルクの余りの傍若無人な行為と堂に入ったナターシャの勇姿があまりに恰好が良く、老若男女に関わらず皆が感心してしまったのだ。

 調子に乗ってナターシャが右拳を突き上げると会場はどっと沸いた。笑いと称賛の声で溢れかえり、馬鹿にされたとゲオルクはぎりぎりと歯噛みをして怒りで顔を真っ赤にした。

「お前!こんな事をして唯で済むと思うなよ!」

 情けない姿のままゲオルクはナターシャを恐喝したが、二人の間に一人の壮年の男性が割って入って来た。

「唯で済まないのは貴様の方だろう」

 その男性からゲオルクへ怒りの籠った低く厳かな声が投げられた。

 突然の乱入者にゲオルクとナターシャが訝しんで見た男性は、黒い髪をオールバックに固めた40代位の偉丈夫で、かなりの高位貴族を思わせる威厳が備わっていた。

「何だ貴様は!俺は次期ファルネブルク侯爵様だぞ」

──あ、こいつ真正の馬鹿だ。

 誰彼構わず噛みつくゲオルクをナターシャは哀れみの目で見た。先程アグネスが入場してきた時に一緒にいた男性であることにナターシャは気がついていた。

 その男性の後方でアグネスがナターシャに向かって手を振っている。

「私か?私はハプスリンゲ公爵だ。そこのスタンベルグ男爵令嬢は私の娘の友人なのだが、君は随分と彼女に狼藉を働いていたようだね」

 どうやらアグネスがナターシャの為に自分の父をけしかけたようである。

「ハ、ハプスリンゲ公爵!?」
「君の評判は聞いているよ。実際にこの目で確認も取れた事だし、君の父上のファルネブルク侯爵には後日私から抗議を伝えておくよ」
「そ、それは!」

 さすがに分が悪い事をゲオルクも認識した様だ。慌ててハプスリンゲ公爵に弁明を始めたのだが、二、三言話したかと思うとハプスリンゲ公爵はゲオルクをばっさりと切り捨てた様で、彼を会場から摘まみ出してしまった。

 それを呆れた目で眺めていたナターシャの横にレイマンが並ぶ。

「去年のアウトゥル殿下を彷彿とさせるな」
「ふーん。去年も似たような事があったのね」
「だから一人になるなと言ったのだ」
「言った通り一人でも大丈夫だったでしょ」

 うそぶくナターシャにレイマンは深い溜息をついた。

「ご無事なようで何よりです」

 アグネスが普段と違う屈託のない笑みを浮かべて近づいてくると、ナターシャはにやりと淑女らしからぬ笑みを返した。

「ありがとね。アグネスのお陰で助かったわ」
「ふふふ。ナターシャ様の勇姿に痺れましたわ」

 声を出して笑う二人に引き摺られるように会場が笑いに満ちた。

 これは自分やエリサベータが危惧していた以上の事態だと、レイマンは頭を抱えたくなった。

「ナターシャ分かっているのか?」
「え?何の事?」
「これから大変な事になるぞ」

 レイマンの予想は当たった。この夜会は歴代でも最大に盛り上がりを見せたと語り草になり、良くも悪くもナターシャは時の人となったのだった。
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