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第九章 剣仙の皇子と秩序の壁
九の肆.
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刀夜も頭では理解できている。
だが、感情がそれを許さない。
そんな刀夜の想いを理解してか蘭華は滔々と語り続けた。
「この落書きを殺人に置き換えてみてください。どうして人は人を殺してはならないのでしょう?」
「それは、人の道義として当たり前のことではないのか?」
何を当然の事を、と刀夜は思う。
いや、この答えは誰もが同じ筈。
「そうでしょうか?」
だが、蘭華は違うようだった。
「人は戦争では殺しを許容するではないですか」
「確かに人は相争う……が、それは決して正しいと思っているわけではないだろう?」
「いいえ、人は争う理由は常に正義の為です」
違いますか?と追及されれば刀夜としても強く否定はできない。
「それに生き物はみな例外なく他者の生命を喰らい生きています」
「だが、糧を得る為であって……」
「いいえ、糧以外の目的で同族を殺す生き物はそれなりに多くいるのです」
人は些細な理由で他者を害してしまう場合がある。
他の生物もまた様々な理由で同族を殺す事がある。
「生き物は生来他者を殺す事に抵抗はありません。殺してはならないというのは我々人間が生み出した価値観であり倫理観です。ですが、この倫理観もなく誰もが隣人を殺すようになればどうなるでしょう?」
「それは……」
蘭華に指摘され無法地帯となった日輪の国が刀夜の脳裏を過る。
「その社会はきっと成り立たなくなります。倫理も価値観も全ては秩序を守り安定した社会を形成する為のものです。だからこそ、法を作り倫理を敷いた貴族は模範とならなければいけないのです。自らが乱せば誰が従うのです?」
「……」
刀夜はぐっと拳を握った。
それは蘭華に指摘されるまでもなく、刀夜自身が一番よく分かっている。
「道徳で行動を縛るのは秩序を守り集団生活をより良くする為です。日輪の国において爵位はその為の尺度なのです」
「ふぅ……」
刀夜は大きく息を吐き出した。この時になって武人である自分が一人の姑娘の静かな圧力に飲まれていたと気が付いた。
今の言動が統治者側であれば身勝手な言い分だと切り捨てられたかもしれない。だが、蘭華は寧ろ秩序の為に虐げられている側の人間である。
秩序の為の価値観の犠牲を受けながら、その必要性を説く蘭華の凄みをこの場の誰が理解しているのか。
(少なくとも俺だけは蘭華を理解しなければならない)
刀夜の顔から怒りの感情が抜け落ちた。
「蘭華の言い分は良く分かった」
刀夜は縮こまる子雲の前に立つ。
「未然の事ゆえ今回の件は不問とする。みな疾く去るがいい」
子雲達は頭を下げると逃げるように刀夜の前から消えた。周囲にいた邑人達もいつの間にか姿が見えない。
残されたのは蘭華や刀夜達、そして……
「あ、あの、俺……」
何進が何か言いたそうに蘭華の顔をちらちらと見る。その目に宿る後悔と慚愧の翳り。何進は蘭華が負った額の傷を気にしている。
蘭華は優しく微笑んだ。
「大丈夫よ。あなた達も行きなさい」
「えっ、あっ……うん……」
何進は躊躇いがちに頷くと仲間を連れて去った。その時、彼は見えなくなるまで何度も蘭華を振り返っていた。
何進は後ろめたい気持ちを抱いているのだと蘭華には分かった。
「あの子はまだ幼いのです。あまり責めれば罪悪感に押し潰されてしまいます」
「それはそうかもしれないが……」
その後ろ姿を見送りながら蘭華が諭す事に刀夜は一定の理解は示したが、それ以上に納得し難いものも同時に感じる。
「蘭華は優し過ぎる」
蘭華の他者を思う姿は尊い。
だが……
このままでは何進よりも蘭華の方が押し潰されてしまうのではないか?
何処か蘭華に危うさを感じた。
だが、感情がそれを許さない。
そんな刀夜の想いを理解してか蘭華は滔々と語り続けた。
「この落書きを殺人に置き換えてみてください。どうして人は人を殺してはならないのでしょう?」
「それは、人の道義として当たり前のことではないのか?」
何を当然の事を、と刀夜は思う。
いや、この答えは誰もが同じ筈。
「そうでしょうか?」
だが、蘭華は違うようだった。
「人は戦争では殺しを許容するではないですか」
「確かに人は相争う……が、それは決して正しいと思っているわけではないだろう?」
「いいえ、人は争う理由は常に正義の為です」
違いますか?と追及されれば刀夜としても強く否定はできない。
「それに生き物はみな例外なく他者の生命を喰らい生きています」
「だが、糧を得る為であって……」
「いいえ、糧以外の目的で同族を殺す生き物はそれなりに多くいるのです」
人は些細な理由で他者を害してしまう場合がある。
他の生物もまた様々な理由で同族を殺す事がある。
「生き物は生来他者を殺す事に抵抗はありません。殺してはならないというのは我々人間が生み出した価値観であり倫理観です。ですが、この倫理観もなく誰もが隣人を殺すようになればどうなるでしょう?」
「それは……」
蘭華に指摘され無法地帯となった日輪の国が刀夜の脳裏を過る。
「その社会はきっと成り立たなくなります。倫理も価値観も全ては秩序を守り安定した社会を形成する為のものです。だからこそ、法を作り倫理を敷いた貴族は模範とならなければいけないのです。自らが乱せば誰が従うのです?」
「……」
刀夜はぐっと拳を握った。
それは蘭華に指摘されるまでもなく、刀夜自身が一番よく分かっている。
「道徳で行動を縛るのは秩序を守り集団生活をより良くする為です。日輪の国において爵位はその為の尺度なのです」
「ふぅ……」
刀夜は大きく息を吐き出した。この時になって武人である自分が一人の姑娘の静かな圧力に飲まれていたと気が付いた。
今の言動が統治者側であれば身勝手な言い分だと切り捨てられたかもしれない。だが、蘭華は寧ろ秩序の為に虐げられている側の人間である。
秩序の為の価値観の犠牲を受けながら、その必要性を説く蘭華の凄みをこの場の誰が理解しているのか。
(少なくとも俺だけは蘭華を理解しなければならない)
刀夜の顔から怒りの感情が抜け落ちた。
「蘭華の言い分は良く分かった」
刀夜は縮こまる子雲の前に立つ。
「未然の事ゆえ今回の件は不問とする。みな疾く去るがいい」
子雲達は頭を下げると逃げるように刀夜の前から消えた。周囲にいた邑人達もいつの間にか姿が見えない。
残されたのは蘭華や刀夜達、そして……
「あ、あの、俺……」
何進が何か言いたそうに蘭華の顔をちらちらと見る。その目に宿る後悔と慚愧の翳り。何進は蘭華が負った額の傷を気にしている。
蘭華は優しく微笑んだ。
「大丈夫よ。あなた達も行きなさい」
「えっ、あっ……うん……」
何進は躊躇いがちに頷くと仲間を連れて去った。その時、彼は見えなくなるまで何度も蘭華を振り返っていた。
何進は後ろめたい気持ちを抱いているのだと蘭華には分かった。
「あの子はまだ幼いのです。あまり責めれば罪悪感に押し潰されてしまいます」
「それはそうかもしれないが……」
その後ろ姿を見送りながら蘭華が諭す事に刀夜は一定の理解は示したが、それ以上に納得し難いものも同時に感じる。
「蘭華は優し過ぎる」
蘭華の他者を思う姿は尊い。
だが……
このままでは何進よりも蘭華の方が押し潰されてしまうのではないか?
何処か蘭華に危うさを感じた。
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