魔女の闇夜が白むとき

古芭白あきら

文字の大きさ
上 下
58 / 84
第九章 剣仙の皇子と秩序の壁

九の肆.

しおりを挟む
 刀夜も頭では理解できている。
 だが、感情がそれを許さない。

 そんな刀夜の想いを理解してか蘭華は滔々とうとうと語り続けた。

「この落書きを殺人に置き換えてみてください。どうして人は人を殺してはならないのでしょう?」
「それは、人の道義として当たり前のことではないのか?」

 何を当然の事を、と刀夜は思う。
 いや、この答えは誰もが同じ筈。

「そうでしょうか?」

 だが、蘭華は違うようだった。

「人は戦争では殺しを許容するではないですか」
「確かに人は相争う……が、それは決して正しいと思っているわけではないだろう?」
「いいえ、人は争う理由は常に正義の為です」

 違いますか?と追及されれば刀夜としても強く否定はできない。

「それに生き物はみな例外なく他者の生命を喰らい生きています」
「だが、糧を得る為であって……」
「いいえ、糧以外の目的で同族を殺す生き物はそれなりに多くいるのです」

 人は些細な理由で他者を害してしまう場合がある。
 他の生物もまた様々な理由で同族を殺す事がある。

「生き物は生来他者を殺す事に抵抗はありません。殺してはならないというのは我々人間が生み出した価値観であり倫理観です。ですが、この倫理観もなく誰もが隣人を殺すようになればどうなるでしょう?」
「それは……」

 蘭華に指摘され無法地帯となった日輪の国が刀夜の脳裏を過る。

「その社会はきっと成り立たなくなります。倫理も価値観も全ては秩序を守り安定した社会を形成する為のものです。だからこそ、法を作り倫理を敷いた貴族は模範とならなければいけないのです。自らが乱せば誰が従うのです?」
「……」

 刀夜はぐっと拳を握った。

 それは蘭華に指摘されるまでもなく、刀夜自身が一番よく分かっている。

「道徳で行動を縛るのは秩序を守り集団生活をより良くする為です。日輪の国において爵位はその為の尺度なのです」
「ふぅ……」

 刀夜は大きく息を吐き出した。この時になって武人である自分が一人の姑娘の静かな圧力に飲まれていたと気が付いた。

 今の言動が統治者側であれば身勝手な言い分だと切り捨てられたかもしれない。だが、蘭華は寧ろ秩序の為に虐げられている側の人間である。

 秩序の為の価値観の犠牲を受けながら、その必要性を説く蘭華の凄みをこの場の誰が理解しているのか。

(少なくとも俺だけは蘭華を理解しなければならない)

 刀夜の顔から怒りの感情が抜け落ちた。

「蘭華の言い分は良く分かった」

 刀夜は縮こまる子雲の前に立つ。

「未然の事ゆえ今回の件は不問とする。みな疾く去るがいい」

 子雲達は頭を下げると逃げるように刀夜の前から消えた。周囲にいたまち人達もいつの間にか姿が見えない。

 残されたのは蘭華や刀夜達、そして……

「あ、あの、俺……」

 何進が何か言いたそうに蘭華の顔をちらちらと見る。その目に宿る後悔と慚愧の翳り。何進は蘭華が負った額の傷を気にしている。

 蘭華は優しく微笑んだ。

「大丈夫よ。あなた達も行きなさい」
「えっ、あっ……うん……」

 何進は躊躇いがちに頷くと仲間を連れて去った。その時、彼は見えなくなるまで何度も蘭華を振り返っていた。

 何進は後ろめたい気持ちを抱いているのだと蘭華には分かった。

「あの子はまだ幼いのです。あまり責めれば罪悪感に押し潰されてしまいます」
「それはそうかもしれないが……」

 その後ろ姿を見送りながら蘭華が諭す事に刀夜は一定の理解は示したが、それ以上に納得し難いものも同時に感じる。

「蘭華は優し過ぎる」

 蘭華の他者を思う姿は尊い。

 だが……

 このままでは何進よりも蘭華の方が押し潰されてしまうのではないか?

 何処か蘭華に危うさを感じた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

皇帝は虐げられた身代わり妃の瞳に溺れる

えくれあ
恋愛
丞相の娘として生まれながら、蔡 重華は生まれ持った髪の色によりそれを認められず使用人のような扱いを受けて育った。 一方、母違いの妹である蔡 鈴麗は父親の愛情を一身に受け、何不自由なく育った。そんな鈴麗は、破格の待遇での皇帝への輿入れが決まる。 しかし、わがまま放題で育った鈴麗は輿入れ当日、後先を考えることなく逃げ出してしまった。困った父は、こんな時だけ重華を娘扱いし、鈴麗が見つかるまで身代わりを務めるように命じる。 皇帝である李 晧月は、後宮の妃嬪たちに全く興味を示さないことで有名だ。きっと重華にも興味は示さず、身代わりだと気づかれることなくやり過ごせると思っていたのだが……

地獄の業火に焚べるのは……

緑谷めい
恋愛
 伯爵家令嬢アネットは、17歳の時に2つ年上のボルテール侯爵家の長男ジェルマンに嫁いだ。親の決めた政略結婚ではあったが、小さい頃から婚約者だった二人は仲の良い幼馴染だった。表面上は何の問題もなく穏やかな結婚生活が始まる――けれど、ジェルマンには秘密の愛人がいた。学生時代からの平民の恋人サラとの関係が続いていたのである。  やがてアネットは男女の双子を出産した。「ディオン」と名付けられた男児はジェルマンそっくりで、「マドレーヌ」と名付けられた女児はアネットによく似ていた。  ※ 全5話完結予定  

番から逃げる事にしました

みん
恋愛
リュシエンヌには前世の記憶がある。 前世で人間だった彼女は、結婚を目前に控えたある日、熊族の獣人の番だと判明し、そのまま熊族の領地へ連れ去られてしまった。それからの彼女の人生は大変なもので、最期は番だった自分を恨むように生涯を閉じた。 彼女は200年後、今度は自分が豹の獣人として生まれ変わっていた。そして、そんな記憶を持ったリュシエンヌが番と出会ってしまい、そこから、色んな事に巻き込まれる事になる─と、言うお話です。 ❋相変わらずのゆるふわ設定で、メンタルも豆腐並なので、軽い気持ちで読んで下さい。 ❋独自設定有りです。 ❋他視点の話もあります。 ❋誤字脱字は気を付けていますが、あると思います。すみません。

もう死んでしまった私へ

ツカノ
恋愛
私には前世の記憶がある。 幼い頃に母と死別すれば最愛の妻が短命になった原因だとして父から厭われ、婚約者には初対面から冷遇された挙げ句に彼の最愛の聖女を虐げたと断罪されて塵のように捨てられてしまった彼女の悲しい記憶。それなのに、今世の世界で聖女も元婚約者も存在が煙のように消えているのは、何故なのでしょうか? 今世で幸せに暮らしているのに、聖女のそっくりさんや謎の婚約者候補が現れて大変です!! ゆるゆる設定です。

【完結】仰る通り、貴方の子ではありません

ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは 私に似た待望の男児だった。 なのに認められず、 不貞の濡れ衣を着せられ、 追い出されてしまった。 実家からも勘当され 息子と2人で生きていくことにした。 * 作り話です * 暇つぶしにどうぞ * 4万文字未満 * 完結保証付き * 少し大人表現あり

セレナの居場所 ~下賜された側妃~

緑谷めい
恋愛
 後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。

後宮の棘

香月みまり
キャラ文芸
蔑ろにされ婚期をのがした25歳皇女がついに輿入り!相手は敵国の禁軍将軍。冷めた姫vs堅物男のチグハグな夫婦は帝国内の騒乱に巻き込まれていく。 ☆完結しました☆ スピンオフ「孤児が皇后陛下と呼ばれるまで」の進捗と合わせて番外編を不定期に公開していきます。 第13回ファンタジー大賞特別賞受賞! ありがとうございました!!

思い出してしまったのです

月樹《つき》
恋愛
同じ姉妹なのに、私だけ愛されない。 妹のルルだけが特別なのはどうして? 婚約者のレオナルド王子も、どうして妹ばかり可愛がるの? でもある時、鏡を見て思い出してしまったのです。 愛されないのは当然です。 だって私は…。

処理中です...