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‐1336年 日ノ炎月 6日《5月6日》‐
5日、夜。フォーサイス邸。地下牢にて、
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「そう、ですね――。まずは――」
そう、まずは……、まずは何から話したものか――。
まず、伝えるべきことがあまりにも多すぎる。時間も決して猶予があるわけではない。
それに何より、お嬢様に全てを伝える訳にはいかない。確かに、ゆくゆくは伝えねばならないだろう。それもそう遠くないうちに。だが、それは今ではない。
仮に伝えるとしてもだ、前提として話しておかなばならないことだって多い。となると、やはり今ではない。
夜、我々に、アデルバート様と私に、何があったかを話すのは、決して今ではないのだ――――。
=============
冷たい――、硬い――。
「……ス、……ス。……ろ……イス――」
こ、え――。
「……イス! ……きろ――」
呼ん――で、いる――。
「……イス!」
いや――、呼ばれて、いる――。
「……きろ! ルイス!」
アデルバート、様――。アデルバート様――?
「アデルバート様!」
理解するとともに思考が回り出す。半ば強制的に体が起き上がり、自然と言葉が出た。が、急に体を動かしたせいか、直後、一瞬にして全身に痛みが走った。思わず背中が丸くなってしまう。
「ルイス! 大丈夫か!?」
「だ、大丈夫、です……――。それよりも――!」
即座に背をただし、頭を地に伏せる。
「いや、わかっている、エレノアのことだろう――。」
そう言ってアデルバート様は、いつものように左手を口元に寄せ、少し、考えるようなそぶりを見せた。そして小声で独り言のように続く言葉を発した。
「フレヤめ――。もう少しばかり猶予があるものと思っていたが……、まさかもう動き出すとは――」
アデルバート様の独り言を聞いていくうちに、自分で自分の顔が見えるはずもないのに、筋肉が強張っていき段々と表情が曇っていっているのがありありと感じられた。
少しして、アデルバート様は一度言葉を切り、こちらへと目線を向けてきた。
「それで、ルイス――!?」
言葉とともに一歩、アデルバート様がこちらに詰め寄った。
「エレノアは! エレノアはどうなっている……! まぁ……、お前のことだ。無事ではあるんだろうが――」
続く言葉を聞き、喉に何かが詰まるような感覚を覚えた。グッと力を込め、無理やりにでも押し込むようにして唾を飲み込む。何の変哲もない、ただの唾が、まるで汚泥ように感じた。再びアデルバート様の声がした。
「場所はどこだ? 誰かついているのか? 一人であるなら一刻も早くお前をここから出して向かわせ――」
アデルバート様の捲し立てるような言葉の数々が雪崩のように流れ込んでくる。話ぶりから相当な焦りが感じとれた。当たり前だ、エレノア様に関することなのだから。しかし、いや、であればなおのこと、伝えねばならないことがある。
アデルバート様が喋っている最中であるにもかかわらず言葉を差し込んだ。
「アデルバート様!」
一度、息を吸い、吐く。意を決し、口を開いた。
「今回のことですが――!」
声を張り上げ、言葉を発した。そして勢いに任せ、言葉を続ける。
「――全て、全て私の責任でございます」
言葉とともに頭を下げた。瞬間、音が消えた。
「な――」
かに思えた。が、アデルバート様の声が聞こえてきてそんなことはないのだとわかった。
「……何を、言っている?」
顔を正面へと向ける。アデルバート様は心底不思議そうな表情を浮かべていた。
私は、ゆっくりと口を開いた。
「今回の……エレノア様に関する件ですが、フレヤらは一切、関係がございません――」
途中、喉から何かが迫り上がってくるような感覚がして一度、言葉を切った。喉に力を込めて唾とともに、迫り上がってきたそれを飲み込んだ。喉仏が大きく上下するのがわかった。絞り出すようにして、続く言葉を発していく。
「――全てにおいて今回の件、このルイスに、全責任がございます。」
言い終え、頭を下げるとともに、全身の血の気が引いていき、寒気を感じた。なのに胸の辺りだけがなぜかやけに熱い。額からは脂汗が滲んでいた。
「なにを……、なにを言っているんだ――ルイス――」
感情が感じられない、力の無い声がアデルバート様の口から聞こえてきた。
「説明を……、説明をしてくれないか。ルイス」
声が、少しだけ大きくなった。
「アデル、バート様――」
続く言葉が出ない。なにを言えばいいのかわからない。なにも、浮かばない。
「説明をしろと言っているんだ!!」
アデルバート様の怒鳴り声が響く。
再び顔を上げ、口を開きかけた瞬間、先にアデルバート様の口が開くのが見えた。
「一からだ、余計な言葉はいらない。一から全部説明、してくれ――。」
開きかけた口を一度、ピタリと閉じ、軽く頭を下げた後、頭の中にある事柄を整理するため一度、深呼吸をした。
そして、一から順に、起こったことの全てを、エレノアとともに森に入ったことを、不可解な事象に見舞われてお互い逸れてしまったことを、見つけることに成功したがなぜかエレノアのそばには飛龍がいたことを、助けようとしてエレノアに怪我を負わせてしまったことを、屋敷に連れ戻す途中再び逸れてしまったことを、追いかけた先で人攫いに連れ去られそうになっているエレノアがいたことを、取り戻そうとしたが返り討ちにあったことを、そして気がついたらここにいたことを――。これまでの顛末全てを余すことなく話した。
話が進むにつれ、アデルバート様の顔が曇っていくのが見えた。話が終わる頃には頭を抱え、その場に蹲ってしまわれた。
「アデルバート様――」
アデルバート様の顔が正面へと向いた。互いのへ視線が重なった。
「なぜだ、なぜ負けた。一介の人攫いごときになぜお前が。ルイスお前はそんなに弱かったのか?」
なにも言えなかった。何かを言う資格すらないと思った。私はただ、眼を伏せ、深く頭を下げた。
「そもそも――、そもそもだ。なぜ、最初に見つけた時になぜ、無理やりにでも連れ帰らなかったのだ。子供一人、そう子供をたった一人だぞ! それも病弱な!」
怒りからか、それとも不安からか、いや両方なのだろう。アデルバート様は震えた大きな声で言葉を吐き捨てた後、両手で自らの顔を覆い隠し、再び蹲ってしまわれた。
「そうだ、あの子は、あの子は病弱なんだぞ。それにまだ十歳の子供だ。それなのに、あの子は今、人攫いに捕まっているだと……。それに一人で――」
アデルバート様の呟くような、力無い言葉を聞いた上でなお、私は、今の私にはただ、ただ頭を下げ続けることしかできなかった。逃げだとは理解していた。しかし、なにをすれば、なんと言えばいいのか、わからなかった。頭を下げることすらすべきではないのかもしれないと思った。しかし、なにかせずにはいられなかった。そして、これすら逃げなんだと気がついた。許されざることをした、なのに、心の奥底に許しを乞うてる自分がいるとわかった。瞬間、指先一つすら動かせなくなっていることに気がついた。
「ルイス――」
アデルバート様の声がした。さっきまでのような独り言ともとれるようなものではなく、確実に私に向けて投げかけられたものだった。続く言葉が何かはすぐに分かった。全てを悟り、せめて、少しでも、心穏やかに聞き入れられるよう、ゆっくりと目を瞑った。
「お前はもう――。」
しかし、なぜか言葉はここで不自然に止まった。少しして、アデルバート様は、再びブツブツと何かを呟き始めた。声は徐々に小さくなっていき、やがて沈黙が訪れた。
一瞬、歯と歯が擦れて軋む音がした。アデルバート様の声がした。
「ルイス。お前は一刻も早くエレノアの元へ向かえ」
言葉が耳を通る。エレノア様の元へ向かえ、と聞こえた。言葉の意味が理解できず、一瞬、頭が真っ白になった。理解するため聞こえてきた言葉を頭の中で何度も反芻させる。何度かして、やっと理解ができた。瞬間、驚きのあまり思わず目が開き、顔がアデルバート様の方を向いた。アデルバート様が立ち上がるのが見えた。
「こっちに抜け道がある。」
そう言って、アデルバート様は、牢内の角へと向かっていった。
「ルイス、お前にも言っていなかったな。もちろんフレヤらにも知られていない、私だけが知っている道だ」
言い終えるとともに、牢内の角に到着したアデルバート様は、その場にしゃがみ、床の敷石を退かし始めた。
「アデルバート様! な、なにを! そのようなこと、私が!」
反射的に体が前に動き、気がつくと声を上げていた。
「いや、これは私でないと無理なんだ。決められた順番があるからな」
「い……え! その程度のこと私が――」
喋っている最中、いつの間にか会話が進んでいることに気がついた。ちがう、そういうことじゃないんだ。そう――。
「――じゃな……――!」
頭の中に浮かんでいる言葉が聞こえてきた。すぐに自分で発しているのだと気がついた。
「も、申し訳ございません……――!」
謝罪の言葉とともに即座に頭を下げる。
「構わん。それよりも、まずは落ち着け」
「え、ええ……――。」
何度か、意識的な呼吸を繰り返す。少しして、言葉を間違えぬよう、ゆっくりと、慎重に口を開いた。
「よ、よろしいのですか……。私なんかで……――」
アデルバート様からの返答はない。
「私なんかを……、向かわせて……よろしいのですか――」
アデルバート様の手が止まった。
「そう、だな――――」
アデルバート様は噛み締めるように言った。
「良くは……、ない、な。だが――」
言葉が途中で止まった。一度、深呼吸をおこなった後、アデルバート様は言葉を続けた。
「――だがな。あの子には……、エレノアにはもう、私たちしかいない。その上、今の私にはもう、あの子のためにできることなどなにも無い。私にはもう、なにもしてやれないんだ」
アデルバート様の顔がこちらに向いた。互いの視線が交差する。
「ルイス――」
そう言ってアデルバート様は私の肩に手を置いた。
「お前しか……――」
グッと、力強く肩が握られた。
「お前しか、いないんだ……――」
アデルバート様の声は、少し震えているように聞こえた。
「し、しかし……――」
続く言葉を言おうとした。が途中、喉仏が動かず、声が出せなかった。私の状態を知ってか知らずか、すぐにアデルバート様の声がした。
「しかしではない。ルイス、お前だけなんだ。もう――」
アデルバート様の顔が下へと向いた。
「もう……。お前しか、いないんだ――」
肩に触れているアデルバート様の手は震えていた。
そんなアデルバート様の姿を見てなお、いや、見たからこそなのだろうか、私は声一つすら出せないでいた。
少しして、アデルバート様の手が肩から離れた。そして、再び敷石を退かす作業に戻られ、再びアデルバート様の声が聞こえてきた。
「いいか、ルイス――。」
作業とともに、アデルバート様の言葉は続いていく。
「お前も十分わかっているだろうが、あの子には、エレノアにはあまりにも敵が多い。この家に……いや、フラウギスにいる限り、あの子は常に危険と隣り合わせだ。それもれこれも全て、私の責任だ。ならばせめて、コルネシアまでの安全が確保されてからと思っていたが、もう、そうも言っていられない。もう、やるしかない。だが、フレヤらが今になって動き出したことと、ルイス、お前の説明から考えるに幸い……とは言いたくは、ないな――。が、今のエレノアは危険な状態ではあるもののフレヤらの手に落ちているわけではない――」
ガコッと何かが外される音がして、一際大きな敷石がアデルバート様の脇に積まれた大量の敷石の上に置かれたのが見えた。
「だから――、」
アデルバート様の顔がこちらへ向いた。
「急げルイス」
アデルバート様と目が合った。
「一刻も早くエレノア連れてコルネシアへ、エレナの旧家へ向かえ。」
アデルバート様はまっすぐな視線で、私の目を見て言った。私は、思わず顔を伏せてしまった。
瞬間、胸のあたりがざわつき出し、息苦しさを感じた。頭の中が、真っ白に――――。
「――ス、――イス。――ス! ルイス!」
アデルバート様の声がした。私を呼ぶ声がした。私は顔を上げた。
「どうした? 大丈夫か?」
「え、ええ、大丈夫です……。少し立ちくらみを――」
なんの、話を、していたっけ――?
「本当に大丈夫か? いいか、ルイス――」
なんです――、いや、ちがう、なんでしょう、か――。
「お前しかいない。私では無理だ。お前なんだ、ルイス」
オ、――いや、私、だけ――。
「今、エレノアを助けられるのはお前だけなんだ。」
エレノア、様、を助ける――。
「頼んだぞ。」
そうだ、エレノア様のところに行かないと――。
「まっすぐ行けば、外に出られる」
まっすぐ――、外――。
「出てすぐの場所に、木がある、コマデリの木だ。」
コマデリの木――。
「根元に路銀とコルネシアの通行手形。それと、エレナの遺品がある。」
根元――。路銀――、手形――。それと遺品――。
「フレヤ様、こちらに――」
「来たか……! いけ、ルイス! もう時間がない! 急げ!!」
そうだ――、急がないと――、急いでエレナ様に――――。いや、ちがう。エレノア様を、お嬢様を助けないと――。
そう、まずは……、まずは何から話したものか――。
まず、伝えるべきことがあまりにも多すぎる。時間も決して猶予があるわけではない。
それに何より、お嬢様に全てを伝える訳にはいかない。確かに、ゆくゆくは伝えねばならないだろう。それもそう遠くないうちに。だが、それは今ではない。
仮に伝えるとしてもだ、前提として話しておかなばならないことだって多い。となると、やはり今ではない。
夜、我々に、アデルバート様と私に、何があったかを話すのは、決して今ではないのだ――――。
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冷たい――、硬い――。
「……ス、……ス。……ろ……イス――」
こ、え――。
「……イス! ……きろ――」
呼ん――で、いる――。
「……イス!」
いや――、呼ばれて、いる――。
「……きろ! ルイス!」
アデルバート、様――。アデルバート様――?
「アデルバート様!」
理解するとともに思考が回り出す。半ば強制的に体が起き上がり、自然と言葉が出た。が、急に体を動かしたせいか、直後、一瞬にして全身に痛みが走った。思わず背中が丸くなってしまう。
「ルイス! 大丈夫か!?」
「だ、大丈夫、です……――。それよりも――!」
即座に背をただし、頭を地に伏せる。
「いや、わかっている、エレノアのことだろう――。」
そう言ってアデルバート様は、いつものように左手を口元に寄せ、少し、考えるようなそぶりを見せた。そして小声で独り言のように続く言葉を発した。
「フレヤめ――。もう少しばかり猶予があるものと思っていたが……、まさかもう動き出すとは――」
アデルバート様の独り言を聞いていくうちに、自分で自分の顔が見えるはずもないのに、筋肉が強張っていき段々と表情が曇っていっているのがありありと感じられた。
少しして、アデルバート様は一度言葉を切り、こちらへと目線を向けてきた。
「それで、ルイス――!?」
言葉とともに一歩、アデルバート様がこちらに詰め寄った。
「エレノアは! エレノアはどうなっている……! まぁ……、お前のことだ。無事ではあるんだろうが――」
続く言葉を聞き、喉に何かが詰まるような感覚を覚えた。グッと力を込め、無理やりにでも押し込むようにして唾を飲み込む。何の変哲もない、ただの唾が、まるで汚泥ように感じた。再びアデルバート様の声がした。
「場所はどこだ? 誰かついているのか? 一人であるなら一刻も早くお前をここから出して向かわせ――」
アデルバート様の捲し立てるような言葉の数々が雪崩のように流れ込んでくる。話ぶりから相当な焦りが感じとれた。当たり前だ、エレノア様に関することなのだから。しかし、いや、であればなおのこと、伝えねばならないことがある。
アデルバート様が喋っている最中であるにもかかわらず言葉を差し込んだ。
「アデルバート様!」
一度、息を吸い、吐く。意を決し、口を開いた。
「今回のことですが――!」
声を張り上げ、言葉を発した。そして勢いに任せ、言葉を続ける。
「――全て、全て私の責任でございます」
言葉とともに頭を下げた。瞬間、音が消えた。
「な――」
かに思えた。が、アデルバート様の声が聞こえてきてそんなことはないのだとわかった。
「……何を、言っている?」
顔を正面へと向ける。アデルバート様は心底不思議そうな表情を浮かべていた。
私は、ゆっくりと口を開いた。
「今回の……エレノア様に関する件ですが、フレヤらは一切、関係がございません――」
途中、喉から何かが迫り上がってくるような感覚がして一度、言葉を切った。喉に力を込めて唾とともに、迫り上がってきたそれを飲み込んだ。喉仏が大きく上下するのがわかった。絞り出すようにして、続く言葉を発していく。
「――全てにおいて今回の件、このルイスに、全責任がございます。」
言い終え、頭を下げるとともに、全身の血の気が引いていき、寒気を感じた。なのに胸の辺りだけがなぜかやけに熱い。額からは脂汗が滲んでいた。
「なにを……、なにを言っているんだ――ルイス――」
感情が感じられない、力の無い声がアデルバート様の口から聞こえてきた。
「説明を……、説明をしてくれないか。ルイス」
声が、少しだけ大きくなった。
「アデル、バート様――」
続く言葉が出ない。なにを言えばいいのかわからない。なにも、浮かばない。
「説明をしろと言っているんだ!!」
アデルバート様の怒鳴り声が響く。
再び顔を上げ、口を開きかけた瞬間、先にアデルバート様の口が開くのが見えた。
「一からだ、余計な言葉はいらない。一から全部説明、してくれ――。」
開きかけた口を一度、ピタリと閉じ、軽く頭を下げた後、頭の中にある事柄を整理するため一度、深呼吸をした。
そして、一から順に、起こったことの全てを、エレノアとともに森に入ったことを、不可解な事象に見舞われてお互い逸れてしまったことを、見つけることに成功したがなぜかエレノアのそばには飛龍がいたことを、助けようとしてエレノアに怪我を負わせてしまったことを、屋敷に連れ戻す途中再び逸れてしまったことを、追いかけた先で人攫いに連れ去られそうになっているエレノアがいたことを、取り戻そうとしたが返り討ちにあったことを、そして気がついたらここにいたことを――。これまでの顛末全てを余すことなく話した。
話が進むにつれ、アデルバート様の顔が曇っていくのが見えた。話が終わる頃には頭を抱え、その場に蹲ってしまわれた。
「アデルバート様――」
アデルバート様の顔が正面へと向いた。互いのへ視線が重なった。
「なぜだ、なぜ負けた。一介の人攫いごときになぜお前が。ルイスお前はそんなに弱かったのか?」
なにも言えなかった。何かを言う資格すらないと思った。私はただ、眼を伏せ、深く頭を下げた。
「そもそも――、そもそもだ。なぜ、最初に見つけた時になぜ、無理やりにでも連れ帰らなかったのだ。子供一人、そう子供をたった一人だぞ! それも病弱な!」
怒りからか、それとも不安からか、いや両方なのだろう。アデルバート様は震えた大きな声で言葉を吐き捨てた後、両手で自らの顔を覆い隠し、再び蹲ってしまわれた。
「そうだ、あの子は、あの子は病弱なんだぞ。それにまだ十歳の子供だ。それなのに、あの子は今、人攫いに捕まっているだと……。それに一人で――」
アデルバート様の呟くような、力無い言葉を聞いた上でなお、私は、今の私にはただ、ただ頭を下げ続けることしかできなかった。逃げだとは理解していた。しかし、なにをすれば、なんと言えばいいのか、わからなかった。頭を下げることすらすべきではないのかもしれないと思った。しかし、なにかせずにはいられなかった。そして、これすら逃げなんだと気がついた。許されざることをした、なのに、心の奥底に許しを乞うてる自分がいるとわかった。瞬間、指先一つすら動かせなくなっていることに気がついた。
「ルイス――」
アデルバート様の声がした。さっきまでのような独り言ともとれるようなものではなく、確実に私に向けて投げかけられたものだった。続く言葉が何かはすぐに分かった。全てを悟り、せめて、少しでも、心穏やかに聞き入れられるよう、ゆっくりと目を瞑った。
「お前はもう――。」
しかし、なぜか言葉はここで不自然に止まった。少しして、アデルバート様は、再びブツブツと何かを呟き始めた。声は徐々に小さくなっていき、やがて沈黙が訪れた。
一瞬、歯と歯が擦れて軋む音がした。アデルバート様の声がした。
「ルイス。お前は一刻も早くエレノアの元へ向かえ」
言葉が耳を通る。エレノア様の元へ向かえ、と聞こえた。言葉の意味が理解できず、一瞬、頭が真っ白になった。理解するため聞こえてきた言葉を頭の中で何度も反芻させる。何度かして、やっと理解ができた。瞬間、驚きのあまり思わず目が開き、顔がアデルバート様の方を向いた。アデルバート様が立ち上がるのが見えた。
「こっちに抜け道がある。」
そう言って、アデルバート様は、牢内の角へと向かっていった。
「ルイス、お前にも言っていなかったな。もちろんフレヤらにも知られていない、私だけが知っている道だ」
言い終えるとともに、牢内の角に到着したアデルバート様は、その場にしゃがみ、床の敷石を退かし始めた。
「アデルバート様! な、なにを! そのようなこと、私が!」
反射的に体が前に動き、気がつくと声を上げていた。
「いや、これは私でないと無理なんだ。決められた順番があるからな」
「い……え! その程度のこと私が――」
喋っている最中、いつの間にか会話が進んでいることに気がついた。ちがう、そういうことじゃないんだ。そう――。
「――じゃな……――!」
頭の中に浮かんでいる言葉が聞こえてきた。すぐに自分で発しているのだと気がついた。
「も、申し訳ございません……――!」
謝罪の言葉とともに即座に頭を下げる。
「構わん。それよりも、まずは落ち着け」
「え、ええ……――。」
何度か、意識的な呼吸を繰り返す。少しして、言葉を間違えぬよう、ゆっくりと、慎重に口を開いた。
「よ、よろしいのですか……。私なんかで……――」
アデルバート様からの返答はない。
「私なんかを……、向かわせて……よろしいのですか――」
アデルバート様の手が止まった。
「そう、だな――――」
アデルバート様は噛み締めるように言った。
「良くは……、ない、な。だが――」
言葉が途中で止まった。一度、深呼吸をおこなった後、アデルバート様は言葉を続けた。
「――だがな。あの子には……、エレノアにはもう、私たちしかいない。その上、今の私にはもう、あの子のためにできることなどなにも無い。私にはもう、なにもしてやれないんだ」
アデルバート様の顔がこちらに向いた。互いの視線が交差する。
「ルイス――」
そう言ってアデルバート様は私の肩に手を置いた。
「お前しか……――」
グッと、力強く肩が握られた。
「お前しか、いないんだ……――」
アデルバート様の声は、少し震えているように聞こえた。
「し、しかし……――」
続く言葉を言おうとした。が途中、喉仏が動かず、声が出せなかった。私の状態を知ってか知らずか、すぐにアデルバート様の声がした。
「しかしではない。ルイス、お前だけなんだ。もう――」
アデルバート様の顔が下へと向いた。
「もう……。お前しか、いないんだ――」
肩に触れているアデルバート様の手は震えていた。
そんなアデルバート様の姿を見てなお、いや、見たからこそなのだろうか、私は声一つすら出せないでいた。
少しして、アデルバート様の手が肩から離れた。そして、再び敷石を退かす作業に戻られ、再びアデルバート様の声が聞こえてきた。
「いいか、ルイス――。」
作業とともに、アデルバート様の言葉は続いていく。
「お前も十分わかっているだろうが、あの子には、エレノアにはあまりにも敵が多い。この家に……いや、フラウギスにいる限り、あの子は常に危険と隣り合わせだ。それもれこれも全て、私の責任だ。ならばせめて、コルネシアまでの安全が確保されてからと思っていたが、もう、そうも言っていられない。もう、やるしかない。だが、フレヤらが今になって動き出したことと、ルイス、お前の説明から考えるに幸い……とは言いたくは、ないな――。が、今のエレノアは危険な状態ではあるもののフレヤらの手に落ちているわけではない――」
ガコッと何かが外される音がして、一際大きな敷石がアデルバート様の脇に積まれた大量の敷石の上に置かれたのが見えた。
「だから――、」
アデルバート様の顔がこちらへ向いた。
「急げルイス」
アデルバート様と目が合った。
「一刻も早くエレノア連れてコルネシアへ、エレナの旧家へ向かえ。」
アデルバート様はまっすぐな視線で、私の目を見て言った。私は、思わず顔を伏せてしまった。
瞬間、胸のあたりがざわつき出し、息苦しさを感じた。頭の中が、真っ白に――――。
「――ス、――イス。――ス! ルイス!」
アデルバート様の声がした。私を呼ぶ声がした。私は顔を上げた。
「どうした? 大丈夫か?」
「え、ええ、大丈夫です……。少し立ちくらみを――」
なんの、話を、していたっけ――?
「本当に大丈夫か? いいか、ルイス――」
なんです――、いや、ちがう、なんでしょう、か――。
「お前しかいない。私では無理だ。お前なんだ、ルイス」
オ、――いや、私、だけ――。
「今、エレノアを助けられるのはお前だけなんだ。」
エレノア、様、を助ける――。
「頼んだぞ。」
そうだ、エレノア様のところに行かないと――。
「まっすぐ行けば、外に出られる」
まっすぐ――、外――。
「出てすぐの場所に、木がある、コマデリの木だ。」
コマデリの木――。
「根元に路銀とコルネシアの通行手形。それと、エレナの遺品がある。」
根元――。路銀――、手形――。それと遺品――。
「フレヤ様、こちらに――」
「来たか……! いけ、ルイス! もう時間がない! 急げ!!」
そうだ――、急がないと――、急いでエレナ様に――――。いや、ちがう。エレノア様を、お嬢様を助けないと――。
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最後まで読んでくださりありがとうございます。よろしければ、評価、ブックマークもよろしくお願いいたします。感想、批評好評、誤字脱字報告などいただけるもの全てありがたく頂戴いたします。
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※悪役令嬢で婚約破棄物ですが、ざまぁもスッキリもありません。
※以前投稿していた「いっとう愚かで惨めで哀れだった令嬢の果て」改稿版です。文章量が1.5倍くらいに増えています。
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*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
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一話から途中まで見させてもらってます(^^)私には書けない物語なので参考になります。続き気になったのでお気に入り登録させてもらいました(^o^)
よかったら私の作品も観てくださいね(^^)/
ご一読、コメントありがとうございます。
自身では書けない物語という感想が気になりましたので
花雨さんの作品も読まさせていただきます。