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‐1336年 日ノ炎月 4日《5月4日》‐
いつもとかわらない日常 2
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朝食に行かなくてもよくなったことで時間が出来た上、水を飲んで頭も冷えて考える余裕が出てきたためか、ふと、水差しの水の溜まりが悪かったことが気になり出した。
まず考えられるのは私の魔力不足……だけど。いや、単純に故障ってことも……――。うーんまぁ、他になにも浮かばないし、魔力不足か故障のどちらかなら調べるのも簡単だし、他の可能性についてはまぁ、今はいっか。
私は、手に持ったコップをテーブルに置き、タンスに向かい引き出しを開け、中を漁っていく。
まずは……、なんでもいいからもう一つ、魔法を行使するための触媒を用意して……それから両方使用すればいいんだけど――。触媒は――、とりあえずこれでいいか――。
私は引き出しから火起こし用の触媒を取り出した。
――で、水差しだけ調子が悪ければ水差しに問題があるし、両方調子が悪ければ私の魔力不足というわけだ。
さっそく原因を特定するため、火起こし用の触媒を右手に、水差しを左手に持ち、両方同時に魔力を流し込んでいく。すると水差しに水は溜まらず、火起こしの方は今にも消えそうな小さな火がちょろちょろと起こるのみだった。結果に一瞬、水差しの故障で納得しそうになったが、右手に持った火起こしの方も火が小さかったことが妙に引っかかった。
そうだ、そういえば元々私、魔法は右利きだったんだった。いや、魔法は、っていうか、魔法も、か。あ、いや、今はそんなことはどうでもよくて……――。そう、そういえば最初は右手でしか魔法、使えなかったっけ。体内の魔力操作の練習もあって今はもう、両方で使えるようになってて完全に忘れてたけど、元々は右手でしか魔法、上手く使えないんだった。でもなんで急に左だけ上手く使えなくなったんだろう? 魔力が少ないから利き手じゃなかった左手だと上手く扱えないとか? ん? ということは水差しの水の溜まりが悪い原因はやっぱり魔力不足? いや、別に故障してない理由も証明できてないし決めつけるのはよくないか。そうだ、こういうのは両方試さないと――。
さっそく、今度は逆に、水差しを右に、火起こしを左に持ち、再度魔力を流し込んだ。結果、水は少しだけ溜まり、火は起こらなかった。以上の結果から察するに水差しの不調は、やっぱり私の魔力不足が原因だった。
となるともう一つ気がかりなことができる。魔力不足はなぜ起こったのか、だ。
寝ている間に知らず知らず魔法を使っていた……とか? うーん……その仮定で考えていくと……。寝ながら無意識で魔法を使ってたら魔力不足になっちゃって、結果、息苦しくなったり大量の汗をかいてしまったりして体に異常が出ていた、とか……? だけど、一体どれだけの魔力を消費すればあんな、服が汗びっしょりで挙句シーツにまで染み込む、なんて状態になるんだろう。それに、そこまで大量の魔力を消費する魔法はまだ覚えてはいないはず……、いやそもそも、触媒を手に持って寝ていたわけでもないのに魔法を使っていたなんてそんなこと……。寝ている途中に怪我して無意識のうちに治癒していたとか? 確かに、これだと触媒を持っていなくても説明はつくけど、こんなに魔力が減ってたんだから相当な大怪我でもしないと、それこそ説明が……、それにそんな大怪我負って起きないなんてこと――――。
考えれば考えるほど、謎は増えていくばかりだった。そもそもこの考えは、仮定に仮定を重ねたものであり、決して確証のあるものではなく、このまま考えを重ねていっても原因が明らかになることはないかと思われたため思考を一度断ち切ることにした。
時計が目に入り、反射的に頭の中で文字盤を作る。時間は八時半を迎えていた。
そうだ、別に今日行う全ての予定がなくなったわけじゃないんだ。そろそろ授業に向けての準備をしなくては。とりあえず汗を流してそれから……必要なものを用意して――。えーと、今日はたしか数学系を四科目と、あと魔法学、だったかな……。どうせなら言語系の授業を受けたかった。それに魔法だって、前のトリスティア先生の時は実技多めで楽しかったのに……、トリスティア先生がいなくなってからは座学ばっかりで全然楽しくない。けどまぁ、神学や哲学と比べたらまだいいか。だからと言って算術や幾何学が好きかと問われれば答えには少しばかり困ってしまう……。嫌いなものと比べるとまだいい、というだけだ。
授業のことを考えるとだんだん足取りが重くなっていくが、だからといって時間が止まってくれるわけもないので、ゆっくりとではあるものの私は浴室に向かっていった。
廊下を歩いているとコツコツと誰かが階段を上がってくる音がした。
誰だろう。一番確率が高いのは使用人のうちの誰かか、だけど家に雇われている使用人がこんなにもわかりやすく音を立てながら歩くはずがない、ならお父様かお母様? だけど、お父様はおそらくまだお仕事の最中、それにお父様はあまり音を立てて歩かないし、であればお母様か。まずい、今、お母様と鉢合わせるのは非常にまずい。
私が来た道を引き返そうとしたその時、階段からお母様の顔がちらりと見えた。瞬間、お母様と目があった。お母様の表情がみるみるうちに不機嫌なっていく。
お母様は一切表情を取り繕うともせず、その大きな口からいつも説いている貴族らしさとは程遠い速度で歩き始め、ツカツカとわざとらしい足音を立てながらこちらに近づいてきた。それでも姿勢は一切崩さないのは、流石はここら一帯を取り締まる領主の嫁とと言えた。
あまりの迫力に圧倒された私は、すぐさまその場から逃げ出そうと、貴族らしい所作などかなぐり捨ててその場でクルッと半回転を決め、自室に戻ろうとした。だがしかし、抵抗むなしくお母様に呼び止められてしまう。
「あら、これは奇遇ですね、エレノア。今朝は朝食にはいなかったようですが……、いかがなさったのかしら――?」
やっぱり逃げられなかったか。まぁ、そもそも見つかってしまっている時点で全くもって無意味な抵抗ではあったけど……。それでもこの後のことを考えると逃げださずにはいられなかった。
「お、お母様、おはようございます。今朝はお顔をお見せすることができず、申し訳ありませんでした。以後同じような過ちは犯さぬよう気を付けてまいります」
恐る恐る、ぎこちない動作でお母様の方を向く。
お願いだ。これでどうにかなってくれ――。
しかし、祈りもむなしく、ゆっくりとお母様の大きな口が開かれた。
「ええ、そうですね。貴族たるもの、いかなる時も他人に一切の弱みを見せてはいけません。いつ、誰に、何を付け込まれるか分からないのです。常に細心の注意を払いつつ行動していかねばなりません。ですからエレノア、もう二度と同じような過ちを犯さないためにも、なぜ、今日、朝食に顔を出さなかったのか、その理由を教えてもらえないかしら。まさか言えない様なことをしていたなんてことはありませんわよね……。エレノア=アルバニア=フォーサイス」
まずい、これはまずい。非常にまずい。というか洒落になってない。
額には脂汗がにじんでいた。つばを飲み込むことを忘れてしまった口内には、大量の唾液が溜まってしまっている。
なにか、なにかしらの弁明を今すぐにでもしなければ……。
しかし頭の中には何も浮かんでこない。
そりゃそうだ、だって寝坊しただけなんだもん。弁明などあるはずもない。しかし黙っているのはもっとまずい。なんでもいい、とにかくなんでもいいから何か、言葉を言わないと……。
「どうなのです。何とか言ったらどうなのかしらエレノア――」
私が何も言えずにいると、お母様はより一層の怒りを声に滲ませ問いかけてくる。
「そうですか、何も言えないのですね。エレノア、貴方は何度言えばわかってくれるのかしら。貴方にはもう一度、一から説明をしなければならない様ですね。我々貴族が貴族らしい振る舞いをすること、それは義務なのです。我々貴族は平民とは違う生き物なのですよ」
お母様は一度会話を区切ると近くに置いてあったベルを手に取りチリンチリンと音を鳴らした。
するとどうだろう。一切の物音を立てず、すぐさまメイドのメアリがお母様の隣に現れた。
「フレヤ様、お呼びでしょうか」
「メアリ、そこの窓を開けてちょうだい」
そう言いながらお母様は庭全体を見渡すことのできる窓に視線を送った。
「畏まりました」
メアリの手により窓が開けられ、そよ風がそっと頬を撫ぜる。いつもなら心地よく感じるはずの風も後のことを考えると今回ばかりは少しばかり不快に感じてしまう。
「エレノア、あれを御覧なさい」
お母様の声に反応し、内側に向いていた意識を大慌てで外へと向け、お母様の向く方向と同じ場所を向き、視線の先を確認する。お母様の視線は庭の手入れに勤しむ庭師を指していた。
「平民というのは我々貴族が常に導いてやらねばならないのです。彼らは本質的には獣と同じであり、我々貴族がいなければすぐ堕落してしまう、そういう生き物なのですよ。あの庭師だってそう。たしかにそこらに溢れる物どもと比べたら多少まともではあるけれど、それも全て我々貴族が仕事を与え管理しているからこそ。見なさいあの汚らしい格好を、もう少し自身の見目に気を配って仕事ができないものかしら……――」
そう言ってお母様は、口元を手で隠しながら眉間にしわを寄せ、庭師を一にらみし、再び口を開いた。
「私としてはいくら仕事ができるとはいえ、物などに我がフォーサイス家の敷地を跨がせたくはないのだけれど。アデルバートの功利主義には困ったものだわ。あら、私としたことが少し話が逸れてしまったわね。エレノア、あれらは物です、生き物ですらない。そう、このベルと同じ我々人間に使われるだけのただの道具なのです。いくらあなたでもこれぐらいは理解しているでしょう――」
これは返事を求められているのだろうか、それとも一度間を置いているだけだろうか。ここを間違えると大変なことになる。この前なんて返事を求められているのかと思って返事をしたら「人が話している途中にも関わらずそれを遮るなんて何事です」といった具合でそれはそれはもう、大惨事に発展したものだ。
「……。――これはまた一からキルクス教典を読んでもらうことになりそうですね――」
「奥様、お取り込み中のところ申し訳ありません。少しお時間を頂いてもよろしいでしょうか」
私が返答を返すべきかどうか悩んでいると階段の方から声が聞こえてきた。
「控えなさい! 狼犬人風情が会話に割って入るなど、特別に旦那様からフォーサイス家の敷居を跨ぐことを許されているとはいえ、到底許されることではありません。己が分を弁えなさい」
メアリは声を張り上げ、ルイスを遮るような形でお母様との間に立ちいった。
「申し訳ございません。ですがお嬢様にも関係することでして」
お母様は右手に持ったハンカチを口に当てて、左手でベルを持ち鳴らした。
それを確認したメアリは、お母様の口元に耳を近づける。お母様の口から囁き声がした後、メアリがお母様の代わってルイスに言葉を告げ始めた。
「ルイス、フレヤ様から貴方への言葉です。心して聞き入れなさい」
少しの溜めを挟み、メアリは言葉を続ける。
「貴方の発言を許可します」
「奥様、発言の許可を下さったこと、誠に感謝いたします。そしてメアリ、ご報告感謝いたします」
そう言ってルイスは、お母様に深々と頭を下げ、その後メアリにも頭を下げた。
しかし、お母様とメアリの心にその姿勢が届くことはないだろう。お母様達の表情は一向に険しいままだ。
「只今、お嬢様の授業の時間が目前となっております。このままですと、少々遅れが生じてしまいますが、よろしいでしょうか」
「……。ではエレノア、この続きはまた――」
そう言うお母様の視線は、一切ルイスの方を向いてはいなかった。
その理由は明白で、お母様の中では自身の価値観の中で道具に属するような人物とお母様自らが会話を交わすなどありえないことなのだ。だからお母様はルイスの方を見ず、私に喋りかけることによって、この会話を私とお母様との間で起きたものとして処理したいのだろう。
「はい。それではお母様、失礼致します」
早々に私から背を向けて、階段を降りていったお母様に向かって礼を済ませ、後に控えている説教を増やさないためにも、いつも以上に姿勢を正し、ゆったりと、十分な余裕を持たせた歩き方を心がけ、表面上は決して急ぐことなく、慎重に自室へと向かった。
無事に自室の前まで到着しドアノブに手をかけようとしたところ、ふと背後から声をかけられた。
「お嬢様、少々お時間よろしいでしょうか」
声の主はルイスだった。
さっきの助け舟はとてもナイスなタイミングだった。ちょうど良い、個人的にもお礼を言っておきたかったし、少し話すぐらいどうって事はないだろう。
「ええ、大丈夫よ。なにかしら」
「先ほどは出過ぎた真似をしてしまい申し訳ありません」
「全然謝ることなんてないわルイス。むしろ私がお礼を言わせて欲しいぐらいよ」
「いえ、私はただ事実を述べただけです。お嬢様からお礼を言われる様なことなどなにもしておりません」
「そうだとしても、私が貴方のおかげで助かったことには変わらないわ。だから言わせてちょうだい。ありがとうルイス、おかげで助かったわ」
「お嬢様。お言葉ありがたく頂戴致します」
「そうよ、遠慮なく受け取っておきなさい。ところで、私にあった用事って謝罪だけってわけじゃないでしょう」
「ええ、実はお嬢様にお渡ししたい物が御座いまして」
そう言うとルイスは片膝をつき、私と目線の位置を合わせた後、懐からナプキンに包まれた何かをとりだしてきた。
「朝に何があったか、詳しくはお聞きいたしません。ですが、朝食を取られないと言うのは流石によろしくないと思いまして、パンを持ってまいりました。お時間がございましたらこっそりとお食べください。ですが急いで食べてはなりませんよ。喉に詰まらせてしまっては大事です」
「ルイス……。あなたはやっぱり最高の執事よ! ありがとう」
溢れ出す感謝の気持ちを一切抑えることなく、勢いのまま、私は感謝の言葉とともに思いっきりルイスに抱きついた。
「お嬢様、お気持ちは嬉しいですが、淑女があまり気軽に男に抱き付くのはよろしくありませんよ。 それに、これこそ奥様に見つかってしまっては先ほど程度のお説教じゃすまされません」
そう言ってルイスは私の手を優しく解き、立ち上がった。
「だって言葉だけじゃ溢れ出るこの感謝を表現しきれなかったんですもの。こればっかりはしょうがないわ。この表現方法が一番適切だったのよ」
「だとしてもです。それではお嬢様、失礼致します」
言葉が終わるとともにルイスはその場から立ち上がり、ピンと姿勢を正したまま、踵を返し歩き出し始めた。
「ルイス本当にありがとう。それと今日の毛並みも最高だったわよ!」
私のお礼に対してルイスは、一度軽く頭を下げた後、頭の天辺の位置を下げることなく、もう一度クルッと回って前に向き直り、足音を立てることなく気持ち足早に去っていった。
ルイスがいなくなったことをか確認して自室に戻った私は、ドアを閉め自室に戻るや否やもらったパンを無作法極まりない早さで口の中に放り込んでいく。口内をパンでパンパンに膨らませ、途中喉に詰まらせそうになりながらも大急ぎでパンを平らげていった。
まず考えられるのは私の魔力不足……だけど。いや、単純に故障ってことも……――。うーんまぁ、他になにも浮かばないし、魔力不足か故障のどちらかなら調べるのも簡単だし、他の可能性についてはまぁ、今はいっか。
私は、手に持ったコップをテーブルに置き、タンスに向かい引き出しを開け、中を漁っていく。
まずは……、なんでもいいからもう一つ、魔法を行使するための触媒を用意して……それから両方使用すればいいんだけど――。触媒は――、とりあえずこれでいいか――。
私は引き出しから火起こし用の触媒を取り出した。
――で、水差しだけ調子が悪ければ水差しに問題があるし、両方調子が悪ければ私の魔力不足というわけだ。
さっそく原因を特定するため、火起こし用の触媒を右手に、水差しを左手に持ち、両方同時に魔力を流し込んでいく。すると水差しに水は溜まらず、火起こしの方は今にも消えそうな小さな火がちょろちょろと起こるのみだった。結果に一瞬、水差しの故障で納得しそうになったが、右手に持った火起こしの方も火が小さかったことが妙に引っかかった。
そうだ、そういえば元々私、魔法は右利きだったんだった。いや、魔法は、っていうか、魔法も、か。あ、いや、今はそんなことはどうでもよくて……――。そう、そういえば最初は右手でしか魔法、使えなかったっけ。体内の魔力操作の練習もあって今はもう、両方で使えるようになってて完全に忘れてたけど、元々は右手でしか魔法、上手く使えないんだった。でもなんで急に左だけ上手く使えなくなったんだろう? 魔力が少ないから利き手じゃなかった左手だと上手く扱えないとか? ん? ということは水差しの水の溜まりが悪い原因はやっぱり魔力不足? いや、別に故障してない理由も証明できてないし決めつけるのはよくないか。そうだ、こういうのは両方試さないと――。
さっそく、今度は逆に、水差しを右に、火起こしを左に持ち、再度魔力を流し込んだ。結果、水は少しだけ溜まり、火は起こらなかった。以上の結果から察するに水差しの不調は、やっぱり私の魔力不足が原因だった。
となるともう一つ気がかりなことができる。魔力不足はなぜ起こったのか、だ。
寝ている間に知らず知らず魔法を使っていた……とか? うーん……その仮定で考えていくと……。寝ながら無意識で魔法を使ってたら魔力不足になっちゃって、結果、息苦しくなったり大量の汗をかいてしまったりして体に異常が出ていた、とか……? だけど、一体どれだけの魔力を消費すればあんな、服が汗びっしょりで挙句シーツにまで染み込む、なんて状態になるんだろう。それに、そこまで大量の魔力を消費する魔法はまだ覚えてはいないはず……、いやそもそも、触媒を手に持って寝ていたわけでもないのに魔法を使っていたなんてそんなこと……。寝ている途中に怪我して無意識のうちに治癒していたとか? 確かに、これだと触媒を持っていなくても説明はつくけど、こんなに魔力が減ってたんだから相当な大怪我でもしないと、それこそ説明が……、それにそんな大怪我負って起きないなんてこと――――。
考えれば考えるほど、謎は増えていくばかりだった。そもそもこの考えは、仮定に仮定を重ねたものであり、決して確証のあるものではなく、このまま考えを重ねていっても原因が明らかになることはないかと思われたため思考を一度断ち切ることにした。
時計が目に入り、反射的に頭の中で文字盤を作る。時間は八時半を迎えていた。
そうだ、別に今日行う全ての予定がなくなったわけじゃないんだ。そろそろ授業に向けての準備をしなくては。とりあえず汗を流してそれから……必要なものを用意して――。えーと、今日はたしか数学系を四科目と、あと魔法学、だったかな……。どうせなら言語系の授業を受けたかった。それに魔法だって、前のトリスティア先生の時は実技多めで楽しかったのに……、トリスティア先生がいなくなってからは座学ばっかりで全然楽しくない。けどまぁ、神学や哲学と比べたらまだいいか。だからと言って算術や幾何学が好きかと問われれば答えには少しばかり困ってしまう……。嫌いなものと比べるとまだいい、というだけだ。
授業のことを考えるとだんだん足取りが重くなっていくが、だからといって時間が止まってくれるわけもないので、ゆっくりとではあるものの私は浴室に向かっていった。
廊下を歩いているとコツコツと誰かが階段を上がってくる音がした。
誰だろう。一番確率が高いのは使用人のうちの誰かか、だけど家に雇われている使用人がこんなにもわかりやすく音を立てながら歩くはずがない、ならお父様かお母様? だけど、お父様はおそらくまだお仕事の最中、それにお父様はあまり音を立てて歩かないし、であればお母様か。まずい、今、お母様と鉢合わせるのは非常にまずい。
私が来た道を引き返そうとしたその時、階段からお母様の顔がちらりと見えた。瞬間、お母様と目があった。お母様の表情がみるみるうちに不機嫌なっていく。
お母様は一切表情を取り繕うともせず、その大きな口からいつも説いている貴族らしさとは程遠い速度で歩き始め、ツカツカとわざとらしい足音を立てながらこちらに近づいてきた。それでも姿勢は一切崩さないのは、流石はここら一帯を取り締まる領主の嫁とと言えた。
あまりの迫力に圧倒された私は、すぐさまその場から逃げ出そうと、貴族らしい所作などかなぐり捨ててその場でクルッと半回転を決め、自室に戻ろうとした。だがしかし、抵抗むなしくお母様に呼び止められてしまう。
「あら、これは奇遇ですね、エレノア。今朝は朝食にはいなかったようですが……、いかがなさったのかしら――?」
やっぱり逃げられなかったか。まぁ、そもそも見つかってしまっている時点で全くもって無意味な抵抗ではあったけど……。それでもこの後のことを考えると逃げださずにはいられなかった。
「お、お母様、おはようございます。今朝はお顔をお見せすることができず、申し訳ありませんでした。以後同じような過ちは犯さぬよう気を付けてまいります」
恐る恐る、ぎこちない動作でお母様の方を向く。
お願いだ。これでどうにかなってくれ――。
しかし、祈りもむなしく、ゆっくりとお母様の大きな口が開かれた。
「ええ、そうですね。貴族たるもの、いかなる時も他人に一切の弱みを見せてはいけません。いつ、誰に、何を付け込まれるか分からないのです。常に細心の注意を払いつつ行動していかねばなりません。ですからエレノア、もう二度と同じような過ちを犯さないためにも、なぜ、今日、朝食に顔を出さなかったのか、その理由を教えてもらえないかしら。まさか言えない様なことをしていたなんてことはありませんわよね……。エレノア=アルバニア=フォーサイス」
まずい、これはまずい。非常にまずい。というか洒落になってない。
額には脂汗がにじんでいた。つばを飲み込むことを忘れてしまった口内には、大量の唾液が溜まってしまっている。
なにか、なにかしらの弁明を今すぐにでもしなければ……。
しかし頭の中には何も浮かんでこない。
そりゃそうだ、だって寝坊しただけなんだもん。弁明などあるはずもない。しかし黙っているのはもっとまずい。なんでもいい、とにかくなんでもいいから何か、言葉を言わないと……。
「どうなのです。何とか言ったらどうなのかしらエレノア――」
私が何も言えずにいると、お母様はより一層の怒りを声に滲ませ問いかけてくる。
「そうですか、何も言えないのですね。エレノア、貴方は何度言えばわかってくれるのかしら。貴方にはもう一度、一から説明をしなければならない様ですね。我々貴族が貴族らしい振る舞いをすること、それは義務なのです。我々貴族は平民とは違う生き物なのですよ」
お母様は一度会話を区切ると近くに置いてあったベルを手に取りチリンチリンと音を鳴らした。
するとどうだろう。一切の物音を立てず、すぐさまメイドのメアリがお母様の隣に現れた。
「フレヤ様、お呼びでしょうか」
「メアリ、そこの窓を開けてちょうだい」
そう言いながらお母様は庭全体を見渡すことのできる窓に視線を送った。
「畏まりました」
メアリの手により窓が開けられ、そよ風がそっと頬を撫ぜる。いつもなら心地よく感じるはずの風も後のことを考えると今回ばかりは少しばかり不快に感じてしまう。
「エレノア、あれを御覧なさい」
お母様の声に反応し、内側に向いていた意識を大慌てで外へと向け、お母様の向く方向と同じ場所を向き、視線の先を確認する。お母様の視線は庭の手入れに勤しむ庭師を指していた。
「平民というのは我々貴族が常に導いてやらねばならないのです。彼らは本質的には獣と同じであり、我々貴族がいなければすぐ堕落してしまう、そういう生き物なのですよ。あの庭師だってそう。たしかにそこらに溢れる物どもと比べたら多少まともではあるけれど、それも全て我々貴族が仕事を与え管理しているからこそ。見なさいあの汚らしい格好を、もう少し自身の見目に気を配って仕事ができないものかしら……――」
そう言ってお母様は、口元を手で隠しながら眉間にしわを寄せ、庭師を一にらみし、再び口を開いた。
「私としてはいくら仕事ができるとはいえ、物などに我がフォーサイス家の敷地を跨がせたくはないのだけれど。アデルバートの功利主義には困ったものだわ。あら、私としたことが少し話が逸れてしまったわね。エレノア、あれらは物です、生き物ですらない。そう、このベルと同じ我々人間に使われるだけのただの道具なのです。いくらあなたでもこれぐらいは理解しているでしょう――」
これは返事を求められているのだろうか、それとも一度間を置いているだけだろうか。ここを間違えると大変なことになる。この前なんて返事を求められているのかと思って返事をしたら「人が話している途中にも関わらずそれを遮るなんて何事です」といった具合でそれはそれはもう、大惨事に発展したものだ。
「……。――これはまた一からキルクス教典を読んでもらうことになりそうですね――」
「奥様、お取り込み中のところ申し訳ありません。少しお時間を頂いてもよろしいでしょうか」
私が返答を返すべきかどうか悩んでいると階段の方から声が聞こえてきた。
「控えなさい! 狼犬人風情が会話に割って入るなど、特別に旦那様からフォーサイス家の敷居を跨ぐことを許されているとはいえ、到底許されることではありません。己が分を弁えなさい」
メアリは声を張り上げ、ルイスを遮るような形でお母様との間に立ちいった。
「申し訳ございません。ですがお嬢様にも関係することでして」
お母様は右手に持ったハンカチを口に当てて、左手でベルを持ち鳴らした。
それを確認したメアリは、お母様の口元に耳を近づける。お母様の口から囁き声がした後、メアリがお母様の代わってルイスに言葉を告げ始めた。
「ルイス、フレヤ様から貴方への言葉です。心して聞き入れなさい」
少しの溜めを挟み、メアリは言葉を続ける。
「貴方の発言を許可します」
「奥様、発言の許可を下さったこと、誠に感謝いたします。そしてメアリ、ご報告感謝いたします」
そう言ってルイスは、お母様に深々と頭を下げ、その後メアリにも頭を下げた。
しかし、お母様とメアリの心にその姿勢が届くことはないだろう。お母様達の表情は一向に険しいままだ。
「只今、お嬢様の授業の時間が目前となっております。このままですと、少々遅れが生じてしまいますが、よろしいでしょうか」
「……。ではエレノア、この続きはまた――」
そう言うお母様の視線は、一切ルイスの方を向いてはいなかった。
その理由は明白で、お母様の中では自身の価値観の中で道具に属するような人物とお母様自らが会話を交わすなどありえないことなのだ。だからお母様はルイスの方を見ず、私に喋りかけることによって、この会話を私とお母様との間で起きたものとして処理したいのだろう。
「はい。それではお母様、失礼致します」
早々に私から背を向けて、階段を降りていったお母様に向かって礼を済ませ、後に控えている説教を増やさないためにも、いつも以上に姿勢を正し、ゆったりと、十分な余裕を持たせた歩き方を心がけ、表面上は決して急ぐことなく、慎重に自室へと向かった。
無事に自室の前まで到着しドアノブに手をかけようとしたところ、ふと背後から声をかけられた。
「お嬢様、少々お時間よろしいでしょうか」
声の主はルイスだった。
さっきの助け舟はとてもナイスなタイミングだった。ちょうど良い、個人的にもお礼を言っておきたかったし、少し話すぐらいどうって事はないだろう。
「ええ、大丈夫よ。なにかしら」
「先ほどは出過ぎた真似をしてしまい申し訳ありません」
「全然謝ることなんてないわルイス。むしろ私がお礼を言わせて欲しいぐらいよ」
「いえ、私はただ事実を述べただけです。お嬢様からお礼を言われる様なことなどなにもしておりません」
「そうだとしても、私が貴方のおかげで助かったことには変わらないわ。だから言わせてちょうだい。ありがとうルイス、おかげで助かったわ」
「お嬢様。お言葉ありがたく頂戴致します」
「そうよ、遠慮なく受け取っておきなさい。ところで、私にあった用事って謝罪だけってわけじゃないでしょう」
「ええ、実はお嬢様にお渡ししたい物が御座いまして」
そう言うとルイスは片膝をつき、私と目線の位置を合わせた後、懐からナプキンに包まれた何かをとりだしてきた。
「朝に何があったか、詳しくはお聞きいたしません。ですが、朝食を取られないと言うのは流石によろしくないと思いまして、パンを持ってまいりました。お時間がございましたらこっそりとお食べください。ですが急いで食べてはなりませんよ。喉に詰まらせてしまっては大事です」
「ルイス……。あなたはやっぱり最高の執事よ! ありがとう」
溢れ出す感謝の気持ちを一切抑えることなく、勢いのまま、私は感謝の言葉とともに思いっきりルイスに抱きついた。
「お嬢様、お気持ちは嬉しいですが、淑女があまり気軽に男に抱き付くのはよろしくありませんよ。 それに、これこそ奥様に見つかってしまっては先ほど程度のお説教じゃすまされません」
そう言ってルイスは私の手を優しく解き、立ち上がった。
「だって言葉だけじゃ溢れ出るこの感謝を表現しきれなかったんですもの。こればっかりはしょうがないわ。この表現方法が一番適切だったのよ」
「だとしてもです。それではお嬢様、失礼致します」
言葉が終わるとともにルイスはその場から立ち上がり、ピンと姿勢を正したまま、踵を返し歩き出し始めた。
「ルイス本当にありがとう。それと今日の毛並みも最高だったわよ!」
私のお礼に対してルイスは、一度軽く頭を下げた後、頭の天辺の位置を下げることなく、もう一度クルッと回って前に向き直り、足音を立てることなく気持ち足早に去っていった。
ルイスがいなくなったことをか確認して自室に戻った私は、ドアを閉め自室に戻るや否やもらったパンを無作法極まりない早さで口の中に放り込んでいく。口内をパンでパンパンに膨らませ、途中喉に詰まらせそうになりながらも大急ぎでパンを平らげていった。
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