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‐1336年 日ノ炎月 5日《5月5日》‐
森にて、
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「もう! ぜんっぜん、なにも見えないじゃない」
「木に月明かりが遮られておりますし、これでは仕方ありませんよ」
足元すらまともに見えない暗い森の中を、すり足気味で前に進みながら爪先で木の根や石などの障害物の有無を確認しつつ慎重に歩いていく。
「お嬢様、やはり明日の方が良かったのでは……。」
「なに言ってるのルイス!」
ルイスのまさかの提案に思わず語気が強くなる。
「今からでも遅くありません。今日のところはここまでにして、続きはまた後日にした方が良いかと思うのですが……」
「これぐらいのことがなに! 何事も経験よ経験! せっかく来たのにもう戻るなんて、絶対に論外!!」
ルイスの方へ振り返りながら、なんてことを言うんだとばかりに強く全力で反論する。
「お嬢様ーー!」
「ーー? っとーー」
ルイスに声をかけられ、足下への注意が疎かになってしまっていたのか。いや、せっかくの取材にそもそも高揚感が高まり気が抜けてしまっていたのかもしれない。直前まであんなに気をつけていたにも関わらず私は、一瞬の気の緩みからルイスの方へ振り向く際に木の根に足を引っ掛け体勢を崩し、そのまま地面に真っ逆さまに倒れ込みそうになってしまった。
瞬間、ルイスの足下の土が爆発したかの様に弾け、抉れた。さっきまで立っていた場所にルイスの姿はない。
「大丈夫ですか、お嬢様」
一番最初に手に触れた感触は湿った土やゴツゴツボコボコとした木の根などではなく、ふわっとした毛布のような感触だった。状況に理解が追いつかず、少しでも現状を理解しようとして仕切りに目をパチクりとさせながらキョロキョロと忙しなく左右に首を動かしてしまう。
「エレノアお嬢様、お怪我はございませんか?」
名前を呼ばれてやっと今の状況を理解することできた。
そうか、ルイスに支えられていたのか。
「だ、だいじょうぶよ、これくらい」
ほんのちょっぴりの気恥ずかしさのせいか、思わず強がりを言ってしまう。
「立てますか?」
「と、当然じゃない! これぐらいどうってことないわ」
ルイスの心配を他所に、私はぴょんと飛び上がりルイスの腕を離れた。
「お待ちくださいお嬢様ーー」
しかし、いや案の定というべきか、飛び上がった先にちょうど苔の生えた岩があり、そのまま上に乗ってしまい着地と同時に足を滑らせ、後ろ向きに地面に倒れそうになってしまった。
あーー、今度こそぶつかるーー。
思わず声を上げそうになってしまう。しかし、叫び声を上げる間もなく、ルイスが再び支えてくれたおかげで、またしても私は地面に倒れずにすんだ。
私を苔の生えた岩の上から離れさせ、安定した場所に誘導した後、ルイスは、安全確認か、ぐるっと周りを見渡し、口を開いた。
「お嬢様。もし、このまま先ほどまでと同じ様な心持ちで取材を続ける場合、申し訳ありませんが今日のところはすぐにでも屋敷に帰っていただきます」
ルイスは毅然とした態度でキッパリと言い切る様に取材の中断を伝えてきた。
「ま、まだ何にも……。もう帰るなんて……」
私が続く言葉を言い出せないでいるとルイスは再び口を開いた。
「お嬢様、どうしても取材を続けたいのであれば、私と三つ、約束をしていただきます。よろしいですね?」
ルイスからの提案を受け、私はコクリと一度頷き、約束とは何か、一言一句聞き逃さぬよう耳を澄ました。
「お嬢様、自然というのは危険に満ち溢れております。それに加え、今は夜です。夜目の効く我々狼犬人と違い、人間のお嬢様にとってこの暗さは非常に危険です。気持ちが高ぶってしまうのはわかりますが、この暗い森の中では迂闊な行動一つで大怪我を招きかねません」
ルイスは一度間を置き、地面に膝を付きかがんだ後、私の目の前に手を出し、ピンと人差し指を立てて、さっきの続きを話し始めた。
「まず一つ目の約束です。何よりも落ち着いて冷静な行動を心がけてください。次にーー」
中指が開き、立てられた指が二本に増える。
「二つ目ですが、絶対に走らないこと。これは言うまでもありませんね。暗い森の中でなんの対策もせず走り出したら最後、怪我をしてしまうことは目に見えていますからね。もちろん飛び跳ねるのもダメです。そして最後に」
ルイスは一度手を引っ込め、ぐぐっと顔を近づけ口を開いた。
「決して私から離れないことです。これだけはなにがあっても絶対に守っていただきます」
ルイスは人差し指で自身の顔を指した。
「お嬢様、私がちゃんと見えますか?」
「な、なんとか……」
「では、一度心を落ち着かせるのと一緒に暗闇に目を慣らしていきましょうか。私の言う通りに続けてください」
私はコクリと頷いた。
「まず目を瞑ってください」
私はルイスに言われた通りに目を瞑った。
「次に深呼吸をしていきます。やり方はわかっていますね。まずは限界まで息を吐き出していきますよ。はい、「フゥーーッ」」
胸とお腹を限界まで引っ込めながら、肺が空っぽになるまで息を吐いていく。
「吸ってーー」
肺の中の空気を限界まで吐ききっていたからかルイスの声は少しかすれていた。
「「スゥーーッ」」
空っぽの肺の中に大量の空気が一気に送り込まれ、私もルイスも、二人とも見る見るうちに胸が大きく膨らんでいく。
「吐いてーー」
口から勢いよく息が吐き出され、二人とも限界ギリギリのいっぱいいっぱいまで膨らんだ胸が、今度は見る見るうちにしぼんでいく。
「ーー……。では後二回、同じく続けていきますよ」
さっきまでと同じように、胸いっぱいに息を吸い込みそして、空っぽになるまで吐き出す。私とルイスはこれをあと二回、続けた。
「終わりましたか。では一度呼吸を整えてから、問題いないようでしたら目を開けてみてください」
私はいつも通りの、いたって普通の呼吸を数度行い、息を整えた後、ゆっくりと目を開けた。
すると驚くことに、先ほどまでの真っ暗な景色とはうって変わって、ボンヤリとではあるが、目の前に広がる森の全容が把握できる程度には視界は改善されていた。
「どうですか、お嬢様。私ははっきりと見えていますか?」
「ええ、見えてる。ねぇルイス、これは魔法なの? さっきとは比べ物にならないくらいーー見える……」
「いえ、魔法ではありませんよ。これは依然、ルークと言う……狩人に教えていただいたものなのですが、急な視界の変化が起こった際に慌てることなく目と心を慣らす方法らしいですよ」
「へぇ、視界にも慣れがあるのね、知らなかった。これは、何かに使えるかも」
「お役に立てたようで何よりです。では最後の約束の続きですが、お嬢様が私を確認できる範囲内でしか動かないこと。これも絶対に守っていただきます」
「はい」
私は言葉とともに力強く頷いた。
「もし、離れてしまって私を見失ってしまった場合は、できるだけその場から離れずに私を待つこと。あとなるべく大きな声を上げないようにお願いいたします。なにがおびき寄せられるか分かりませんから」
「わかったわ」
「以上のこと全てを守れるのであれば取材を続行しても構いません。約束できますか?」
「はい。約束します」
ルイスと再び指切りを交わし、暗闇の中でもある程度景色がわかるということに感動しながら私は、ぐるりと辺りを見渡した。すると近くの木の枝にキラリと光る何かを発見した。
光に顔を近づけてみると、その正体は、月光が反射し七色に淡く光る蝶々であった。
蝶々は木の幹から漏れる樹液を吸うのに夢中でまだこちらには気がついていない様だ。
蝶々が食事に夢中なのを良いことに、しばらくまじまじと観察を続けていると、蝶々はパタパタと羽を羽ばたかせ始めた。食事が終わったのか、木の幹から離れ空中へと飛び立った蝶々は私の顔目掛けて一直線に飛んできた。
蝶々に思わぬ不意打ちをくらった私は、思いっきり体を仰け反らせ、思わず目を閉じてしまった。
「キャーッ!!」
そして気が動転し、大声を上げながら目を瞑ったまま大きく四方八方に腕を振り回してしまう。
「お嬢様大丈夫ですか。どうされましたか?」
ルイスの手が、肩に触れた。
おかげですぐに落ち着きを取り戻せたが、冷静になった私は、ついさっきしたばかりのルイスとの約束を思い出した。
そう、落ち着いて常に冷静でいるという一つ目の約束だ。
まずいこのままでは屋敷に帰らされてしまう……!
急いですぐにでも弁明をしようとして、慌てて口を開く。
「な、なんでもない! 私は至って冷静で落ち着いているんだから! 何事にも動じない私が蝶々ぐらいに驚かされるわけがないじゃないのよ」
「……。お嬢様、私もいきなりお屋敷に帰るとは言いませんから、ただ状況は正しく把握しておかねばなりませんので一度ちゃんと初めから話していただけますか?」
「そ、そう……。そうね、状況把握はだいじだものねーー」
いきなり帰らされることはないことが分かり安心した私は、蝶々を見つけ驚くまでの一連の流れを、一からルイスに説明した。
「ーーそうでしたか。お嬢様、お怪我などはございませんか?」
「大丈夫よ、手を振ったぐらいで怪我なんてしないわ。少し心配しすぎじゃない?」
「場所が場所ですから心配しすぎるという事はないでしょう」
そう言って目の前に膝をつき、怪我の有無を確認するルイス。
「……そうね。ごめんなさいルイス、気が緩んでたみたい」
「わかっていただけたようで何よりですーー」
確認が終わったのか、ルイスは膝に手をつき、立ち上がった。
「では、取材を続けましょうか」
「気を引き締めて落ち着いて冷静に、ね?」
そう言ってルイスに確認をとるかのように目線を送る。ルイスは頷きながら「ええ」と一言。
ルイスの許可もおり、早速取材の続きに向かおうとしたその時、突如として声が響いた。
(ママ?)
一度歩を止め、辺りを見渡す。しかし、声の主らしきものは見当たらない。
「ねぇルイス何か聞こえなかった?」
「いえ、なにも聞こえませんが……」
ルイスに聞こえなくて私だけに聞こえるなんてことありえるのだろうか。
不思議なことがあるものだと思っていると、再び声が響いた。
(ママいるの? ママ?)
「ほら、また聞こえた。ママ、ママって」
ルイスは垂れ下がった耳をつまみ上げ、聞き耳を立て始めた。
「ーー。やはり私には聞こえませんが……」
しかし、それでも声は聞こえてはいないようだった。
「ねぇルイス聞き返してみてもいいかしら。親を探しているみたいなの」
「迷子ですか……、しかし人の気配もーーありませんし……。あまり危険なことをしていただきたくはないのですが……」
なかなか首を縦に振らないルイスに、私は切り札を切って対抗する。
「迷子かも知れないのよ。ルイスの白状者! それに、ただ返事をするだけじゃない」
「……ーーわかりました。一度だけですよ」
わがままという切り札を切ったおかげで、渋々ではあるものの、ルイスから返事をする許可をもらった私は声がしたような気がする方に向かって返事をする。
「ねぇ、迷子なの? よかったら一緒にあなたのお母様を探してあげられるかもしれないわ。いま自分がどこにいるのかわかる?」
返事をしたところ、またもや声が響いてきた。
(ママ! やっぱりママの声だ! ぼくね、もうすぐここから出られるよ。やっと会えるね。ぼくね、ここにいるよ。ママがかくれてって言ってたからずっとここにいたんだ。はやく会いたいよママ。ミ・ティエ・エスタス)
瞬間、気が遠のいていくような感覚がした。
正面に生えている木と木の間の空間に稲妻のような亀裂が入る。
なぜだかわからないが亀裂の中に向かわなければならない気がする。
目の亀裂に向かってゆっくりと歩を進めていく。
躊躇する気などは一切起きなかった。
「お嬢様?」
ルイスの声がする、返事をしなきゃ。
しかし、何故だかわからないが、ルイスの方を向こうと思わない自分がいた。
「お嬢様!!」
私を呼ぶルイスの声がする。ルイスの手が肩に触れている。今度こそ返事を返さなければ。けど今はまずなによりも亀裂に触れなければ。
私は亀裂に触れようとして手を伸ばした。
亀裂に触れた瞬間、バツンという音がして、吸い込まれるような感覚が私を包んだ。
=====
「お嬢様!?」
あまりのことに理解が追いつかず、お嬢様の居たはずの場所付近で仕切りに手を振り回す。しかし手にはなんの感触もなく虚しく空を切るばかりだ。
慌てて辺りを見渡すが、視界にお嬢様の姿はない。
お嬢様の立っていた場所に顔を近づけ、スンスンと鼻を鳴らす。
お嬢様の匂いが鼻腔を通る。しかしいくら嗅いでみても元が辿れない。まるでその場から消滅したかのように、匂いがいきなり途切れてしまっている。匂いの道が全く見えない。
こんなことは生まれて初めてのことだった。
心臓が徐々に大きく跳ね始める。鼓動の速度に合わせ鼻を鳴らす回数が増えていく。しかし匂いははっきりするどころか、むしろ時間とともに辺りに霧散していきどんどん薄くなっていくばかりだ。
「お嬢様! どこに居るのですか! 居るのでしたら返事をしてください!! お嬢様ー!!」
問いかけ対して返事はなく、声はただただ、森の中に吸い込まれるかのようにして消えていくばかりであった。
「木に月明かりが遮られておりますし、これでは仕方ありませんよ」
足元すらまともに見えない暗い森の中を、すり足気味で前に進みながら爪先で木の根や石などの障害物の有無を確認しつつ慎重に歩いていく。
「お嬢様、やはり明日の方が良かったのでは……。」
「なに言ってるのルイス!」
ルイスのまさかの提案に思わず語気が強くなる。
「今からでも遅くありません。今日のところはここまでにして、続きはまた後日にした方が良いかと思うのですが……」
「これぐらいのことがなに! 何事も経験よ経験! せっかく来たのにもう戻るなんて、絶対に論外!!」
ルイスの方へ振り返りながら、なんてことを言うんだとばかりに強く全力で反論する。
「お嬢様ーー!」
「ーー? っとーー」
ルイスに声をかけられ、足下への注意が疎かになってしまっていたのか。いや、せっかくの取材にそもそも高揚感が高まり気が抜けてしまっていたのかもしれない。直前まであんなに気をつけていたにも関わらず私は、一瞬の気の緩みからルイスの方へ振り向く際に木の根に足を引っ掛け体勢を崩し、そのまま地面に真っ逆さまに倒れ込みそうになってしまった。
瞬間、ルイスの足下の土が爆発したかの様に弾け、抉れた。さっきまで立っていた場所にルイスの姿はない。
「大丈夫ですか、お嬢様」
一番最初に手に触れた感触は湿った土やゴツゴツボコボコとした木の根などではなく、ふわっとした毛布のような感触だった。状況に理解が追いつかず、少しでも現状を理解しようとして仕切りに目をパチクりとさせながらキョロキョロと忙しなく左右に首を動かしてしまう。
「エレノアお嬢様、お怪我はございませんか?」
名前を呼ばれてやっと今の状況を理解することできた。
そうか、ルイスに支えられていたのか。
「だ、だいじょうぶよ、これくらい」
ほんのちょっぴりの気恥ずかしさのせいか、思わず強がりを言ってしまう。
「立てますか?」
「と、当然じゃない! これぐらいどうってことないわ」
ルイスの心配を他所に、私はぴょんと飛び上がりルイスの腕を離れた。
「お待ちくださいお嬢様ーー」
しかし、いや案の定というべきか、飛び上がった先にちょうど苔の生えた岩があり、そのまま上に乗ってしまい着地と同時に足を滑らせ、後ろ向きに地面に倒れそうになってしまった。
あーー、今度こそぶつかるーー。
思わず声を上げそうになってしまう。しかし、叫び声を上げる間もなく、ルイスが再び支えてくれたおかげで、またしても私は地面に倒れずにすんだ。
私を苔の生えた岩の上から離れさせ、安定した場所に誘導した後、ルイスは、安全確認か、ぐるっと周りを見渡し、口を開いた。
「お嬢様。もし、このまま先ほどまでと同じ様な心持ちで取材を続ける場合、申し訳ありませんが今日のところはすぐにでも屋敷に帰っていただきます」
ルイスは毅然とした態度でキッパリと言い切る様に取材の中断を伝えてきた。
「ま、まだ何にも……。もう帰るなんて……」
私が続く言葉を言い出せないでいるとルイスは再び口を開いた。
「お嬢様、どうしても取材を続けたいのであれば、私と三つ、約束をしていただきます。よろしいですね?」
ルイスからの提案を受け、私はコクリと一度頷き、約束とは何か、一言一句聞き逃さぬよう耳を澄ました。
「お嬢様、自然というのは危険に満ち溢れております。それに加え、今は夜です。夜目の効く我々狼犬人と違い、人間のお嬢様にとってこの暗さは非常に危険です。気持ちが高ぶってしまうのはわかりますが、この暗い森の中では迂闊な行動一つで大怪我を招きかねません」
ルイスは一度間を置き、地面に膝を付きかがんだ後、私の目の前に手を出し、ピンと人差し指を立てて、さっきの続きを話し始めた。
「まず一つ目の約束です。何よりも落ち着いて冷静な行動を心がけてください。次にーー」
中指が開き、立てられた指が二本に増える。
「二つ目ですが、絶対に走らないこと。これは言うまでもありませんね。暗い森の中でなんの対策もせず走り出したら最後、怪我をしてしまうことは目に見えていますからね。もちろん飛び跳ねるのもダメです。そして最後に」
ルイスは一度手を引っ込め、ぐぐっと顔を近づけ口を開いた。
「決して私から離れないことです。これだけはなにがあっても絶対に守っていただきます」
ルイスは人差し指で自身の顔を指した。
「お嬢様、私がちゃんと見えますか?」
「な、なんとか……」
「では、一度心を落ち着かせるのと一緒に暗闇に目を慣らしていきましょうか。私の言う通りに続けてください」
私はコクリと頷いた。
「まず目を瞑ってください」
私はルイスに言われた通りに目を瞑った。
「次に深呼吸をしていきます。やり方はわかっていますね。まずは限界まで息を吐き出していきますよ。はい、「フゥーーッ」」
胸とお腹を限界まで引っ込めながら、肺が空っぽになるまで息を吐いていく。
「吸ってーー」
肺の中の空気を限界まで吐ききっていたからかルイスの声は少しかすれていた。
「「スゥーーッ」」
空っぽの肺の中に大量の空気が一気に送り込まれ、私もルイスも、二人とも見る見るうちに胸が大きく膨らんでいく。
「吐いてーー」
口から勢いよく息が吐き出され、二人とも限界ギリギリのいっぱいいっぱいまで膨らんだ胸が、今度は見る見るうちにしぼんでいく。
「ーー……。では後二回、同じく続けていきますよ」
さっきまでと同じように、胸いっぱいに息を吸い込みそして、空っぽになるまで吐き出す。私とルイスはこれをあと二回、続けた。
「終わりましたか。では一度呼吸を整えてから、問題いないようでしたら目を開けてみてください」
私はいつも通りの、いたって普通の呼吸を数度行い、息を整えた後、ゆっくりと目を開けた。
すると驚くことに、先ほどまでの真っ暗な景色とはうって変わって、ボンヤリとではあるが、目の前に広がる森の全容が把握できる程度には視界は改善されていた。
「どうですか、お嬢様。私ははっきりと見えていますか?」
「ええ、見えてる。ねぇルイス、これは魔法なの? さっきとは比べ物にならないくらいーー見える……」
「いえ、魔法ではありませんよ。これは依然、ルークと言う……狩人に教えていただいたものなのですが、急な視界の変化が起こった際に慌てることなく目と心を慣らす方法らしいですよ」
「へぇ、視界にも慣れがあるのね、知らなかった。これは、何かに使えるかも」
「お役に立てたようで何よりです。では最後の約束の続きですが、お嬢様が私を確認できる範囲内でしか動かないこと。これも絶対に守っていただきます」
「はい」
私は言葉とともに力強く頷いた。
「もし、離れてしまって私を見失ってしまった場合は、できるだけその場から離れずに私を待つこと。あとなるべく大きな声を上げないようにお願いいたします。なにがおびき寄せられるか分かりませんから」
「わかったわ」
「以上のこと全てを守れるのであれば取材を続行しても構いません。約束できますか?」
「はい。約束します」
ルイスと再び指切りを交わし、暗闇の中でもある程度景色がわかるということに感動しながら私は、ぐるりと辺りを見渡した。すると近くの木の枝にキラリと光る何かを発見した。
光に顔を近づけてみると、その正体は、月光が反射し七色に淡く光る蝶々であった。
蝶々は木の幹から漏れる樹液を吸うのに夢中でまだこちらには気がついていない様だ。
蝶々が食事に夢中なのを良いことに、しばらくまじまじと観察を続けていると、蝶々はパタパタと羽を羽ばたかせ始めた。食事が終わったのか、木の幹から離れ空中へと飛び立った蝶々は私の顔目掛けて一直線に飛んできた。
蝶々に思わぬ不意打ちをくらった私は、思いっきり体を仰け反らせ、思わず目を閉じてしまった。
「キャーッ!!」
そして気が動転し、大声を上げながら目を瞑ったまま大きく四方八方に腕を振り回してしまう。
「お嬢様大丈夫ですか。どうされましたか?」
ルイスの手が、肩に触れた。
おかげですぐに落ち着きを取り戻せたが、冷静になった私は、ついさっきしたばかりのルイスとの約束を思い出した。
そう、落ち着いて常に冷静でいるという一つ目の約束だ。
まずいこのままでは屋敷に帰らされてしまう……!
急いですぐにでも弁明をしようとして、慌てて口を開く。
「な、なんでもない! 私は至って冷静で落ち着いているんだから! 何事にも動じない私が蝶々ぐらいに驚かされるわけがないじゃないのよ」
「……。お嬢様、私もいきなりお屋敷に帰るとは言いませんから、ただ状況は正しく把握しておかねばなりませんので一度ちゃんと初めから話していただけますか?」
「そ、そう……。そうね、状況把握はだいじだものねーー」
いきなり帰らされることはないことが分かり安心した私は、蝶々を見つけ驚くまでの一連の流れを、一からルイスに説明した。
「ーーそうでしたか。お嬢様、お怪我などはございませんか?」
「大丈夫よ、手を振ったぐらいで怪我なんてしないわ。少し心配しすぎじゃない?」
「場所が場所ですから心配しすぎるという事はないでしょう」
そう言って目の前に膝をつき、怪我の有無を確認するルイス。
「……そうね。ごめんなさいルイス、気が緩んでたみたい」
「わかっていただけたようで何よりですーー」
確認が終わったのか、ルイスは膝に手をつき、立ち上がった。
「では、取材を続けましょうか」
「気を引き締めて落ち着いて冷静に、ね?」
そう言ってルイスに確認をとるかのように目線を送る。ルイスは頷きながら「ええ」と一言。
ルイスの許可もおり、早速取材の続きに向かおうとしたその時、突如として声が響いた。
(ママ?)
一度歩を止め、辺りを見渡す。しかし、声の主らしきものは見当たらない。
「ねぇルイス何か聞こえなかった?」
「いえ、なにも聞こえませんが……」
ルイスに聞こえなくて私だけに聞こえるなんてことありえるのだろうか。
不思議なことがあるものだと思っていると、再び声が響いた。
(ママいるの? ママ?)
「ほら、また聞こえた。ママ、ママって」
ルイスは垂れ下がった耳をつまみ上げ、聞き耳を立て始めた。
「ーー。やはり私には聞こえませんが……」
しかし、それでも声は聞こえてはいないようだった。
「ねぇルイス聞き返してみてもいいかしら。親を探しているみたいなの」
「迷子ですか……、しかし人の気配もーーありませんし……。あまり危険なことをしていただきたくはないのですが……」
なかなか首を縦に振らないルイスに、私は切り札を切って対抗する。
「迷子かも知れないのよ。ルイスの白状者! それに、ただ返事をするだけじゃない」
「……ーーわかりました。一度だけですよ」
わがままという切り札を切ったおかげで、渋々ではあるものの、ルイスから返事をする許可をもらった私は声がしたような気がする方に向かって返事をする。
「ねぇ、迷子なの? よかったら一緒にあなたのお母様を探してあげられるかもしれないわ。いま自分がどこにいるのかわかる?」
返事をしたところ、またもや声が響いてきた。
(ママ! やっぱりママの声だ! ぼくね、もうすぐここから出られるよ。やっと会えるね。ぼくね、ここにいるよ。ママがかくれてって言ってたからずっとここにいたんだ。はやく会いたいよママ。ミ・ティエ・エスタス)
瞬間、気が遠のいていくような感覚がした。
正面に生えている木と木の間の空間に稲妻のような亀裂が入る。
なぜだかわからないが亀裂の中に向かわなければならない気がする。
目の亀裂に向かってゆっくりと歩を進めていく。
躊躇する気などは一切起きなかった。
「お嬢様?」
ルイスの声がする、返事をしなきゃ。
しかし、何故だかわからないが、ルイスの方を向こうと思わない自分がいた。
「お嬢様!!」
私を呼ぶルイスの声がする。ルイスの手が肩に触れている。今度こそ返事を返さなければ。けど今はまずなによりも亀裂に触れなければ。
私は亀裂に触れようとして手を伸ばした。
亀裂に触れた瞬間、バツンという音がして、吸い込まれるような感覚が私を包んだ。
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「お嬢様!?」
あまりのことに理解が追いつかず、お嬢様の居たはずの場所付近で仕切りに手を振り回す。しかし手にはなんの感触もなく虚しく空を切るばかりだ。
慌てて辺りを見渡すが、視界にお嬢様の姿はない。
お嬢様の立っていた場所に顔を近づけ、スンスンと鼻を鳴らす。
お嬢様の匂いが鼻腔を通る。しかしいくら嗅いでみても元が辿れない。まるでその場から消滅したかのように、匂いがいきなり途切れてしまっている。匂いの道が全く見えない。
こんなことは生まれて初めてのことだった。
心臓が徐々に大きく跳ね始める。鼓動の速度に合わせ鼻を鳴らす回数が増えていく。しかし匂いははっきりするどころか、むしろ時間とともに辺りに霧散していきどんどん薄くなっていくばかりだ。
「お嬢様! どこに居るのですか! 居るのでしたら返事をしてください!! お嬢様ー!!」
問いかけ対して返事はなく、声はただただ、森の中に吸い込まれるかのようにして消えていくばかりであった。
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※以前投稿していた「いっとう愚かで惨めで哀れだった令嬢の果て」改稿版です。文章量が1.5倍くらいに増えています。
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(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
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*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
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