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第5話:「記憶を守るものたちと試練の森」
しおりを挟むプロメテウス神の神殿を後にして三日。
レナスは野営地の小川のほとりで、胸まで広がった青い文様を見つめていた。文様は今や右腕から肩を越え、胸の中央まで及んでいる。青い光の中に、赤い炎のような筋が織り込まれ、それは時折脈動するように光を放っていた。
「痛みは引きましたか?」フィリアが心配そうに尋ねた。
「ああ」レナスは小さく頷いた。「もう大丈夫だ」
炎の神殿での出来事以来、レナスは高熱と激しい頭痛に苦しんでいた。その間、フィリアは古代の治癒法を使って彼を看病し、ヴァルターは周囲を警戒して二人を守ってきた。ようやく今朝になって、レナスの熱は完全に引いていた。
「出発できるか?」ヴァルターが近づいてきた。「記憶の森まであと半日の道のりだ」
「行こう」レナスは決意を込めて立ち上がった。「この文様が示す方向が正しければ、次なる答えはそこにある」
三人は東南の方角へと進み続けた。緑豊かな森は次第に変化し、木々は背を高くし、葉は深い翠色を帯びていった。空気は湿り気を帯び、薄い霧が足元を這うようになる。
道中、レナスは炎の神殿で見た断片的な記憶について語った。神々が自らの意志で消え去ったこと、彼らが「詩」に力を込めたこと、そして世界の未来に訪れる危機について。
「神々は未来に何を見たのでしょうか」フィリアは静かに問いかけた。
「それはまだ完全には分からない」レナスは首を振った。「だが、彼らは自分たちの力が世界にとって脅威となり得ることを恐れていたように思える」
「神の力が脅威だと?」ヴァルターが眉をひそめた。「それは神殺しの徒の主張と似ているな」
「違う」レナスは即座に否定した。「神殺しの徒は神の力そのものを恐れ、排除しようとしている。しかし神々は、その力を適切に人類に託すことを選んだんだ」
「『詩』として…」フィリアが呟いた。
会話が途切れたとき、彼らは奇妙な感覚に襲われた。
周囲の森が突然静まり返り、鳥の声も風の音も聞こえなくなった。空気が重く、濃密になった感覚。そして、彼らの前方から人影が現れ始めた。
「誰だ!」ヴァルターは警戒し、蒼炎を指先に灯した。
木々の間から姿を現したのは、銀色に輝く軽装鎧を身につけた人々だった。頭に冠のような飾りを付け、肩にはエメラルドグリーンのマントを纏っている。彼らは音もなく現れ、三人を取り囲んだ。
「神の器を携える者たち」中央の高い男が静かに言った。「我々は『記憶の守り人』。汝らの来訪を待っていた」
ヴァルターは緊張を解かなかったが、フィリアは興奮を隠せない様子だった。
「伝説の記憶の守り人…」彼女は畏敬の念をこめて言った。
「武器は収めよ、蒼炎の使い手よ」男は穏やかにヴァルターに言った。「我らは汝らの敵にあらず」
「どうして私たちが来ることを?」レナスが一歩前に出て尋ねた。
「森は示す。時は語る」男は謎めいた言い方で答えた。「我らの長は汝らとの謁見を望んでおる。特に、神の文様を持つ者との」
男の視線がレナスの胸の文様に向けられた。文様は男の視線に反応するように、一瞬明るく光った。
「案内してくれるのか?」レナスが尋ねた。
「然り。だが、記憶の森に入る者は試練を受けねばならぬ」男は厳かに言った。「森は汝らの心を映し出し、真実を見極める」
「試練?」
「恐れることはない。真実を求める純粋な心を持つ者なら、森の道を見失うことはない」男は微笑んだ。「私はカレン、記憶の守り人の案内役。汝らをこの先へと導くであろう」
レナスとヴァルター、フィリアは互いに顔を見合わせ、頷いた。他に選択肢はなかった。彼らの旅は、この森の中にある真実へと続いていた。
カレンの先導で、一行は更に森の奥へと進んだ。周囲の景色は徐々に変化し、木々はより古く、より高くなっていった。地面を覆う霧は膝まで達し、空気は神秘的な輝きを帯びていた。
「ここからが試練の森」カレンが立ち止まって言った。「この先は、各自が自分の道を見つけねばならぬ」
「分かれろということか?」ヴァルターが不安げに尋ねた。
「然り、そして然らず」カレンは微笑んだ。「体は共に進むだろう。だが心は、それぞれの真実への旅をする」
意味深な言葉を残し、カレンは姿を消した。まるで霧の中に溶けたかのように。
「どういう意味だ?」レナスが困惑した様子で尋ねた。
「進むしかないでしょう」フィリアが決意を固めたように言った。
三人は霧の深い森の中へと足を踏み入れた。最初のうちは普通の森を歩いているように感じたが、やがて微妙な変化が始まった。
周囲の色彩が変わり、音が遠のき、足元の霧が渦を巻くように流れ始める。レナスは不思議な感覚に包まれた——まるで時間の流れ自体が歪んでいるかのように。
「フィリア?ヴァルター?」レナスは二人を探して声をかけたが、応答はなかった。
彼らの姿は見えているのに、声は届かない。まるで別の空間にいるかのようだった。レナスは不安を感じながらも、前に進み続けた。
その時、霧の中から別の光景が浮かび上がり始めた。
それは記憶だった——レナス自身の記憶。
彼は幼い自分を見ていた。白い衣服を着た人々に囲まれ、円形の台座の上に立つ幼いレナス。周囲の大人たちは古代の言葉で何かを詠唱し、儀式を執り行っている。
「この子を、神の器として育て上げよ」年配の男性が厳かに言った。「彼の体に詩を宿し、運命の時に備えよ」
儀式の場では他にも子供たちがいた。その中で、レナスの目は一人の少女に引き寄せられた。白い髪を持つ少女——まるでフィリアのような姿をしていた。
「これは…私の過去?」
レナスは困惑しながらも、記憶の断片に引き込まれていった。場面は変わり、彼は自分が修行を受ける様子を見る。体に刻まれる最初の文様、神々の言葉を学ぶ日々、そして他の子供たちと過ごす時間。
断片的な記憶は次第に流れるように連なり、やがて衝撃的な場面へと至った。
暗い夜、施設が襲撃される音。黒装束の人々——神殺しの徒が侵入してきたのだ。混乱の中、レナスは白髪の少女と引き離され、外へと連れ出される。
「記憶を封じ、彼を安全な場所へ」誰かが叫んだ。「時が来るまで、彼の力を眠らせよ」
そして暗闇。長い、長い暗闇の後、レナスは荒野で目覚める場面。それが彼の記憶の始まりだった。
「そうか…私は…」
レナスは膝をつき、激しい感情に襲われた。彼の失われた記憶が少しずつ戻ってきている。彼は「神の器」として育てられた。そして何者かによって記憶を封じられ、外の世界に送り出されたのだ。
記憶の幻影が薄れていくと、レナスは再び森の中に立っていた。フィリアとヴァルターもまた、彼の近くに立っていた。二人の表情から、彼らもまた何かを見たことが窺えた。
「君たちもか?」レナスが尋ねた。
「私は…私の村の過去を見ました」ヴァルターは静かに言った。
「私は神殿での日々…」フィリアは震える声で言った。「そして、あなたのことを」
レナスは驚いてフィリアを見た。
「僕のこと?」
「はい…私たちは…」彼女が言葉を続けようとしたとき、森の奥から光が差し込んできた。
「来たれ」声が彼らを呼んだ。「記憶の守り人の長が汝らを待つ」
三人は森の中心部へと導かれた。そこは巨大な木々が円を描くように立ち、中央には古代の石造りの円形広場があった。広場の中心に立つのは、長い白い髪と髭を持つ老人だった。彼は翡翠色の長衣を纏い、手に長い杖を持っていた。
「よく来たな、旅人たちよ」老人は穏やかな声で言った。「我はアルデン、記憶の守り人の長。汝らの来訪を待っておった」
レナスたちは老人の前に立った。他の記憶の守り人たちも広場の周囲に集まり、静かに彼らを見守っていた。
「我々は森の試練を通過しました」レナスが言った。「私は…記憶の一部を取り戻しました」
「それは良きこと」アルデンは頷いた。「記憶は我らの土台。過去を知らねば、未来への道は見えぬ」
「長よ」レナスは勇気を出して尋ねた。「私は本当に『神の器』なのでしょうか?」
アルデンはレナスに近づき、彼の胸の文様を見つめた。老人の目に驚きの色が浮かび、次いで畏怖の念が宿った。
「疑いなし」彼は厳かに言った。「汝は最後の『神の器』。神々が滅びる前に選ばれし存在なり」
広場に集まった記憶の守り人たちからどよめきが起こった。
「最後の…?」レナスは困惑した。
「然り」アルデンは頷いた。「神々が力を詩に変え、この世を去る前に、七人の器が選ばれた。だが、神殺しの徒の襲撃により、多くは失われた。我らが知る限り、生き残ったのは汝一人」
レナスは言葉を失った。彼の運命の重さが、今改めて肩にのしかかってきた。
「いいえ、一人ではありません」
突然、フィリアが一歩前に出た。彼女の目には決意の色が宿っていた。
「私も…神々に選ばれた者です」
アルデンはフィリアを注視した。彼女の首元のペンダントが淡く光を放っていた。
「おお…」老人の目が大きく見開かれた。「汝もまた…」
「私は『神託の器』」フィリアは静かに言った。「神々の声を聞き、その言葉を伝える者として」
「二人揃いし時、道は開かれん」アルデンは深い感慨を込めて言った。「汝らは共に、神々が残した『楽園への鍵』の一部を担うのだ」
「楽園への鍵?」レナスとフィリアは同時に尋ねた。
アルデンは杖を地面に突き、広場の中央に光の像を描き出した。それは七つの光の玉が円を描き、中央に扉のような形を作る姿だった。
「神々は去る前に、『楽園』と呼ばれる場所への道を残した」老人は説明した。「それは単なる場所ではなく、神々の力と知恵が集う領域。世界の危機に備え、人類の希望として残されたものだ」
「その楽園へ至るためには、七つの『詩』を集めねばならぬ」アルデンは続けた。「そして、それを解読し、力を解放できる『器』が必要となる」
「レナスが詩を集め、私がそれを解読する…」フィリアが理解したように言った。
「正しい」アルデンは頷いた。「汝らは別々に育てられたが、運命は再び二人を結びつけた」
レナスは混乱していた。あまりにも多くの情報、あまりにも重い運命。しかし同時に、彼の中で記憶の断片がゆっくりと繋がり始めていた。
「しかし、なぜ私の記憶は封じられたのですか?」彼は尋ねた。
「神殺しの徒から汝を守るため」アルデンは悲しげに言った。「彼らは神々の力を恐れ、器を狙っていた。汝の師は苦渋の決断をし、記憶を封じて汝を外の世界に送り出した。時が来るまで力を眠らせるためにな」
「そして、その時が来た…」ヴァルターが静かに言った。
「然り」アルデンは天を仰いだ。「空の亀裂を見よ。虚空が広がり始めている。神々が予見した危機の始まりだ」
三人は上を見上げた。森の木々の間から見える空には、以前より大きくなった黒い亀裂が浮かんでいた。
「虚空とは何なのですか?」フィリアが恐る恐る尋ねた。
「それこそが、神々が恐れたもの」アルデンの表情は暗く沈んだ。「神々の力が失われた世界は、徐々に均衡を失い、虚空に蝕まれる。だが詳細は、我らにも完全には分かっていない」
広場に重い沈黙が落ちた。
「これからどうすればいいのでしょう?」レナスが尋ねた。
「汝らは神々の詩を集め続けねばならぬ」アルデンは杖を掲げた。「既に二つの詩を得た。残りは五つ。それぞれが神々の神殿に眠っている」
「どこへ行けばいいのでしょうか?」
「汝の体が答えを示すだろう」アルデンはレナスの胸の文様を指した。「文様は道標となる。次なる詩へと汝を導くであろう」
「だが、それは危険な旅となるぞ」アルデンは厳しい表情になった。「神殺しの徒は汝らの動きを察知し、追ってくるだろう。そして『黒翼の徒』もまた」
「黒翼の徒?」ヴァルターが眉をひそめた。「それは何者だ?」
「神殺しの徒とは異なる一派」アルデンは説明した。「彼らは神々の力を人の手に取り戻そうとする者たち。だが、彼らの道は暴力と支配に満ちている」
「彼らもまた我々の敵となるのか…」レナスは思案した。
「汝らは注意せねばならぬ」アルデンは警告した。「両者とも、汝らを利用しようとするだろう」
「私たちは注意します」レナスは決意を込めて言った。「そして、神々の詩を集め、その真意を知るために旅を続けます」
アルデンは満足げに頷いた。
「今宵は我らの村で休むがよい。明日、汝らの旅の準備を整えよう」
その夜、レナスたちは記憶の守り人の村で歓迎を受けた。村は森の中にあり、木々と調和するように建てられた家々が立ち並んでいた。
夜のうちに、レナスは村の高台から空を見上げていた。虚空の亀裂は確かに広がりつつあった。そして、彼の胸の文様は微かに脈動し、次の道を示していた。
「考え事?」
背後からフィリアの声がして、レナスは振り返った。彼女は静かに近づき、レナスの隣に立った。
「ああ」レナスは頷いた。「私たちの運命について」
「怖いですか?」フィリアが静かに尋ねた。
「少し」レナスは正直に答えた。「でも、もう逃げることはできない。これが私の道だと受け入れる」
「私も…」フィリアはレナスの手を握った。「私たちは一緒にこの道を行きます」
二人は長い間、黙って夜空を見上げていた。文様と神託、二つの力が、これからどのような運命へと彼らを導くのか。答えはまだ見えなかった。
だが一つだけ確かなこと——彼らの旅は、まだ始まったばかりだということ。これからさらに険しい道が待ち受けているが、共に立ち向かう仲間がいる限り、きっと進むことができるだろう。
レナスは静かに決意を固めた。神の器として選ばれた運命を全うするために。
〈つづく〉
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