上 下
94 / 105
最終章 幸せのかたち

第90話 二人は仲を深め、彼は彼女の母に認められる

しおりを挟む
「……春陽くん」
「どうした?」
「……ハルくん」
「どうした?」
 雪愛から二通りの呼ばれ方をしてこのやり取りの意味が春陽にはわかった。
「えへへ……呼んでみただけ」
「そっか」
 ほら、やっぱり。
 春陽は笑って腕に力を込める。

 今、春陽は雪愛を後ろから抱きしめる形で座っている。
 膝を立てた両足の間にすっぽりと雪愛は収まっており、力を抜いて身体を春陽に預け、自分を抱きしめる春陽の腕に手を添えている。

「もっとぎゅってして?なんだかふわふわしてるの」
 今が現実だと頭ではわかっていてもどうしても現実じゃない感じがしてしまう。
 それくらい雪愛の心は満たされていて、もっとその現実を確かめたい、そう思ってしまうのだ。
 春陽は雪愛の言葉に痛くならないように気をつけながらさらに腕の力を強める。
 自然と春陽の顔が雪愛の右肩の辺りに顎が乗るような位置に来た。

 その少し苦しいくらいの強さに、けれど雪愛は幸せに包まれているように顔を綻ばせた。
 春陽を強く感じることができるから。
 今が現実だと春陽が教えてくれるから。

 自分からもそれを感じたくて、春陽に伝えたくて雪愛は顔を右に向ける。
 春陽の顔のある方へと。
 春陽も雪愛の動きに気づき顔を雪愛の方へ向ける。
 そしてどちらからともなく、唇を触れ合わせた。
 一度だけではない。
 互いの想いが伝わるようにと小鳥が啄むように何度も何度も唇を重ねる。

 繰り返しているうちに徐々に雪愛の口元から力が抜けていく。
 自然と口が少し開き隙間から舌先が覗く。
 それは春陽も同じだ。
 そして互いのそれが触れ合い一瞬身体をビクッとさせる。
 けれど、それだけ。
 最初はお互い恐る恐るといった様子で。
 徐々に慣れていき、二人はもっと相手との繋がりを感じたいと一心により深く。
 互いに相手を求め合う。
 今まで感じたことがない、まるで身体中に電気が走ったように二人の全身を甘美な刺激が駆け巡った。

 どれほどの時間そうしていたのだろうか。
 顔を離すと二人の間を銀糸が伝いすぐに途切れた。
 二人とも少し息を荒くしており、その息は熱をもっていた。
 雪愛は蕩けた表情をしており、春陽も顔を上気させている。

 二人ともぼんやりとしてしまって頭が働かない。
 鼓動がすごく速くなっている。

 触れ合っているのは一か所だけのはずなのに、まるで全身が相手に包まれているようで、とても近くに感じることができて心地よかった。
 初めて知った。
 こんなにも幸せを感じ、心が満たされ、気持ちのいいものだったとは。
 際限なく触れ合っていたくなってしまう。

 二人の関係がまた一歩進んだことで、間違いなく二人は相手のことを想う気持ちが強くなり、相手をより大切に、より好きになった。

 見つめ合い、少し落ち着きを取り戻してきた二人はここが雪愛の部屋で一階には沙織がいることを思い出した。
 今までそのことを忘れてしまうくらい互いのことしか考えられなかったのだが、その高まっていた気持ちが照れや気恥ずかしさといったものに取って代わられていく。
 キスを続ける間に少し変わってしまった体勢を元に戻し、さらに落ち着きを取り戻していく二人。

「ねえ……春陽くん」
「ん?」
「大好き」
「俺も。雪愛が大好きだ」

 二人の時間はあっという間に過ぎていき、二人は一階のリビングに向かった。
 雪愛はこれから食事の準備をしなければならないからだ。
 春陽に愛情たっぷりの美味しいものをたくさん食べてもらいたい。そのために前日は買い物に行き、下拵えも済ませたのだ。
 雪愛はキッチンでハーブティーを淹れると春陽と沙織の前に置いた。
「母さん、あんまり春陽くんを困らせないでね」
「はいはい。わかってるわよ」
「腕によりをかけて作るから待っててね春陽くん」
「ありがとう。楽しみにしてる」
 ご機嫌な様子でキッチンに戻る雪愛。だいぶ張り切っているようだ。
 そんな雪愛を見て沙織は声に出さず笑った。
 我が娘ながら春陽のこととなると本当にわかりやすい。

「あの子随分嬉しそうね。春陽君のおかげかしら?」
 表情を変えず春陽に向かってそんなことを言う。
 だが、春陽は沙織の言葉に答えず、神妙な顔つきをしていた。
 それに気づいた沙織が疑問顔になる。
「どうかした?」
「……謝らなければならないことがあります。……白月先生」
 春陽の言葉に沙織の目が大きくなる。
 けれどさすがというべきか、すぐに意味を理解する。
 そして沙織の表情は真剣なもとなっていた。
「っ………思い出したのね?」
「はい」
「そう……」
「それで雪愛、さんと子供の頃一度会っているということを話しました。先生が言わずにいたことなのに勝手をしてすみません。ただ、その後のことは伝えていません」
「そう……。まず、先生なんて他人行儀な呼び方はしないでほしいかな。雪愛のこともね。今はそんな関係じゃないでしょう?今まで通り沙織で……、何ならお義母さんでもいいのよ?」
 最後は揶揄い混じりに茶目っ気たっぷりで言う。
「いえ、それは……」
 それがわかっていても思わずドキリとしてしまう。
「ふふっ、冗談よ。今のところは、ね?それとね、謝る必要なんてないわ。私の方こそごめんなさい。当時雪愛が出会ったハル君があなただってこと、ずっと言えなくて。それに雪愛を気遣ってくれてありがとう」
「いえ、全部自分が好きでやった結果なので……」
「……でも、そっか。それで雪愛はあんなに機嫌がいいのね」
 オープンキッチンになっているためそちらに目を向けると雪愛は楽しそうに料理をしている。
 ずっと心の中にいた男の子が目の前にいて、尚且つ今自分の付き合っている彼氏だと知ったのだ。
 雪愛の喜びは察するに余りある。

「……沙織さんは俺の過去を知っていますよね?俺みたいなやつが雪愛の彼氏で、嫌ではありませんか?」
 記憶を取り戻してから、春陽はこれが一番気になっていた。 
 自分の過去を知っている沙織は、自分のような人間が娘と付き合っていることに悪感情を抱いていないか、それが心配だったのだ。

 春陽の言葉を聴いて、沙織は当時を思い出す。
 ある日、提携している病院から育児放棄の疑いがある子のカウンセリング依頼があった。
 翌日に来てほしいという急な依頼ではあったが、当時、夫の洋一を亡くして日も浅く、仕事に集中することでその悲しみを誤魔化していた沙織にとっては断る理由にならなかった。
 その内容や娘と同じ歳の子がクライアントだということも引き受けた理由だった。
 沙織がカウンセリングルームで待っていると、頭に包帯を巻いた男の子が入ってきた。
 その男の子は明らかに食事が足りていないとわかるくらいには線が細かった。
 それが春陽だ。

 最初は警戒している様子が見受けられたが、徐々に色々な話をしてくれるようになった。
 そして、昨日の段階では覚えていないと事前情報を得ていた階段から落ちた前後のことも断片的ではあるが春陽は話してくれた。
 春陽から雪愛の名前が出て、話を聴いているうちにそれが自分の娘のことだとわかったときには心底驚いた。
 事情が事情だけに余計に。
 ただ、結局この日は一番肝心な両親の話を聴くことはほとんどできなかった。
 春陽が意図的に避けていたように感じたのだ。
 それでも育児放棄、というよりも虐待の兆候はいくつもあった。
 春陽に少々愛着障害の特徴が出ていたことも覚えている。

 病院からは長期で入院してもらう予定だから入院中に結論が欲しいと言われていたため、次の予定も決めていたけれど、二回目が行われることはなかった。
 その前に春陽が退院してしまったからだ。
 怪我のことや記憶の混濁のことを考慮して日を空けたのが仇となった。
 それからずっと気にかけてきた。
 一度家に伺ったこともあるが、すでに空き家になっており、会うことはできなかったのだ。

 ただ今の春陽はどうだろうか。
 自信の無さ、自己肯定感の低さなどはあるのかもしれない。
 だが、とても優しい青年に成長している。
 それは麻理の話を聴いても思ったことだし、何より自分の娘が好きになった青年だ。
 あれほど男性を嫌っていた雪愛が好きになった人。
 これはとてもすごいことだと母親ながら思ってしまう。
 だから沙織は優しい笑みを春陽に向ける。

「春陽君が何を気にしているかはわかるつもりよ。けどね、子供の頃のことで春陽君が悪いことなんて何もないの。それに、私は今の春陽君を見てる。春陽君と出会ってからの雪愛を見てる。そして麻理さんからも、この前の文化祭の日なんて美優さんからも色々な話を聴かせてもらったわ。共通の話題が春陽君と雪愛のことだったの。…春陽君の知らないところでごめんなさいね?」
「いえ、それはいいんですが……」
「それでね、最初の春陽君の質問だけれど、嫌な訳がないわ。私は春陽君のこと知れば知るほど大好きになってるわ。ふふっ、きっと雪愛も同じなんでしょうね。それに麻理さんや美優さんも。だからもっと自信を持って。春陽君は素敵な人よ?」
「っ、……ありがとう、ございます……」
 沙織もまた春陽を肯定した。
 最近周囲から同じように言われている気がする。
 雪愛はもちろん、美優からも。
 それに直接的ではないかもしれないが、和樹達や瑞穂達。
(いや、最近じゃないんだよな。麻理さん、それに悠介も……。ずっと前から……)
 自分の周りには自分を認めてくれている人がずっと前からいるのだということを春陽はあらためて認識した。
 実際のところ、これでも雪愛の存在や美優との仲直りのおかげで、自己肯定感は高まってきているのだ。これから先、皆との関係がよい方向に続いていけば、もっと改善していくことは間違いないだろう。

「この間ね、近いうちに春陽君がすべてを思い出す、そんな日が来るんじゃないかって麻理さんと話してたの。ほら、春陽君達の文化祭に遊びに行かせてもらった日の前日にね」
「え……?」
「そうしたら本当に春陽君は思い出した。驚きよね」
「そう、ですね」
 春陽は答えながら目を大きくする。
「ふふっ、懐かしいわ。もう一年くらい前になるのかしら。私が初めてフェリーチェに行ったとき、春陽君はそこでバイトしてた。どうしてかすぐにあのときの子だってわかったわ。……ずっと気になっていたからかしらね。以来麻理さんとは仲良くさせてもらってるの」
「そんなに前から……」
 麻理と沙織が知り合いだったなんて春陽は全く知らなかった。
「ええ。けど今年になって私達が想像もしていなかった展開が待ってた。春陽君と雪愛が同じクラスになって、知り合って……。今では付き合ってるんだもの。本当に驚きの連続だったわ」
「なんだかすみません……」
「謝る必要なんてないわよ」
 笑みを浮かべて言いながら沙織はこれまでのことを思い出していた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

転校してきた美少女に僕はヒトメボレ、でも彼女って実はサキュバスらしい!?

釈 余白(しやく)
青春
 吉田一(よしだ かず)はこの春二年生になった、自称硬派な高校球児だ。鋭い変化球と抜群の制球で入部後すぐにエースとなり、今年も多くの期待を背負って練習に精を出す野球一筋の少年である。  かたや蓮根咲(はすね さき)は新学期に転校してきたばかりの、謎めいてクールな美少女だ。大きな瞳、黒く艶やかな髪、凛とした立ち姿は、高潔さを感じるも少々近寄りがたい雰囲気を醸し出している。  そんな純情スポ根系野球部男子が、魅惑的小悪魔系女子へ一目惚れをしたことから、ちょっとエッチで少し不思議な青春恋愛ストーリーが始まったのである。

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

坊主頭の絆:学校を変えた一歩【シリーズ】

S.H.L
青春
高校生のあかりとユイは、学校を襲う謎の病に立ち向かうため、伝説に基づく古い儀式に従い、坊主頭になる決断をします。この一見小さな行動は、学校全体に大きな影響を与え、生徒や教職員の間で新しい絆と理解を生み出します。 物語は、あかりとユイが学校の秘密を解き明かし、新しい伝統を築く過程を追いながら、彼女たちの内面の成長と変革の旅を描きます。彼女たちの行動は、生徒たちにインスピレーションを与え、更には教師にも影響を及ぼし、伝統的な教育コミュニティに新たな風を吹き込みます。

夏の決意

S.H.L
青春
主人公の遥(はるか)は高校3年生の女子バスケットボール部のキャプテン。部員たちとともに全国大会出場を目指して練習に励んでいたが、ある日、突然のアクシデントによりチームは崩壊の危機に瀕する。そんな中、遥は自らの決意を示すため、坊主頭になることを決意する。この決意はチームを再び一つにまとめるきっかけとなり、仲間たちとの絆を深め、成長していく青春ストーリー。

刈り上げの春

S.H.L
青春
カットモデルに誘われた高校入学直前の15歳の雪絵の物語

可愛すぎるクラスメイトがやたら俺の部屋を訪れる件 ~事故から助けたボクっ娘が存在感空気な俺に熱い視線を送ってきている~

蒼田
青春
 人よりも十倍以上存在感が薄い高校一年生、宇治原簾 (うじはられん)は、ある日買い物へ行く。  目的のプリンを買った夜の帰り道、簾はクラスメイトの人気者、重原愛莉 (えはらあいり)を見つける。  しかしいつも教室でみる活発な表情はなくどんよりとしていた。只事ではないと目線で追っていると彼女が信号に差し掛かり、トラックに引かれそうな所を簾が助ける。  事故から助けることで始まる活発少女との関係。  愛莉が簾の家にあがり看病したり、勉強したり、時には二人でデートに行ったりと。  愛莉は簾の事が好きで、廉も愛莉のことを気にし始める。  故障で陸上が出来なくなった愛莉は目標新たにし、簾はそんな彼女を補佐し自分の目標を見つけるお話。 *本作はフィクションです。実在する人物・団体・組織名等とは関係ございません。

野球部の女の子

S.H.L
青春
中学に入り野球部に入ることを決意した美咲、それと同時に坊主になった。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

処理中です...