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第八章 文化祭
第76話 弟と姉の新たな一歩
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「私はね、春陽。あんたが生まれてきてくれて本当に嬉しかった。小さい頃、春陽はすごく私に懐いてくれて、私はそんな春陽が可愛くて仕方なかった。あの人からの干渉が激しくなる中で、春陽の存在だけが私の心の支えだったの。……でも、年月が経つにつれて、春陽だけが自由を許されている、そう吹き込まれ続けて、あんたへの愛情よりも嫉妬からくる憎しみが強くなっていった。そしてあの日……、私はあんたに取り返しのつかないことを言ってしまった……」
すべてを静香のせいにして自分は悪くない、なんて言うつもりは全くない。そんなことはありえない。
過去は変えられない。
言ってしまったことはなかったことにはできない。
けれど自分の気持ちをちゃんと伝えることは今でもできるから。
春陽がそれをどういう気持ちで聞いているかはわからない。それがとても怖い。
ひどく自分勝手な言い草だと自分でも思うから。
美優は襲い来る恐怖に必死に抗っていた。
一方春陽は疑問でいっぱいだった。
自分は恨まれて、憎まれていたのではなかったのか。
それなのに生まれてきて嬉しい?
誰が?自分が?
可愛い?心の支え?
これは本当に自分の話なのか?
理解が追いつかない。
当時自分のことをそんな風に思う者なんていなかった、はずだ。
それに、何だろう。
この胸に広がるものは。
今まで経験したことのない不思議な感覚だ。
だが、決して不快なものではない。
温かさを感じるそれは身体の内側にじわじわと広がっていく。
「……そういった状況であればそれも仕方のないことだったと思いますよ」
春陽は言葉を発するのに時間がかかってしまった。
それほど美優の言葉が衝撃的だったのだ。
「ううん、違う。そうじゃないんだよ。仕方なくなんてない。春陽からすれば、今更何を言ってるんだって思うと思うけど、私はあのときあんたを傷つけたこと、ずっとずっと後悔してきた。だから謝らせてほしいの。本当にごめんなさい」
美優はそう言って春陽に頭を下げた。
「美優さん……」
春陽はそんな美優の言葉と態度に名前を呼ぶことしかできなかった。
美優は春陽の言葉を待たず、続けた。
「春陽に謝らなければいけないことは他にもあるの。……春陽と離れて暮らすようになった後のこと、全部話すね……」
顔を上げた美優は再び話し始める。
直哉のこと。
継母のこと。
新しくできた異母弟のこと。
家の中での自分の立ち位置。
春陽がバスケ部で言われたことが自分の責任だということも。
本当にすべてを隠さず話した。
ただ一つ、バスケ部で起きたことをどう知ったかだけは誤魔化した。
実際は先日麻理から聴いた訳だが、麻理と春陽の関係を考え、後から知ったとぼかしたのだ。
先の衝撃が残り、あまり考えられない頭で、春陽は美優の話を聴いていた。
そして、離れて暮らすようになった後の美優はまるでそれまでの自分のようだ、と春陽は漠然と思った。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。春陽を傷つけるつもりなんてなかったのに、結局私はまた春陽を傷つけてしまった……」
美優の表情や声には後悔が滲んでいた。
工藤が知っていた原因は春陽が当時予想した通り美優ではあったが、過程が全く異なっていたということだ。
だが、正直もう終わったことだし、春陽としては特に気にしていない。
言われた相手はともかく、その内容は間違っていなかったから。
そんなことよりも、それを美優が謝ってきたことに驚きだ。さっきから驚いてばかりだな、なんて第三者のような感想が思い浮かぶ。
「どれだけ謝っても許してもらえないかもしれない。けど、これだけは信じてほしいの。私はね……、春陽、あんたが大好き。あんたが私の弟で本当によかったって思ってる。大切な、本当に大切な弟なの。あの家で、ううん、今までの人生で、私に家族がいたとすればそれは春陽、あんただけだったんだよ」
顔を上げ、目線は春陽に固定したまま、美優の目が潤んでいく。
だが、ここで泣くのは自分が許さない。そんな卑怯なマネをする訳にはいかない。
勝手に出てくる涙がこぼれないように必死に押しとどめる。
「…………」
大切な弟?家族?
……『家族』って何だ?
美優の言っていることは春陽を混乱させる。言葉はわかるのに意味がわからなくなる。
自分にとって家族とは決していいものではない。
それどころか自分を苦しめ続けた元凶だ。
けど、今美優が言った『家族』はそういう意味ではなかった。
それはわかる。
春陽の反応はないが、美優は最後に、今回春陽と会うことを決めた一番の目的を春陽に伝えた。
「だからね……、だから…、もう一度……、もう一度、昔みたいな姉弟に戻れないかなぁ?…もう一度私を春陽のお姉ちゃんにさせてもらえないかなぁ?……家族として、やり直させてもらえないかなぁ?」
春陽にすべてを話し、すべてを知ってもらった上で、心から謝る。
そして、自分の抱いている家族としての愛情を春陽に示す。
春陽との関係を修復したいという想いはそこから始めなければならない。
自分のためじゃない。
春陽にちゃんと判断してもらうため。
すべてを知って、それでも自分ともう一度昔のような姉弟に戻ってくれるか、もう一度姉と呼んでくれるか、を。
美優はそう思ったのだ。
春陽は驚きに目を大きくしていた。
先ほどから心が乱れに乱れている。
どうしてこんな話になった?
こんなことを言われるなんて思いもしなかった。
美優の表情や言葉からこれが冗談ではないことはわかる。
真剣さや真摯さがこちらに伝わってくる。だからこそ混乱が加速する。
姉弟、家族。
それは自分とは縁がないものだと思っていた。
いや、麻理と貴広が自分にとって本来の『家族』というものに一番近い存在だろうか。
本当を知らない自分には正解はわからないが。
そんな中でも、先ほどから温かさを感じる何かは春陽の中で広がり続けている。
何がどう違うのかはわからないが、それに似たものを自分は知っている。
麻理と貴広と一緒に暮らしていた頃感じた温かさ、雪愛から感じる温かさ、ちょっと癪だが悠介から感じる温かさ。
最近では和樹や隆弥、蒼真からも感じることがある。
それらに似ている気がするのだ。
美優からそれを感じている?
自分が?
(っ!?)
そのとき、不意に幼い頃の記憶が蘇った。
美優の優しい目、優しい言葉。
いつも自分と一緒にいてくれた美優。
だがそれらは、美優の本心も知らないで、勝手な思い込みをしていたのだと今の今まで本気で思っていた。
それなのに……、記憶とともに蘇ったこの感覚は……。
幼い頃、自分はこの温かさに包まれていた?
そう思った瞬間、春陽の中でずっと靄がかかっていたところが急激に晴れていく。
そして、自分は幼い頃、美優がいたから耐えてこられたのだと思い知る。
だからこそ、あのときの美優の言葉で自分はあれほど傷ついたのだと理解する。
これまで考えないようにしてきた、蓋をしてきたことが次々と思い出される。
美優に拒絶されてから、春陽はすべてが自分の勘違いで、美優が優しいとそう思い込みたかっただけだったのだと幼い頃の記憶に蓋をして、昔から美優は静香と同じように自分のことを嫌いだったんだと、憎んでいたんだと思い込んだ。
それはきっと自分の心がこれ以上傷つかないよう守るために無意識にしてしまったこと。
それらが今解き放たれ、春陽の心をかき乱す。
だがそれは決して嫌なものではなくて――――。
自分は美優が、姉のことが大好きだった。
自分の方こそ、姉だけが自分の味方だと、家族だとずっと思っていた。
じっと春陽を見つめていた美優は驚きに目を大きくし、息を吞んだ。
なぜなら、春陽の目から静かに涙が流れたから。
「……あなたにとって、俺は、生まれてきて、よかった、のか?」
過去に言われた静香、直哉、美優の言葉が頭を過る。
家族と呼ばれる人全員から存在を否定された。
特に静香からは物心ついた頃からずっと言われていたことだ。
だから自分は本来生まれてきてはいけなかったのだと、自分がいると周りを不幸にするのだとずっと思ってきた。
そこに彼らの所業は関係ない。
春陽は、橘春陽、そして風見春陽という人間をずっとそう思ってきたのだ。
だが、美優はそれを否定し、謝罪してきた。
誤解して春陽に言ってしまった言葉をずっと後悔していると。
本当に?
思い込みではなく、そんな都合のいいことがあるのか?
「っ、当たり前じゃない。春陽がいてくれて、私の弟に生まれてきてくれて私は嬉しかった。幸せだった」
自分の言葉に対する返答ではなかったが、美優は春陽の問いに誠心誠意答える。
春陽の涙に、美優は溢れそうになる感情を歯を食いしばって堪えた。
「……そうか。……そうかぁ……」
美優にとっては違うのだと、自分がいてよかったのだとはっきり示された。
昔、自分にとっても唯一家族だと思っていた相手に今、自身の存在を肯定された。
春陽の中で万感の想いがこみ上げてくる。
美優の言葉を聴き、春陽が下を向いてしまったため、前髪で顔が隠れてしまい、美優からその表情は窺えない。
春陽は自分が涙を流していることに気づき、目元に手をやりその涙を拭う。
春陽をじっと見つめる美優だが、春陽が何を考えているのかが全くわからない。
今の涙の意味は何だったのか。
春陽がしてくれた問いへの答えとして、自分の言ったことは適切だったのか。
本心を答えたことは間違いない。
だが、それが春陽の求めていたものかはわからない。
美優の気持ちがこもった言葉の数々は確かに春陽に届いていた。
昔、春陽の心は一度完全に壊れた。
完全に砕け散ったガラス玉のような春陽の心を麻理や悠介達が何年もかけて形を戻していき、歪なところを雪愛の大きな想いが丁寧に包み込み少しずつ戻していった。
だが、幼少期から徹底的に破壊され、粉々になってしまい、欠けたところは彼らにも戻せない。
そこに美優が今、新たなものを注ぎ、欠けた部分を埋めていく。
決して元通りという訳ではない。
壊れる前と比べれば、形は悪く、歪みもなくなりはしない。
継ぎ接ぎだらけで綺麗でもない。
だが、確かに春陽の心は罅もなければ、欠けたところもない形を取り戻していった。
今からでもやり直したいと言う美優。
そんな美優の心からの願いに春陽が返す言葉は―――――。
ゆっくりと顔を上げた春陽の目元は少し赤くなっていた。
「………ありがとう……姉さん……」
「っ!?春陽……今、あんた……」
美優の目が限界まで大きくなる。胸が苦しさでどうにかなってしまうんじゃないかというほど、ぎゅーっと締めつけられる。でももっと感じていたい。
「久しぶりだと照れくさいもんだな」
そう言って春陽は照れ隠しの笑みを浮かべる。
そんな春陽に美優は感極まる。美優の目が限界まで潤んでいき、下唇を噛んでいるのにあごの震えが止まらない。
もういいだろうか?もう堪える必要はないだろうか?
春陽が今確かに姉さん、と自分のことを呼んでくれた。
嬉しい。嬉しくて、本当に嬉しくて胸がつまる。
昔のようにお姉ちゃんではないところに、年月の経過を感じてしまう。
でもそれは仕方のないこと。それだけ、自分も春陽も大きくなったのだ。
長い年月を越えて春陽と美優、二人が姉弟として確かに新たな一歩を踏み出した瞬間だった。
美優の目からはこれまで押しとどめていた涙が次から次へと溢れてくる。
ここがお店であることを気にしてなのか、声が出ないように口元を手で覆い、肩を震わせている。
「こ、っち、こそ……あり、が、とだよ……はる、ひ……」
美優の声が途切れ途切れに漏れ聞こえる。
そんな美優のことを春陽は柔らかな表情で見つめ、口元には小さな笑みが浮かんでいた。
すべてを静香のせいにして自分は悪くない、なんて言うつもりは全くない。そんなことはありえない。
過去は変えられない。
言ってしまったことはなかったことにはできない。
けれど自分の気持ちをちゃんと伝えることは今でもできるから。
春陽がそれをどういう気持ちで聞いているかはわからない。それがとても怖い。
ひどく自分勝手な言い草だと自分でも思うから。
美優は襲い来る恐怖に必死に抗っていた。
一方春陽は疑問でいっぱいだった。
自分は恨まれて、憎まれていたのではなかったのか。
それなのに生まれてきて嬉しい?
誰が?自分が?
可愛い?心の支え?
これは本当に自分の話なのか?
理解が追いつかない。
当時自分のことをそんな風に思う者なんていなかった、はずだ。
それに、何だろう。
この胸に広がるものは。
今まで経験したことのない不思議な感覚だ。
だが、決して不快なものではない。
温かさを感じるそれは身体の内側にじわじわと広がっていく。
「……そういった状況であればそれも仕方のないことだったと思いますよ」
春陽は言葉を発するのに時間がかかってしまった。
それほど美優の言葉が衝撃的だったのだ。
「ううん、違う。そうじゃないんだよ。仕方なくなんてない。春陽からすれば、今更何を言ってるんだって思うと思うけど、私はあのときあんたを傷つけたこと、ずっとずっと後悔してきた。だから謝らせてほしいの。本当にごめんなさい」
美優はそう言って春陽に頭を下げた。
「美優さん……」
春陽はそんな美優の言葉と態度に名前を呼ぶことしかできなかった。
美優は春陽の言葉を待たず、続けた。
「春陽に謝らなければいけないことは他にもあるの。……春陽と離れて暮らすようになった後のこと、全部話すね……」
顔を上げた美優は再び話し始める。
直哉のこと。
継母のこと。
新しくできた異母弟のこと。
家の中での自分の立ち位置。
春陽がバスケ部で言われたことが自分の責任だということも。
本当にすべてを隠さず話した。
ただ一つ、バスケ部で起きたことをどう知ったかだけは誤魔化した。
実際は先日麻理から聴いた訳だが、麻理と春陽の関係を考え、後から知ったとぼかしたのだ。
先の衝撃が残り、あまり考えられない頭で、春陽は美優の話を聴いていた。
そして、離れて暮らすようになった後の美優はまるでそれまでの自分のようだ、と春陽は漠然と思った。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。春陽を傷つけるつもりなんてなかったのに、結局私はまた春陽を傷つけてしまった……」
美優の表情や声には後悔が滲んでいた。
工藤が知っていた原因は春陽が当時予想した通り美優ではあったが、過程が全く異なっていたということだ。
だが、正直もう終わったことだし、春陽としては特に気にしていない。
言われた相手はともかく、その内容は間違っていなかったから。
そんなことよりも、それを美優が謝ってきたことに驚きだ。さっきから驚いてばかりだな、なんて第三者のような感想が思い浮かぶ。
「どれだけ謝っても許してもらえないかもしれない。けど、これだけは信じてほしいの。私はね……、春陽、あんたが大好き。あんたが私の弟で本当によかったって思ってる。大切な、本当に大切な弟なの。あの家で、ううん、今までの人生で、私に家族がいたとすればそれは春陽、あんただけだったんだよ」
顔を上げ、目線は春陽に固定したまま、美優の目が潤んでいく。
だが、ここで泣くのは自分が許さない。そんな卑怯なマネをする訳にはいかない。
勝手に出てくる涙がこぼれないように必死に押しとどめる。
「…………」
大切な弟?家族?
……『家族』って何だ?
美優の言っていることは春陽を混乱させる。言葉はわかるのに意味がわからなくなる。
自分にとって家族とは決していいものではない。
それどころか自分を苦しめ続けた元凶だ。
けど、今美優が言った『家族』はそういう意味ではなかった。
それはわかる。
春陽の反応はないが、美優は最後に、今回春陽と会うことを決めた一番の目的を春陽に伝えた。
「だからね……、だから…、もう一度……、もう一度、昔みたいな姉弟に戻れないかなぁ?…もう一度私を春陽のお姉ちゃんにさせてもらえないかなぁ?……家族として、やり直させてもらえないかなぁ?」
春陽にすべてを話し、すべてを知ってもらった上で、心から謝る。
そして、自分の抱いている家族としての愛情を春陽に示す。
春陽との関係を修復したいという想いはそこから始めなければならない。
自分のためじゃない。
春陽にちゃんと判断してもらうため。
すべてを知って、それでも自分ともう一度昔のような姉弟に戻ってくれるか、もう一度姉と呼んでくれるか、を。
美優はそう思ったのだ。
春陽は驚きに目を大きくしていた。
先ほどから心が乱れに乱れている。
どうしてこんな話になった?
こんなことを言われるなんて思いもしなかった。
美優の表情や言葉からこれが冗談ではないことはわかる。
真剣さや真摯さがこちらに伝わってくる。だからこそ混乱が加速する。
姉弟、家族。
それは自分とは縁がないものだと思っていた。
いや、麻理と貴広が自分にとって本来の『家族』というものに一番近い存在だろうか。
本当を知らない自分には正解はわからないが。
そんな中でも、先ほどから温かさを感じる何かは春陽の中で広がり続けている。
何がどう違うのかはわからないが、それに似たものを自分は知っている。
麻理と貴広と一緒に暮らしていた頃感じた温かさ、雪愛から感じる温かさ、ちょっと癪だが悠介から感じる温かさ。
最近では和樹や隆弥、蒼真からも感じることがある。
それらに似ている気がするのだ。
美優からそれを感じている?
自分が?
(っ!?)
そのとき、不意に幼い頃の記憶が蘇った。
美優の優しい目、優しい言葉。
いつも自分と一緒にいてくれた美優。
だがそれらは、美優の本心も知らないで、勝手な思い込みをしていたのだと今の今まで本気で思っていた。
それなのに……、記憶とともに蘇ったこの感覚は……。
幼い頃、自分はこの温かさに包まれていた?
そう思った瞬間、春陽の中でずっと靄がかかっていたところが急激に晴れていく。
そして、自分は幼い頃、美優がいたから耐えてこられたのだと思い知る。
だからこそ、あのときの美優の言葉で自分はあれほど傷ついたのだと理解する。
これまで考えないようにしてきた、蓋をしてきたことが次々と思い出される。
美優に拒絶されてから、春陽はすべてが自分の勘違いで、美優が優しいとそう思い込みたかっただけだったのだと幼い頃の記憶に蓋をして、昔から美優は静香と同じように自分のことを嫌いだったんだと、憎んでいたんだと思い込んだ。
それはきっと自分の心がこれ以上傷つかないよう守るために無意識にしてしまったこと。
それらが今解き放たれ、春陽の心をかき乱す。
だがそれは決して嫌なものではなくて――――。
自分は美優が、姉のことが大好きだった。
自分の方こそ、姉だけが自分の味方だと、家族だとずっと思っていた。
じっと春陽を見つめていた美優は驚きに目を大きくし、息を吞んだ。
なぜなら、春陽の目から静かに涙が流れたから。
「……あなたにとって、俺は、生まれてきて、よかった、のか?」
過去に言われた静香、直哉、美優の言葉が頭を過る。
家族と呼ばれる人全員から存在を否定された。
特に静香からは物心ついた頃からずっと言われていたことだ。
だから自分は本来生まれてきてはいけなかったのだと、自分がいると周りを不幸にするのだとずっと思ってきた。
そこに彼らの所業は関係ない。
春陽は、橘春陽、そして風見春陽という人間をずっとそう思ってきたのだ。
だが、美優はそれを否定し、謝罪してきた。
誤解して春陽に言ってしまった言葉をずっと後悔していると。
本当に?
思い込みではなく、そんな都合のいいことがあるのか?
「っ、当たり前じゃない。春陽がいてくれて、私の弟に生まれてきてくれて私は嬉しかった。幸せだった」
自分の言葉に対する返答ではなかったが、美優は春陽の問いに誠心誠意答える。
春陽の涙に、美優は溢れそうになる感情を歯を食いしばって堪えた。
「……そうか。……そうかぁ……」
美優にとっては違うのだと、自分がいてよかったのだとはっきり示された。
昔、自分にとっても唯一家族だと思っていた相手に今、自身の存在を肯定された。
春陽の中で万感の想いがこみ上げてくる。
美優の言葉を聴き、春陽が下を向いてしまったため、前髪で顔が隠れてしまい、美優からその表情は窺えない。
春陽は自分が涙を流していることに気づき、目元に手をやりその涙を拭う。
春陽をじっと見つめる美優だが、春陽が何を考えているのかが全くわからない。
今の涙の意味は何だったのか。
春陽がしてくれた問いへの答えとして、自分の言ったことは適切だったのか。
本心を答えたことは間違いない。
だが、それが春陽の求めていたものかはわからない。
美優の気持ちがこもった言葉の数々は確かに春陽に届いていた。
昔、春陽の心は一度完全に壊れた。
完全に砕け散ったガラス玉のような春陽の心を麻理や悠介達が何年もかけて形を戻していき、歪なところを雪愛の大きな想いが丁寧に包み込み少しずつ戻していった。
だが、幼少期から徹底的に破壊され、粉々になってしまい、欠けたところは彼らにも戻せない。
そこに美優が今、新たなものを注ぎ、欠けた部分を埋めていく。
決して元通りという訳ではない。
壊れる前と比べれば、形は悪く、歪みもなくなりはしない。
継ぎ接ぎだらけで綺麗でもない。
だが、確かに春陽の心は罅もなければ、欠けたところもない形を取り戻していった。
今からでもやり直したいと言う美優。
そんな美優の心からの願いに春陽が返す言葉は―――――。
ゆっくりと顔を上げた春陽の目元は少し赤くなっていた。
「………ありがとう……姉さん……」
「っ!?春陽……今、あんた……」
美優の目が限界まで大きくなる。胸が苦しさでどうにかなってしまうんじゃないかというほど、ぎゅーっと締めつけられる。でももっと感じていたい。
「久しぶりだと照れくさいもんだな」
そう言って春陽は照れ隠しの笑みを浮かべる。
そんな春陽に美優は感極まる。美優の目が限界まで潤んでいき、下唇を噛んでいるのにあごの震えが止まらない。
もういいだろうか?もう堪える必要はないだろうか?
春陽が今確かに姉さん、と自分のことを呼んでくれた。
嬉しい。嬉しくて、本当に嬉しくて胸がつまる。
昔のようにお姉ちゃんではないところに、年月の経過を感じてしまう。
でもそれは仕方のないこと。それだけ、自分も春陽も大きくなったのだ。
長い年月を越えて春陽と美優、二人が姉弟として確かに新たな一歩を踏み出した瞬間だった。
美優の目からはこれまで押しとどめていた涙が次から次へと溢れてくる。
ここがお店であることを気にしてなのか、声が出ないように口元を手で覆い、肩を震わせている。
「こ、っち、こそ……あり、が、とだよ……はる、ひ……」
美優の声が途切れ途切れに漏れ聞こえる。
そんな美優のことを春陽は柔らかな表情で見つめ、口元には小さな笑みが浮かんでいた。
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