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第八章 文化祭

第75話 姉の想い、姉にできること

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「ち、ちょっと待って。な、何?いきなり。どうして私のことなんて……」
 春陽の真剣な言葉と眼差しに、美優は明らかに動揺していた。
 自分は春陽と仲直りがしたくて、春陽ともう一度話す決意をした。
 それなのに、春陽は自分のことを聞きたいと言う。
 春陽から連絡があったのだから春陽にも話したいことがあることはわかっていたが、まさかそれが自分のことだったなんて。てっきり、自分に言いたいことがあって、怒りなど負の感情をぶつけられるのだと思っていた。
 嫌いな相手のことを知ろうとする人間がいるなんて思わなかったのだ。

 それに、美優は麻理に言ったばかりだ。
 自分のことを春陽に話すつもりはない、と。
 思わずチラリとカウンターの中でコーヒーを淹れている麻理の方に視線を向けてしまう。
 交換条件という言葉まで使って、春陽と同じように自分のことを聞いてきた麻理。
 麻理だって春陽から色々聞いて、自分にいい感情を抱いていなかっただろうに知ろうとしてきた。
 自分に同じことを聞いてきた二人が重なり、まるで本当の親子や姉弟のように思えて、お門違いだと思いながらも美優の胸がズキリと痛んだ。

「六年も離れていたんです。会わなければ気にしても仕方なかった。けど、俺たちは偶然にも再会した。そうしたら、これまでどうしてきたのか気になるものでしょう?あなたも、同じだったんじゃないですか?」
 だからこの間は自分に色々と聞いてきたのでしょうと春陽は問う。
「それはっ、…確かにそうだけど……私なんて普通よ、普通。話すようなことは特に何もないって」
 前回もそうだが、今回は目的が目的のため、丁寧語、美優さん、あなた、と春陽の口にする言葉に美優の心はズキズキと痛む。
 美優は春陽を見ようとはしなかった。というか目を合わせることができない。
 伏し目がちで、口元には笑みを浮かべているが、それもなんだかぎこちない。
 動揺が美優の心を乱し、上手く取り繕うことができなかったのだ。
 それは、何かある、春陽がそう感じるのに十分な美優の反応だった。
 だが、美優は話そうとしない。
 どうしたものかと考えていたとき、春陽は美優にいくつか確認したいことがあったことを思い出した。
「その普通を聞きたいんですが……、なら、こちらから色々聞いてもいいですか?」
「……何?」
 美優はいったい何を聞かれるのかと身構える。
「ダイフクは元気にしていますか?もう結構いい年だと思うんですけど」
 それは美優にとって意表を突く内容で、かつ答えにくいものだった。
「……ダイフクは……少し前に亡くなってしまったの。ごめんなさい……」
 美優の答えに春陽は寂しげな笑みを浮かべる。春陽の記憶にあるのは白くてまん丸で元気なダイフクだけ。そのダイフクが死んだ。自然とアズキがいるところに目が向いた。膝の上で寛いでいる姿がここからでも見える。生きていたとしても無理だということはわかっているが、もう一度会いたかったなとつい思ってしまった。
「そうですか……いえ、美優さんが謝ることでは」
「病気とかはなかったんだけどね。私の大学受験が全部終わった翌日に……。それまで私はいつもダイフクに支えられてた」
「そうだったんですね」
 今度は柔らかい表情で優しい笑みを浮かべる。
 美優は申し訳なさでいっぱいになった。
 可能ならもう一度春陽にダイフクを会わせてあげたかった。
 ダイフクは春陽が拾ってきた猫なのだから。
 美優がそんなことを思っていると、春陽が次に全く異なる方向の問いをする。
 ダイフクについては残念だが、寿命であれば仕方がないことだ。
 それでも最初に聞いたのはそれだけ春陽にとっても大切な存在だったからだろう。
 それに、今の美優の言い方からダイフクが大切にされていたのだろうということは感じることができたから。
「美優さんは、どうして離婚になったのか、あの女、……母親のしたことを知ってますか?」
 ダイフクの話からの振れ幅に美優の気持ちが追いつかない。
 春陽は脈絡もなく本当に聞きたいことを聞いている、という感じだ。
「っ!?……ええ、全部知ってる。……春陽が入院した日の夜、あの二人がずっと言い争いしてたのを隠れて聞いてたから」
「そうですか。それじゃあ俺の生まれのことも?」
「っ……」
 春陽の生まれ。
 それは父親が違うということ。
 美優は黙ってこくりと頷いた。
(やっぱりそうだったか……)
 変な言い方だが、なんだかすっきりした。
 予想通り美優がすべてを知っていたとわかり、春陽は、先日の美優の言い方が腑に落ちたのだ。だから実の母親のことを春陽と同じように母とは言わず、あの人と呼んでいたのだろう。
「なるほど。すべてを知っているならちょうどよかったかもしれません。俺はあなたに謝らなければいけません。今は自分自身ここまで生きてこられて、色々な人に出会えてよかったと思っていますけど……昔、あなたが言ったことはすべて正しかった。元凶はあの女ですけど、俺はあの家に生まれてくるべきではなかった。俺のせいで家族を壊してしまってすみませんでした」
 春陽は自分の存在が橘家を壊してしまったと美優に謝罪し頭を下げた。
 美優には春陽がいつのことを言っているのかはすぐにわかった。春陽が自分のことをお姉ちゃんと呼ばなくなった原因なのだから。
 だが、そんな謝罪を受け取る訳にはいかない。それに彼らは自分にとっても家族なんて呼ぶ相手ではない。
「待って!ちょっと待ってよ。なんでそんな言い方するの?謝る必要なんてない。春陽は何も悪くない。あのとき私が言ったことは全部私が悪いの。春陽がどんな生活をしていたかも知らずに勝手なことばかり言った私が悪いの」
 美優は焦りとともに、必死に訴える。
「知らなくてもあなたが言ったことは事実でしたよ?俺がいなければ、俺という異物さえいなければ、あなたたちは今も家族三人でいられたでしょう?」
「そうじゃない、そうじゃないの。あの家は最初から壊れてたんだよ。それを春陽のせいにするなんてありえない。責任があるとすれば、あの夫婦二人の責任だけ。そして春陽にあんな言葉をぶつけてしまったのは私の責任。春陽に悪いところなんて何もない」
 駄目だ。
 このままじゃ駄目だ。
 こんな話がしたい訳じゃないのに話がどんどん変な方向にいってる。
 美優の中で焦りばかりが募る。
 もっと早く気づくべきだった。
 春陽は自分のことを大切に想っていない。
 自分のことを認めていない。
 前に会ったときも、春陽は自分自身が何を言われても怒っていなかった。
 言い返してきたのは雪愛という恋人を悪く言ってしまったときだけだ。
 春陽の自己肯定感の低さは感じていたが、春陽の傷の深さは美優の想像以上だったようだ。
 麻理は一緒に暮らし始めたとき、春陽が人を信じられなくなっていたと言っていた。
 自分のことをどうでもいいと思っていたようだとも。
 それなのに、春陽は優しく育ってくれた、と。
 それは静香を筆頭に自分達が春陽に植え付けてしまった価値観。
 なんとか春陽にその価値観を改めてほしい。
 けど、何をどう言えば伝わる?
 そんな風に考えを巡らせる美優に対して、春陽は美優の言葉のある部分に引っかかった。
「あの女はわかりきってますけど、父親の方もですか?……やっぱりあの人もあの女と似た人間でしたか?」
「やっぱり、ってあんた……」
 美優は春陽の言い様に思わず目を大きくする。
 そんな美優に春陽は苦笑を浮かべた。
「昔はわかりませんでしたよ。けど成長して冷静に考えればそうなのかなって。あの人の態度がある意味公平に見えていたのは単に興味がなかっただけじゃないかって。それが俺に対してだけならいいんですけど。もしそうではないのだとしたら……だから気になるんですよ。あなたは今もあの人と一緒に暮らしてるんですか?」
『そう……。いいね、あんたは楽しそうで。羨ましいくらいだわ』
 春陽がバイトをしながら一人暮らしをしていると話したときの美優の言葉だ。
 それを羨ましいと感じる美優はいったいどんな生活を送っているというのか。
「……ええ。……一緒に、暮らしてる……」
 美優の顔が僅かに歪む。
 それは一緒に暮らしてるなんて言いたくもない自分の状況と春陽が、あなたは悪くないという自分の言葉を受け取らず、わざと論点をずらしたように感じたことその両方からくる表情だった。
「大丈夫、なんですか?」
 美優の表情の変化に春陽が心配そうに窺うようにして言葉をかける。
 美優は涙が出そうになった。
 こんな自分のことを心配してくれる。
 それは本当に嬉しいけれど……。
 どこまでも人に優しい春陽。小さい頃からそうだった。静香からの扱いを知ってそれがどれほどすごいことかわかる。今も失われていないことは胸が締め付けられるほど嬉しいが、その優しさをどうか自分にも向けてほしい。

 そのためにはどうしたらいい?
 自分に何ができる?
 どうしたら春陽はもっと自分を愛することができる?
 そして……自分はどうしたらまた春陽と姉弟としてやり直せる?自分勝手な想いだということは重々承知している。
 一度は自分の過ちで関係が壊れてしまったけれど、それでも自分にとって家族と呼べる相手は春陽しかいないのだ。
 春陽にとっては違うかもしれないけれど……。
 そこで先ほど春陽が言った言葉がふと思い出された。
『今は自分自身ここまで生きてこられて、色々な人に出会えてよかったと思っていますけど……』
 確かに春陽はそう言った。
 それは自分を肯定する言葉ではないだろうか。
 芋づる式に麻理の言葉も思い出された。
 春陽の心を癒したという雪愛、春陽を支えたという悠介のこと。
 そして誰よりも春陽に心を配っている麻理。
 出会えた人というのは彼女達のことだろう。
 彼女達はきっと示し続けたのだ。
 春陽へ愛情や友情を。
 そしてそれが春陽に伝わった。
 人を信じられず、自分のことをどうでもいいと思っている春陽にそれが伝わるまでいったいどれほど大変だったか。
 けど、だからこそ今の春陽がある。

 それなら自分にできることは――――?
 麻理は言っていた。
 春陽は家族というものに絶望している、と。ならば――――。
 美優は熱のこもった強い瞳で春陽をまっすぐ見た。
「大丈夫。あのね、私はもう春陽が昔何をされてきたかを知ってる。でも春陽は私のこと知らないよね?聞いてくれる?私のこと」
「え?」
 先ほどまで話そうとしなかったのにいったいどういう心境の変化なのか。
 美優は覚悟を決めたように澄み切った笑みを浮かべた。
 そこから美優が話し始めたのは春陽と暮らしていた頃の自分のこと。
 静香が自分に何を言って、何をしてきたか、そのすべて。
 そのせいで、春陽への気持ちがどうなっていってしまったかということ。
 春陽は突然話し始めた美優に驚いたが、黙って聴き続けた。
 美優が別れる前のこととはいえ、自分のことを話してくれるのは雪愛との約束もあり春陽も望むところだ。
 それに、春陽にとっては初めて聴く内容のため興味もある。 
 聴いているうちに静香のやり口の陰湿さが浮き彫りになり、春陽が目を大きくする。
 確かに幼少期からずっとそんな情報操作をされ続ければ、自分に悪感情を抱くのも無理はない、春陽はそう思った。
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