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第七章 それぞれの想い
第65話 麻理の気持ちと覚悟、そして雪愛にとって予想外の新事実
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「美優?」
麻理は突然出された名前に首を傾げる。
「はい。春陽くんは美優さんに嫌われてる、恨まれてるって思ってるんです。でも私にはどうしてもそう思えなくて……。そう思いたくないだけかもしれないんですが……。もしかしたら、仲直り、できるんじゃないかって思って……。私がそう言ったら春陽くんはもう一度話してみるって言ってくれて。でもやっぱり心配もあって……」
勝手で無責任なことばかり言っている気がしてきて、段々雪愛の声が小さくなっていく。
「そう。ハルが……。申し訳ないのだけど、美優のことは私もわからないわ。ハルが生まれたときに会って以降一度も会ってないから。ハルをどう思ってるかも……」
「そうですか……」
「でも、静香が言っていたことは今も覚えてる。静香はハルが美優と仲良くなるのが我慢ならなくて二人の姉弟仲をずっと壊そうとしていたらしいの。……気分の悪くなる話だけど、静香は子供二人を支配しようとしていた。自分の思う通りに子供達を、まるで人形みたいに。あいつ、自分の子供をどうしようが親の勝手だって本気で言いやがったわ。……だからハルが今でもそう思うのは仕方ないと思うし、美優が今でもそう思ってても不思議はないわね」
静香の話をしているとどうしても熱くなってしまう。
麻理は一度息を吐いて自分を落ち着かせて、雪愛に答えた。
麻理の言ったことは雪愛が想像していた通りのことだった。
やはり静香が原因を作っていたのか。しかも支配、だなんて。雪愛の顔が悔しそうに歪む。
どこまでも春陽を苦しめている。
けれど、それがわかったとしても感情の話だ。
麻理の言う通り、今どう思ってるかは本人以外誰にもわからない。
「っ、……そう、ですよね……」
雪愛の様子を麻理は見ていた。
雪愛は本気で春陽のことを想っている。春陽のことだけでなく、春陽の周囲にまで気を配り、春陽にとって、よりよくなるようにと考えてくれている。
それが伝わってきて麻理は嬉しくなり、思わず笑みがこぼれる。
「ふふっ」
「……?」
麻理が笑ったことに雪愛は首を傾げる。
「ごめんなさい。何でもないの。ハルがもう一度二人で話すって言うなら、美優とのことはハルに任せるしかないわね」
「はい……」
雪愛は無意識に肩を窄める。
「折角聞いてくれたのに答えになってなくてごめんね」
「いえっ、そんなことは。私の方こそあれこれと聞いてしまってすみません!」
「いいのよ。だってハルを心配してくれてのことでしょう?私としては嬉しいくらいよ。一つだけ言えることがあるとすれば、ハルの言葉を信じてあげて、ってことかしら?きっと真剣に考えた上で決めたことでしょうから。それに今のハルには雪愛ちゃんがいる。だからきっと大丈夫よ」
「はい……」
麻理の言い様に雪愛は照れてしまい肩が縮こまった。そんな雪愛を麻理は微笑ましいものを見るように見つめる。
「他には?何か聞きたいことはある?」
麻理に問われた雪愛は恐る恐るといった様子で尋ねた。
「……あ、あの、少し気になってしまったんですが、春陽くんのお母さん、静香さんが今どうしているかもご存知ないですか?春陽くんは麻理さんのお家に来ることになった入院以降会っていないと言っていたんですが……。もしもまだ春陽くんのことを……」
そこまで徹底して春陽に接していた人が急に関わらなくなるなんて、言い方は悪いがなんだか不気味で、何かあるのではないかと不安に思ってしまったのだ。
「それはないから安心して」
美優のことを聞いたときとは違う。
それに言葉とは裏腹に少し表情が険しい。静香のことになると、もう条件反射のようなもので麻理にもどうしようもないのだ。
「麻理さん?」
はっきりと断言する麻理を雪愛は不思議に思った。
このとき麻理はずっと抱えていた自分の考えを話すことにした。
雪愛になら話してもいいと思ったのだ。
それは―――。
「……雪愛ちゃん、私にはね、今も許せない人間が二人いるの。ハルを傷つけてハルから多くのものを奪ったやつら。その一人が静香よ。もしまたハルに何かしようものならすぐに対処できるように、ちゃんと動向は掴んでる。腹立たしいことに静香は今実家に引きこもってのうのうと暮らしているわ。ハルをこっちで預かってしばらくした頃だったかしら。病院で精神疾患と診断されたらしくてね、休職したけど復職はできなくて、結局仕事も辞めて、両親のところに戻ったのよ。あの家は静香に甘いからね。完全にハルを悪者扱いして必死に静香を庇ってたわ」
「そう、だったんですね……」
麻理は嫌いな両親から静香の情報を得るため定期的に連絡を取っている。静香が何かよからぬ動きを見せればすぐに対処するためだ。
麻理の目は見たことがないほど鋭い。
憎々しく思っていることが伝わってくる。
雪愛としては、春陽を悪者扱い、というのは胸がモヤモヤとするが、確かにそういうことなら春陽に何もしてこないのも納得だった。
だが、麻理は敢えて、雪愛が聞いた静香だけではなく、二人、と言った。
だから、雪愛の次の言葉はこれしかなかった。
「……あの、もう一人、っていうのは?」
「……雪愛ちゃんはハルの中学でのバスケ部のことは知ってるかしら?」
「っ、はい…。春陽くんから聞きました……」
話の流れとその漠然とした問いで雪愛にもわかった。
忘れもしない。
春陽から球技大会の日に直接聞いたことだ。
「そう……。ハルがこの家に来てからの三人での生活はね、本当に楽しかったの。貴広さんもハルを気に入ってね。本当の子供みたいに接してた。少しずつ、本当に少しずつハルも心を開いていってくれてたと思う。それなのに、中学で工藤ってやつがハルからバスケを奪って、癒えてほしいと願っていたハルの心を再びズタズタに傷つけた。当時、貴広さんの病気と重なってて、私達も余裕がなくてね。わかったのはハルの腕が折られて、すべてが終わってしまった後だった。ハル、それに悠介からも話を聞いたわ。部を辞めていいと言ったとき、ずっと苦しかったんでしょうね、ハルは肩から力が抜けるようだった。私も貴広さんもいくら悔やんでも悔やみきれなかったわ。この工藤という男のことも私は許せない。こいつが今はかなり悪いことしてるみたいでね。もしまたハルに関わってきたら今度こそ叩き潰してやるわ。さっきいた朱音はそういうやつの情報を得るのが得意でね。事情を知ってから、ここに来る度、教えてくれているのよ」
工藤が春陽を逆恨みしていることは当時、悠介から聞いた。そうした恨みがいつまでも続くものなのか、それは麻理にもわからない。でも後悔はしたくないから。
朱音は貴広が亡くなってすぐの頃、麻理と浴びるほどお酒を飲んだときに麻理が口を滑らせて以来、ずっと協力している。
これらは麻理がこれまで誰にも言ってこなかったことだ。
一人でずっと抱えていた麻理の覚悟。
春陽を守る、その想いの強さはとても大きかった。
どちらもこのまま春陽を傷つけるような真似をしなければ、今更麻理から何かをしようとは思っていない。
本当はこの二人のことを思い出すことすら嫌なのだ。
けれど、もしまた春陽を傷つけるようなことがあれば、そのときは絶対に許さない。
麻理はそう決意していた。
だからこそ、二人のことはずっと注意を払ってきた。
雪愛は息を呑む。
雪愛にも麻理がどれほど真剣なのか、その覚悟の強さが伝わってきたのだ。
麻理は話していて熱くなってしまったと自覚したのか、苦笑気味に表情を和らげた。
「ごめんなさい。ちょっと熱くなっちゃったわね」
「いえ、そんな。…それだけ春陽くんのことを大切に思ってるってことですよね?」
「まあ、ね。ハルは大切な家族だもの」
雪愛のストレートな確認に、麻理は少し照れてしまったようだ。
そんな麻理の様子に雪愛は笑みを浮かべる。
ここまで話すうちに、麻理のお酒も大分減っていた。酔っているようには全く見えない麻理だが、感情の制御が少し難しくなっているのかもしれない。
麻理は空気を変えるように、今だから言えるんだけどね、と言って話し始めた。
「私ね、雪愛ちゃんのこと最初はちょっと疑っちゃったのよ」
「えっ!?」
それは完全に予想外の言葉。
麻理は初めて会ったときからずっと優しかったし、雪愛の味方をしてくれた。
それなのに自分は何を疑われていたのだろうと雪愛は疑問でいっぱいになった。
「買い出しを頼んだハルが女の子を連れて帰ってくるんだもの。ちゃんとしたハルはカッコいいから、女の子に捕まってどうにもならなくて店に連れてきたんじゃないかって」
言いながら麻理は揶揄い混じりに笑う。
「そんなっ」
麻理が笑っていることから本気ではないとは思うが心外ではある。
「でも、名前を聞いて驚いたわ。どことなく見たことある気がしたけど、まさか白月さんの、沙織さんの娘さん、だなんてね?」
「っ!?母をご存知なんですか!?」
まさか、ここで沙織の名前が出てくるとは思わなかった。思わず雪愛の声が大きくなる。
「ええ。この店に初めて来てくれたときにね、ハルを見て、以前話した子だってわかったらしいわ。相当印象に残ってたみたい。二度目の来店時に、突然すみません、って私に声をかけてきて、ここで働いている男の子はもしかして橘春陽くんではありませんかって聞かれたときは、本当すっごく驚いたもの」
「母さんが春陽くんと話したことがある……!?」
沙織がフェリーチェに来たことがあることも今初めて知った。
以前雪愛が一緒に行こうと言ったとき、沙織はそんなこと一言も言わなかった。その上春陽とも関係が?そんな素振り全くなかったのに。
「ええ。事情を聴いてもっと驚いたわ。雪愛ちゃんはハルが小五のときに階段から落ちて入院したことは知ってるのよね?」
春陽の悲しい過去、その話を他でもない春陽から聞いていると雪愛が言ったからこそ、麻理もこの話をしている。
でなければ春陽の過去を明かすようなことを麻理はしない。
当然、今麻理が話している内容は、沙織が麻理に口止めをしている、ということもない。ただ沙織から雪愛には何も言っていない、というだけだ。
「はい、どうしてそうなったかも、その後どうなったかも全部春陽くんから教えてもらいました」
そこに至る流れ、そしてその後のことを考えると今でも心が痛い。
雪愛の言葉に、麻理は一つ頷く。
「それじゃあ、沙織さんの職業は?」
「っ!?……母は、カウンセラーを、しています」
(まさか……!?)
「そう。そのとき、育児放棄を疑われてハルのカウンセリングが予定された。それを病院から頼まれたカウンセラーが沙織さんだったらしいの。本当にすごい偶然よね。けど、それは静香の妨害があって、結局一回しか話せなかったそうなの。それをずっと心配してくれてたみたいでね。だからこそ、印象に残ってたんでしょうけど」
「そんなことが……」
(六年経っても覚えていて、成長した春陽くんの姿を見てすぐに気づいたっていうの?)
子供の顔は成長とともに変わる。そんなことあり得るのだろうか。カウンセラーとしての能力はそういうものなのだろうか。雪愛にはわからなかった。
「それからも何度か店に来てくれてね。いつもカウンター席に座って、私とよく話をしてくれて。ハルと同い年で、雪愛っていう名前の娘さんがいることは聞いていたの。一度会ってみたいと思っていたのよ」
そのとき、麻理は沙織と一つだけ約束をした。
沙織の提案に麻理もその方がいいと思ったから。今もその約束を二人は守っている。
「だからハルが雪愛ちゃんを連れてきて紹介されたときは本当に驚いちゃって」
春陽はそのときの麻理の驚きをその視線が雪愛の胸にいっていると思い、気にしないようにしていたが、それはとんだ勘違いだった。麻理のことをわかっているからこそ起きた悲しい勘違い。
麻理はただ驚きに息を呑み、視線が固まっていただけだったのだ。
その先が偶然にも雪愛の胸元だっただけで……。
「ハルはカウンセリングのことあまり覚えてないみたいで、沙織さんもそれなら無理に思い出させる必要はないからって言ってくれてね。店に初めて来てくれたときもハルは沙織さんと話した訳じゃないし、二度目以降は沙織さんの来てくれた時間がハルのバイトの時間とずれてたからハルは何も知らなかったんでしょうけど」
麻理はそう言って、雪愛を連れてきたときの春陽を思い出しているのか、小さく笑った。
麻理は突然出された名前に首を傾げる。
「はい。春陽くんは美優さんに嫌われてる、恨まれてるって思ってるんです。でも私にはどうしてもそう思えなくて……。そう思いたくないだけかもしれないんですが……。もしかしたら、仲直り、できるんじゃないかって思って……。私がそう言ったら春陽くんはもう一度話してみるって言ってくれて。でもやっぱり心配もあって……」
勝手で無責任なことばかり言っている気がしてきて、段々雪愛の声が小さくなっていく。
「そう。ハルが……。申し訳ないのだけど、美優のことは私もわからないわ。ハルが生まれたときに会って以降一度も会ってないから。ハルをどう思ってるかも……」
「そうですか……」
「でも、静香が言っていたことは今も覚えてる。静香はハルが美優と仲良くなるのが我慢ならなくて二人の姉弟仲をずっと壊そうとしていたらしいの。……気分の悪くなる話だけど、静香は子供二人を支配しようとしていた。自分の思う通りに子供達を、まるで人形みたいに。あいつ、自分の子供をどうしようが親の勝手だって本気で言いやがったわ。……だからハルが今でもそう思うのは仕方ないと思うし、美優が今でもそう思ってても不思議はないわね」
静香の話をしているとどうしても熱くなってしまう。
麻理は一度息を吐いて自分を落ち着かせて、雪愛に答えた。
麻理の言ったことは雪愛が想像していた通りのことだった。
やはり静香が原因を作っていたのか。しかも支配、だなんて。雪愛の顔が悔しそうに歪む。
どこまでも春陽を苦しめている。
けれど、それがわかったとしても感情の話だ。
麻理の言う通り、今どう思ってるかは本人以外誰にもわからない。
「っ、……そう、ですよね……」
雪愛の様子を麻理は見ていた。
雪愛は本気で春陽のことを想っている。春陽のことだけでなく、春陽の周囲にまで気を配り、春陽にとって、よりよくなるようにと考えてくれている。
それが伝わってきて麻理は嬉しくなり、思わず笑みがこぼれる。
「ふふっ」
「……?」
麻理が笑ったことに雪愛は首を傾げる。
「ごめんなさい。何でもないの。ハルがもう一度二人で話すって言うなら、美優とのことはハルに任せるしかないわね」
「はい……」
雪愛は無意識に肩を窄める。
「折角聞いてくれたのに答えになってなくてごめんね」
「いえっ、そんなことは。私の方こそあれこれと聞いてしまってすみません!」
「いいのよ。だってハルを心配してくれてのことでしょう?私としては嬉しいくらいよ。一つだけ言えることがあるとすれば、ハルの言葉を信じてあげて、ってことかしら?きっと真剣に考えた上で決めたことでしょうから。それに今のハルには雪愛ちゃんがいる。だからきっと大丈夫よ」
「はい……」
麻理の言い様に雪愛は照れてしまい肩が縮こまった。そんな雪愛を麻理は微笑ましいものを見るように見つめる。
「他には?何か聞きたいことはある?」
麻理に問われた雪愛は恐る恐るといった様子で尋ねた。
「……あ、あの、少し気になってしまったんですが、春陽くんのお母さん、静香さんが今どうしているかもご存知ないですか?春陽くんは麻理さんのお家に来ることになった入院以降会っていないと言っていたんですが……。もしもまだ春陽くんのことを……」
そこまで徹底して春陽に接していた人が急に関わらなくなるなんて、言い方は悪いがなんだか不気味で、何かあるのではないかと不安に思ってしまったのだ。
「それはないから安心して」
美優のことを聞いたときとは違う。
それに言葉とは裏腹に少し表情が険しい。静香のことになると、もう条件反射のようなもので麻理にもどうしようもないのだ。
「麻理さん?」
はっきりと断言する麻理を雪愛は不思議に思った。
このとき麻理はずっと抱えていた自分の考えを話すことにした。
雪愛になら話してもいいと思ったのだ。
それは―――。
「……雪愛ちゃん、私にはね、今も許せない人間が二人いるの。ハルを傷つけてハルから多くのものを奪ったやつら。その一人が静香よ。もしまたハルに何かしようものならすぐに対処できるように、ちゃんと動向は掴んでる。腹立たしいことに静香は今実家に引きこもってのうのうと暮らしているわ。ハルをこっちで預かってしばらくした頃だったかしら。病院で精神疾患と診断されたらしくてね、休職したけど復職はできなくて、結局仕事も辞めて、両親のところに戻ったのよ。あの家は静香に甘いからね。完全にハルを悪者扱いして必死に静香を庇ってたわ」
「そう、だったんですね……」
麻理は嫌いな両親から静香の情報を得るため定期的に連絡を取っている。静香が何かよからぬ動きを見せればすぐに対処するためだ。
麻理の目は見たことがないほど鋭い。
憎々しく思っていることが伝わってくる。
雪愛としては、春陽を悪者扱い、というのは胸がモヤモヤとするが、確かにそういうことなら春陽に何もしてこないのも納得だった。
だが、麻理は敢えて、雪愛が聞いた静香だけではなく、二人、と言った。
だから、雪愛の次の言葉はこれしかなかった。
「……あの、もう一人、っていうのは?」
「……雪愛ちゃんはハルの中学でのバスケ部のことは知ってるかしら?」
「っ、はい…。春陽くんから聞きました……」
話の流れとその漠然とした問いで雪愛にもわかった。
忘れもしない。
春陽から球技大会の日に直接聞いたことだ。
「そう……。ハルがこの家に来てからの三人での生活はね、本当に楽しかったの。貴広さんもハルを気に入ってね。本当の子供みたいに接してた。少しずつ、本当に少しずつハルも心を開いていってくれてたと思う。それなのに、中学で工藤ってやつがハルからバスケを奪って、癒えてほしいと願っていたハルの心を再びズタズタに傷つけた。当時、貴広さんの病気と重なってて、私達も余裕がなくてね。わかったのはハルの腕が折られて、すべてが終わってしまった後だった。ハル、それに悠介からも話を聞いたわ。部を辞めていいと言ったとき、ずっと苦しかったんでしょうね、ハルは肩から力が抜けるようだった。私も貴広さんもいくら悔やんでも悔やみきれなかったわ。この工藤という男のことも私は許せない。こいつが今はかなり悪いことしてるみたいでね。もしまたハルに関わってきたら今度こそ叩き潰してやるわ。さっきいた朱音はそういうやつの情報を得るのが得意でね。事情を知ってから、ここに来る度、教えてくれているのよ」
工藤が春陽を逆恨みしていることは当時、悠介から聞いた。そうした恨みがいつまでも続くものなのか、それは麻理にもわからない。でも後悔はしたくないから。
朱音は貴広が亡くなってすぐの頃、麻理と浴びるほどお酒を飲んだときに麻理が口を滑らせて以来、ずっと協力している。
これらは麻理がこれまで誰にも言ってこなかったことだ。
一人でずっと抱えていた麻理の覚悟。
春陽を守る、その想いの強さはとても大きかった。
どちらもこのまま春陽を傷つけるような真似をしなければ、今更麻理から何かをしようとは思っていない。
本当はこの二人のことを思い出すことすら嫌なのだ。
けれど、もしまた春陽を傷つけるようなことがあれば、そのときは絶対に許さない。
麻理はそう決意していた。
だからこそ、二人のことはずっと注意を払ってきた。
雪愛は息を呑む。
雪愛にも麻理がどれほど真剣なのか、その覚悟の強さが伝わってきたのだ。
麻理は話していて熱くなってしまったと自覚したのか、苦笑気味に表情を和らげた。
「ごめんなさい。ちょっと熱くなっちゃったわね」
「いえ、そんな。…それだけ春陽くんのことを大切に思ってるってことですよね?」
「まあ、ね。ハルは大切な家族だもの」
雪愛のストレートな確認に、麻理は少し照れてしまったようだ。
そんな麻理の様子に雪愛は笑みを浮かべる。
ここまで話すうちに、麻理のお酒も大分減っていた。酔っているようには全く見えない麻理だが、感情の制御が少し難しくなっているのかもしれない。
麻理は空気を変えるように、今だから言えるんだけどね、と言って話し始めた。
「私ね、雪愛ちゃんのこと最初はちょっと疑っちゃったのよ」
「えっ!?」
それは完全に予想外の言葉。
麻理は初めて会ったときからずっと優しかったし、雪愛の味方をしてくれた。
それなのに自分は何を疑われていたのだろうと雪愛は疑問でいっぱいになった。
「買い出しを頼んだハルが女の子を連れて帰ってくるんだもの。ちゃんとしたハルはカッコいいから、女の子に捕まってどうにもならなくて店に連れてきたんじゃないかって」
言いながら麻理は揶揄い混じりに笑う。
「そんなっ」
麻理が笑っていることから本気ではないとは思うが心外ではある。
「でも、名前を聞いて驚いたわ。どことなく見たことある気がしたけど、まさか白月さんの、沙織さんの娘さん、だなんてね?」
「っ!?母をご存知なんですか!?」
まさか、ここで沙織の名前が出てくるとは思わなかった。思わず雪愛の声が大きくなる。
「ええ。この店に初めて来てくれたときにね、ハルを見て、以前話した子だってわかったらしいわ。相当印象に残ってたみたい。二度目の来店時に、突然すみません、って私に声をかけてきて、ここで働いている男の子はもしかして橘春陽くんではありませんかって聞かれたときは、本当すっごく驚いたもの」
「母さんが春陽くんと話したことがある……!?」
沙織がフェリーチェに来たことがあることも今初めて知った。
以前雪愛が一緒に行こうと言ったとき、沙織はそんなこと一言も言わなかった。その上春陽とも関係が?そんな素振り全くなかったのに。
「ええ。事情を聴いてもっと驚いたわ。雪愛ちゃんはハルが小五のときに階段から落ちて入院したことは知ってるのよね?」
春陽の悲しい過去、その話を他でもない春陽から聞いていると雪愛が言ったからこそ、麻理もこの話をしている。
でなければ春陽の過去を明かすようなことを麻理はしない。
当然、今麻理が話している内容は、沙織が麻理に口止めをしている、ということもない。ただ沙織から雪愛には何も言っていない、というだけだ。
「はい、どうしてそうなったかも、その後どうなったかも全部春陽くんから教えてもらいました」
そこに至る流れ、そしてその後のことを考えると今でも心が痛い。
雪愛の言葉に、麻理は一つ頷く。
「それじゃあ、沙織さんの職業は?」
「っ!?……母は、カウンセラーを、しています」
(まさか……!?)
「そう。そのとき、育児放棄を疑われてハルのカウンセリングが予定された。それを病院から頼まれたカウンセラーが沙織さんだったらしいの。本当にすごい偶然よね。けど、それは静香の妨害があって、結局一回しか話せなかったそうなの。それをずっと心配してくれてたみたいでね。だからこそ、印象に残ってたんでしょうけど」
「そんなことが……」
(六年経っても覚えていて、成長した春陽くんの姿を見てすぐに気づいたっていうの?)
子供の顔は成長とともに変わる。そんなことあり得るのだろうか。カウンセラーとしての能力はそういうものなのだろうか。雪愛にはわからなかった。
「それからも何度か店に来てくれてね。いつもカウンター席に座って、私とよく話をしてくれて。ハルと同い年で、雪愛っていう名前の娘さんがいることは聞いていたの。一度会ってみたいと思っていたのよ」
そのとき、麻理は沙織と一つだけ約束をした。
沙織の提案に麻理もその方がいいと思ったから。今もその約束を二人は守っている。
「だからハルが雪愛ちゃんを連れてきて紹介されたときは本当に驚いちゃって」
春陽はそのときの麻理の驚きをその視線が雪愛の胸にいっていると思い、気にしないようにしていたが、それはとんだ勘違いだった。麻理のことをわかっているからこそ起きた悲しい勘違い。
麻理はただ驚きに息を呑み、視線が固まっていただけだったのだ。
その先が偶然にも雪愛の胸元だっただけで……。
「ハルはカウンセリングのことあまり覚えてないみたいで、沙織さんもそれなら無理に思い出させる必要はないからって言ってくれてね。店に初めて来てくれたときもハルは沙織さんと話した訳じゃないし、二度目以降は沙織さんの来てくれた時間がハルのバイトの時間とずれてたからハルは何も知らなかったんでしょうけど」
麻理はそう言って、雪愛を連れてきたときの春陽を思い出しているのか、小さく笑った。
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2014年、神奈川県立小田原東高二年の瀬戸入果は競泳バタフライの選手。
弱小水泳部ながらインターハイ出場を決めるも関東大会で傷めた水泳肩により現在はリハビリ中。
敬老の日の晩に、両親からダブル不倫の末に離婚という衝撃の宣告を受けた入果は行き場を失ってしまう。
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