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玖 嘉永六年
狐憑き
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おゆいさまのはやし唄は、重右衛門の回復と共に聞かなくなった。
結局、誰が最初に唄い出したのかは分からずじまいだった。が、もともとこの村には『黄泉径の話をすると黄泉径に引きずり込まれる』という言い伝えがあったので、廃れていくのは必然だと源蔵は思っていた。
代わりに彼の心を縛ったのは、ある怪しげな噂だった。
「おっ父」
安太郎なら、その噂について何か聞いているかもしれない。源蔵はそう思い、夕餉の終わった頃合いをみて尋ねることにした。
「どうかしたか、源蔵」
もし噂が本当だとしたら、間違いなく自分に責任の一端がある。確認せずにはいられなかった。
「今日、あき姉がきつね憑きになってるって聞いたんだけど、何か知ってるか」
安太郎は源蔵の問いに対し、答えたくなさそうに眉をしかめた。
「そうか、お前の耳にも入ったか」
「本当なんだな」
安太郎は仏頂面で頷いた。
「俺も詳しくはよく知らんが、肝煎様からの要請で今からお屋敷に行くことになっている。おそらくそこで何か聞けるだろう」
「一緒に行っても良いか」
「駄目だ」
「何故」
納得できずに食い下がる源蔵。安太郎はそんな息子から目を逸らせると、小さくため息をついた。
「お前は、きつね憑きになったあき殿を、その目で見る気か」
父の言葉を受けて、源蔵は言葉を失う。彼はきつねに憑かれた者がどうなってしまうのか、実際のところ良く分かってはいなかった。
「悪い事は言わん。後で話してやるから、今日はおとなしくしていろ」
安太郎は家を出て行った。言い返せなくなった源蔵を、重右衛門が心配そうに見つめていた。
ため息をつく源蔵。そんな事を言われても、そわそわした心を持て余すばかりで落ち着かない。
源蔵は床に就くでもなく、縁側で座りながらずっと夜空を眺めていた。どうやら今日は新月のようだ。空は晴れているようなのに、月がまったく見えない。
「兄ちゃ、しょうぎやらないの」
寝巻を着た重右衛門が、不意に源蔵へ歩み寄る。
「うん」
生返事を自覚しつつ、源蔵は答えた。正直今はそれどころではない。弟の方に一瞥をくれることもなく、兄は空を見続けた。
「兄ちゃ、しょうぎやろ」
重右衛門の言う将棋とは、山崩しの事である。
「また今度な」
源蔵の態度はあくまでも冷たい。
そんな子供たちを見とがめて、さねが言った。
「あんたたち、いつまで起きてるつもりなの。もう寝なさい」
「はい」
聞き分けの良い重右衛門は、二つ返事で縁側を後にした。が、源蔵は母の声にさえ耳を貸さない体であった。
「源蔵。あんた、おっ父が帰ってくるまで起きてるつもりかい」
重右衛門と入れ違うようにして、さねが縁側に来る。源蔵は、やや間を開けてから母を見上げた。
「駄目か」
「当たり前でしょう、いつ帰ってくるか分からないんだから。明日の朝、おっ父にどうだったか聞けばいいんだから、今日は寝なさい」
「どうせ寝付けないし」
「床に入れば、嫌でも眠れるよ。さあ」
さねは源蔵の腕をつかみ、強引に立ち上がらせようとした。
その時。
「えっ」
親子の動きが、ともに止まった。
庭の奥、暗闇の中で何かが動いたのだ。
「誰かいるのかい」
「いや、猫かなにかだろ」
さねの呼びかけに源蔵が半笑いで言う。が、正しいのはさねの方だった。
その人影は恐ろしい勢いで母子に近づくと、さねを思い切り押し倒した。
「痛いっ」
「おい。お前、何をするんだ。おっ母から離れろ」
つられて倒れた源蔵は、暴漢を止めるために急いで体勢を立て直した。
そして、その姿を見る。
暴漢は、あきだった。
結局、誰が最初に唄い出したのかは分からずじまいだった。が、もともとこの村には『黄泉径の話をすると黄泉径に引きずり込まれる』という言い伝えがあったので、廃れていくのは必然だと源蔵は思っていた。
代わりに彼の心を縛ったのは、ある怪しげな噂だった。
「おっ父」
安太郎なら、その噂について何か聞いているかもしれない。源蔵はそう思い、夕餉の終わった頃合いをみて尋ねることにした。
「どうかしたか、源蔵」
もし噂が本当だとしたら、間違いなく自分に責任の一端がある。確認せずにはいられなかった。
「今日、あき姉がきつね憑きになってるって聞いたんだけど、何か知ってるか」
安太郎は源蔵の問いに対し、答えたくなさそうに眉をしかめた。
「そうか、お前の耳にも入ったか」
「本当なんだな」
安太郎は仏頂面で頷いた。
「俺も詳しくはよく知らんが、肝煎様からの要請で今からお屋敷に行くことになっている。おそらくそこで何か聞けるだろう」
「一緒に行っても良いか」
「駄目だ」
「何故」
納得できずに食い下がる源蔵。安太郎はそんな息子から目を逸らせると、小さくため息をついた。
「お前は、きつね憑きになったあき殿を、その目で見る気か」
父の言葉を受けて、源蔵は言葉を失う。彼はきつねに憑かれた者がどうなってしまうのか、実際のところ良く分かってはいなかった。
「悪い事は言わん。後で話してやるから、今日はおとなしくしていろ」
安太郎は家を出て行った。言い返せなくなった源蔵を、重右衛門が心配そうに見つめていた。
ため息をつく源蔵。そんな事を言われても、そわそわした心を持て余すばかりで落ち着かない。
源蔵は床に就くでもなく、縁側で座りながらずっと夜空を眺めていた。どうやら今日は新月のようだ。空は晴れているようなのに、月がまったく見えない。
「兄ちゃ、しょうぎやらないの」
寝巻を着た重右衛門が、不意に源蔵へ歩み寄る。
「うん」
生返事を自覚しつつ、源蔵は答えた。正直今はそれどころではない。弟の方に一瞥をくれることもなく、兄は空を見続けた。
「兄ちゃ、しょうぎやろ」
重右衛門の言う将棋とは、山崩しの事である。
「また今度な」
源蔵の態度はあくまでも冷たい。
そんな子供たちを見とがめて、さねが言った。
「あんたたち、いつまで起きてるつもりなの。もう寝なさい」
「はい」
聞き分けの良い重右衛門は、二つ返事で縁側を後にした。が、源蔵は母の声にさえ耳を貸さない体であった。
「源蔵。あんた、おっ父が帰ってくるまで起きてるつもりかい」
重右衛門と入れ違うようにして、さねが縁側に来る。源蔵は、やや間を開けてから母を見上げた。
「駄目か」
「当たり前でしょう、いつ帰ってくるか分からないんだから。明日の朝、おっ父にどうだったか聞けばいいんだから、今日は寝なさい」
「どうせ寝付けないし」
「床に入れば、嫌でも眠れるよ。さあ」
さねは源蔵の腕をつかみ、強引に立ち上がらせようとした。
その時。
「えっ」
親子の動きが、ともに止まった。
庭の奥、暗闇の中で何かが動いたのだ。
「誰かいるのかい」
「いや、猫かなにかだろ」
さねの呼びかけに源蔵が半笑いで言う。が、正しいのはさねの方だった。
その人影は恐ろしい勢いで母子に近づくと、さねを思い切り押し倒した。
「痛いっ」
「おい。お前、何をするんだ。おっ母から離れろ」
つられて倒れた源蔵は、暴漢を止めるために急いで体勢を立て直した。
そして、その姿を見る。
暴漢は、あきだった。
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