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捌 明治十年
子供タチノ決断
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家族さえ、寅之助の声を聞くのは久しぶりの事だった。皆一斉に、子三郎さえ身を起こして荒木の末弟を見た。
が、一気に視線が集中した故か、寅之助は怖気づくようにして再び口を閉ざしてしまった。
「どうした、寅之助。言いたいことがあるのなら、言ってみなさい」
牛兵衛が身を乗り出し、優しく語りかける。
寅之助は背中を丸め、上目がちに兄を見返した。しかし、正視は耐えられない様子で、すぐにその視線が泳ぎだす。
「大丈夫だよ、寅。何を言っても、誰も怒らないから」
あさは牛兵衛に加勢しながら、子三郎を一瞥した。娘の意を汲んだ父親は忌々しげに舌打ちをすると、再び体を横にして子らに背中を向けた。
それを以てようやく安心したのか、寅之助の口が再び動く。
「あの、おれ」
「ん、何だ寅之助」
「おれは、すず姉が切支丹になるの、良い事だと思う」
「え」
思わぬところからの反論に、あさと牛兵衛は顔を見合わせた。
「何だと、てめえどういう了見で」
「親父は黙ってろ。せっかく寅がしゃべってんだ」
倒したばかりの身をせわしなくまた立てて子三郎が喚くのを、あさがとがめる。
「寅。どうしてそう思うんだい」
「だって、すず姉がとても幸せそうだから。おれ、頭が悪いから教えとかそういうのはよく分からないけど、すず姉が幸せなら、すず姉は切支丹になるのが良いと思う」
「寅之助」
すずは、弟の手を取った。
「ありがとう、寅之助。ありがとう」
深々と腰を折るすず。長らく枯れていたと思っていた涙腺が、今日はやたらに緩い。気が付くと、床に雫が二つ三つ落ちていた。
寅之助は、すずの手を握り返した。すずはそれを受け、寅之助を真正面から見つめて笑う。
慣れぬことをした反動か、寅之助は姉の視線を恐れるかのように顔を背けた。しかし、その固く握られた手に本心があると信じたすずは、寅之助を責めなかった。
「あさ姉、お願いがあるんだけど」
寅之助はその姿勢のまま、今度はあさに声をかけた。
「何だい、寅」
もちろんあさも、寅之助が目線を合わせない事を怒ったりしない。いかにも弟が再び心を閉ざさぬよう配慮している感じの声が、あさの口からは出ていた。
寅之助の手が、さらに強くすずの手を握る。そして意を決すると、言った。
「おれも、切支丹になりたい」
「え」
あさはもう一度牛兵衛と顔を合わせた。複雑な思いが、両者の表情から見て取れる。すずは寅之助になり代わり、真剣な面持ちで二人を見た。
誰も声をたてない時間がしばらく流れたが、沈黙を破ったのは牛兵衛だった。
「よし。この際だ。俺も洗礼を受けよう」
「牛兵衛」
目をまん丸くして、あさが驚く。
「すず姉。明日俺たち二人を、その空き家まで連れて行ってくれ」
「いいけど」
すずは、遠慮がちにあさを見た。
あさは目を見開いてすずと牛兵衛と交互に視線を送っていたが、やがて観念したように笑った。
「分かったよ。あたしも行く。みんなで切支丹になろう」
「てめえらいい加減にしろ。そんなことしたら荒木家は終わっちまうぞ」
「端から終わってるじゃねえか、こんな家」
たまりかねた子三郎の言葉を、牛兵衛は軽くいなす。
「決まりだな。明日は良い日になりそうだ」
「牛兵衛、ありがとう」
「気にするなって、すず姉。さあ、今日はもう寝ようか」
牛兵衛の笑顔は、どこか吹っ切れたかのように爽やかだった。
が、一気に視線が集中した故か、寅之助は怖気づくようにして再び口を閉ざしてしまった。
「どうした、寅之助。言いたいことがあるのなら、言ってみなさい」
牛兵衛が身を乗り出し、優しく語りかける。
寅之助は背中を丸め、上目がちに兄を見返した。しかし、正視は耐えられない様子で、すぐにその視線が泳ぎだす。
「大丈夫だよ、寅。何を言っても、誰も怒らないから」
あさは牛兵衛に加勢しながら、子三郎を一瞥した。娘の意を汲んだ父親は忌々しげに舌打ちをすると、再び体を横にして子らに背中を向けた。
それを以てようやく安心したのか、寅之助の口が再び動く。
「あの、おれ」
「ん、何だ寅之助」
「おれは、すず姉が切支丹になるの、良い事だと思う」
「え」
思わぬところからの反論に、あさと牛兵衛は顔を見合わせた。
「何だと、てめえどういう了見で」
「親父は黙ってろ。せっかく寅がしゃべってんだ」
倒したばかりの身をせわしなくまた立てて子三郎が喚くのを、あさがとがめる。
「寅。どうしてそう思うんだい」
「だって、すず姉がとても幸せそうだから。おれ、頭が悪いから教えとかそういうのはよく分からないけど、すず姉が幸せなら、すず姉は切支丹になるのが良いと思う」
「寅之助」
すずは、弟の手を取った。
「ありがとう、寅之助。ありがとう」
深々と腰を折るすず。長らく枯れていたと思っていた涙腺が、今日はやたらに緩い。気が付くと、床に雫が二つ三つ落ちていた。
寅之助は、すずの手を握り返した。すずはそれを受け、寅之助を真正面から見つめて笑う。
慣れぬことをした反動か、寅之助は姉の視線を恐れるかのように顔を背けた。しかし、その固く握られた手に本心があると信じたすずは、寅之助を責めなかった。
「あさ姉、お願いがあるんだけど」
寅之助はその姿勢のまま、今度はあさに声をかけた。
「何だい、寅」
もちろんあさも、寅之助が目線を合わせない事を怒ったりしない。いかにも弟が再び心を閉ざさぬよう配慮している感じの声が、あさの口からは出ていた。
寅之助の手が、さらに強くすずの手を握る。そして意を決すると、言った。
「おれも、切支丹になりたい」
「え」
あさはもう一度牛兵衛と顔を合わせた。複雑な思いが、両者の表情から見て取れる。すずは寅之助になり代わり、真剣な面持ちで二人を見た。
誰も声をたてない時間がしばらく流れたが、沈黙を破ったのは牛兵衛だった。
「よし。この際だ。俺も洗礼を受けよう」
「牛兵衛」
目をまん丸くして、あさが驚く。
「すず姉。明日俺たち二人を、その空き家まで連れて行ってくれ」
「いいけど」
すずは、遠慮がちにあさを見た。
あさは目を見開いてすずと牛兵衛と交互に視線を送っていたが、やがて観念したように笑った。
「分かったよ。あたしも行く。みんなで切支丹になろう」
「てめえらいい加減にしろ。そんなことしたら荒木家は終わっちまうぞ」
「端から終わってるじゃねえか、こんな家」
たまりかねた子三郎の言葉を、牛兵衛は軽くいなす。
「決まりだな。明日は良い日になりそうだ」
「牛兵衛、ありがとう」
「気にするなって、すず姉。さあ、今日はもう寝ようか」
牛兵衛の笑顔は、どこか吹っ切れたかのように爽やかだった。
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