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陸 明治三十四年

失った記憶の正体

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 結局、畑仕事を終えた重右衛門さんと話す機会は、夕方まで訪れなかった。

「今日はすまなかったね、栄之進君」

「いいえ。僕の方こそ手荒な真似をしてしまって申し訳ありません」

「いや、今回の件で君が謝ることはなにもない」

 俺が謝ると重右衛門さんは首を振り、そう言ってくれた。

「さて、栄之進君。さっきいわに話を聞いて確認したのだが、あれはやはり記憶が戻っているようだ」

「そうですか」

 重右衛門さんは、いわから聞いた十年前の出来事を俺に教えてくれた。

 いわは当時、山菜取りが趣味だったという。ちょうど十年前の今日、彼女はその山菜取りに夢中になるあまり、黄泉の使いが現れるという噂のある藪に足を踏み入れてしまったらしい。

 果たしていわは、そこで使いと会ってしまった。いわは使者から逃れるために近くにある洞穴まで走ったそうだが、使者はそこまで追いかけてきたという。

 まだ死後の世界には行きたくない。いわがそう哀願したら、使者は十年後の今日まで猶予を与えると言ったらしい。

「その使者は『ゆい』という名前なのだが、ゆいは猶予の代償として、いわの記憶を奪ったという。そして十年後の今日……つまり、これらの記憶を失ったままのいわを黄泉へ連れ去ろうとしていたらしい」

 確証はないが、ゆいというのは多分雑木林で見た少女のことだろう。あの姿を見ていわの様子が激変したので、そう考えるのが自然だった。

「さて、栄之進君。ここで君に頼みがある」

 重右衛門さんは、改まって言ってきた。

「いわの話が本当なら、今日そのゆいが、我が家にいわをさらいにやって来る。わしにとっても君にとっても、断じて避けたい事態だ。そうだね」

「無論です」

「今夜は一家総出で、寝ないでいわをゆいから守る。君にも、助力を願いたいのだが、良いだろうか」

「当たり前じゃないですか。黄泉の使いだろうが何だろうが、いわに危害を加えるような奴はただじゃおきませんよ」

 俺が息巻くと、重右衛門さんは小さく頷いた。

「君がいてくれるとわしらも心強い。よろしく頼む」

「まかせてください」

 俺は胸を張って請け合った。

 重右衛門さんはそんな俺を見て、どこか泣き笑いのような顔をした。

「……どうかされましたか」

「いや、なに……」

 彼は俺から目をそらすかのごとく、さきほど閉めた雨戸に顔を向けた。すでに雨は降り出しているらしく、雫が当たる軽い音が聞こえる。

「栄之進君……こんな突拍子のない話を、疑わずに信じてくれてありがとう」

 表情もそのままに、重右衛門さんは言う。

 俺は言葉をかけられなくなり、彼の横顔をじっと見た。

 重右衛門さんの顔には、怒りよりも寂しさがにじんでいた。
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