黄泉小径 -ヨモツコミチ-

小曽根 委論(おぞね いろん)

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弐 平成三年

鏡越しの真由子。

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「ぇえっ!?」

 変な声が出た。思わず振り返る。
 誰もいない。

「ちょっと、どうしたの?」

 間を置かず、私の素っ頓狂な声を聞いた母が心配そうにやって来た。

 私は気にも止めず周囲を見回すが、やっぱり誰もいない。

「何?ゴキブリでも出たの?」

 落ち着きなくキョロキョロする私を見れば、そりゃそんな風に思うだろう。私の焦りがうつったようにして、母も気忙しく辺りを見る。

 勿論、実際はそんなものがいたわけではない。

「ううん。ゴメン、何かの見間違いみたい」

「見間違いって……」

 ここで「あ、そ」と私の言い分を素直に聞き入れてくれる母なら、私も苦労はしない。

「……そんなわけないでしょ。あんなに大きな声だったんだから」

 案の定、母は食い下がってきた。こうなると何を言っても中々信じてもらえない。
 が、

「おい、行ってくるぞ!」

 不機嫌そうな父の一声が、母の推理を遮った。

 いつも自分勝手なタイミングでものを言う父を疎んじていたが、この時だけは彼のその習性に感謝した。

「あ、ハイハイ!」

 母は、いきなりの父の呼び出しを受けて、そそくさと私の前から姿を消した。

 私は、あらためて鏡を見た。

 真由子の姿は、未だそこに居座っていた。

 私は、右のこめかみ辺りを軽く何回か小突いてみた。

 ちゃんと痛覚は感じる。とりあえず夢ではないようだ。

 改めて見ると、鏡の中の真由子は小さな手をひらひらさせながら「おいでおいで」をしている。

 何だろう?

「ちょっと待ってね」

 誰にも聞こえないような小声で言うと、手早く身支度を整える事にした。

 少しして、父を見送った母が戻ってきた。

「母さん。やっぱりこの辺、虫がいるみたいだから」

 適当な嘘でごまかしつつ、メイクを簡潔に仕上げる。

「やだ。殺虫剤焚かないと」

 真に受ける母。当然こちらはその話を長々と続けるつもりはない。

「じゃ、私も行くよ」

「あら、今日はちょっと早いんじゃない?」

「そう?」

 確かに10分ほどは早いが、そんな事はどうでも良い。

 私は玄関で振り返り、化粧をチェックする振りをしながら、コンパクトの鏡を覗きこんだ。

 案の定、真由子が身振りで私を外へ誘っている。

「久美子」

 コンパクトをしまったその時、不意に名前を呼ばれた。

 見ると、祖父が直立の姿勢でこちらを見ていた。

「え、ちょっと大丈夫なのおじいちゃん!?」

 名前を間違えられなかった事よりも、体の弱い彼が真っ直ぐに立っている方が衝撃だった。私は駆け寄って祖父の肩を持つ。

 祖父は、強い視線で私を真っ正面から見据えていた。

「どこへ行くつもりだ、久美子」

 いつもの弱々しさが全く無い。私は戸惑い、祖父へ返事が出来ないでいた。
 すると、

「真由子についていくのか?」

 予想外の指摘に、ぎょっとして祖父を見る。

「やめろ。お前まで行ってしまうのか」

 私は、玄関に目をやった。
 私には見えないが、真由子がそこにいるはずだ。

 あの日、
 私が見失ってしまった、私の妹。

「……ゴメン」

 私は祖父の肩を離すと、駆け足で走り去った。

「待て!久美子!」

 後ろに響く祖父の声を振り切り、私は車に乗り込んだ。

「行くよ、真由子!」

 バックミラーで確認しながら言うと、ミラーの中の真由子は嬉しそうに頷いた。
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