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壱 平成二十六年
AM 1:02
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アパートの階段を上がって部屋に入った瞬間、私を襲ったもの。
それは、錆びた鉄のような異臭と、圧倒的にぶちまけられた紅色だった。とにかく部屋中が、鮮烈に汚れていた。
一体何事かと思った。奇妙な三角関係のゴタゴタの中にいるとはいえ、私の送っている日常は平和そのものだ。まさかそれが血の匂いと血の色だなんて、瞬間的に理解できるはずがない。それらはそれほど圧倒的な質量だった。
私は、床に視線をやる。
さっきまで洋子さんだったモノが転がっている。紅の発信源だ。首筋あたりを切られたのだろうが、血の量が多すぎて傷口が確認出来ない有様だった。
振り返るといつの間にか翔太は真後ろにいて、怯えているとも責めているともとれる、見たことないような視線を私に向けていた。
彼が返り血を浴びている様子は全く無かった。それなのに右手には、真赤な包丁。もうわけがわからない。
「……何なの、コレ」
少しでも私の中に冷静さがあれば、何が起こったのかある程度は理解出来ただろう。しかし、想像をはるかに超えた目の前の惨劇に、私の頭は拒否反応を起こしていた。わからない。なにもかもわからなかった。
翔太は、私の目を真正面から見返してきた。
怖い。いつも何を考えているのか丸わかりの翔太の顔から、一切の感情が無くなっていた。
そんな翔太の口が、動く。
「……美咲」
彼の声はしわがれていた。あまりに普段の声色からかけ離れていたために、私は、この部屋にもう一人誰かがいるのではないかとさえ思ってしまった。
「……なに?」
私は、顔がこわばっているのを自覚しつつも、出来るだけ優しい口調になるように気を付けながら言葉を返した。
「美咲」
目の前の男は、もう一度私の名を呼ぶ。
そして、言った。
「今から、洋子を棄てに行く。手伝え」
……耳を疑った。
何かの聞き違いだと思った。というか、そうであって欲しかった。
「え……」
何を言ってるの?
言葉は喉につかえて、まるで出てこない。
「毛布でこいつの体をくるんで、オレの車で運ぶ。物音は立てるなよ」
「え、待って。待って!」
翔太は本気で、私に死体遺棄の片棒を担がせようとしている。そう思った私はたまらず、彼の肩をつかんだ。そして、あくまで声を潜めながら言う。
「洋子さんを捨てる? 今から? 何のために?」
「決まってんだろ? 洋子の死体がここにあったら、オレが殺したって疑われるだろうが」
「バカ言わないでよ。そんな事して逃げ切れると思ってんの?」
「逃げ切るんだよ。何としてもな」
「無理に決まってるじゃない! この部屋どうするのよ、こんなに血だらけなのに。まさか逃げる前にキレイに拭き掃除するとでも言う訳? 時間がいくらあっても足りないじゃない!」
「こいつの死体さえなきゃ時間稼げるだろ。その間に少しでも逃げるんだよ」
この男は、自分が何を言っているのか本当に分かっているのだろうか。終始無表情で抑揚もない口調は、私を不安にさせるばかりだった。
「……ねえ、お願いだから警察行こ? 何があったか知らないけど、こうなっちゃった以上もうどうしようもない……」
私は真っ白な頭を振り絞りながら、彼に逃亡を踏みとどまって欲しい旨を伝えようとした。が、私に与えられた説得の時間はものの数秒もなかった。
翔太は、洋子さんの血がべったりついた包丁をこちらに向けてきたのだ。
顔色は変わらない。もはや、完全にどこか壊れているとしか思えなかった。
「そんな事いうなよ……」
翔太は不意に、おねだりするような甘えた声で言ってきた。かすかにいつもの翔太らしさがにじみ出たのが、むしろ恐怖を誘う。
「お前しか頼るヤツいねえんだよ。たのむよ。愛してるんだ」
愛してる。
そんな言葉を、そんなモノ突きつけながら言わないでほしい。
私は、指一本動かせずに翔太を凝視した。翔太も、瞬きさえ忘れたかのようにこちらを凝視している。
私は、選択を迫られたのだ。
死体の遺棄を手伝うか、
それとも、ここで死ぬのかと。
それは、錆びた鉄のような異臭と、圧倒的にぶちまけられた紅色だった。とにかく部屋中が、鮮烈に汚れていた。
一体何事かと思った。奇妙な三角関係のゴタゴタの中にいるとはいえ、私の送っている日常は平和そのものだ。まさかそれが血の匂いと血の色だなんて、瞬間的に理解できるはずがない。それらはそれほど圧倒的な質量だった。
私は、床に視線をやる。
さっきまで洋子さんだったモノが転がっている。紅の発信源だ。首筋あたりを切られたのだろうが、血の量が多すぎて傷口が確認出来ない有様だった。
振り返るといつの間にか翔太は真後ろにいて、怯えているとも責めているともとれる、見たことないような視線を私に向けていた。
彼が返り血を浴びている様子は全く無かった。それなのに右手には、真赤な包丁。もうわけがわからない。
「……何なの、コレ」
少しでも私の中に冷静さがあれば、何が起こったのかある程度は理解出来ただろう。しかし、想像をはるかに超えた目の前の惨劇に、私の頭は拒否反応を起こしていた。わからない。なにもかもわからなかった。
翔太は、私の目を真正面から見返してきた。
怖い。いつも何を考えているのか丸わかりの翔太の顔から、一切の感情が無くなっていた。
そんな翔太の口が、動く。
「……美咲」
彼の声はしわがれていた。あまりに普段の声色からかけ離れていたために、私は、この部屋にもう一人誰かがいるのではないかとさえ思ってしまった。
「……なに?」
私は、顔がこわばっているのを自覚しつつも、出来るだけ優しい口調になるように気を付けながら言葉を返した。
「美咲」
目の前の男は、もう一度私の名を呼ぶ。
そして、言った。
「今から、洋子を棄てに行く。手伝え」
……耳を疑った。
何かの聞き違いだと思った。というか、そうであって欲しかった。
「え……」
何を言ってるの?
言葉は喉につかえて、まるで出てこない。
「毛布でこいつの体をくるんで、オレの車で運ぶ。物音は立てるなよ」
「え、待って。待って!」
翔太は本気で、私に死体遺棄の片棒を担がせようとしている。そう思った私はたまらず、彼の肩をつかんだ。そして、あくまで声を潜めながら言う。
「洋子さんを捨てる? 今から? 何のために?」
「決まってんだろ? 洋子の死体がここにあったら、オレが殺したって疑われるだろうが」
「バカ言わないでよ。そんな事して逃げ切れると思ってんの?」
「逃げ切るんだよ。何としてもな」
「無理に決まってるじゃない! この部屋どうするのよ、こんなに血だらけなのに。まさか逃げる前にキレイに拭き掃除するとでも言う訳? 時間がいくらあっても足りないじゃない!」
「こいつの死体さえなきゃ時間稼げるだろ。その間に少しでも逃げるんだよ」
この男は、自分が何を言っているのか本当に分かっているのだろうか。終始無表情で抑揚もない口調は、私を不安にさせるばかりだった。
「……ねえ、お願いだから警察行こ? 何があったか知らないけど、こうなっちゃった以上もうどうしようもない……」
私は真っ白な頭を振り絞りながら、彼に逃亡を踏みとどまって欲しい旨を伝えようとした。が、私に与えられた説得の時間はものの数秒もなかった。
翔太は、洋子さんの血がべったりついた包丁をこちらに向けてきたのだ。
顔色は変わらない。もはや、完全にどこか壊れているとしか思えなかった。
「そんな事いうなよ……」
翔太は不意に、おねだりするような甘えた声で言ってきた。かすかにいつもの翔太らしさがにじみ出たのが、むしろ恐怖を誘う。
「お前しか頼るヤツいねえんだよ。たのむよ。愛してるんだ」
愛してる。
そんな言葉を、そんなモノ突きつけながら言わないでほしい。
私は、指一本動かせずに翔太を凝視した。翔太も、瞬きさえ忘れたかのようにこちらを凝視している。
私は、選択を迫られたのだ。
死体の遺棄を手伝うか、
それとも、ここで死ぬのかと。
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