霜降に紅く

小曽根 委論(おぞね いろん)

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 尺八の重たい音色が響いていた。夢うつつのまま宗兵衛は、まげに気を使いながら首を横向きへずらす。草の擦れる感触と匂いが、後頭部から伝わってきた。

 いつの間にか眠ってしまっていたようだ。宗兵衛は腰の太刀が盗まれていないかを左手で確認しながら、上体をゆっくりと起こす。

 遊山帰りの旅人らしき男二人が、うすら笑いでこちらを見ている。宗兵衛が目を凝らすと慌てて視線を逸らせ足早に去っていったが、表情に変化がないのは後ろ姿からでも十分に察せられた。

 まあ、こんなところで寝ていたら無理もない。宗兵衛は彼らよろしく、自らを嗤った。

 この辺りは紅葉の見事な『仇討山あだうちやま』の麓であり、ちょうど今頃は物見遊山で行き交う人が多いところだ。さぞかし同じようにした者がたくさんここを通ったのだろう。宗兵衛はそれへ、恥よりも安堵を感じていた。こんなぼろをまとった浪人まがいが道脇で高いびきをかいていたら、捕縛されてもおかしくないのだ。

(やれやれ。しょうがないな。 ……ん?)

 少しずつ、ぼんやりした頭が整ってくると、尺八がまだ鳴っていることに気がついた。

 ああ、これは夢ではなかったのか。そう思いながら見回すと、道の反対側に鉄鉢を置いた虚無僧が立っていた。彼が奏でる尺八は風情に疎い宗兵衛からしても良い腕だと分かったが、後ろの荘厳で艶やかな山の色づきと比べると、どうしても渋さが際立ちすぎているように感じられた。手にしている鳴り物を考えれば無理もないのだが、せめてもう少し華やかな曲は無いのかと、宗兵衛は思った。

 とは言え、鉄鉢には順調に銭が投げ入れられている。托鉢がそういうものではないと知りつつも、宗兵衛は己と世間との間に美意識の差を感じずにはいられなかった。

(さてと)

 目が覚めた以上、ずっとここにいるわけにもいかない。宗兵衛は立ち上がり、フラフラとその場を後にした。

 流浪の旅は、路銀がいくらあっても不安なものだ。宗兵衛は出来るだけ銭のかからなさそうな店で早めの夕餉ゆうげを取り終えると、景色の良い河原にて暇を潰した。

 何も考えないで流れる水面をただ眺める。乙なものだ。宗兵衛は、己の中にまだ風流を感じられる心が残っていることに、わずかながら驚いた。もはや今の自分にとって、そんなものは何の意味もなさないのに。

 気ままに心を緩ませて時を待った。ゆっくりと、日が落ちていく。

(頃合いか)

 人通りもまばらになって来た辺りで、宗兵衛は今日寝泊りする場所を探し始めた。とは言え、目的は旅籠でも木賃宿でもない。探すのは、野宿にかなう茂みであった。

 山の麓ともなれば、人目を避けられる茂みのひとつやふたつあるものだ。野盗に襲われる危うさも伴うが、そもそも己自身が野盗のようなもの故、気後れなどさらさらない。この日も、どんどん山の方へと足を進める。分かりやすく風が冷たくなった。

 と、

「あれは、さっきの」

 思わず声が出た。しかも悪いことに聞こえてしまったらしい。獣道と見紛う細々とした小径の先を行っていた虚無僧は静かにこちらへ向き直ると、被っていた笠を持ち上げた。嫌味のない笑みが見える。歳は宗兵衛よりも一回りほど上……四十手前といったところか。

「おや。失礼ながら、貴方様は先ほどの……えー」

 少しばかり言いにくそうにしている。宗兵衛は力のこもらぬ声で笑うと、律儀に言った。

「やはり分かりますか。貴方の目の前で高いびきを掻いていた者ですよ。奇遇ですね。まさか、こんなところで出会うとは」

「いやいや、これはあいすいません」

 謝る道理などまったく見当たらなかったが、僧は丁寧に腰を折った。さすがに、自分とはものが違う。

「袖振り合うも他生の縁と申します。名乗りをさせてもらってもよろしいですか?」

「これは、ご丁寧に恐れ入ります」

「当方、常陸国からまかり越しました仲田家が次男、宗兵衛と申します。今は故あって、各地を放浪して回っている次第。ここには恥ずかしながら、岩枕にかなう良き地を求めて参りました。以後、お見知りおき願い奉ります」

 岩枕という言葉も、もはや言い慣れた。野宿は彼にとって日常そのものだ。

「普化宗が僧、宮浦左近にございます。見ての通り、何の取り柄もないただの坊主です。普段はこの奥のあばら家にて雨風を凌いでおります故、よろしければ一晩泊まっていかれてはいかがですか?」

「これは望外。本当にお邪魔しても?」

「ええ、もちろん。……但し、かなり手狭ではございますが」

「何をおっしゃいますか。天井と壁がある場所で体を横にできるだけでも喜びというもの。お言葉、甘えさせてもらいます」

「なかなか、過酷な境遇でいらっしゃるようですな」

 虚無僧、宮浦は呵々と笑った。よく通る声が響き渡る。

「それでは、私の後ろについてきてください。足元にはよくよくお気を付けくださいませ」

 宮浦は言うと笠を被り直し、再び歩み出した。

 宗兵衛は一丈ほども間を空けず、宮浦の後ろにぴたりとついて歩いた。あまり気難しい印象ではなかったが、再度歩き出してからはまったく口を開かなくなった。

(見た目年上だったからな。少々しんどいのかもしれん)

 しかし、耳を澄ましてみても、息を切らせている様子は感じられなかった。径はいかにも細かったが、僧が言うほどには足元も悪くない。

(だとしたら、何だ? 何を考えている? ……もしかして、俺を警戒しているのか?)

 確かに彼からすれば、浪人にしか見えぬようなボロボロの男が背後にいるのだ。緊張感があってもおかしくない。

(……)

 宗兵衛はふと、宮浦の托鉢の光景を思い出した。
 流麗な尺八の音色に、銭が投げ入れられる鉄鉢の音。そう言えば、結構な額が鉄鉢の中には入っていた。

(そうは言ってもはした金だが……どうする? あばら家が見えたら、こいつを斬ってしまおうか?)

 それは本当に、ただ一瞬よぎっただけだった。ことの善悪を計る前に、太刀を持つ腕に少しだけ力が入る。

 刹那、

「私を、お斬りになりますか」

「!」

 断じて、宗兵衛は何も音を鳴らしていない。それこそ、踏みしめる足音ぐらいのものである。宮浦は純粋に、気配だけで宗兵衛の殺気を感じ取ったのだ。

「せめて、もう少しお待ちなさい。あばら家まではもう少しです。ここまで来たのです。いまさら野宿もお嫌でしょう?」

 いったい何者なのか。得体の知れぬ恐怖が宗兵衛を襲った。

「……いや、恐れ入りました。一刻の気の迷いです。忘れてください」

「そうですか? 別に私は構いませんが」

「お戯れを……お詫び申し上げます故、どうかご容赦を」

 冴えた冷たい夕凪の中、宗兵衛は手の平にじわりと汗をかいていた。この男は敵に回してはいけない。宗兵衛は心底そう思った。
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