舞姫〜花舞〜

友秋

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 マンションのエントランスから出て来た姫花の前に横浜ナンバーの白い高級外車が滑り込んで来た。

 運転席の窓が開くと、お座敷で会う時の御幸とは違う姿があらわれた。

 夏の朝の眩しい陽射しに白い車のボディーが反射し輝く。

 普段のメガネをサングラスに変えハンドルに手を掛ける御幸は、白いカッターシャツ姿だった。シャツのボタンは第三ボタンまで開け、襟を立てている。

 カチリとしたスーツ姿の彼しか見た事のなかった姫花の胸が、ドキンと鳴った。

 胸の、切なさにも似た感覚は、懐かしく優しく甘かった。

 武を想う情念にも似た感情とは違うもの。

 そうやった。うちは、右京はんに恋をしとった。でも今なら分かります。

 あれはまだ幼い〝憧れ〟やった。

「体調はどう?」
「右京はん、おおきに。右京はんに元気もろて、この通りどす」

 笑顔で答えた姫花のその言葉に、御幸はクスクスと笑った。

「電話で話しただけじゃないか」
 
 軽く握る拳で口元を隠す。何気ない仕草に気品が漂う姿はいつも通り。けれど見たこともないフランクな雰囲気がそこにはあった。

 これが、素の右京はん。

 姫花が打ち震えるような心を隠そうとうつ向いた時、運転席のドアが開いた。

 車から降りた御幸は姫花をエスコートするようにそっと背中に手を添え助手席側に回り、そのドアを開けた。

「お姫様、どうぞ」
「右京はんたら」

 頬を染めた姫花は恥ずかしそうに微笑みながら「おおきに……」と小さく頭を下げる。

 御幸は眩しそうに目を細めながら、姫花の手にしていた小さな白い日傘と籠編みの夏らしいハンドバッグを受け取り、座るよう促した。

 肩までの黒髪が陽射しを浴び艶やかに光り揺れる。水色のAラインワンピースが夏らしく爽やかだった。

 姫花は、身重の身体を嫌味なくいたわり助手席に座らせてくれた御幸に応え、流麗な仕草で美しい足をスルリと車に乗せた。

 シートベルトのバックル部分を引き取り姫花に差し出した御幸は優しく声を掛けた。

「これは大丈夫かな」
「平気どす、おおきに」

 バックルを受け取った姫花は優美な笑みと共に答え、カチン、とベルトを留め、御幸はドアを静かに閉めた。

「右京はん、もしかして車で東京から来てくれはったんどすか?」

 車のナンバーがこちらのものではなかった事が姫花は気にかかり、御幸が運転席に乗り込むと聞いた。

 御幸は、助手席の頭部に手を掛け、後ろを振り向きバックさせながら答える。

「そうだよ、仕事終えてから夜通し寝ずに走って来た」
「ええ!?」

 口に手を当て大仰に驚く仕草をしてみせた姫花に御幸は軽く吹き出した。クスクスと笑いながら、方向転換を終えた車を発進させる。

「それは冗談だが、昨日仕事を終えてから東京を出てきたのは本当だ。早めに終わらせて。夜、実家に着いて、ちゃんと寝て来たから居眠り運転の心配はいらない」
「右京はんが居眠り……そないな心配はしとりまへんけど」

 姫花は眉を下げながら困ったように笑ってみせた。

 ただうちは、右京はんがうちの為にそこまでしてくれはった事が嬉しゅうて。

 姫花の胸が締まる。

 うちはどうして、一途に右京はんだけを想ってこれへんかったんやろ。

 姫花の胸に複雑な切なさが去来する。

 自分は芸妓だからここまでしてもらえるのだ。自身の胸な言い聞かせる。

 うちを、素顔のうちの姿を見て愛してくれはるお人は何処にもいてへんのや。





『泣いていたのか』

 折れそうな心を抱えて泣き崩れてしまった五日前。落ち着いた柔らかな声音は、名乗らなくとも電話の相手が誰であるかを教えていた。

『右京はん……』

 崩れかけた心が優しく大きな手にそっと包まれたような感触に、姫花は寄りかかってしまいそうだった。

 そうどす、泣いてました。

 心の中で、そう即答していた。けれど。

『いやどす、右京はん。なんでうちが泣かなあきまへんの』

 努めて明るく答えていた。

 電話は、顔が見えないから。

『無理はしなくていい。今の声は最初に電話に出た声と不自然なくらい違う』
『え……』

 御幸の低い声に、姫花の受話器を持つ手がビクンと震えた。

『花扇のおかあさんから全て聞いている』

 姫花は、心を撃ち抜かれたような衝撃を受けた。

『右京はん』

 二の句が告げなかった。

『姫扇、最近は〝ご飯食べ〟連れて行ってあげてなかったね。近いうちに僕と行ってくれるかな』

 右京はん、うちと、こんなうちと会うてくれはりますの?





 車は京の街を離れて行く。車内はモーツァルトのCDが静かにかかっていた。

 御幸は、お座敷に連れ立って遊びに行く仲間達の最近の様子や、仕事で遭遇した興味深い話等、姫花をさりげなく和ませてくれた。姫花は答え、時に笑う。

 どこに連れて行ってくれはるんやろ。

 流れる車窓に穏やかな時間。姫花は心に燻り続けていた疑問を恐る恐る口にした。

「右京はん、どうして何も聞かしまへんの?」

 想像以上の勇気が必要な言葉だった。姫花の声が、揺れていた。

 答えが、怖い。うつ向き、目を閉じた。

「あまり幸せそうに見えないから、かな」

 肩をビクッと震わせた姫花は、パッと御幸を見た。御幸は変わらずハンドルを握り前を向き、静かに続ける。

「というのはあくまでも建前。僕のやせ我慢だな。本当は聞きたい事が山ほどあって僕の中でとぐろ巻いてる」
「とぐろやなんて……」

 微かに然り気無く挿し込まれたユーモアに、姫花の肩が軽くなる。

 重くなりそうな空気は、ほんの少しの気遣いで和らぐ。

「話しにくい、特にその人にとって複雑な重い話を聞きたければ、心を開ける空気を作ってあげなければいけない。話を聞かせて貰うのはそれからだね」

 姫花はハンドルを握り前を向いたままの、端正な御幸の横顔を見つめる。御幸はそんな姫花に一瞬流し目を送りフワリと微笑んだ。

「時間は沢山あるから、ゆっくり姫扇を口説くとしよう」

 上品な中に大人の男の芳香を感じさせる一連の表情が言葉に媚薬の効果を与える。姫花は鼓動を治める為に、深呼吸した。

 その微笑は、ズルイんとちゃいますか。

「うちは、右京はんに口説いてもらえるような女子ちゃいます」

 必死の切り返し。これがいっぱいいっぱい。

 御幸はクスクスと肩を竦めて笑っていた。




「着いたよ」

 いつしか奈良市内を走っていた車は東大寺近くの駐車場に停まる。御幸は降りると直ぐに助手席のドアを開け、姫花を促した。

 少し歩き、とある有名な神社の参道の前に出た。

「右京はん、ここは」
「縁結びや安産のご利益がある神社だ。
その様子だと戌の日のお参りもしていないのだろう?」

 見上げる姫花は息を呑んだ。

 そ、その通りどす。

 茫然と立ち尽くす姫花に御幸は優しく微笑み、頬を手を添えた。

「その子をちゃんと産んであげなさい。私は、今までと変わらず君を支えてあげるから」

 芸妓として、ではなく。

 そう伝えたかったが、姫花の中にいる男の存在が遮る。

 姫花とその男の関係が、今どうなっているのか、を知らぬ限りは。

「姫扇、行こう。おいで」

 姫花はその声に誘われ、差し伸べられた手に、心も委ねる。

 お社の傍に、この神社のシンボルとも言われる御神木があった。

 母樹となる木に何種類もの木が宿り絡み、包み込む。

「風の神がこの母樹に種を落とした、と言われている。それがまるで母親を守るかのような姿に見えた事から、ここは妊婦を守る、安産の神様として祀られるようになったらしい」

 風の神様の、仕業。

 姫花はそっと手を合わせた。心が、解けてゆく。

「右京はん、うちの話を聞いてくれはりますか?」
「姫扇、僕が君を誘ったのはその為だからね」

 蝉が鳴く境内。木陰に吹き抜けた優しい風が、微かな涼を運ぶ。

「右京はんは、どうしてうちにここまでしてくれはるんどすか?」
「さぁ、どうしてだろうね……」

 御幸は言葉を濁した。

 舞妓としてデビューしたばかりの姫扇に近付いたきっかけは、ある人物に頼まれたからだった為だった。

 芸舞妓は政財界の事情に明るい。だが、御幸家が財界に君臨する津田家と縁戚関係にある事は、あまり知られていない。

 姫花は、よもや自分の妹の舞花が駆け落ちした相手、津田恵太と御幸が従兄弟の関係にある等とは思っていまい。

 御幸が、〝姫扇〟という舞妓に近付いたのは、従弟であった津田恵太と舞花に『姫花を見守って欲しい』頼まれたからだ。

 近付くきっかけなど些細な事に過ぎない。御幸は次第に姫花自身の魅力に惹き込まれていった。

 確実に心は捉えられているのに、御幸は姫花の言葉に応えられなかった。

 運命と巡り合わせが、どれほど皮肉なものか、御幸はこの後思い知らされる事となる。
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